2009年12月25日金曜日

[説教要旨]2009/12/13「実現する言葉」

待降節第3主日

初めの日課 サムエル下 7:8-16 【旧約・490頁】
第二の日課 ローマ 16:25-27 【新約・298頁】
福音の日課 ルカ 1:26-38 【新約・100頁】

 主イエスの先駆者として、先週の日課で登場した洗礼者ヨハネは、いわば旧約の歴史における「預言者」であった。預言者とは、神の言葉を受けて、神の言葉の創造の業が、この地上に生きる私たちの間に働くことを示すものであった。
 本日の日課では、イエスの母マリヤが登場する。教会の伝統の中で母マリアの女性性は、イエスの男性性と対比されて、信仰者には二種類の態度があるように受け取られてきた。男性が個を超えたより普遍的な知性を体現し、救済の歴史の中で指導的な責任を与えられる一方で、女性は男性の下におかれ、より個人的、受動的で従属的なものとされてきた。たしかに、イエスの誕生が予告された場面において、マリヤの姿は、神の言葉を身に受け、その言葉が実現することを我が身に引き受ける、受動的な態度を示している。人の目にはあまりに唐突で、なおかつ不可能としか見えない神の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるその態度は、まさに一人の信仰者としてのひな形を私たちに示している。私たちが、神の力を自らのために使うのではなく、私たちが神の言葉によって動かされるとき、救いの歴史は実現していくことを、マリヤの物語は私たちに語っている。
しかし、もう一度主イエスの誕生の物語を読むとき、マリヤの姿は単なる受動性・従属性ではないことに気づかされる。46節から描かれる、マリアの賛歌(Magnifikat)と呼ばれるその言葉は、旧約の預言者の言葉に優るとも劣らずに、この世の力に対して鋭くつきつけられ、神の正義の到来を告げている。その意味で、この世に対してマリヤの示したものは、決して単なる受動性だけではなかった。それはむしろ、預言者らと同じく、この地上において神の創造の力が働くことを、決定的に私たちに示しているのである。マリアの姿は女・男を問わず、すべての信仰者に対して示された一つのひな形である。神の言葉の前に、その言葉に聴き従うという、徹底した受容の姿であり、同時に、この世に対して、神の言葉を示す創造的・能動的な姿である。
 マリアにおいて人と成った神、主イエスは、この地上で虐げられた人々を癒し、励まし、また満たされた。そして、自らもっとも低き十字架の死へと向かい、その死からの復活によって、救いを確かなものにされた。「お言葉どおり、この身になりますように」と語る≈マリヤを、十字架の光の下でみる時、人間を取り巻くあらゆる困難と不可能性の向こう側から、私たちに届けられる神の言葉の力を私たちは見いだすのである。


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