2009年12月30日水曜日

[説教要旨]2009/12/27「救いを見た」

降誕後主日

初めの日課 エレミヤ 31:10-14 【旧約・1235頁】
第二の日課 ヘブライ 2:10-18 【新約・402頁】
福音の日課 ルカ 2:25-40 【新約・103頁】

 主イエスの到来を憶えるクリスマスを迎えて、教会の暦は、地上での主イエスの歩みを辿る半年を迎える。それはいわば、私達が主イエスのみ後を辿ることで、私達の間に与えられた神の救いの出来事を今一度明らかにするための時でもある。神の救いを、私達はどこで見出すのか。社会情勢が厳しくなればなるほど、私達の目には「救い」の出来事は見えにくくなり、繰り返しその問いにぶつからざるをえなくなる。
 本日の福音書の中でシメオンによって歌われる言葉は、私達の礼拝の中では「ヌンク・ディミティス」として用いられ、大変なじみの深いものである。「私はこの目であなたの救いを見ました」と語るシメオンの言葉、それはおよそ全ての人々が待ち望むものを代弁しているとすら言える。しかし、そのシメオンが出会った救いとは、武力を持っているわけでも、財産や権力を持っているわけでもない、ただの赤子にすぎなかった。
 シメオンは老いており、主イエスは生まれたばかりである。立場を異にするこの二人を結び付けるもの、それは神の約束の言葉しかなかった。神の約束が実現するためには、シメオンがその小さく弱い赤子をその懐に受け入れなければならなかった。シメオンは、「神の救いを見るであろう」ではなく、「神の救いを見た」と語る。それはシメオンが待ち続けた「慰められること」が、まさに今実現した、ということであった。もはや救いと慰めは、未来の約束ではなく、現在実現した。私達のところにそれは既に与えられた、とシメオンは語る。そして、シメオンはその赤子、主イエスを腕に抱き、「これは万民のために整えて下さった救い」と歌いあげる。それは、力弱い、小さな幼子と出会いは、ただ彼の個人的なにとってだけでなく、この地上の世界全体にとっての、救いとの出会いであることを示している。ひと組の老人と赤子の出会いは、人の目には不可能と見えるところ、人の目には不十分としか見えないところ、人の目には挫折と屈辱としか見えないところ、そこにおいてこそ、人は救い主と出会い、そこにおいてこそ神の救いと慰めは実現する、ということを私達に示している。そしてそれはなによりも、主イエスが十字架の死と復活において、私達に決定的に明らかにされた事柄であった。
 私達の慰めと救いはどこにあるのか。それは、現代社会に生きる私達にとってますます大きな信仰的な問いとなっている。しかし実は、その答えを私たちは毎週の礼拝の中で口にしているのである。「今私は主の救いを見ました」。クリスマスの出来事を通して、私達に「救い」は既に与えられた。それは私達の期待とは異なり、小さく、弱い姿をしているかもしれない。しかし、私達はそれを懐に受け入れる時、「私」に留まらない大いなる喜びと希望を見出すことが出来るのである。


2009年12月25日金曜日

2010年元旦礼拝のご案内

ルーテル三鷹教会では、以下の要領で2010年元旦礼拝を行います。
どなたでもご出席いただけます。
皆さまのお越しをお待ちしております。

2010年1月1日(金)11時より チャペルにて


[説教要旨]2009/12/20「幸いなるかな」

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 ミカ 5:1-4a 【旧約・1454頁】
第二の日課 ヘブライ 10:5-10 【新約・412頁】
福音の日課 ルカ 1:39-45 【新約・100頁】

 本日の箇所の冒頭でマリアが「そのころ」「急いで」出かけたと書かれているということは、マリアとエリザベトの出会いが決して十分に計画されたものではないことを物語っている。むろん、そもそもマリアが主イエスを身ごもるということ自体が、彼女の計画の中にはありえない事柄であった。
 一方のエリザベトは、突然訪れたマリアとの出会いにあたって、驚かないわけはなかったであろう。エリザベトとマリアは親類であると書かれているが、それぞれが住んでいる町も離れていたので、さほど親しい関係であったとは考えられない。ましてや、年齢的にもおそらくかなりの差があったと思われる。エリザベトは既に年をとっていたとあり、一方のマリアは、まだ未婚であった。ひょっとすると30才以上の差があったのではないだろうか。その若いマリアが突然に年上のエリザベトのもとにおしかけるのであるから、憮然とされてもおかしくはない状況である。しかし、マリアはエリザベトに、臆面もなく挨拶の言葉を述べる。おもしろいことに、このルカ福音書1章には「挨拶」の場面が度々登場します。それは神の使い、神の力が人に働きかける時、人と人とが結びあわされることを物語っていると言うこともできる。現に、突然に訪れたマリアの挨拶を受けて、エリザベトはマリアを非難し拒絶するのではなく、「聖霊に満たされて」祝福の言葉を語る。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(45節)
  「なんと幸いでしょう」。この祝福の言葉は、福音書の中には度々登場するが、最も有名なものは、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」で始まる、主イエスの祝福の言葉であろう。これら祝福の多くは、およそ人間の目には、幸いであるとは思えないような、絶望的な状況の中に、いわば約束の言葉として与えられるのです。そして、未来への約束は、現在のという時の中で、私たちが現に直面する様々な不安と困難の中に、突然に与えられる祝福でもある。私たちが、自分の考える正しさを貫く時、そこに生まれるものは、得てして、より大きな争いと憎しみでしかありません。しかし、一見すると、思いもよらない出来事に翻弄されているだけのようにすら見える時、そこに見えない神の力が働き、祝福は与えられる。今、幸いならざる中を生きざるを得ない、そのような私たちに、神の約束の言葉は与えられる。そして、人の計画を超えた出会いに、私たちが向き合わされていく時、絶望的な中に、希望は必ず与えられるのである。


[説教要旨]2009/12/13「実現する言葉」

待降節第3主日

初めの日課 サムエル下 7:8-16 【旧約・490頁】
第二の日課 ローマ 16:25-27 【新約・298頁】
福音の日課 ルカ 1:26-38 【新約・100頁】

 主イエスの先駆者として、先週の日課で登場した洗礼者ヨハネは、いわば旧約の歴史における「預言者」であった。預言者とは、神の言葉を受けて、神の言葉の創造の業が、この地上に生きる私たちの間に働くことを示すものであった。
 本日の日課では、イエスの母マリヤが登場する。教会の伝統の中で母マリアの女性性は、イエスの男性性と対比されて、信仰者には二種類の態度があるように受け取られてきた。男性が個を超えたより普遍的な知性を体現し、救済の歴史の中で指導的な責任を与えられる一方で、女性は男性の下におかれ、より個人的、受動的で従属的なものとされてきた。たしかに、イエスの誕生が予告された場面において、マリヤの姿は、神の言葉を身に受け、その言葉が実現することを我が身に引き受ける、受動的な態度を示している。人の目にはあまりに唐突で、なおかつ不可能としか見えない神の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるその態度は、まさに一人の信仰者としてのひな形を私たちに示している。私たちが、神の力を自らのために使うのではなく、私たちが神の言葉によって動かされるとき、救いの歴史は実現していくことを、マリヤの物語は私たちに語っている。
しかし、もう一度主イエスの誕生の物語を読むとき、マリヤの姿は単なる受動性・従属性ではないことに気づかされる。46節から描かれる、マリアの賛歌(Magnifikat)と呼ばれるその言葉は、旧約の預言者の言葉に優るとも劣らずに、この世の力に対して鋭くつきつけられ、神の正義の到来を告げている。その意味で、この世に対してマリヤの示したものは、決して単なる受動性だけではなかった。それはむしろ、預言者らと同じく、この地上において神の創造の力が働くことを、決定的に私たちに示しているのである。マリアの姿は女・男を問わず、すべての信仰者に対して示された一つのひな形である。神の言葉の前に、その言葉に聴き従うという、徹底した受容の姿であり、同時に、この世に対して、神の言葉を示す創造的・能動的な姿である。
 マリアにおいて人と成った神、主イエスは、この地上で虐げられた人々を癒し、励まし、また満たされた。そして、自らもっとも低き十字架の死へと向かい、その死からの復活によって、救いを確かなものにされた。「お言葉どおり、この身になりますように」と語る≈マリヤを、十字架の光の下でみる時、人間を取り巻くあらゆる困難と不可能性の向こう側から、私たちに届けられる神の言葉の力を私たちは見いだすのである。


2009年12月10日木曜日

[説教要旨]2009/12/6「荒れ野で叫ぶ者の声」

待降節第2主日

初めの日課 マラキ 3:1-3 【旧約・1499頁】
第二の日課 フィリピ 1:3-11 【新約・361頁】
福音の日課 ルカ 3:1-6【新約・105頁】

 12月に入り、クリスマス商戦に向けた街の中のイルミネーションはいっそう華やかになる。たしかに、クリスマスは「光の季節」であり、喜びの時である。しかし、キリストの光が届けられるのは、華やかな時と場なのではなかったそれは、この世の闇の最も深い時に、その闇の最も深いところへと届けられたのであった。
 主イエスの「先駆者」である洗礼者ヨハネは、荒れ野で神の言葉を受け、悔い改めを世に呼びかけた。洗礼者ヨハネが登場した時代、それは決して平穏でも豊かでもなかった。一部の権力者は私腹を肥やすことにのみ邁進し、多くの人は、生活の糧を得るための土地や財産を失い、奴隷や流浪の民となっていた時代であった。そのような中で、ヨハネは世に対して、差し迫った神の裁きを訴え、悔い改めを呼びかける。そして洗礼者ヨハネが悔い改めを呼びかけた荒れ野、それはかつて、イスラエルの民が40年にわたって彷徨し、その苦難を通して神の民へと変えられていった場所であった。洗礼者ヨハネは、その荒れ野から、神へと立ち返ることを呼び掛ける。荒れ野で叫ぶ者の声、それは私達に今一度原点へと立ち戻ること、すなわち、世の富や権力ではなく、主なる神へと立ち返ることを呼び掛ける。
 しかし、その洗礼者ヨハネが待ち望んだ方、主イエスは必ずしもヨハネの期待していたように、世を裁き、正義を打ち立てる存在ではなかった。むしろ、それはその期待をはるかに超える存在であった。ルカ7章では、獄中に捉えられたヨハネは使いのものを送って、「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせている。その問いに対して主イエスはこう応える。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
 主イエスがもたらされたもの、それは、人間が思う正しさをはるかに超えたものであった。主イエスがもたらされたもの、それは救いと命であった。主イエスにとって、誰が正しいか、誰が間違っているか、ということは全く問題ではなく、ただ、人が喜びのうちに生きることができることであった。まさに、主イエスによって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ことが出来るのである。
 やがて主イエスは、十字架の死へと向かい、その死から甦られることによって、この世の最も深い闇に光を確実なものとされた。クリスマスに私たちが見上げる光、それはまさにこの十字架の光なのである。

2009年12月1日火曜日

[説教要旨]2009/11/29 「主の名によって」

待降節第一主日
初めの日課​ エレミヤ 33:14-16【旧約・1241頁】
第二の日課 ​2テサロニケ 3:6-13​【新約・382頁】
福音の日課 ​ルカ 19:28-40​【新約・147頁】

「待降節」という日本語は、文字通りには「(わたしたちが)降誕を待つ季節」と言う意味であるが、伝統的には、「来る・到来する」を意味するラテン語advenioからアドベントと呼ばれる。これはむしろ「主キリストが、私達のもとへとやって来られる」ことを意味していた。すなわち、主イエスの到来をもって、私たちの古い1年は、新しい1年へと移り変わることが出来るのである。その意味で、主イエスが私達のもとに来られることによって、私たちは初めて、古い時・古い思い・古い生き方から、新しい時を新しい思いで生きることが出来るようになるのである。
本日の聖書では、主イエスが城門を通って、都エルサレムへと到来されたことが語られる。エルサレムへの主イエスの到来の様子は、この後に続く主イエスの運命を暗示させている。群衆が期待と興味を持って取り巻く中、弟子たちは主イエスの都入りを歓喜する。一方で、宗教的権威を持つ者たちは対立的な態度を取る。実際のところ、物語を読み進めると、エルサレム入りした主イエスを取り巻く状況は、決して平穏なものではない。対立はますます厳しくなり、最終的に主イエスは十字架につけられ殺されることになる。その意味では、このエルサレムへの到着は、主イエスの挫折の物語の幕開けであった。そのようにして見るならば、旧約で王を迎える時のように、上着を敷いて迎えているにもかかわらず、立派な軍馬ではなく小さなロバに乗って入城するというのは、いかにも不釣り合いである。そのようなものしか準備できなかったとするならば、この後に続く挫折も当然とすら思わされる。
しかし、それはむしろ神の救いの計画であったことを、聖書は私達に語る。預言書はむしろ、真の平和の王は、軍馬に乗った高ぶるものではなく、子ロバに乗ってこのエルサレムの門をくぐると示している。まさに低みへと下る道へと到るために、主イエスはこの地上に到来されたのであった。そして、その十字架の死からの復活によって、神の救いの道を明らかにされたのである。主の名によって来られた方、イエス・キリストは、人間の目には決して十分ではないようにしか映らない、挫折の道、力足らざる道を歩むことで、この世に救いをもたらされたのである。たとえ私達がこの地上でなしうるあらゆる働きがどれほど力足らざるものであり、挫折に終わるようなものであると思えたとしても、主なる神の示される道を歩む時、そこには神による完成の時があり、また思いを超えた大いなる喜びがあることを、主イエスの歩みは私達に語るのである。

2009年11月24日火曜日

2009年クリスマスの諸行事のお知らせ

ルーテル三鷹教会では、2009年クリスマスには以下のようなプログラム・礼拝を予定しております。
どなたでもご参加いただけます。
皆さまのお越しをお待ちしております。

12/13(日) 14-16時 やかまし村のクリスマス チャペルにて(参加費無料)
 クリスマスのおはなしやうた、にんぎょうげき、おはなしのよみきかせなど、親子で楽しめる一時です。

12/20(日) 10時半 クリスマス主日礼拝 チャペルにて (礼拝の中で自由献金があります)
 礼拝の中で、トロンボーンとオルガンのアンサンブル、ルーテル学院ハンドベル「ラウス・アンジェリカ」の演奏、ルーテル三鷹教会聖歌隊のコーラスがあります。
 また、礼拝後、ポットラック(持ち寄り)による食事会も予定されています。

12/23(水) 14-16時 こどもクリスマス チャペル・集会所にて(参加費無料)
 クリスマスのおはなしやゲームで楽しい一時をすごしましょう!

12/24(木) 19時 クリスマス・イヴ・キャンドルサーヴィス チャペルにて (礼拝の中で自由献金があります)

 礼拝の中で、室内楽アンサンブルの演奏と、ルーテル学院聖歌隊によるコーラスがあります。

お問い合わせは、ルーテル三鷹教会(Tel.0422-33-1122)まで。




[説教要旨]2009/11/22「滅びない言葉」

聖霊降臨後最終主日

初めの日課 ダニエル 7:9-10 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 ヘブライ 13:20-21 【新約・419頁】
福音の日課 マルコ 13:24-31 【新約・ 89頁】

 教会の暦の最後の主日として、世の終わりについて、聖書から聞くこととなる。しかし、それは同時に、終わることのない「永遠のことがら」についてもまた、私たちは目を向けることとなる。
 12章で、主イエスは神殿において敵対者たちとの論争をした後、貧しいやもめのわずかな捧げ物を称賛し、神殿を立ち去る。その時主イエスは壮麗な神殿に魅せられた弟子に対して、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られ、神殿の崩壊を予告される。主イエスのまなざしは、この地上において、大きいもの、力あるものとされるものに対して、厳しく向けられることとなる。
 さらに、本日の箇所の直前では、主イエスは、弟子たちと、そして国々を襲う様々な苦難について語られる。敵対と憎悪、混乱と破壊がこの地上を襲うという、その言葉を耳にする時、私たちは、なぜ聖書は、そして主イエスは、このような恐ろしい言葉を語るのか、という疑問を抱かずにはいられない。さらに本日の日課である24節からは、天変地異までが起こり、いわば、天地までが滅びるかの様相を呈し、混乱と破壊が最も激しくなり、苦難の闇が最も深くなることが語られる。
 しかし、その苦難の闇の最も深いところに、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る」と続く。それはダニエル7:13-14において語られているように、暗闇と混乱に光をもたらす出来事に他ならない。それは、マルコ福音書において「人の子」とは、主イエスがご自身を指して語る時の表現であった。つまり、私達人間の混乱と苦難の最も深まる時、主イエスは私達と共におられ、その苦しみと混乱から私たちを解放されるのである。まさにその意味で、「人の子の到来」はたしかに、「世の終わり」の出来事である。しかし同時に、それは私達の苦難と憎悪の終わりの出来事であることを聖書は語る。
 たくさんの捧げものや壮麗な神殿といった、人の目に映る大きな業が、滅びることなく残るということはありえない。つまりそれは、私達を苦難の最も深いところで救うことの出来る、決定的なものにはなりえない。しかし「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主イエスは語られる。「人の子」、主イエスの言葉、それは十字架の死と、その死からの復活を告げる言葉に他ならない。雲に乗って到来する栄光の人の子は、同時に、十字架において最も深い苦難をその身に受け、そしてその死から甦られた「人の子」なのである。人の目にはむなしいものや、挫折としか映らないようなことの中に、「人の子」主イエスは救いの光をもたらされる。それはただ未来のことではなく、私達が日々直面する苦難の中においても、主イエスの言葉は私達を支え、そして導くのである。


[説教要旨]2009/11/15「だれよりもたくさん」

聖霊降臨後第二十四主日

マルコ 12:41-44

 マルコ福音書では11章からこの12章の終りにいたるまでの間、主イエスは神殿の境内でその教えを語られる。それは、神殿に集まっている、自らの豊富な知識や正しい生き方を誇る者たちとの対決の時でもあった。そのような中で、主イエスは一人の貧しい女性に出会う。群衆たちと共に、金持ちたちがたくさんの捧げものをしている中、この女性はレプトン銅貨2枚を捧げていた。レプトン銅貨とは、ギリシア世界における最少通貨であり、1デナリオンの128分の1の価値しかなかった。1デナリオンは1日の日当に相当したことを考えると、この女性の捧げものが、ごくごくわずかなものであったことがわかる。しかし、それを見た主イエスは弟子たち集めて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と語られる。「はっきり言っておく」という言葉は、もともとは「アーメン、あなた方に言う」と書かれている個所である。現代の私たちも使っている、この「アーメン」という言葉は、ヘブライ語で「まことに、真実に」という意味であり、それは特に「然り、そのとおりです」という意味で教会の中で用いられた。すなわち、主イエスは、神殿で多くの金持ちがたくさんの捧げものをしている時ではなく、貧しい女性がわずかなものしか捧げることが出来なかった時に、「アーメン、然り、そのとおりである」と語られたのであった。
 私たちはしばしば、自分自身の持てるもの、あるいは持てる力の小ささを悲しみ、そのようなごくわずかなものや力では、何事もなしえない、そのようなものなど何の意味もないと嘆いてしまう。あるいは、誰かが成す働きに対して、そのような小さくわずかなものは全く不十分である、正しくないものであるといって否定する。しかし、主イエスが「アーメン」と語られたものとは、偉大な事柄あるいは正しい事柄を成し得たものではなく、僅かなものであったとしても、それが自分自身の全てであるとして捧げる姿に他ならなかった。
 この一人の貧しい女性の姿に心を動かされ、「アーメン」と語られた主イエスは、本日の福音書の箇所に続いて、主イエスは十字架への最後の道のりを歩まれる。主イエスの十字架への道を備えたものは、金持ちの豊かな捧げものではなく、一人の女性の、僅かな、しかしその人にとっての全てを捧げる姿であった。十字架における救いの実現とは、まさに小さく僅かなものと力しか持ちえない存在なしにはありえないのである。

2009年11月5日木曜日

[説教要旨]2009/11/1「神の愛につながって」

全聖徒の日

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 ローマ 6:1-11  【新約・ 280頁】
福音の日課 ヨハネ 15:1-17 【新約・ 198頁】

この箇所は主イエスの「告別説教」と言われる、長い長い語りの中の一部分となっている。そこでは、主イエスは十字架の死を目前にしながら、ご自身がこれから弟子たちの元を離れなければならなくなることを予告し、同時に自分なしで弟子たちがこの世での生を歩むことができるように、様々なことを教えられている。十字架の死を間近に控えながら、主イエスの思いは、ご自身の苦しみよりも、残される弟子たちに向けられている。そこで語られるのはまさに、主イエスの「遺言」と言ってもよいものであった。通常私たちが考える「遺言」とは、財産を分与するための指示を思い浮かべる。しかし、ここで主イエスが語られるのは、そうした形ある財産についてではない。残されてゆく弟子たちに主イエスがのこしたもの、それは、富でも権力でもなく、ご自身の言葉そのものであった。主イエスの遺言そのものが、弟子たちにとっての宝であり財産の他ならなかった。
その中で、主イエスはご自身を「まことのブドウの木」とたとえられ、ご自身につながっていることを、弟子たちに命じられる。それは弟子たちが、豊かな実を結ぶようになるためであった。しかし、一見するとそれは全くの矛盾である。今から主イエスは、十字架の死によって、弟子たちのもとからいなくなるにもかかわらず、「わたしにつながっていなさい」と言われているのである。弟子たちにとってみれば、主イエスという存在が目の前にいるからこその、かれれは自分たちの「実り」を期待して、主イエスに従うのであった。目に見える絆が失われてしまえば、つながりつづけることなど無意味であり、不可能であった。しかし、たとえそうした目に見える絆が失われたとしても、いやむしろ、目に見える絆が失われるからこそ、主イエスは「わたしにつながっていなさい」「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られる。なぜならば、たとえ目に見える絆は失われたようにしか見えなかったとしても、神の愛・キリストの愛は、永遠に残るものだからである。主イエスが「わたしにつながっていなさい」と語る時、それは「主イエスの愛にとどまっている」ということに他ならない。主イエスの愛、それは私たち日常体験するような、私たちの内的な感情としての愛なのではない。それはむしろ「信頼関係」に近いものであった。主イエスとの信頼関係、それはこの地上にある、あらゆる障壁と断絶を突き抜けてゆくものなのである。
主イエスとの愛・信頼関係にある時、たとえ私たち自身が生と死へと引き裂かれたとしても、私たちはこの主イエスの愛を通してつながっているのである。



2009年10月27日火曜日

[説教要旨]2009/10/25「希望の実現を待ち望む」

宗教改革主日

初めの日課 列王記下 22:8-20 【旧約・ 617頁】
第二の日課 ガラテヤ 5:1-6 【新約・ 349頁】
福音の日課 ヨハネ 2:13-22 【新約・ 166頁】

使徒パウロにとって律法とはどのような意味をもっていたか、ということについては、昨今様々な研究がなされている。ユダヤ人としての明確なアイデンティティを有していたパウロは、おそらく、律法そのものを否定していたわけではなかった。それは、パウロにとっては、自分がユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として歩んできた歴史そのものであったからである。しかし、福音宣教者としてのパウロにとって、律法すなわち自分の歩みは、救いの出来事の実現のために不可欠とされるものではなかった。なぜならば、パウロにとって欠かすことのできない、最も重要であったことは、キリストの十字架の出来事であったからである。パウロは、ガラテヤの教会の信徒に対して、彼らが「割礼」に象徴される律法に固執することのむなしさを語る。キリストの十字架による救いの恵みは、あらゆる人に対して等しく与えられる。したがって、ユダヤ人ではない彼らが、ユダヤ人になろうと努力したとしても、それは救いの出来事になんら関係がないのである。仮に、そうした努力をしたとしても、それが実ることはない。むしろ「そんな希望は実現不可能である」ということをただ思い知るだけである。パウロはむしろ、人間としての努力を超えたところにこそ、「希望が実現する」ことを語る。
人は、様々な「~でなければならない」「~してはならない」という規範を作りだしている。それは確かに、人間の生活を実り多くするために、必要なことであり、重要な事柄である。しかし、それは救いの出来事にとって、決定的で不可欠なものではない。パウロから大きな神学的影響を受けた宗教改革者ルターは、「律法によっては罪の自覚が生じるのみである」と語った。数多の「~ねばならない」によって私たちは、結局のところ、それをあますところなく実現し、理想とする生を確立することなど不可能であるという絶望に辿り着くしかないのである。
しかし、キリストの十字架と復活は、そうして人間の力の及ばない領域においてこそ、神の力が働くことを私たちに示している。人間が、自らの業を不完全で未完成のまま終えなければならないところ、それは神の業が働き、その欠けを満たされるところなのである。ヨハネ福音書では、46年をかけて完成したエルサレムの神殿で、主イエスはその年月に優るものがあることを示される。それは、ご自身の十字架と復活の出来事に他ならなった。多くの資力と労力、そして年月をつぎこんで完成した神殿は、その後の戦争によって廃墟と化し、古びた姿を晒すこととなった。しかし、人間の絶望の先に働く神の恵みは、どれほどの年月を経たとしても、その輝きを失うことはない。この恵みを通して、私たちは常に新しくされるのである。



2009年10月14日水曜日

[説教要旨]2009/10/11「子どものように神の国を受け入れる」

聖霊降臨後第19主日

初めの日課    創世記 2:18-24       【旧約・3頁】
第二の日課    ヘブライ 2:5-9        【新約・402頁】
福音の日課    マルコ 10:1-16       【新約・80頁】

  主イエスは、エルサレムへの十字架の道の途上で、弟子であるということは、どういうことなのかについて語られる。道の途上で、主イエスはまず論争を挑まれる。論敵たちは、「適法であること」「許されていること」が何かを問題にする。それはいわば、イエスが正解を有しているかどうかを試すための質問であった。しかし、主イエスは「正解」を答えることを拒否し、何が適法で正解であるかを求めようとする姿勢そのものを、鋭く批判される。十字架において犯罪者として処刑される主イエスにとって、「適法に生きる」ことは、決して神の愛を伝えることではない。主イエスにとって重要なことは、人が神の恵みを生きるようになることであり、ご自身の十字架の死はそのため以外のなにものでもなかったからである。離婚は適法か、を問う論敵たちに、主イエスは、神の創造の業について答えられる。それはまさに、神が作られた命の恵みのその根本を主イエスが問いかけられているのである。
  ついで、弟子たちが、子どもたちを主イエスに近づけようとした人々のことを叱る。未熟で分別の無い子どもが、尊敬する師を煩わせること、その教えを語るのを邪魔させることは、弟子たちにとっては許されないと考えたからであろう。そして、それは私たち自身にとっても「正解」であり「適法」であるように見える。しかし、主イエスが憤られたのは、むしろそうした「正解」と「適法性」を主張した弟子たちに対してであった。神の与えられた命において、分別と正解を有する大人と、そうでない子どもの間には、何ら差異はありえない。無分別な存在、足らざる存在、意に沿わない存在を煩わしく思うのは、分別を持ち、十分な能力を持ち、人を思いのままに動かすことのできる(と自分では考えている)人間地震が、そのように思うのであって、命を造り与えられた神ご自身なのではない。
  私たち人間は、いつも「唯一の正解」を得ようと欲してしまう。そして、自分が正解を得た時には、それ以外の答を「誤り」としてしまう。しかし、私たちの命の資質に「唯一の正解」などない。それぞれが、それぞれの命の答として、固有の価値を持つものなのである。しかしそれは、自らの正解を主張するような、自分自身の力を誇るものの目からは隠されている。むしろ、子ども様な、弱く足らざる存在のように、与えられた命を見る時に初めて、神が作られたこの世界の価値に気付くことができるのである。
  主イエスが十字架の死と復活を通して私たちに与えられた「神の国」もまた、自らの正解を主張するものの目からは隠されている。ただ、主イエスの十字架に頼るしかないもの、子どものように、自らの弱さと不足を受け入れるものにこそ、その神の国は開かれているのである。

2009年10月5日月曜日

2009年度 宗教改革記念礼拝のご案内

今年度の東教区宗教改革記念礼拝は10/31(土)14時より、ルーテルむさしの教会にて行われます。
説教「宗教改革の回状走る」(徳善義和師)。
是非ご参加ください。

(JELC東教区イベント紹介のサイトもご覧ください。)
http://www.jelc-higashi.org/event/index.html

10/18 教会学校野外礼拝のご案内

10/18(日)、教会学校では野川公園で野外礼拝をおこないます。

10時に礼拝堂に集合、帰りは14時に野川公園を出発して14:30に礼拝堂で解散します。

持ち物:おべんとう・のみもの・しきもの・おやつ・こどもさんびか

ご家族での参加もお待ちしています。
なお雨天の場合は通常通り教会学校となります。
詳細は牧師もしくはCSスタッフまで。

[説教要旨]2009/10/4「これらの小さな者の一人を」

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 民数記 11:24-30 【旧約・232頁】
第二の日課 ヤコブ 4:13-5:8  【新約・425頁】
福音の日課 マルコ 9:38-50   【新約・80頁】

 先週の日課から引き続き、主イエスの弟子であるということは、どういうことなのかについて聖書は語る。
 弟子ヨハネは、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している者たちが「わたしたちに従わないので」やめさせようとした、と語る。「主イエスに従わない」のではなく、「わたしたちに従わない」ことが、ここでは問題になっている。弟子たちにとっては、自分たちの在り方こそが「ふさわしい」ものであり、その基準に合わないものは「やめさせるべき」ものであった。しかし、37節では、主イエスは「受け入れる」ことを繰り返されていた。それに対して、実際の弟子たちの反応は「やめさせ」ようとするものでしかなかったことを聖書は鋭く描き出す。それに対して主イエスは、弟子たちの考える基準が問題なのではなく、一杯の水を差しだすことであると語る。自分自身の正しさを主張し、他者を裁くことよりも、たとえ小さなことであったとしても、困窮するものに慰めと励ましを与えることが、「弟子たること」においては、はるかに重要なのである。
 そのような文脈の中では、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまづかせる」とは、いわば37節の「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる」ことの、全く反対の姿を示しているのである。「受け入れる」ことの対極として、「つまずかせる」ことがおかれている。その意味で、つまずきの原因は、「こどもようなもの」や「小さな者」自身の内にあるのではない。それらの人々が、未熟だから、小さい者であるから、引き起こされるというのではない。むしろその原因は、己の正しさを主張し、他者を裁こうとする、人間のその内にこそあることを、主イエスは厳しい調子で弟子たちに指摘する。小さな者を受け入れず、つまずかせることこそが、まさに「罪を犯す」ことなのである。小さなものを「受け入れる」ことなしに、人が神の国に「入る」ことはありえないのである。
 子どものような、小さな、弱く未熟な存在を受け入れること、それこそが、まさに、「主イエスの弟子たること」の本質であり、いわば、塩の塩味なのである。なぜならば、十字架において死なれた主イエスが、その死から蘇られたということ、私たちの救い主であるということが、まさに、弱さを通してこそ、神の国に私たちは招きいれられることに他ならないからである。
 私自身が、自らの弱さであり、未熟さに向き合うことは決して簡単ではない。しかし、無理解であった弟子たちもまた、主イエスと歩み、そしてその十字架と復活の出来事を通して、「塩味」を付けられていった。弱さの極みへと向かわれた主イエスを救い主として信じること。それが私たちに「塩味」を与え、そして「互いに平和に過ごす」ことを実現させるのである。

2009年9月29日火曜日

ルーテル三鷹教会 秋の親睦会

来たる10月最終日曜(宗教改革主日)には、恒例の秋の親睦会を、ルーテル学院のキャンパスで行ないます。
食事(バーバキューもしくは焼きそばの予定)を共にし、お二人の方からお話を伺います。
どなたでも参加できますので、是非ご参加下さい。

2009年10月25日(日) 10:30- 主日礼拝
12:30- 食事準備
13:00頃 食事と懇談
14:00頃 おはなし
       「ハンガリーの教会と暮らし」
       「病院ボランティアの体験から」
15:00終了・片付け





2009年9月15日火曜日

9/20(日)マルコス・ミラー師説教

9/20(日)の主日礼拝では、マルコス・ミラー師アメリカ・ルーテル・サザン神学校校長)より"Being the Greatest"と題して説教を担当いただきます(通訳あり)。また礼拝後、ミラー師を交えて昼食の時を持ちます。どなたでも是非ご参加下さい。


[説教要旨]2009/9/13「この方のなさったことは全て」

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    イザヤ 35:4-10       【旧約・1116頁】
第二の日課    ヤコブ 1:19-27       【新約・422頁】
福音の日課    マルコ 7:31-37       【新約・75頁】

 ティルスというフェニキアの街から、同じくフェニキアの大都市であるシドンを経て、デカポリス(ギリシア語で10の都市の意)というかつてのギリシアの植民都市群を抜けて、主イエスは再びガリラヤへと戻ってこられた、と聖書は告げる。実際には旅行不可能なこの記述は、ガリラヤの周辺のいわゆる「異邦人」の地の全てを挙げているようなものである。これら「異邦人」の地と、「イスラエル」の地を行き来する主イエスの動きは、神の福音の働きは、人の引いた境界線にはとらわれないことを、私たち読者に物語る。それは、直前の段落に描かれた、シリア・フェニキアの女性との出会いと相まって、主イエスと、自分たちを「清く」保とうとした者たちとの間に、鋭いコントラストを描き出している。
 そもそもガリラヤという土地そのものが、エルサレムから見たときに、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる程に辺境に位置する地域であり、むしろ「純粋さ」「純血性」を失っている地域であった。だからこそ、エルサレムから来た、「清さ」にこだわる人々は、ガリラヤ出身であった主イエスを非難せずにはいられなかったのである。彼らから見れば、このイエスという存在は、「清さ」と「汚れ」とのグレーゾーン、別の言い方をするならば、「我々」と「奴ら」との間のグレーゾーンに属する存在であった。その人物が神について語るということは、彼らには耐えられなかったのである。
 その一方で、境界線を踏み越え、そしてまた戻られた主イエスは、耳が聞こえず、舌のまわらない人を癒す。それは、イザヤ書35章に預言された救いの実現の出来事に他ならなかった。神の救いの出来事、つまり神の国の実現は、何者かが純血であることや中心にあることによるのではない。むしろ、私たちが周辺に追いやり、見向きもしないところにこそ起こるのである、ということを福音書は私たちに告げている。
 ご自身の奇跡の働きを誰にも言ってはならないと主イエスは命じられる。それは、十字架と復活の出来事に至って初めてその奇跡の業の真意が明かされるからであった。主イエスの十字架の死とは、主イエスの命が、人間の考えるあらゆる価値のうちから捨て置かれ、もっとも周縁に追いやられた出来事であり、復活とは、まさにそこにおいて、神の救いが実現した出来事であった。
 主イエスの命令にも関わらず、人々は「この方のなさったことはすべて、すばらしい」とほめたたえ、言い広める。それは、中心であるエルサレムから来た人々の態度と好対照をなしている。人々が、主イエスに近づくとき、それはいわば、もっとも「周縁との境界線」に近づいている。それは同時に「十字架に近づく」ということでもある。しかし、その時人はもっとも鮮やかに、神の救いの出来事を知ることができるのである。


2009年9月10日木曜日

[説教要旨]2009/9/6「食卓の下の小犬も」

聖霊降臨後第14主日

初めの日課    イザヤ 35:1-3        【旧約・1116頁】
第二の日課    ヤコブ 1:2-18        【新約・421頁】
福音の日課    マルコ 7:24-30       【新約・75頁】

 7:1以降の部分で、市場から帰った時には身を清めてからでないと食事をしない人たちが登場するが、これは市場においては「異邦人」と接触する可能性があり、さらにそれを「汚れ」として理解していたからであった。しかし、主イエスは、清いものと汚れたものとの区別についての言い伝えを「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と断じた後に、ティルスの地方へ行かれたと聖書は語る。ここで名前が挙げられているティルスという街は、フェニキア最古の重要な港湾都市であり、いわば「異邦人の地」であった。これによって主イエスの宣教活動は、イスラエルの領域を踏み越えて、展開していくこととなる。
 ティルス地方で人目を避けていた主イエスのもとを、その地方出身のギリシア人の女性が訪れ、自分の娘を癒してほしいと願う。しかし、それに対する主イエスの返答「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」は、驚くほど冷たいものであった。しかし、聖書は、主イエスが異邦人との交わりを「汚れ」とする人を厳しく断じられていた。またこれに続く箇所でも、「異邦人」と「イスラエル」との境界を横断しながら、教えと業とを示されたことを伝えている。だとするならば、主イエスのこの言葉は、むしろ、もともとは主イエスに対して投げかけられていた非難の言葉であったかもしれない。異邦人の土地へと足を踏み入れ、そこでも宣教をする主イエスに対して、「子供たちに十分食べさせないで、子供たちのパンを取って、小犬にやるような振る舞いだ」という批判の声が上がっていたことは想像に難くない。主イエスは、自分の振る舞いに対して、「私に対して、そのような批判と非難もあるが、あなたはどうしたいのか、あなたはどう思うのか」そのようにこのギリシア人の女性に問いかけているのである。
 このギリシア人の女性は、そうした批判をはねのけ、自分たちには、あなたの助けが必要なのである、ということを訴える。それは、この女性が直面している困難に打ち勝つことのできる力は、他のどこからでもなく、ただ主イエスから来ること、自分たちを救うのはただ主イエスであるということを、この女性が確信しているということであった。誰にも知られたくないはずの場所で、主イエスは異邦人の地において、異邦人の女性から、救い主として求められる。救いを求める魂には、何の区別も差別もない。むしろ、自らの清さを重視するものには、主イエスを理解することは出来ず、逆に自らを「食卓の下の小犬」としか呼ぶような、厳しい状況の中で生きている者だからこそ、他でもない主イエスを真の救い主として求めることができるのである。

2009年8月25日火曜日

[説教要旨]2009/8/23「恐れることはない」

聖霊降臨後第12主日

初めの日課    ゼファニヤ 3:18-20     【旧約・1474頁】
第二の日課    エフェソ 4:1-16       【新約・355頁】
福音の日課    マルコ 6:45-52       【新約・73頁】

 マルコ福音書で示される様々な奇跡は、イエスという人物が一体何者であるかを読者に問いかける。しかし、物語の登場人物たち(主イエスの弟子たちなど)と同様に、読者である私たちもまた、その問いに対する答えを簡単には見出すことができない。
本日の福音書では、湖の上を歩くという、明らかに人間の理解を超えた出来事を前にして、弟子たちは恐怖に慄く様子が描かれる。しかし、弟子たちが水の上を歩く人の姿を見て、幽霊だと思い恐怖する様子を客観的に考えるならば、その弟子たちの恐怖は、むしろ当然のことであるように、私たちには思われる。それはいわば、人が、自分たちが直面する困難(=例えばここでは、「逆風のため漕ぎ悩んで」いるということ)の中で、主イエスを見出すことは決して簡単ではない、ということを私たちに物語る。
 水上を歩き、傍らを通り過ぎられるという奇跡、それは、まさに神の力がそこに表れているに他ならない。弟子たちは既に4章で、主イエスから神の国について教えを受け、そして、主イエスが突風を鎮めるということを体験している。そしてさらに、5~6章にわたっては、主イエスの奇跡を目の当たりにし、あまつさえ、自分たち自身もその権能すらも与えられて村々へと派遣されている。しかし、それにもかかわらず、弟子たちは、5000人への給食の場面と同様、自分たちの置かれた厳しい状況の中で、神の力が自分たちの目の前に現れていることを理解できない。繰り返し語られる弟子たちの無理解は、単に彼らがとりわけ無能であったということを示しているのではない。むしろ弟子たちは、私たち自身を代表するものとして、人が神の力を見出すことがいかに難しいことであることを示しているのである。
 しかしながら、そのような私たち人間の無理解にもかかわらず、主イエスは、私たち人間のもとへと歩み寄られ、語りかけられるのである。おそれおののく弟子たちのもとへ主イエスご自身が近づき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉をかけられる。その言葉と共に、主イエスご自身が、彼らと共におられたその時に嵐は静まった。しかし、弟子たちが、その主イエスが何者であるかということがわかったのは、実に、十字架と復活の時を待たなければならなかったのである。
8月は平和について思いを寄せなければならない時である。しかし今日「平和」あるいは「和解」を語ることは簡単ではない。時としてそれは非難と嘲笑にさらされ、いわば逆風にさらされている。しかし、そのような中で、主イエスは私たちに語られるのである。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。


[説教要旨]2009/8/16「全ての人が満たされる」

聖霊降臨後第11主日

初めの日課    エレミヤ 23:1-6       【旧約・1218頁】
第二の日課    エフェソ 2:11-22      【新約・354頁】
福音の日課    マルコ 6:30-44       【新約・72頁】

 本日の福音書のエピソードは、4福音書の全てが記しており、「5千人への供食」として有名な箇所である。マルコ福音書の物語では特に、弟子たちの派遣の記事に続いている。派遣された弟子たちは、食事をする暇も無いほど疲れ切って主イエスの元に戻る。しかし主イエスと弟子たちが休む間も無く、群集が彼らのもとにおしかける。無遠慮ともいえる群集たちを前にして、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれる。「飼い主のいない羊」とは、いわば人々の飢え乾いた姿である。主イエスの「憐れみ」とは、人々の飢え乾きを受け止めるものなのである。しかしそこで、主イエスがまず「教え始められ」た、つまり、人々の飢え渇きに対して、主イエスはまずご自身の言葉を与えられたというのは興味深い。主イエスの言葉こそが、人を満たすものであることをこの箇所は私達に語っている。
 しかし時間とともに、弟子たちは、現実に対する不安を憶え、主イエスの働きを中断させる。その弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じられる。それは、弟子たちの派遣がここでも継続していることを示している。本来弟子たちは、主イエスによって既に力を与えられていることが、先週の箇所で語られていた。彼らは、目に見える力と物をたとえ何も持っていなかったとしても、ただ主イエスの言葉のみに押し出されて、人々を癒し、宣教することが出来るのである。しかし、託された働きに疲れた弟子たちは、主イエスの語る意味を理解することができない。自分たちには、現実には十分なものがないと、主イエスに対して抗議する。現に無いことを訴える弟子達に対して主イエスは、逆に、現にあるものを用いて、全ての人をありあまる程に満たされるのである。それは、主イエスによって実現する神の国の姿に他ならなかった。
 目に見えるものからしか、主イエスの派遣を捉えることの出来ない弟子達は、いわば、見えるものからしか未来を語ることのできない私達自身の姿でもある。しかし、そのような私達に、主イエスは、ご自身の十字架と復活を通して、見えない神の国の力を既に示されているのである。
現代の日本社会において、8月は平和について思いを至らせなければならない時である。しかし、平和を求め、訴えることは今日決して容易ではない。時としてそれは非現実的であるとして、断じられてしまうことすらある。しかしだからこそ、今日のキリスト者には、見えるものではなく、見えないものを信じ、望み続けることが問われているのである。

2009年8月9日日曜日

[説教要旨]2009/8/9「世に遣わす」

聖霊降臨後第10主日

 初めの日課    アモス 7:10-15 【旧約・1438頁】
 第二の日課    エフェソ 1:3-14 【新約・352頁】
 福音の日課    マルコ 6:6b-13 【新約・71頁】

 本日の福音書では、主イエスは12弟子を各地に派遣する。12人という数字は、実際に12人であったかというよりも、神の約束を受け継ぐ民の代表としての存在を象徴的に表している。その意味で、派遣されたのは、この12人という数に限定されているわけではない。あるいは、ある特定の人たちだけに限定して、主イエスは特別な権威を授けたという意味でもない。主イエスの派遣は、この最初の弟子たちを端緒として、キリストに従う全ての人に向けられているのである。
 主イエスによって悪霊払いや癒しの力を与えら得て派遣された最初の弟子たちが、果たして、完璧な信仰者であるのかと問うならば、答えは明確に否である。むしろこの後に続くマルコ福音書は、この弟子たちが主イエスの言葉に対して、いかに無理解であったかということを、繰り返し強調している。その意味で、主イエスによって派遣された最初の弟子たちは、いわば極めて欠けが多く、無責任で、弱く不完全な信仰者であった。しかし、その弱い人間を用いて、主イエスは、神の国の到来を告げられ、人々に神へと立ち帰らされたということは、非常に興味深い。主イエスが必要最小限以外のものは「何も持たず」に弟子たちを派遣されたということ、それは、その弱い人そのものを、神が導かれることを私たちに伝えている。人が、主イエスによって遣わされる時、その人の強さや責任感の強さといった美徳によって、神の国と主イエスを、この世に告げるのではないのである。むしろ、自らの欠けと弱さの中で葛藤しつつ、それでもなおこの世に関わる、そのあり様の中でこそ、主イエスの言葉はこの世に伝えられるのである。
 また同時に、私たちは自らの弱さを知りながら、むしろそれを知っているからこそ、自分の成したことに稔り見えない時に、悲嘆し、先へ進むことを諦めてしまう。しかし、「足の裏の埃を払い落しなさい」との言葉は、私たちにある種のユーモアすら感じさせつつ、私たちを落胆から呼び戻す。世に遣わされた者にとって、その働きの結果がどう実るかは、ただ神に委ねることができるのみである。たとえ人の目には、そこに何も確たるものが見えなかったとしても、私たちはそのことに思い悩むことなく、次へと進むことができるのである。
 日本社会において8月は「平和」について思い起こす時である。しかし、日本社会の状況は、平和よりもむしろ武力で立ち向かうことを是としつつあるように見える。そのような中、平和について語ることは、もはや意味を失ってしまったかのうように見える。しかし、キリストの平和を伝えることを、キリスト者一人一人は託されており、たとえそのことが実らないように見えたとしても、私たちは落胆する必要などないのである。

2009年8月5日水曜日

キリスト教入門講座

9/3まで、キリスト教入門講座はお休みいたします。

次回は9/10(木)13時半より、「フィリピの信徒への手紙」を学びます。

キリスト教入門講座は、原則、毎週木曜13時半より 三鷹教会集会所にて行われています。
なお、入り口側の部屋がハンドベルの練習などで使用中の場合は、集会所脇の入口(PGC研究所側)よりお入りください。
どなたでもご参加いただけます。

8月中の教会学校

8月末まで、教会学校分級はお休みします。
なお、「こどもれいはい」は、通常通り10時から行われます。

[説教要旨]2009/8/2「イエスにつまずく」

聖霊降臨後第9主日

 初めの日課    エゼキエル 2:1-7a 【旧約・1297頁】
 第二の日課    2コリント 12:1-10 【新約・339頁】
 福音の日課    マルコ 6:1-6a 【新約・71頁】

 8月第1週はルーテル教会では平和の主日とされている。64年前の敗戦以来、8月は平和と戦争、そして人間の罪に向き合うことが強く求められる月であると言える。そして特にキリスト者にとって、それは「この世の力に従うのか」あるいは「キリストに従うのか」ということが問われることでもある。
 しかし、ナザレ出身の大工、イエスという男に従うということは、決して単純なことではない。いったいこの男は何者なのか、ということが、そこでは問われることとなる。そしてマルコ福音書における最大の問いは、この「神の国を宣え伝えるイエスとは何者か」ということであると言える。しかし、それは百科事典的な知識としての問いではない。むしろ、自分自身とイエスとの関係とが問われているのである。
 悪霊たちは、イエスが何者であるか、すなわち「神の子である」ことを知っている。あるいは名も力も無い群集たちは、イエスのもとへと集まる。しかしその一方でイエスの周囲の人間は、それがわからない。3節では次のように書かれている。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。彼らが知っていた事実、イエスという男についての知識は彼らの人生を変えるような決定的な出会いを生み出しはしなかった。むしろ、彼らが見聞きし知っていた事実は、彼らが主イエスに出会うことを妨げ、躓かせる。彼らは、自分たちの目に映る事柄にこだわり過ぎるあまり、主イエスの本当の力に触れることができなかったのである。そして、それは十字架の時にいたるまで、人の目には隠されている。主イエスの伝えた神の国の到来、それはその十字架と復活の出来事と切り離すことは出来ないのである。
 その意味で、神の国とは、人の考えるような、目に見える権力や経済力、あるいは軍事力によって他者を圧倒し、支配する存在ではない。むしろそれは、他者のために命を注ぎ出すことによって、逆にその命が永遠のものとなるような、この世の論理と価値観とは真っ向から対立する存在なのである。イエスとは誰か、このような奇跡は一体何か。聖書が投げかけるこの問いに対して、知識としての答えではなく、信仰としての応答を返すと言うこと、それは見えるものではなく、見えないものをこそ信じ、希望としていくことである。
 だからこそ、神の子イエス・キリストに従うことは、たとえ自分の周りの現実はおよそ平和とはほど遠い状態の中にあったとしても、望み、信じ抜くことこそが平和を生み出すものであると信じて歩むことに他ならないのである。

2009年7月26日日曜日

[説教要旨]2009/7/26「恐れることはない」

聖霊降臨後第8主日

 初めの日課    哀歌    3:22-33     【旧約・1289頁】
 第二の日課    2コリント  8:1-15     【新約・333頁】
 福音の日課    マルコ   5:21-43     【新約・70頁】

 本日の福音書では、二つの奇跡の物語が組み合わされている。この二つを結びつけているのは、「信仰が問われる」という点である。では、そこで試された信仰とはなんなのであろうか。現代人である私たちにとって、信仰の問題とは、「どれだけ信仰的な選択をすることができるか」という、私たちの自由意志の問題として、受け取られることが多い。例えば、「科学」を信じるのか、それとも「奇跡」を信じるのか、というような、あれかこれかを同等の基準で、どちらかより良い選択なのかを選べる中で、より「信仰的」な正解を選ぶことであると、私たちは考えてしまう。しかし、本日の福音書では、むしろ他の選択肢など持ちえない状況において信仰が問題となっている。あえて言うならば、むしろそこで問題となっている選択肢とは、「絶望」か「希望」か、あるいは「信頼」か「敵対」か、いわばそうした私たちの在り様に対する問いかけなのである。
 長年に渡って長血を患った女には、主イエス以外にはもはや生きる希望はのこされていなかった。その意味で、この女性にとって、主イエスの存在とは命そのものであった。その女性に主イエスは告げる。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。そこで起こった奇跡の本質とは、単に「説明できない不思議な事が起こった」ということなのではない。むしろそこで、一人の女性が傍らにおられる主イエスに、揺るぎない希望と信頼を見出したということ、それそのものが奇跡なのである。既に息を引き取った会堂長ヤイロの娘のところに向かう主イエスを、周囲の人々はあざ笑う。しかしその嘲笑にもかかわらず、娘を失った両親にとって、あるいはその娘自身にとっても、希望と信頼は、主イエス以外にはもはや存在し得なかった。その主イエスが少女に「タリタ・クム」、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と語られるとき、2度と立ち上がることのないはずの少女は再び自ら立ち上がる。そこで起こった奇跡の本質とは、やはり単に「不可思議なことが起こった」ということではない。むしろ、唯一残された希望と信頼であった主イエスがその場におられること、そのものであった。
 聖書が語る信仰とは、選択肢などもはや無いような状況の中で、なお主イエスが希望と信頼となる、そのような私たちの在り様なのである。その意味では、そうした信仰の内に私たちが生きることは、もはや私たち自身の意志の力だけでは不可能なことなのである。それが可能となるのは、たとえ周囲の嘲笑の中にあっても、私たちのもとに主イエスがともにおられるからに他ならない。それはもはや一つの奇跡なのである。
十字架の死から甦られた主イエスが、私たちと共におられ、その主イエスが私たちの希望であり信頼となるということ。それがまさに、聖書が私たちに語る奇跡の本質なのである。

2009年7月17日金曜日

[テスト]携帯電話からの閲覧について

RSSフィードリーダーを利用して、試験的に、携帯電話からの閲覧ができるようにしてみました。

携帯閲覧サイトのURLは下記の通りです。

http://www.xfruits.com/jelcmitaka/?id=72035

バーコードリーダー機能を使って、下記のQRコードから読み取ることも可能です。



もしくは下記のボタンをクリックしてください。

xFruits

2009年7月8日水曜日

[説教要旨]2009/7/5「主イエスは群衆と共に」

聖霊降臨後第5主日

初めの日課    創世記 3:8-15         【旧約・4頁】
第二の日課    2コリント 5:11-15     【新約・330頁】
福音の日課    マルコ 3:20-30       【新約・66頁】

 主イエスが群衆と共にいることが語られた直後、同時に、主イエスに対する非難について触れられる。主イエスが共におられた人々とは、おそらく2:13-17で既に触れられているように、「徴税人や罪人」であり、彼らと共に食卓を囲んでいた。当時の社会における「敬虔さ」や「信心深さ」からするならば、そうした人々と食卓を囲むこと、それは恥ずべき事であり、非常識な事柄であった。だからこそ、主イエスは、「気が変になっている」という非難を受けることとなり、主イエスの血縁者らは、その身柄を取り押さえるためにその場へと向かうこととなった。さらに非難者の象徴として、都からやってきた宗教的権威が登場する。彼らは、主イエスをして「悪霊にとりつかれている」と主張する。それに対して、主イエスの第一の反論は、「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」というものであった。
 「都からの宗教的権威者達」は、日常生活の決まり事を守ることが出来ないがゆえに、汚らわしいとされていた「徴税人や罪人」と食卓を共にしなかった。それゆえに、まさに「正しい」人たちであり、真面目で敬虔な人たちであった。彼らの主張に間違ったところはなく、その為すところはまさに清く正しく、神への奉仕を厭うことはなかったと言える。しかし、そうした「正しい」言動が生み出したものが何であったかを歴史は語っている。「正しい」主張は、人々の間に分裂を起こさせ、戦争を引き起こし、大量の犠牲者と共にエルサレムを戦火のうちに崩壊させてしまった。一方で、決めたことを守れないような、だらしなく、汚らわしいと蔑まれた人々と共におられた主イエスの作られた共同体は、様々な試練に何度も出会いながらもそれらを乗り越えて、現在の私たちへと続いているのである。
 1:9-11では、主イエスの洗礼にあたって、聖霊が鳩のように下り、天から「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえたことが記されている。その主イエスの地上での歩み、それは、まさに蔑まれた群衆と共におられることによって神の国の到来を宣べ伝えるものであった。そして、非難の末路としての十字架の死と、その死からの復活によって、その神の国への道を私たちに開かれたのであった。
実に、人々を分裂させ、そして自滅へと導くもの、それは決して、決まりをまもれないものや、汚らわしいもの、蔑まれているものと交わることによってではない。むしろ自らこそが正しいと主張することこそが、その原因となのである。「正しい」者は主イエスを必要としないからである。逆に、この世において非難され排除される者こそ、主イエスを求め、主イエスと共にあり、分裂と危機とを乗り越える力を与えられるのである。

2009年7月2日木曜日

[説教要旨]2009/6/28「命を救う神の子」

聖霊降臨後第4主日

初めの日課    イザヤ58:11-14       【旧約・1157頁】
第二の日課    2コリント 5:1-10      【新約・330頁】
福音の日課    マルコ3:1-12         【新約・65頁】

 先週につづいて、安息日を巡る論争が展開される。そこでは同時に、主イエスをめぐって二つの立場の人間が描き出されている。一方の人間は、安息日の規定ゆえに、主イエスの業に敵対する。そして、もう一方の人間は、主イエスによって癒される。
敵対者たちにとって、このイエスという男は、たとえどのような力ある業を行おうとも、赦しがたい存在であった。主イエスを受け入れることができない者は、たとえその癒しの業を目の前にしたとしても、その考えを変えることはなく、むしろ、主イエスの命を狙おうとするだけであった。すなわち、敵対者たちにとって、主イエスの存在よりも、自分たちの生活を秩序付ける安息日の規定の方が重要であった。そして、主イエスの存在は、その秩序を乱すものでしかなかった。安息日規定のような、自分達の生活を支える秩序を破るということは、自分達自身の存在を無意味なものとするということでもあったそうであるからこそ、。敵対者たちにとっては、そのような秩序を乱す存在は、何が何でも、たとえ暴力に訴えてでも排しなければならないような、決定的なものであった。片手の不自由な人にとっても、主イエスとの出会いは、決定的な意味をもっていた。しかし、それは敵対者たちのような、主イエスを排除しなければならない、というものではなかった。むしろ、その出会いを通して、この人の生き方はおそらく大きく変化することとなった。この人は名もなき一人でしかなかったが、主イエスによって、人々の真ん中へと立たせられ、そして、主イエスの命令のとおり、手を動かすことができたのであった。この人にとって、主イエスとの出会いは、癒しと救いの出来事にほかならなかった。そして、この人は、ただ主イエスに命じられるままに動いたにすぎなかった。
 神の創造の業を人が憶えるために、安息日規定は作られた。しかし、主イエスの業は、この世界に救いを造り出す、神の国における創造の業そのものであった。まさにその意味で、主イエスの存在は、安息日の規定を凌駕している。だからこそ、主イエスがおられるということ、それはそこに、神の国が立ち現われるということに他ならない。そして、神の国を見、そしてその力に触れることができたのは、自分たちの秩序を守りぬこうとした人々なのではなく、ただ主イエスの命令に従った人であった。
 主イエスを通して現れる、神の国の救いの業、それは私たちが守ろうとする、私たち自身の価値を遥かに優るものである。だから時として、それは私達自身の価値観を打ち砕くことすらある。ただ主イエスの言葉に聞くものだけが、その神の国の救いを受け入れることができるのである。

2009年6月25日木曜日

[説教要旨]2009/6/21「人のための定め」

聖霊降臨後第3主日

初めの日課    サムエル上 6:1-6     【旧約・435頁】
第二の日課    2コリント 4:7-18      【新約・329頁】
福音の日課    マルコ 2:23-28      【新約・64頁】

 本日の福音書では、先週の「断食問答」に引き続いて、「安息日問答」が展開している。「安息日」は、十戒に定められたように、週の7番目の日(すなわち土曜日)を聖別された特別な日として、日常的な仕事を休まなければならない日であった。当時のユダヤ社会において、安息日は、割礼と並んで、民が神の契約の内に留まることを示す重要なしるしであった。それゆえに、あらゆる社会階層、家畜、寄留者に対してもこの休息日は適用されることとなった(出エジプト20:8-11、申命記5:12-15)。現代で言うところの労働者の権利など顧みられるはずもない古代に、奴隷どころか家畜にすら休養を求めるこの定めは極めて特異なものであった。特に申命記では、この定めが、ユダヤの民が異国で奴隷となっていたということ、そしてそこから神によって解放されたことと深く結び付いていることが記されている。その意味で、この定めは人を支配し束縛し、重荷を負わせるための定めなのではなく、そうした重荷を担わされている存在を、その苦しみから解放するためのものに他ならなかった。それは、ユダヤの民自身に起った、異国の地での重荷と苦しみの体験、そしてそこからの解放という、神の救いの出来事をこの地上において実現するための定めであった。こうした定めの体系としてのユダヤの律法の本質とは、本来、人間が神の救いと守りの内で生きるための指針なのである。
 安息日に麦の穂を積んだ弟子たちについて、ユダヤの宗教指導者たちは主イエスに非難を投げかける。そこではしかし、神の救いと守りとは既に問題ではなく、「決められたことを守るか守らないか」という次元に陥っている。そのような次元では、正しいのは自分であるという主張が繰り返されるに過ぎない。そしてそれは結局のところ、「自分の正しさ」と「自分がいかに高い立場であるか」を互いに主張しているに過ぎないのである。主イエスは、それに対して、この定めの本質を提示する。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(27節)。誰が正しいのか、そして、そうであるがゆえに、誰が最も権威があるのか。そのことについて言い争うことは意味がない。むしろ、重荷と苦しみを担うものの痛みに共感し、そこからの解放をいかにして実現するか、ということだけが問題なのである。なぜならば、正しく、最も高い権威を持ち、それでありながら、痛みと苦しみを担い、そこからの解放をもたらされた方は、ただ一人だからである。「だから、人の子は安息日の主でもある。」と主イエスは続ける。ここで言う「人の子」とは主イエスがご自身のことである。実に、神の救いと守りの本質は、十字架の苦しみと、その死から復活された主イエスという存在がともにあることに他ならないのである。主イエスが共におられるとき、私たちは他者の痛みを分かち合い、そしてまたそこからの解放の喜びもまた分かち合うことができるのである。


[説教要旨]2009/6/14「新しい革袋に」

聖霊降臨後第2主日

初めの日課    ホセア 2:16-22       【新約・1405頁】
第二の日課    2コリント 3:1-6       【新約・327頁】
福音の日課    マルコ 2:18-22       【新約・64頁】

 本日から聖壇布が緑へと変わり、「教会の半年」が始まる。いわばそれは、雨と陽光を受けて、木々の緑が成長していくように、教会もまたみ言葉を受けて成長していく時である。そして、雨も日の光もいつでも優しくはないように、み言葉もいつも口に甘いわけではなく、時として厳しい問いを私たちに問いかける。
 本日の福音書は、「断食」の実践を巡っての論争から始まっている。当時のユダヤ社会における一般的な宗教的価値観では、「断食」とは「敬虔さ」を現す指標であった。そして「敬虔である」ということは、いわば「信仰深い」ということと同義であった。したがって、主イエスの弟子たちが断食をしないのは何故かという問いがなされたのは、言うならば「彼は敬虔ではないのではないか」=「彼らは信仰深くなどないのではないか」という疑義をぶつけられたということであった。
 主イエスはこれに対して、「断食をする・しない」が敬虔さを表す本質なのではないことを、婚宴の例えを用いて応える。すなわち、「断食」という行為そのものに、「信仰」の本質があるのではない。そうではなく、主イエスとのつながりのあり方こそが「信仰の本質」であり、まさに福音に他ならない。主イエスがともにいるとき、断食は信仰深さ意味しない。むしろその非日常的な祝祭の時を共に喜ぶことが重要だからである。しかし、十字架・復活そして昇天を経て、主イエスが地上に共におられなくなった日常生活の中では、それらの出来事を憶えて断食をすることは一つの意味を持つ。実のところ、断食という振る舞いが信仰の本質としての福音を形作るのではない。あくまでも主イエスとの関係の在り方が、人をして、時に断食をしたり、しなかったりさせるに過ぎないのである。
 敬虔そうな振る舞いによって信仰を捉えようとする時、信仰の在り方は、ある枠組みを守れるか守れないかという、きわめて画一的なものとなってしまう。そして、そうした振る舞いに対する評価は、ある時代のある場所のある人々には当てはまったとしても、必ずしも異なる時代の異なる場所の異なる人々には適合するとは限らない。むしろ真の意味で信仰を伝えるのは、自分が置かれた日常の中で、「主イエスと共にあるあり方とは何か」という問いに、日々「新たな答」を返していくことが不可欠なのである。
この「新しい答」は、「古い」枠組みを引き裂き、あふれ出すほどの大きな力を有している、だから新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ、と聖書は語る。木々が成長するに伴って、あふれ出すその生命力は元の形を壊し、姿を変えてゆく。木がそこに存在し続けるためには、むしろ木は生き続け、その姿を変え続けなければならないのである。同じように、私たちの信仰を成長させる神の恵みは、生きている私たちに日々「新たな答」を見出させるのである。

2009年6月8日月曜日

[説教要旨]2009/6/7「新たに生まれる」

三位一体主日

初めの日課    イザヤ 6:1-8        【新約・1069頁】
第二の日課    ローマ 8:14-17      【新約・284頁】
福音の日課    ヨハネ福 3:1-12      【新約・167頁】

 ペンテコステ(聖霊降臨祭)をもって、アドベントから始まった、主イエスについて聖書の物語に聞いていく半年が終わり、次のアドベントの直前まで、主イエスの語られた教えについて聖書に聞く、「教会の半年」が始まる。ルーテル教会の暦では三位一体主日は、そのちょうど転換点におかれている。この主日は、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)が集約したものとして、聖書に記された救いの歴史の全体について語っていると言える。その意味で、三位一体とは単なる理論なのではなく、私たちに恵みとして与えられた救いの歴史とそこで起こる救いの出来事の全体なのである。だからこそ、「三位一体の神」というものを、理論的に理解することはおよそ不可能であるとすら言える。というのも、それは論理的・客観的に考えるならば明らかに矛盾する事柄だからである。かと言って、ただ何も疑問を持つことを赦さず、無理矢理にそれを「信じこむ」ことが、信仰深いということでも無い。ただ救いの出来事に私たちが触れることを通してのみ、私たちは「三位一体」というものを受け入れることができるのである。
D.ボンヘッファーは、1931年に第一信仰問答の中で、次のように記している。「問 神は、ほんとうにわたしのことを問いたもうのですか 答 あまりに敬虔ぶった態度をとる人は、神のことを考えているのではなく、むしろ人間のことを考えているのです。なぜなら、神は、霊においてわたしたちを高く引き上げるために、キリストにおいて身を低くしてわたしたちのもとに来りたもうたからであり、そのことこそ神の栄誉であるからです。神は三位一体の神なのです。」まさに聖書の信仰とは、私たちのこの日常の中の、その徹底した低みの中に、神の栄光の出来事、すなわち救いの出来事が隠されていることを示しているのである。つまり、三位一体の神とは、高きにありながら、低いものでもあり、そしてまさにそのことを通して、私たち人間の理解ではそこに救いを見出すことが出来ないようなところから、私たちを救い上げられる神なのである。
 ボンヘッファーは1936年の第二信仰問答でさらに次のように記している。「問 正しい信仰とは何ですか。 答 信仰とは、わたし自身にではなく、ただ三一の神にのみ信頼することです。信仰とは、すべての目に見えるものとすべての理性とに抗して、神が、そのみことばにおいてわたしに啓示したもうことに聞き、それを受け入れ、それに服従することです。信仰とは、三一の神が、今も、永遠に、わたしの救い主であることを確かとすることです。」実に、三位一体とは、私たちに与えられた救いの在り方に他ならないのである。

2009年6月3日水曜日

[説教要旨]2009/5/24「心の目を開いて」

昇天主日・アジアサンデー

初めの日課    使徒言行録 1:1-11    【新約・213頁】
第二の日課    エフェソ 1:15-23    【新約・352頁】
福音の日課    ルカ 24:44-53     【新約・161頁】

 本日は、CCA(アジアキリスト教協議会)の呼び掛けによるアジア祈祷日(アジアサンデー)である。アジアサンデーは、1974 年以来、聖霊降臨節前の日曜日は、今日のアジア・キリスト教協議会(CCA)の前身である東アジア・キリスト教協議会の記念日として、世界中のエキュメニカルな組織において祝われてきたた。今年度は、「涙のしずく」を主題として、スリランカの人々をわれわれの祈りに覚える。スリランカのクリスチャンの兄弟姉妹は、いまこの時も、政治的な対立が続く「内戦状態」において、自分たちの信仰を生き、その証をしているのである。
 主イエスの昇天という、いわば「浮世離れ」した出来事を憶えることと、内戦と対立に苦しむ人々の現実を憶えることとは、一見したところでは、まるでかけ離れた事柄のように思われる。しかし、本日の聖書の箇所は、必ずしもそうではないこと告げている。というのは、主イエスは昇天の出来事にあたって、弟子たちの「心の目を開き」(ルカ24:45)、彼らに向かって、「(あなたがたは)地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と語っている。主イエスが天へと昇るということは、確かに、主イエスが、私たちの日常の現実の中には見えなくなってしまう、ということでもある。しかし、主イエスは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:51)とあるように、たとえ、私たちの目からは隠されていても、その祝福は今も確実に私たちに与えられているのである。そして、それは私たちの「心の目」を開く力なのである。目に見えるもの、目に見える現実を前にしたとき、私たちはそこに困難と苦しみ、そして絶望しか見出すことが出来ないかもしれない。しかし、十字架の死から甦られた主イエスの祝福によって心の目が開かれるとき、私たちは、その中に、希望と喜びがあることを見出すことができるのである。
 主イエスの祝福、それは、私達が望むように、自らが傷つかないように、安全な場に隠しておくことではない。むしろ逆に、その十字架の痛みを分かち合うことである。しかし、この痛みを通してこそ、私たちは、そこに祝福と希望があることを知ることができる。それは、決して簡単なことではない。しかし、天におられ、私たちの目には見えない、主イエスは、そのような私たちを今も見守り、導かれるのである。
 そして、私たちは、そのことの証人として、私たちが生きる、対立と苦しみにうめくこの世界に伝えてゆかなければならない。それはまさに、主イエスの祝福によって与えられる、天の出来事と、地上での出来事とを結びつける信仰によってはじめて成し遂げられる事柄なのである。

2009年5月13日水曜日

[説教要旨]2009/5/10「わたしにつながっていなさい」

復活後第4主日

 初めの日課    使徒言行録 8:26-40    【新約・228頁】
 第二の日課    1ヨハネ 3:18-24     【新約・444頁】
 福音の日課    ヨハネ福 15:1-10     【新約・198頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第4主日には、詩編98編1節「新しい歌を主に向かって歌え」からとられた“Kantate”(カンターテ「歌え」)という名前が付けられている。詩篇98は次のように続いている。「主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。(2)主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に表わし(3)イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。/地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。」主の復活を告げられたキリスト者には、この世に「わたしたちの神の救いの御業を見た」と宣べ伝えることが使命として与えられていることを、この主日の名は思い起こさせる。私たちは主なる神の救いの御業が成し遂げられた中を生きているのである。
 本日の福音書の中の言葉「わたしはまことのぶどうの木。わたしにつながっていなさい」は教会の中で大変大切にされてきた。「つながる」と訳された言葉は、原語では「とどまる」という意味も有している。このことは、私たちが信仰者として生きるにあたって、「キリストにつながる」もしく「キリストにとどまる」ということが、いかに大事なことであるか、ということを物語っている。キリストにつながって生きるということは、私たちが神の国につながって生きるということに他ならない。実のところ、神の国につながって初めて、私たちはこの世において、信仰者として生きることができるのである。この世に属するのものは全て必ず、古び、そして滅びてゆく。しかし、神の国に属する者は、決して滅びることなく、必ず新しくされる。 たとえこの世に属する肉体が死を迎えようとも、神の国属する永遠の命は終わることがないのですからである。その意味で主イエスの十字架と復活は、まさに、限りあるこの世の中において、永遠の神の国の支配が始まったことを私たちに告げている。したがって、私たちがキリストの十字架と復活を信じて生きると言うこと、それはこの世にあってもこの世の力に支配されるのではなく、神の国の内で生きるということを意味しているのである。
 16:33で主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語る。十字架の死というこの世の最も苦しみの深いところから復活するによって、この世の絶望に打ち勝たれた主イエスが語られたこの言葉によって、私たちが希望を与えられて生きるということ、それこそまさに、キリストにつながり、その愛のうちにとどまっていることに他ならない。そのキリストの言葉を生きることこそまさに、私たちは絶望を超える永遠の命を与えられていることのしるしなのである。


[説教要旨]2009/5/3「わたしに従いなさい」

復活後第3主日

 初めの日課    使徒言行録 4:23-33    【新約・220頁】
 第二の日課    1ヨハネ 3:1-2       【新約・443頁】
 福音の日課    ヨハネ福 21:15-19    【新約・211頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第3主日には、詩編66編1節「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」からとられた“Jubilate”(ユビラーテ「喜び祝え」)という名前が付けられている。この名は、主イエスの復活を憶えるこの季節、古いものは過ぎ去り、今やすべては新しいものとされた、ということ、つまり、主なる神の新しい創造の働きの中に、私達が生きていることを思い起こさせる。私たちのこの日比は、喜び祝うべき時なのである。
 現代人である私たちを常に悩ますものの一つに、「本当の自分はこんなものではないはず」という思いがある。さまざまな束縛と制約の中で、自分は、本当に自由な自分ではなくなってしまっている。あらゆるものから自由で、自分の思うままに振舞うことの出来る本当の自分はどこにいるのか。どこに行けば、その本当の自分を見つけだすことができるのか。そうした問いを、年齢性別を問わず多くの人々が抱えている。しかし、それは逆に言うならば「本当の自分」という名の制約を自分自身に課しているのである。その「本当の自分」というものによって、自分自身を束縛し、今生きている場で出会う人々・出来事に向かい合うことを妨げることも少なくない。実のところ、自分の思うままに振舞うということ、「自分らしさ」を徹底的に追及することは、決して本当の「自分の生きる道」を獲得することにはならない。なぜならば、人間とは、つながりと絆の中でのみ、人として生きることのできる存在だからである。「私」という存在は、他者との関わりと絆を欠いては存在しえない。その意味で「本当の自分」とは、「自分のものではない意志」に応えてこそ、そこに存在意義を見出すことの出来るものなのである。
 甦られた主イエスは、ご自身のもとから逃げ出した弟子たちを故郷ガリラヤに訪ね、一番弟子と言えるペトロに、3度「わたしを愛しているか」と問いかけられる。どれほどペトロが真摯に答えたとしても、3度にわたってイエスの弟子であることを否認したという事実は、客観的には彼のその言葉に信頼をおくことは困難であると言わざるを得ない。彼自身の意思と能力だけでは、つまり「本当のペトロ自身」だけでは、彼は主イエスを再び否認することにしかならないのである。しかし、主イエスの言葉に従い、その命じられたとおり、他者のためにその命を紡ぎだそうとする時、彼は真の「自分の生きる道」を与えられる。
 主イエスに従うということ、そしてその命を他者のために紡ぎだすこと、それは主イエスの復活を通して私たちに示された、神の新しい創造の業が、私たちのうちに働くことなのである。


2009年4月28日火曜日

[説教要旨]2009/4/26「復活の主を知る」

復活後第2主日

初めの日課    使徒言行録 4:5-12   【新約・219頁】
第二の日課    1ヨハネ 1:1-2:2     【新約・441頁】
福音の日課    ヨハネ福 21:1-14    【新約・211頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第2主日には、詩編33編5節「地は主の慈しみに満ちている」からとられた“Miserikordias Domini”(ミセリコルディアス ドミニ「主の憐み」)という名前が付けられている。この名は、主イエスが死から復活されたことは主なる神の慈しみと憐みがこの地に満ち溢れる出来事であるということ、そしてそれは私たちにとっての永遠の喜びであるという、古代の教会の信仰告白を現代の私たちに伝えている。
 十字架の出来事によって、主イエスが弟子たちの元から失われた後、弟子たちは漁に出掛ける。それは彼らの多くにとっては、もともと慣れ親しんだ職業であった。主イエス亡き今、彼らは、主イエスに出会う以前の生活に戻ろうとしている。しかし、慣れ親しんだはずの漁は、決して実り豊かなものではなかった。彼らは空しいまま、夜明けを迎える。その時、甦られた主イエスは岸辺で弟子たちを待っていた。しかし空しいまま時を過ごす弟子たちには、それが主イエスであることが分からなかった。その男は語る。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。そして弟子たちが命じられたとおり網を打つと、「魚があまりにも多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。一晩空しいまま繰り返してきた作業は、この男の言葉によって、大いなる実りへと変えられる。その時はじめて、弟子たちは、それが主イエスに他ならないことがわかるのであった。彼らは漁を終えて、主イエスが整えられた食卓を囲む。その時「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることをしっていたからである」。
 私たちは、時として人生の中で、生きる意味を見失い、空しく、何の実りも得ることもできないまま時を過ごさねばならない時がある。しかし、そのような時に甦りの主が私たちのもとを訪れられることを、本日の聖書は語る。さらに、主イエスがともにおられる時、そして私たちが主イエスの言葉に聴き従う時、私たちの成す空しい技は実り豊かなものへと変えられることを、聖書は語る。復活の主が私たちに与えられたということ、それは、私たちの目には、失敗と挫折、喪失と敗北としか映らない出来事のその先にこそ、新しい永遠の命が始まっていることを、神が私たちに示されたということに他ならない。私たち人間が「復活の主を知る」とは、それは、自分には失われてしまったと思いこんでいた、生の意味、命の意味を、再び知ることであり、主イエスとの出会いを通して私たちの空しい技が実りへと変えられるということなのである。それはまさに主の憐れみと慈しみに満たされる出来事である。


2009年4月21日火曜日

2009年度 三鷹教会バザーのおしらせ

2009年度 三鷹教会バザーのおしらせ   

イースターを迎え、喜びのうちにお過ごしのことと思います。
さて今年も下記の日程で三鷹教会バザーを開催いたします。

献品、また諸準備など、みなさまのご協力をお願い申し上げます。

2009年度三鷹教会バザー

2009年6月28日(日)12~14時

ルーテル学院大学食堂にて


<バザーまでの準備日程>
 献品の受付    :5/3~6/14
 品物の仕分け   :5/24, 5/31, 6/7
 値付け       :6/14, 6/21
 前日の準備      :6/27(土)

 ※なお勝手ながら、献品についてはできるだけ新品同様の品をお願いしております。事前に三鷹教会集会所(0422-33-1122)までお問い合わせください。


[説教要旨]2009/4/19「わたしは主をみました」

復活後第1主日

初めの日課    使徒言行録 3:11-26    【新約・218頁】
第二の日課    1ヨハネ 5:1-5       【新約・446頁】
福音の日課    マルコ 16:9-18       【新約・97頁】

 伝統的なキリスト教の暦では、復活祭の後の主日に、それぞれラテン語による主題がつけられていた。復活祭後の最初の主日である今日は、“Quasimodogeniti”(クヮシモドゲニティ「新しく生まれた乳飲み子のように」)とされている。それは、復活祭に洗礼を受けることが、古代の慣習であったため、多くの受洗者にとって、この日は受洗後最初の主日礼拝となったからである。このため、この主日は、主イエスの復活という出来事が、ただ主イエスという一人の方に関係する事柄なのではなく、教会に集うすべての者にとって、その命がまさに「新しく生まれた乳飲み子」のようにされているということを、私たちに伝えるのである。
 マルコ16:9-18の部分は、かなり後の時代になってから、他の3つの福音書とのバランスをとるために、他の3つの福音書を要約したものを付加したものと考えられている。そのうちの冒頭の9-11節、マグダラのマリアに起った出来事については、ヨハネ福音書20:11-18が詳しく語っている。ルカ8:2によれば、マグダラのマリアは、主イエスによって「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれている。かつてのマグダラのマリアが、どれほど深い苦しみと悩みのうちにいたのか、ということは想像に難くない。そして主イエスとの出会いを通して、彼女はその苦しみからの解放を与えられたのであろう。その彼女にとって、主イエスが死に、その亡骸すら見つけられないということは、自分の大事なもの全てが失われてしまい、自分は再びかつての苦悩と孤独のうちに引き戻されてしまうかのような、不安と怖れとをもたらす出来事であった。失われたものを前に、彼女にできることはただ泣くだけであった。
 しかし、泣いているその彼女に、復活の主は声をかけられる。そこに立っているのは、もはや、失われてしまったかつての「先生」ではなく、「甦りの主」であった。甦りの主との出会いを通して、泣いていたはずのマグダラのマリアは復活の主の最初の証人として、人々のもとへと派遣されることとなる。「わたしは主を見ました」、そのように語るマグダラのマリアは、もはや涙のうちにはいない。すでに彼女の新しい生は始まっているからである。たしかにそれはまだ新生児のように弱い存在であるかもしれない。しかし、そこには同時に、無限の可能性と溢れ出る命の力がある。復活の主との出会い、それは失われたものではなく、これから出会っていくことになる未来へと、私たちの命を向けさせるのである。


2009年4月15日水曜日

[説教要旨]2009/4/12「復活の朝」

復活祭

初めの日課    イザヤ 25:6-9       【旧約・1098頁】
第二の日課    1コリント 15:21-28   【新約・321頁】
福音の日課    マルコ 16:1-8        【新約・97頁】

 安息日から一夜明けた早朝、週の初めの朝に、女性の弟子たちが、十分ではなかった葬りの準備をするために、主イエスの墓へと向かう。それまで主イエスに付き従ってきた男の弟子たちの意気地の無さに比して、女性たちの行動力と責任感の強さは、古代から現代にいたるまでの教会における女性の役割の大きさを物語っている。
 彼女たちは香料を買い求め、道すがら、墓穴の入り口にある大石をどかして開けるためにどうしたらよいか、ということを心配しながら相談していた。それらは、極めて現実的な準備と心配であり、筋道の上では、手配してしかるべき事柄である。その意味で、この女性たちの態度は極めて現実的であった。しかし、彼女たちの心配と準備はことごとく裏切られる。墓の入り口は既に開いており、墓穴の中に、主イエスの亡骸は無かった。ただ白い長い衣を着た若者によって、主イエスは甦られたことが告げられる。
 人間の視点から見るならば、準備していたことや、心配していたことが全て無駄になったのだから、それらは残念なことである。それどころか正気を失うほど恐ろしい思いをしたのであるから、それは避けられるべき事柄、あってはならない事柄である。しかし、それこそがまさに主イエスの復活の朝の出来事であった。
 私たちは、自分をとりまく物事が、十分に準備され、自らの計画通りに、滞りなく進むことこそが、もっとも良い事であり、それが妨げられることに対して戸惑い、苛立ちを覚え、時として、自分の日常の一角が侵され崩れ去ることに対してどうしようもない不安と恐れに慄くことがある。しかし、復活の朝の出来事、それはまさに、戸惑い、苛立ち、恐れ、不安をいだかずにはいられないような事柄であった。そしてなおかつ、それは尽きることのない恵みと喜びが私たちの間にまさしく与えられた出来事でもあった。
 十字架に死にたまえる主イエス・キリストが、どうじに復活の栄光の主であるという矛盾。それは、私たちの直面する戸惑い、苛立ち、恐れ、不安は、同時に、希望と喜びそして救いと新しい命の始まりなのである。

[説教要旨]2009/4/5「平和が告げられる」

初めの日課    ゼカリヤ 9:9-10     【旧約・1489頁】
第二の日課    フィリピ 2:6-11      【新約・363頁】
福音の日課    マルコ 11:1-11       【新約・83頁】

  マルコ福音書は、主イエスがエルサレムの城砦の門をくぐったところから、復活までの日々を1週間(8日間)として描き出している。それは、私達が今日からイースターを迎えるまでの8日間の一日一日を通して、主イエスが私たちに救いをもたらされた、その十字架と復活の出来事を思い起こすことを助けている。
 旧約聖書ゼカリヤ書は「見よ、あなたの王が来る」と語る。ろばに乗ってエルサレムへとやってくる主イエスに、その言葉は重ねられる。「彼は神に従い、勝利を与えられた者」とその言葉は続く。しかし、「勝利」という言葉と、「ろば」に乗って来る様子、そして「戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」という言葉との間に、私たちはある種の矛盾を感じずにはいられない。勝利とは、相手を圧倒しつくすことであると私たちは考えてしまうからである。古代、「ローマの平和」と呼ばれた時代があった。それはローマ帝国の圧倒的な力による支配を通してもたらされた、平和と繁栄の時代であった。しかし、それはローマの強大な軍事力を背景にしたものであった。やがて、生産力を軍事力の維持拡大のコストが上回ってゆくなかで、ローマの平和もまた、もろくも崩れ去って行くこととなった。力によって押さえつけ、奪い取ることによって成り立つ平和は、その力と同じく、いずれ失われてしまうものでしかない。
 しかし、聖書が主イエスを通して語る「勝利」、そしてその勝利によってもたらされる「平和」は、そのようなものではなかった。イエスは子ろばに乗ってエルサレムへと入る。大きな力などない子ろばは、主イエスによって用いられ、主の十字架と復活への歩みの中で欠くことのできないものとなる。主イエスは、この世では顧みられることなどないような、取るに足らない小さな僅かな力を、世の救いのために用いられる。主イエスがもたらされる平和、それは、強大な力をもって、他者をねじ伏せ、奪い取ることをしなければ成し遂げられないような、そのようなものではない。むしろ、この地上においては取るに足りないとされるような弱いものを用いてこそ成し遂げられる、滅びることのない永遠の平和であった。小さな子ろばに乗ってエルサレムへと入られた主イエスは、弱さの極みである十字架へ向かい、そして復活された。その出来事は、私たちに、真の平和をもたらすものは、何かを示してくださるのである。


[説教要旨]2009/3/29「光として世に来た」

初めの日課    エレミヤ 31:31-34 【旧約・1237頁】
第二の日課    エフェソ 3:14-21 【新約・355頁】
福音の日課    ヨハネ 12:36b-50 【新約・193頁】

 「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と37節は語る。ヨハネ福音書において、主イエスはご自身の神の子としてのさまざまな「しるし」を示される。しかしそれによって多くの人の心が動かされるものの、人々に対して主イエスを救い主として信じることを公にさせるには至らない。常識的に考えればそのことは、それらのしるしは主イエスを救い主と信じる根拠として不足であった、ということを意味するであろう。しかし実はむしろ、そのようにして人々から受け入れられない道を主イエスが歩むこそが、主イエスが救い主であることの証左であることを聖書は語る。なぜならば、その道は、十字架の受難へと続くものであり、この十字架を通して、救いは実現するからである。そこには、主イエスを信じることとは、受難への道の中に、真の栄光と救いとを見出すことであるということ、受難への道こそが、暗闇に光がもたらされる道筋であることを、私たちに証している。
  「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」(41節)。イザヤが見た主イエスの栄光とは何だったのか。それはまさに、十字架の死と、そこからの復活に他ならない。通常私たちは、栄光とは他を圧倒するような力であり、勝利とは他を蹴散らし滅ぼすことであると考える。そして、それら栄光と勝利とを手にすることで、闇のうちにあって光を得ることが出来ると考える。しかし、聖書が語る主イエスの栄光と勝利は、この世の力によって他を圧倒するのではない。むしろそれは、この世の力を前にして、敗北と挫折へと向かって進むことであると語る。それは、あまりにも荒唐無稽であるように、私たちには思われる。しかし、この世の力によって手にした栄光と勝利、それらはいずれは失われてしまうものでしかない。この世において、永遠に続く栄光と勝利は存在しえない。その意味で、勝利と栄光とは、それを手にした瞬間から、それが失われ、朽ちてしまうことに怯え続けなければならないものなのである。しかし、主なる神が主イエスの敗北と挫折とを通して示された、真の栄光と勝利、それは永遠のものであることを、神は主イエスの復活の出来事によって示された。主イエスの受難と復活は、この世における弱さ・敗北・挫折の中に、朽ちることのない永遠の命があることを私たちに示しているのである。

[説教要旨]2009/3/22「永遠の命を得る」

初めの日課    民数記 21:4-9 【旧約・249頁】
第二の日課    エフェソ 2:4-10 【新約・353頁】
福音の日課    ヨハネ 3:13-21 【新約・167頁】

 現代の日本社会に生きる私たちは、人間もまた商品としての価値を持つことが当然であり、その能力や付加価値によってランク付けされることが当たり前であるかのような日常に直面させられている。しかし、私たち一人一人の命の意味が、そうした能力や付加価値によって決められてしまう時、人は終わることのない競争と落伍することへの不安に脅かされることになる。
 ニコデモは、ユダヤの議員であり、律法の教師であった。それはニコデモが、傍目から見るならば、羨む人もいたであろうような、ある程度の社会的地位を有していたことを物語っている。しかし、そのニコデモは、人眼を避けるかのように夜に独り主イエスを訪ねる。
 ニコデモは彼がこれまで得てきた知識に基づいて、主イエスの言葉を理解しようとするが、「新しく生まれる」ということをどうしても理解できない。私たちもまた、自分達が生きているこの世界の論理にのっとって考えるならば、このニコデモの立場はむしろ極めて「常識的に」物事を理解しているように思われる。しかしむしろ、主イエスが語るのは、そうした私たちの生を成り立たしめているその基盤そのものを問うものである。確かに私たちは、自分が生きていることを知っている。しかし、その命がどこから来たものなのか、そしてどこへと向かうのか、なんのための命なのか、そうした事柄について私たち自身の生活の中から答えを見出すことはできない。しかし、主イエスが天の国と新しい永遠の命について語る時、それは私たちに命の意味を示す。イエスがこの世に来たのは、世を救い、永遠の命を与えるためであった。すなわち、私たちの命とは、主イエスの言葉に出会い、主イエスによって救われ、新しい永遠の命を生きるべき命なのである。
 ニコデモと主イエスとの対話はいつのまにか、主イエスの説教であるかのように語られる。それはまるで、物語の中での会話であったものが、途中からは今聖書を読む私たちに向けて、主イエスが語り始められているかのような印象を与える。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」教師・議員として、世の中の常識的な価値観を背負っているニコデモへ主イエスが語られたこの言葉は、それはこの地上の価値観の中でがんじがらめに捉えられている私たちのところにも、まるでそうしたしがらみなど存在しないかのように、まるで風が吹くかのごとくに届けられる。


2009年3月31日火曜日

2009/4/5 アフタヌーンコンサートのお知らせ

日本福音ルーテル三鷹教会

アフタヌーンコンサート ~オルガンと聖書朗読のひととき~

2009年4月5日(日) 午後1時~ ルーテル学院大学チャペルにて(入場無料)

演奏予定:
詩篇:36 スウェーリンク
詩篇:24 A.V.ノールト
詩篇:137 バビロン川のほとり J.S.バッハ
おお人よ 汝の罪の大いなるを嘆け J.S.バッハ
幻想曲ト長調  “ピエスドルグ”  BWV572 J.S.バッハ             他

[出演]

■ オルガン : 苅谷 和子

国立音楽大学器楽学科ピアノ専攻卒業、同大学大学院オルガン科修了。ピアノを池澤幹夫、オルガンを吉田 實、小林英之の各氏に師事。東京教会、田園調布、名古屋めぐみ、宇部、札幌、みのり台等 各ルーテル教会の他、白百合女子大にてオルガンコンサートを行う。また宗教曲のオルガンパート、合唱伴奏などを行う。
日本オルガ二スト協会会員。日本福音ルーテル武蔵野教会オルガ二スト。


■ 聖書朗読 : 横澤 多栄子

日本福音ルーテル三鷹教会会員・聖書朗読者1993 年より、女優・白坂道子に師事して、朗読を学ぶ。三鷹市立図書館朗読サービス員・盲人伝道協議会録音ライブラリー所属 1977 年より家庭文庫を開くかたわら、おはなしグループ「わたげの会」のメンバーとして、図書館・学校等で朗読やおはなしをしている。

 [問い合わせ]

日本福音ルーテル三鷹教会

181-0015 三鷹市大沢3-10-20 ルーテル学院大学内

[Tel.&Fax] 0422-33-1122


2009年3月5日木曜日

2009/3/15 合同礼拝のお知らせ

2009/3/15(日)の主日礼拝は、午前10:55よりルーテル学院大学105教室にて日本福音ルーテル三鷹教会と、ウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝として守ります。
礼拝の中で、キャロル・サックさんによるハープ演奏と祈りの時がもたれます。
また礼拝後、両教会でお茶の時間を共にします。
皆様ぜひご出席ください。





2009/3/22 三鷹教会オープンフォーラムのお知らせ

三鷹教会オープンフォーラムのお知らせ

エジプトの王子として育ったモーゼが、イスラエルの民を脱出させるまでの物語を、子どもも楽しめる映像と共に学びます。

日時  3月22日(日曜日)午後一時から
場所 ルーテル学院大学 ブラウンホール152教室

入場無料です。

皆さんお誘い合わせで是非お越し下さい。

[説教要旨]2009/3/1「荒れ野に送り出される」

四旬節第1主日

初めの日課    創世記 9:8-17       【旧約・11頁】
第二の日課    1ペトロ 3:18-22     【新約・432頁】
福音の日課    マルコ 1:12-13      【新約・61頁】

 本日の聖書箇所に先立つ4節では、洗礼者ヨハネが荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。そこでは「荒れ野」とは、人々が神に立ち帰るきっかけを与えられる場所として捉えられている。一方で、洗礼を受けた主イエスが霊によって送り出された「荒れ野」とは、サタンが支配する試練の場であった。すなわち「荒れ野」とは、神へと向かう新しい命と生き方が示される希望の場所でありながら、同時に、闇と悪の力の支配する場所、いわば光と闇とが相半ばする場所なのである。主イエスは、その荒れ野へと霊によって導かれる。

 闇の支配と光への希望が相半ばする場所に、主イエスは40日間留まられる。「40」という数字と、「荒れ野」という場所は、40年間荒れ野を彷徨したイスラエルの民の歴史を思い起こさせる。40年の荒れ野での彷徨は、イスラエルの民が真の意味で神に従うものとなるために必要な試練の時であった。40年という数字は人間にとって決して短い年月ではない。それ程の年月が荒れ野で過ごされたとするならば、普通であれば私たちはその無為な時間のあまりの長さに打ちのめされてしまうであろう。たしかに、個人の生活の尺度でみるならば、そこに意味を見出すことは難しい。しかし、個人に留まらない、人類全体の救済という視点で見るならば、その40年は動かしがたい意義を有している。主イエスの荒れ野での40日間が、福音書の冒頭で、洗礼の出来事と宣教開始という極めて重要な事柄の間で描かれているということは、それがやはり、救済の歴史の中で欠くべからざる出来事であるということを如実に示している。天使が仕え、野獣が主イエスを傷つけることなく、ともにいるという様子は、神の国が既にそこに実現しつつあるということ、つまり荒れ野において主イエスはすでにサタンに打ち勝たれたということを物語っている。今や荒れ野は、光が勝利した場所、神の救いの希望が始まる場所となった。だからこそ、主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られるのである。闇の支配する場所は、今や主イエスによって救いの始まる場所へと変えられたのである。

 私たちは、イスラエルの民が荒れ野を彷徨した時と同じように、人生の中で、無為としか思えないような不毛な「荒れ野の時」を過ごさなくてはならない時がある。しかし、その荒れ野は主イエスによって、既に「希望の生まれる場」へと変えられているのである。イースターまでの四旬(40日間)を過ごす季節を教会の暦は迎えている。それは私たちが、私たち自身の荒れ野において、主イエスと出会い、その希望を見出す時でもある。


[説教要旨]2009/2/15「罪人を招くため」

顕現節第7主日

初めの日課    イザヤ 44:21-22    【旧約・ 1134頁】
第二の日課    2コリント 1:18-22    【新約・ 326頁】
福音の日課    マルコ 2:13-17      【新約・ 64頁】

 神の国の福音を宣べ伝える主イエスの周りで、主イエスに対する疑念と対立が生じてくる。それは、主イエスの福音を受け取ったのは誰であったかということと対を形作っている。自らを正しい存在であると考える者たちは主イエスを疑い、反感を憶える。しかし、「罪」とされた者たちは、主イエスの呼びかけに応えて、主イエスに従ってゆく。

 主イエスに従うと言うこと。それは私達の意志を超えた力が私達に働くことである。主イエスの呼びかけこそが、私達をして主イエスに従わしめる。主イエスの呼びかけがあるからこそ、私達は主イエスの後を追うことができる。しかし、その主イエスの声を聞くことができるのは、自らを掟と規範の内側に留まる、正しい存在としている者たちではなかった。

 主イエスは、異民族の手先として蔑まれた税吏、あるいは職業上、掟に定められた清浄さを維持することが出来ない人々らと共に食事をする。罪と侮蔑にまみれた者との食卓の交わり、それはいわば罪と侮蔑によって「汚染」されるものとして、あまりにも非常識な振る舞いとして、「正しい」もの達の目には映った。それはいわば、「正しい者」たちが立っている日常生活の基盤を無意味なものであるとする行為であった。それゆえに「正しい者」たちは、主イエスにその真意を問わずにはいあっれなかった。

 しかし、主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられる。「罪人」とを、現代的な意味で「犯罪者」と捉えることはあまり正確ではない。むしろ「恥に耐えねばならない者」「心に悲しみを抱えている者」と言う方が適切であろう。その意味では「正しい者」とは「自分を清潔で健康であると考えている者」ということが出来る。しかし「清潔で健康である」ということは、実は、ただ苦しむ者との関わりを恐れているに過ぎない。苦しむ者と関わることが恐ろしいと感じるからこそ、「健康で清潔な」場所に閉じこもるのである。その一方で、「罪」とされる者、弱く、苦しみを抱えている者こそが、神の国の福音を告げる、主イエスの招きを聞き、立ってイエスの後に従って歩むことが出来る。自らの弱さと苦しみをこの方が共に担って下さることを知ることが出来るのである。それゆえに、罪人を招くイエスと出会うとき、私達は自らの弱さと苦しみから逃げ、その弱さと苦しみを押しつけ合うことから解放されるのである。


[説教要旨]2009/2/8「あなたの罪は赦される」

顕現節第6主日

初めの日課    ミカ 7:14-20      【旧約・ 1458頁】
第二の日課    1コリント 9:24-27    【新約・ 311頁】
福音の日課    マルコ 2:1-12      【新約・ 63頁】

 罪とは何かということは、キリスト教に留まらず、多くの文化にとって大きな問題である。罪とは何かという問いは、その社会の枠組みを形作っている。罪を犯した者、それはその社会の内側には居られない者、ということだからである。しかし、それは往々にして逆にもあてはめられる。ある社会において、排除されている者は、無条件で「罪の存在」とされるのである。人間は、何かを「罪」として、自分の世界から排除することによって、自らの属する領域を清く保とうとする。弱い者や数少ない者は、しばしばこうした排除の対象とされ、この排除の働きによって、人は自らが健康で清潔であることを確認しようとする。

 聖書の物語の時代、病気によって体が動かないこと、それは社会から排除されることを意味した。そして、その人は罪の存在であるとみなされた。人はそのことを通して、病気ではない自分が社会の中に留まる「清く正しいもの」であることを確認しようとしたのである。社会から排除されているこの病人は、主イエスがおられる家にもまた、入ることができなかった。しかしこの病人は「屋根をはがして」つり下ろされる。それはいわば、罪ある外側の存在が、清いとされる内側に無理矢理に入り込んでくる出来事であった。それは、清い内側にいる者たちにとっては、「いかにも罪の存在がやりそうな愚かな行為」であり、本来、断固として拒否されなければならないような振る舞いであった。しかし、主イエスは「あなたの罪は赦される」と語られる。「罪が赦される」ということ、それはこの人が排除される理由がなくなってしまうということであり、同時に、社会の内側を清く正しく保つことを無意味であるということと同じであった。

 主イエスを批判する人々は、主イエスは「神を冒瀆している」と考える。彼らにとって主イエスの行いは、自分たちを清く正しくしてくださっている神の業に真っ向から反対するものであった。しかし主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と語られる。主イエスに命じられた病人の男は、自らの足で立ち起き上がって家を出てゆく。それは、「罪の存在」としてその命に価値を見出されていなかった男が再び一人の人間として生きることができた瞬間であった。主イエスが父なる神から与えられた権威、それは内と外とを隔てる壁を取り壊し、人に生きる喜びを与えられるものであった。


2009年2月5日木曜日

[説教要旨]2009/2/1「歩み寄るイエス」

初めの日課    ヨブ記 7:1-7        【旧約・ 783頁】
第二の日課    1コリント 9:16-23    【新約・ 311頁】
福音の日課    マルコ 1:29-39      【新約・ 62頁】

 「シモンのしゅうとめのいやし」の出来事は、マタイ・マルコ・ルカのいずれもが述べているが、その内容は大変簡潔になっている。おそらく、当時既に非常によく知られていたエピソードであったのであろうと考えられる。おそらくこの女性は初代の教会の中で重要な働きをした多くの無名の女性の一人であった考えられる。その出来事は、弟子の召命(16-20節)と、汚れた霊に取りつかれた男の癒し(21-28節)との両方のエピソードとコントラストをなしている。
 シモン(ペトロ)をはじめとする弟子たちは、主イエスに声をかけられてそのあとに従う。しかし、この女性の場合は、主イエスの方がこの女性のそばへと行き、「手を取って起こされ」(31節)、この女性の病を癒された。声をかけられた弟子たちは、主イエスに「従う」が、この女性は「一同をもてなした」。「もてなす」とは「給仕する」「仕える」を意味する「ディアコネオー」という言葉が用いられている。この女性は、主イエスとの出会いのその時から、「仕える」ことを実践している。それはただ主イエスに対してだけではなく「一同」に対してであった。それはいわば、主イエスへの信仰の証として、信仰の交わりの全体に対して、己を低くして「仕える」ことを実践している。弟子たちは主イエスに従っているものの、それはまだ「仕える」ということには至っていない。だからこそ、この後主イエスは、弟子たちが「仕える」者とならなければならないということを、その教えの中で繰り返さなければならなかった。また、大騒ぎをした「汚れた霊にとりつかれた男」とは対照的に、この女性の一連の出来事は粛々と起る。癒されたこの女性は、静かに日常生活のうちに奉仕の実践をなす。この二つのコントラストを通して、この女性は、主イエスの弟子であることの本質をすでにこの1章の段階で示しているのである。
 主イエスとの出会いに関しては、この女性は徹底して受け身でしかない。彼女は自分から主イエスのもとを訪れたのでもなければ、主イエスに来てもらうことを望んだのでもない。しかし主イエスとの出会いを転換点として、むしろ主体的にこの女性自らを低くし「仕え」始める。その転換はなによりもそばへと歩み寄られた主イエスとの出会いによって生み出されている。十字架の低みへと向かわれる主イエスとの出会い、それは私たちの生の在り方を変える転換点なのである。

2009年1月25日日曜日

[説教要旨]2009/1/18「時は満ち、神の国は近づいた」

顕現節第3主日

初めの日課    エレミヤ 16:14-21   【旧約・ 1207頁】
第二の日課    1コリント 7:29-31    【新約・ 308頁】
福音の日課    マルコ 1:14-20      【新約・ 61頁】

 道を整える者、洗礼者ヨハネが捕らえられ、その公的な働きに一旦終止符が打たれた時点から、主イエスの活動が始まる。主イエスは「時は満ちた」と語る。それは、洗礼者ヨハネまでにいたる、預言者の時がそこでおわり、救い主・メシアの到来の時が来たということを、人々に告げるものであった。私たち人間は、いかなる力をもってしても、時を早めることも、遅くすることもできない。「時が満ちる」ということ、それはまさに神がその時を私たちのために備えられたということなのである。そしてそのことはとりもなおさず「神の国は近づいた」ということに他ならなかった。救い主である主イエスがおられるところ、そここそ神の国が現れるところなのである。主イエスはさらに語る。「悔い改めて福音を信じなさい」。「悔い改める」は、生の向う方向を転ずるということである。すなわち、主イエスのメッセージは、近づいた神の国へと、人がその生きる方向を向けることを命じるものであった。それは実は、人が主イエスへと向かって生きるということでもあった。「神の国は近づいた」と語る主イエスのおられるところ、そこがまさに神の支配と力が働く場なのである。「福音を信じる」ということ、それはこの、「主イエスこそが、私たちの世界へと現れ出た神の国である」ということを、私たちが確信することなのである。
 そして主イエスは最初の公的な働きとして、まずシモン(ペトロ)をはじめとする漁師たちを弟子とする。最初に弟子となった彼らは、宗教的な訓練を積み、日々を過ごしていたわけではなく、ただ彼らの日常的な生活、彼ら自身の世界の中にいたにすぎなかった。しかし、その彼らの世界の中へと、主イエスは入り込み、彼らをご自身の側へと引き寄せられたのである。それこそが、まさに主イエスが語られたメッセージ「福音を信じなさい」というものが、現実となった出来事であった。そして、いわばこの漁師たちから始まる主イエスの弟子の群れの中に、私たちもまた立っているのである。
 福音を信じるということ。それは私たちが私たち自身の能力を駆使して、自らを清く保ち、自らの信念を固くしていくことで、神の国へと近づいてゆく、ということなのではない。むしろ逆に、「神の国が近づく」のである。すなわち主イエスご自身が、私たちの生活の世界のただ中へと入り込み、私たちを引き寄せる、そのような出来事なのである。満ちた時は、私たち自身の生活の中へと流れ込み、私たちの時を、福音によって満たす。


[説教要旨]2009/1/11「天を裂く愛」

顕現節第2主日 主の洗礼日

初めの日課    イザヤ 42:1-7      【旧約・ 1128頁】
第二の日課    使徒 10:34-38      【新約・ 233頁】
福音の日課    マルコ 1:9-11       【新約・ 61頁】

 主イエスが洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けたという出来事は、古代より大きな疑問を教会に提示してきた。というのは、ヨハネは罪の赦しを得させるために、人々に洗礼を施していたのであり、そうであるならばなぜ「罪なき神の子」である主イエスが、この「罪の赦し」のための洗礼を受ける必要があったのか、ということを論理的に説明することが難しいからである。確かに、罪なき神の子が罪の赦しの洗礼を受けるということは、論理的には矛盾であり、いわば無駄・不要な事柄である。グループの存続と安定を第一として、不安要素を取り除くことを、キリスト教会が最も重要なものとするのだとするならば、この出来事については、残すべき価値など無い、排除すべきものと断じて良いようにすら思われる。にもかかわらず、マタイ・マルコ・ルカのいずれの福音書も、この主イエスの洗礼の出来事を伝えている。それはむしろ、主イエスがこの地上に与えられたという出来事そのものが既に、人間の論理では全く図り知ることの出来ないような、限りの無い神の愛によって引き起こされたものであることを、私たちに示している。主イエスの洗礼とは罪なき神の子が罪ある人と共におられるということに他ならない。それは、人間の道理によっては、無意味・無駄であり、むしろ神の崇高さと権威を低めるものとみなされるような事柄かもしれない。しかしそうだからこそ、それはこの地上において姿を現す、神の愛と救いの業に他ならないのである。
 主イエスの洗礼の時、「あなた(これ)は私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた様子を、マタイ・マルコ・ルカのそれぞれの福音書が記している。しかし、その時の様子を、マタイとルカが「天が開く」という表現を用いるのに対して、マルコでは「天が裂けて」という表現を用いている。「裂く」という表現からは、まるで、本来であれば通ることのないものが、無理やりその道理を突き破ってこの地上へと届けられたかのような、いささか乱暴な印象を受ける。実にそれは、罪なき神の子が罪の赦しの洗礼を受けるという、道理を突き破り、無理矢理に神の愛と救いがこの地上へと与えられる出来事であった。
天を裂いてこの地上へと注がれた愛は、主イエスの十字架の時に、再び、神殿の垂れ幕を真っ二つに裂く。それはまさに主イエスを通してこの地上へと注がれた神の愛と救いの業は、私たちから隔てられたところではなく、私たちの罪と苦悩のまさにそのただ中で働かれるということを示すものであった。


2009年1月7日水曜日

2009年度ルーテル三鷹教会総会のお知らせ

2009年度三鷹教会定期教会総会が2/1(日)に三鷹教会集会所にて開催されます。
教会員の皆様は万障お繰り合わせの上ご参集下さい。

また総会に先立ち1/25(日)礼拝後に拡大役員会を集会所にて行います。
教会活動に対する皆様のご意見をお寄せ下さい。
なお、各会のご担当の方は、総会資料用原稿を1/10(土)までに牧師までご提出下さい。宜しくお願いいたします。

1/18の主日礼拝について

2009/1/18(日)は、ルーテル学院大がセンター試験の会場となるため、構内は立ち入り禁止となります。
このため、1/18(日)の主日礼拝は、東京神学大学の礼拝堂をお借りして行います。

時間は通常通り、10時半からです。(なお、こどもれいはい・CS分級はありません。)

[説教要旨]2009/1/4「起きよ、光を放て」

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・ 2頁】

 「三博士」もしくは「三賢王」の訪問として、キリスト教絵画においてもしばしば題材とされる場面が、本日の福音の日課となっている。この箇所と関連して、1/6を教会の伝統では「顕現日」として、キリストがこの世にその姿を公に現されたことを憶えてきた。それはいわばまた別の視点からのクリスマス物語である。

 星の動きによって王の誕生を予期した占星術の学者達は、ヘロデ大王のもとを訪れる。この「ユダヤ人の王」の誕生を巡る、学者達とヘロデの態度は明確な対照をなしている。学者達の報告を聞き、ヘロデは「不安を抱く」。なぜならば、現にユダヤの王であるヘロデにとって、王は自分以外の何者でもなく、それゆえに、新しい王の誕生とは、自らが手にしている権力の座から追われることを意味していたからである。最終的にヘロデは、この不安の原因を抹消しようと、全ての男児を抹殺する。私達が、その態度を冷酷・残忍であるとすることは確かにたやすい。しかし、自分自身が手にしているものを奪われることに不安を覚え、それを解消するために、持てる実力を行使するということは、現代においてはむしろ理に適った事柄として、むしろ評価されているのではないだろうか。その意味では、ヘロデの行為は極めて合理的なのである。しかし、そうした徹底的な実力行使によってヘロデが得たものは更なる不安だけであった。最終的に彼は自分の権力を維持するために、自分の妻子すら手にかけることになった。しかも、そうしたあらゆる努力もむなしく、彼は死を迎え、その死後、その領土は分割されることとなった。

 一方、占星術の学者達は、星の導きによって、幼子を見つける。この星を見たとき、「博士達は喜びにあふれた」と聖書は語る。それは「不安を抱いた」ヘロデと鋭いコントラストを示す。彼らが旅の末にまみえた「王」は、大きな宮殿も、大勢の家来も、持ってはおらず、ただ母マリヤが共にいるだけであった。しかし、その出会いは彼らに大いなる喜びを与えたのであった。占星術の学者達を喜びに満たしたもの、それは王の持つ権力の巨大さでも財産の多さでもなかった。そこにあった事柄、それはただイエス・キリストとの出会いだけであった。その喜びは絶えることなく現代の私達へと受け継がれているのである。

 自らの持てるものを守るいかなる努力も、さらなる不安を拭い去ることは出来ない。ただ、主イエスとの出会いのみが、私達を喜びで満たすのである。