2011年9月13日火曜日

[説教要旨]2011/09/11「生ける神の子」マタイ16:13−20

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 出エジプト 6:2−8 【旧約・101頁】
第二の日課 ローマ 12:1−8 【新約・291頁】
福音の日課 マタイ 16:13−20 【新約・31頁】

 本日の日課の舞台フィリポ・カイサリアは、ギリシアの牧羊神の神殿で知られていたが、ローマ皇帝アウグストゥスからユダヤのヘロデ大王へと譲られた後、ヘロデ大王によって皇帝の像を安置した神殿が建設された。さらにヘロデ大王の子フィリポは、皇帝(カエサル)にちなんで「カイサリア」と改称し、加えて自分自身の名を付した。いわばこの地は、ギリシアの神々への崇拝と、時の支配者たちの権力欲と権謀術数が交錯する都市であった。その場所で、主イエスは弟子たちに、ご自身について「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」問いかけられる。「人の子」とは、本来は一人一人の個人を指す言葉であるが、マタイ福音書においては特に、主イエスが全世界の終末の審判者として、御使いを引き連れ、栄光の座において多いなる力をもって支配する、偉大な存在として描き出される。しかしながら、地上を放浪し、人々から嘲笑され、そして裏切りと挫折の中で苦難の死を迎える主イエスの姿の中には、来るべき栄光は未だ明らかとはなっていない。そのような中で、主イエスは、ご自身に従う弟子たちに向かって問いかける。
  この約2000年前のフィリポ・カイサリアにおいて弟子をとりまく状況は、現代の私たちが生きるこの社会とよく似ている。私たちは、今見えるものの中には来るべき主の栄光を見出すことは出来ずにいる。私たちの目に映るのは、さまざまなこの世界の闇と、この世を支配する力に対抗することの出来ない自らの弱さ、不十分さばかりである。しかし、かつて主イエスに問われたペトロは決然と「あなたはメシア、生ける神の子です」と答える。主イエスがメシアすなわち救い主キリストであり、「生ける神」の子であるということ、それはいかなるこの世の力、権力も死の力ですらも、主イエスは打ち砕かれるということに他ならない。その主イエスがこの地上において、その最も低く、闇の深いところ、すなわち挫折と裏切りの結果としての十字架の死へと向かわれたのは、人間の生きるこの地上のその闇のただ中に踏み込み、命をと希望を打ち立てるために他ならなかった。
  福音書の物語の中に登場するペトロの姿は、思慮浅く、主イエスの言葉を理解できず、信仰薄く、あまつさえ主イエスを捨てることすらしでかす人物でしかない。ペトロの言動をみるならば、この信仰告白がペトロ自身の意志の強さや思惑によるものではないことは明かである。むしろ、主イエスとの出会いこそが、ペトロをして、主イエスへの信仰を告白せしめるのである。
  そして、そのペトロの告白は、やがて主イエスに従うあらゆる者たちの礎の岩となることが語られる。時の権力者たちが造り上げたものは、今はただ過去の遺物としてその姿を留めるのみである。それに対して、ただ主イエスによって動かされただけであるペトロに続く教会は今も生きていることを、現に礼拝に集う私たちは知っている。それはまさに、この地上の世界においては、その一人一人は弱く貧しい存在でしかなった信仰の先達者達が、死から命を生み出される生ける神の子主イエスに出会い続けてきたことの証なのである。先を見通すことが出来ず、不安と失望の中で生きなければならない私たちもまた、主イエスに出会い、新たに生かされ、動かされてゆくのである。

2011年9月10日土曜日

[説教要旨]2011/09/04「わたしを憐れんでください」マタイ15:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 イザヤ 56:1-8 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマ 11:25-36【新約・291頁】
福音の日課 マタイ 15:21-28 【新約・30頁】

 本日の福音書の日課の直前では、食物と清浄についての昔の人の言い伝えに関して、ユダヤの指導者たちが主イエスとその弟子たちに対して非難を向ける様子が描かれている。聖書の預言の実現として、イスラエルに遣わされたはずの主イエスを、当のイスラエルの中枢にある者たちは受け入れることが出来ない、その様子が描かれる一方で、本日の日課では「カナンの女」が登場する。「カナン人」という表現は、この女性がユダヤ人ではないことを示している。
 娘を癒して欲しいというこの女性の願いに対する主イエスの態度は、あまりに素っ気なく、現代の読者である私たちにとっては、驚きと不快すら感じずにはいられない。しかし注意深く読み直すならば、むしろ弟子たちが、この女性に関わることを疎んじて斥けるように主イエスに進言しているのである。それに対して、この女性と主イエスとの対話に集中していくならば、やや異なる印象を受けることとなる。
 この女性は、3度にわたって主イエスを呼び求める。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください。」「主よ、ごもっともです。」その呼びかけの中には、癒しを受ける条件としての、彼女自身の属性や能力に関わる事柄は一つもない。彼女に出来ること、それはただ主イエスを救い主として呼びかけ求め、そしてその言葉に打ち砕かれ、その言葉を肯定し受け止めるしかないのである。
 この女性の呼びかけに対して、主イエスは最初は沈黙し、そして次いでその求めを打ち砕くかのように振る舞われる。それは、まるで私たち自身が、その人生の歩みの中で主を呼び求める時と同じであるように思われる。私たちの叫びと求めに、主は沈黙し答えられないようにしか見えないことがある。そして、主の言葉によって、自分自身が打ち砕かれる時がある。けれども、自らを打ち砕くその主の言葉を受け止める時、そこにこそ信仰と救いがあることを、私たちは知る。このカナンの女性の信仰の本質とは、彼女には何もないこと、何も出来ないこと、ただ主イエスを求めるしかない、ということに他ならなかった。
 ユダヤの指導者達は、自らの正統性と正義を誇るがゆえに、主イエスを受け入れることができない。しかし、そうした人間の価値観に基づく正統性と正義を、メシアである主イエスによって示された神の義、神の憐れみは打ち砕く。
  福音書の物語において主イエスはさらに権威と権力との対立を深め、やがてその十字架の死へとたどり着く。常識的に考えるならば、それはこの世の正義と正統性に楯突くものの末路として当然のものであった。けれども、その敗北と死から主イエスは甦り、その墓を打ち砕かれた。神の言葉が、人の正義と正統性を打ち砕くところ、そこにこそ神の義と憐れみ、そして救いは実現する。
 私たちは、毎週の礼拝の中で「主よ憐れんでください」「キリストよ憐れんでください」と願う。主を求めるしかない私たちのその叫びと求めは、主イエスの十字架を通してのみ聞き届けられるのである。