2009年1月7日水曜日

[説教要旨]2009/1/4「起きよ、光を放て」

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・ 2頁】

 「三博士」もしくは「三賢王」の訪問として、キリスト教絵画においてもしばしば題材とされる場面が、本日の福音の日課となっている。この箇所と関連して、1/6を教会の伝統では「顕現日」として、キリストがこの世にその姿を公に現されたことを憶えてきた。それはいわばまた別の視点からのクリスマス物語である。

 星の動きによって王の誕生を予期した占星術の学者達は、ヘロデ大王のもとを訪れる。この「ユダヤ人の王」の誕生を巡る、学者達とヘロデの態度は明確な対照をなしている。学者達の報告を聞き、ヘロデは「不安を抱く」。なぜならば、現にユダヤの王であるヘロデにとって、王は自分以外の何者でもなく、それゆえに、新しい王の誕生とは、自らが手にしている権力の座から追われることを意味していたからである。最終的にヘロデは、この不安の原因を抹消しようと、全ての男児を抹殺する。私達が、その態度を冷酷・残忍であるとすることは確かにたやすい。しかし、自分自身が手にしているものを奪われることに不安を覚え、それを解消するために、持てる実力を行使するということは、現代においてはむしろ理に適った事柄として、むしろ評価されているのではないだろうか。その意味では、ヘロデの行為は極めて合理的なのである。しかし、そうした徹底的な実力行使によってヘロデが得たものは更なる不安だけであった。最終的に彼は自分の権力を維持するために、自分の妻子すら手にかけることになった。しかも、そうしたあらゆる努力もむなしく、彼は死を迎え、その死後、その領土は分割されることとなった。

 一方、占星術の学者達は、星の導きによって、幼子を見つける。この星を見たとき、「博士達は喜びにあふれた」と聖書は語る。それは「不安を抱いた」ヘロデと鋭いコントラストを示す。彼らが旅の末にまみえた「王」は、大きな宮殿も、大勢の家来も、持ってはおらず、ただ母マリヤが共にいるだけであった。しかし、その出会いは彼らに大いなる喜びを与えたのであった。占星術の学者達を喜びに満たしたもの、それは王の持つ権力の巨大さでも財産の多さでもなかった。そこにあった事柄、それはただイエス・キリストとの出会いだけであった。その喜びは絶えることなく現代の私達へと受け継がれているのである。

 自らの持てるものを守るいかなる努力も、さらなる不安を拭い去ることは出来ない。ただ、主イエスとの出会いのみが、私達を喜びで満たすのである。

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