2013年6月18日火曜日

[説教要旨]2013/06/16「安心して行きなさい」ルカ7:36-8:3

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 サムエル下 11:26-12:10、13-15 【旧約・ 496頁】
第二の日課 ガラテヤ 2:15-21 【新約・ 344頁】
福音の日課 ルカ 7:36-8:3 【新約・ 116頁】

 キリスト者とは高潔で道徳的で優れた人物であると見られることが多いのではないだろうか。たしかに、そうした特性を理想とすることは必要なことである。しかしむしろ、自分自身ではどうすることも出来ないほど弱く、自分の力では流れ出る涙を止めることができないからこそ、私達キリスト者は神の憐れみを、そしてなによりも救い主イエス・キリストを求めずにはいられないのである。
 本日の日課では、一人の「罪深い女」と呼ばれている女性が登場する。聖書の時代の「罪」とは、いわば社会の価値観から外れる事全般を意味していたとも言える。したがって今日の日本社会で言えば、「恥ずべき」とか「恥知らず」という意味もそこには含まれていたと理解することも出来る。敢えて言えば、この女性は「恥ずべき」「恥知らず」女と言われていたとも理解できるかもしれない。そして食卓の席を囲む人々は、自らの正しく清い、誇り高い態度をもって、この恥知らずな存在を糾弾し、排除することこそが、自分たちの正しさと清さの証であると考えていた。
 そのような中でこの一人の女性の流した涙は、無慈悲に人を非難し糾弾する周囲の人々の態度に対する、無言の訴えであったかもしれない。無言で流された涙は、自分に押しつけられた社会の歪みへの、この女性が出来るたった一つの抵抗であったかもしれない。その涙が、主イエスの足を濡らし、女性は、その涙を自分の髪で拭う。当時の価値間では有り得ないようなその振る舞いがそのままにされたということは、主イエスは、この女性がどういう人物であるか、そして今どのような思いでこの場にいるのか、その全てを理解し、そして受け止められたことを意味していた。主イエスのこの振る舞いは、周囲の人々の態度との間に鋭い明暗を形作る。主イエスは、この排除された女性を受け入れ、その振る舞いを高く評価し、あまつさえ「あなたの罪は赦された」とすら宣言する。いうならばそれは「あなたはもはや、何ら恥じることなど何もない」と宣言したということであった。その言葉に人々は、いったいこの男は何者のつもりだ、と呟き合う。この男が何を言ったところで、何をしたところで、世界の何が変わるのか。どれだけの年月がたとうとも、恥ずべき者は変わらないはずだ。そのような思いが、この周りの人々の心の内にはあったことであろう。
 しかし、変わるはずなどないと思っていた世界は、この一人の男の言葉と、その十字架の出来事によって変えられたのである。十字架の死から甦られたその方の言葉は死に打ち勝つ力を持っていること、人と人との間を引き裂き、傷つけ合う闇の力を打ち負かす力であることを、聖書は語る。それは、決して揺らぐはずなど無いと思っていたその絶望の現実の彼方に、救いと解放の光が待っていることを、私たちに教えている。
 主イエスを前に流された涙は、もはや空しい無言の抵抗には留まらなかった。7:13で息子を亡くしたやもめに「もう泣かなくともよい」と語りかけられた主イエスは、さらに「安心して行きなさい」と語られる。無言のうちに抵抗するしか無かった一人の女性の涙は、主イエスの言葉と共に、時代と場所を越えて、どうすることも出来ずに涙を流すしかない者に、あふれるほどの慰めと励ましを与える言葉として、今ここで生きる私たちのもとに届けられている。

2013年6月15日土曜日

[説教要旨]2013/06/09「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【新約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

 本日の始めの日課である旧約列王記上では、偉大な預言者の一人であるエリヤが、命の危機にあるやもめとその家族に神の言葉を告げ救い出す。それは、私達が危機の中にある時、神の言葉は、私達を死から命へとその歩みをむき直させる力を持つことを物語る。聖書が伝えるそのような神の言葉の力の理解の先に、福音書の主イエスは立っておられる。
 本日の福音書は先週に引き続いてルカによる福音書の7章から取り上げられ、主イエスがガリラヤ地方での様々な驚くべき業を行われたことが報告されている。これらは7:18以下で洗礼者ヨハネへの弟子たちに対する返答「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」に結実してゆく。これはまさに主イエスこそが「来るべき方」であることの宣言に他ならなかった。さらにこれらのことは4:16以下で、故郷ナザレの会堂で読み上げられた、預言書イザヤ書のことば「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と一致することにに気付かされる。つまり今この物語の中で語られているイエスこそが、私達に自由と解放を与え、主の恵みの時を告げる「来るべき方」であることを伝えるのである。
 本日の福音書で主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町で、息子を失って悲嘆の中に沈む一人のやもめに出会う。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれているが、「憐れに思い」とある言葉は「はらわたが突き動かされる」という表現が用いられている。家族を失ってしまった一人の女性の悲しみと嘆きを、主イエスは、はらわたがよじれる思いで分かち合われるのである。主イエスの憐れみとは痛みと悲しみを共に分かち合うことであった。そしてこの憐れむ主の言葉は、棺に横たわる若者へと向けられる。既に死の力に屈した者に言葉をかけるという行為は、人間には太刀打ちできない死の強大な力を思い起こさせる。しかし、救い主である主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という言葉を中心にして、死の運命は逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗うことのできる唯一の力であることを、この聖書の物語は語る。
 今日私達をとりまく世界は、多くの不条理な力によって蹂躙され、多くの弱い者たちの命が、あるいはその心が、生きる力が奪われている。たしかに私達を取り巻くこの世の力はあまりにも強く、希望を見出すことはあまりにも難しいように思われる。けれども主イエスは「もう泣かなくともよい」と私達に語られる。憐れみの主は、私達の涙と不安を共に分かち合い、そして、十字架の死と、その死からの復活によって、その涙と恐れに終わりをもたらし、新しい命の始まりを与えて下さった。たとえどれほど、私達の地上での歩みが闇に閉ざされているように見えたとしても、憐れみの主の言葉「もう泣かなくともよい」が、私達のもとに届けられている限り、私達は新しい命へと向かう道を進むことができるのである。

2013年6月7日金曜日

[説教要旨]20131/06/02「命の言葉を受ける」ルカ7:1-10

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 列王記上 8:22-23、41-43 【新約・ 541頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:1-12 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:1-10 【新約・ 114頁】

本日から聖卓の布の色が緑に代わった。待降節にいたるまで、主イエスの教えを聖書から聞くことを通して、私たちの信仰生活の成長と成熟を求めてゆく季節を、歩んでゆくこととなる。
本日ルカによる福音書から、主イエスのガリラヤ宣教の中からのエピソードとなっている。冒頭には「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とある。「これらの言葉」というのは、直接には6章の終わりまでで語られてきた主イエスの「平地の説教」のことを指す。注意して読むならば、ルカによる福音書「平地の説教」から「百人隊長の僕の癒し」以下の流れは、この後の8章で繰り返される「種まきのたとえ」、「イエスの母、兄弟であること(弟子であるこちの教え)」以下の流れと対の関係があることに気付かされる。つまり、「種まきの譬え」で語られるその「種」とは、それに先立つ主イエスの「平地の説教」であり、そして「種を受け入れるもの」は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8:21)と主イエスが語られた、その一つの例としてこの百人隊長の出来事が挙げられていると考えられる。
新約に登場する百人隊長とは、ローマ軍の制度の中の一身分で、50-100人前後の歩兵の指揮をとった下士官であった。ここで登場する百人隊長というのが、ローマ軍そのものであったのか、あるいはガリラヤの領主であり、ローマ好きで知られたヘロデ・アンティパスがローマ軍を模して導入した軍隊に属するものであったかは明記されていない。いずれにせよ、この人自身はユダヤ人ではなかった。舞台となるカファルナウムという町は、そうしたユダヤ人以外の人々がおおくすむ、大きな商業都市であった。百人隊長は、この雑多で大きな町の中では、それなりの名士であったと思われる。したがって百人隊長という自分の経歴や能力、権力を駆使して、主イエスとの出会いを一刻も早く急かさせることもできたはずなのに、そうすることなく、ただ主イエスの言葉だけが届くことを待ち続けようとする。
しかし結果として、百人隊長は、その言葉を通して主イエスに出会う。癒しの出来事は、どれほどのキャリアと能力を持ってしても乗り越える事の出来ない困難と不安の中にある者が、主イエスの言葉を通じて命の希望に出会う出来事であった。今、こうして現代に生きる私たちの歩みを振り返るならば、百人隊長と同じく、私達は主イエスに直接目の前で出会うことは出来ない。しかし、主イエスの言葉を通して私たちは、主イエスに出会うのである。そこでは私たちの経歴や能力は問題とはならない。ただ主イエスの言葉が私達へと届けられることによって、私達は主イエスと出会い、私達のうちに命が与えられるのである。
私達ははるか遠くに、主イエスと再び出会う実りの時、神の国の実現の時を思い浮かべながら、今の時を歩むしかない。しかし私達には主イエスの言葉が残されている。主イエスの言葉は、私達のうちに新しい命を与え、さらにその命を育み、成長させる力なのである。
これから約半年にわたって続く、聖霊降臨後の季節、主イエスの言葉に聞き従い、命と希望に満たされることを祈りつつ、共に歩んでゆきたい。