2009年6月8日月曜日

[説教要旨]2009/6/7「新たに生まれる」

三位一体主日

初めの日課    イザヤ 6:1-8        【新約・1069頁】
第二の日課    ローマ 8:14-17      【新約・284頁】
福音の日課    ヨハネ福 3:1-12      【新約・167頁】

 ペンテコステ(聖霊降臨祭)をもって、アドベントから始まった、主イエスについて聖書の物語に聞いていく半年が終わり、次のアドベントの直前まで、主イエスの語られた教えについて聖書に聞く、「教会の半年」が始まる。ルーテル教会の暦では三位一体主日は、そのちょうど転換点におかれている。この主日は、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)が集約したものとして、聖書に記された救いの歴史の全体について語っていると言える。その意味で、三位一体とは単なる理論なのではなく、私たちに恵みとして与えられた救いの歴史とそこで起こる救いの出来事の全体なのである。だからこそ、「三位一体の神」というものを、理論的に理解することはおよそ不可能であるとすら言える。というのも、それは論理的・客観的に考えるならば明らかに矛盾する事柄だからである。かと言って、ただ何も疑問を持つことを赦さず、無理矢理にそれを「信じこむ」ことが、信仰深いということでも無い。ただ救いの出来事に私たちが触れることを通してのみ、私たちは「三位一体」というものを受け入れることができるのである。
D.ボンヘッファーは、1931年に第一信仰問答の中で、次のように記している。「問 神は、ほんとうにわたしのことを問いたもうのですか 答 あまりに敬虔ぶった態度をとる人は、神のことを考えているのではなく、むしろ人間のことを考えているのです。なぜなら、神は、霊においてわたしたちを高く引き上げるために、キリストにおいて身を低くしてわたしたちのもとに来りたもうたからであり、そのことこそ神の栄誉であるからです。神は三位一体の神なのです。」まさに聖書の信仰とは、私たちのこの日常の中の、その徹底した低みの中に、神の栄光の出来事、すなわち救いの出来事が隠されていることを示しているのである。つまり、三位一体の神とは、高きにありながら、低いものでもあり、そしてまさにそのことを通して、私たち人間の理解ではそこに救いを見出すことが出来ないようなところから、私たちを救い上げられる神なのである。
 ボンヘッファーは1936年の第二信仰問答でさらに次のように記している。「問 正しい信仰とは何ですか。 答 信仰とは、わたし自身にではなく、ただ三一の神にのみ信頼することです。信仰とは、すべての目に見えるものとすべての理性とに抗して、神が、そのみことばにおいてわたしに啓示したもうことに聞き、それを受け入れ、それに服従することです。信仰とは、三一の神が、今も、永遠に、わたしの救い主であることを確かとすることです。」実に、三位一体とは、私たちに与えられた救いの在り方に他ならないのである。

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