2009年7月26日日曜日

[説教要旨]2009/7/26「恐れることはない」

聖霊降臨後第8主日

 初めの日課    哀歌    3:22-33     【旧約・1289頁】
 第二の日課    2コリント  8:1-15     【新約・333頁】
 福音の日課    マルコ   5:21-43     【新約・70頁】

 本日の福音書では、二つの奇跡の物語が組み合わされている。この二つを結びつけているのは、「信仰が問われる」という点である。では、そこで試された信仰とはなんなのであろうか。現代人である私たちにとって、信仰の問題とは、「どれだけ信仰的な選択をすることができるか」という、私たちの自由意志の問題として、受け取られることが多い。例えば、「科学」を信じるのか、それとも「奇跡」を信じるのか、というような、あれかこれかを同等の基準で、どちらかより良い選択なのかを選べる中で、より「信仰的」な正解を選ぶことであると、私たちは考えてしまう。しかし、本日の福音書では、むしろ他の選択肢など持ちえない状況において信仰が問題となっている。あえて言うならば、むしろそこで問題となっている選択肢とは、「絶望」か「希望」か、あるいは「信頼」か「敵対」か、いわばそうした私たちの在り様に対する問いかけなのである。
 長年に渡って長血を患った女には、主イエス以外にはもはや生きる希望はのこされていなかった。その意味で、この女性にとって、主イエスの存在とは命そのものであった。その女性に主イエスは告げる。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。そこで起こった奇跡の本質とは、単に「説明できない不思議な事が起こった」ということなのではない。むしろそこで、一人の女性が傍らにおられる主イエスに、揺るぎない希望と信頼を見出したということ、それそのものが奇跡なのである。既に息を引き取った会堂長ヤイロの娘のところに向かう主イエスを、周囲の人々はあざ笑う。しかしその嘲笑にもかかわらず、娘を失った両親にとって、あるいはその娘自身にとっても、希望と信頼は、主イエス以外にはもはや存在し得なかった。その主イエスが少女に「タリタ・クム」、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と語られるとき、2度と立ち上がることのないはずの少女は再び自ら立ち上がる。そこで起こった奇跡の本質とは、やはり単に「不可思議なことが起こった」ということではない。むしろ、唯一残された希望と信頼であった主イエスがその場におられること、そのものであった。
 聖書が語る信仰とは、選択肢などもはや無いような状況の中で、なお主イエスが希望と信頼となる、そのような私たちの在り様なのである。その意味では、そうした信仰の内に私たちが生きることは、もはや私たち自身の意志の力だけでは不可能なことなのである。それが可能となるのは、たとえ周囲の嘲笑の中にあっても、私たちのもとに主イエスがともにおられるからに他ならない。それはもはや一つの奇跡なのである。
十字架の死から甦られた主イエスが、私たちと共におられ、その主イエスが私たちの希望であり信頼となるということ。それがまさに、聖書が私たちに語る奇跡の本質なのである。

2009年7月17日金曜日

[テスト]携帯電話からの閲覧について

RSSフィードリーダーを利用して、試験的に、携帯電話からの閲覧ができるようにしてみました。

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2009年7月8日水曜日

[説教要旨]2009/7/5「主イエスは群衆と共に」

聖霊降臨後第5主日

初めの日課    創世記 3:8-15         【旧約・4頁】
第二の日課    2コリント 5:11-15     【新約・330頁】
福音の日課    マルコ 3:20-30       【新約・66頁】

 主イエスが群衆と共にいることが語られた直後、同時に、主イエスに対する非難について触れられる。主イエスが共におられた人々とは、おそらく2:13-17で既に触れられているように、「徴税人や罪人」であり、彼らと共に食卓を囲んでいた。当時の社会における「敬虔さ」や「信心深さ」からするならば、そうした人々と食卓を囲むこと、それは恥ずべき事であり、非常識な事柄であった。だからこそ、主イエスは、「気が変になっている」という非難を受けることとなり、主イエスの血縁者らは、その身柄を取り押さえるためにその場へと向かうこととなった。さらに非難者の象徴として、都からやってきた宗教的権威が登場する。彼らは、主イエスをして「悪霊にとりつかれている」と主張する。それに対して、主イエスの第一の反論は、「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」というものであった。
 「都からの宗教的権威者達」は、日常生活の決まり事を守ることが出来ないがゆえに、汚らわしいとされていた「徴税人や罪人」と食卓を共にしなかった。それゆえに、まさに「正しい」人たちであり、真面目で敬虔な人たちであった。彼らの主張に間違ったところはなく、その為すところはまさに清く正しく、神への奉仕を厭うことはなかったと言える。しかし、そうした「正しい」言動が生み出したものが何であったかを歴史は語っている。「正しい」主張は、人々の間に分裂を起こさせ、戦争を引き起こし、大量の犠牲者と共にエルサレムを戦火のうちに崩壊させてしまった。一方で、決めたことを守れないような、だらしなく、汚らわしいと蔑まれた人々と共におられた主イエスの作られた共同体は、様々な試練に何度も出会いながらもそれらを乗り越えて、現在の私たちへと続いているのである。
 1:9-11では、主イエスの洗礼にあたって、聖霊が鳩のように下り、天から「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえたことが記されている。その主イエスの地上での歩み、それは、まさに蔑まれた群衆と共におられることによって神の国の到来を宣べ伝えるものであった。そして、非難の末路としての十字架の死と、その死からの復活によって、その神の国への道を私たちに開かれたのであった。
実に、人々を分裂させ、そして自滅へと導くもの、それは決して、決まりをまもれないものや、汚らわしいもの、蔑まれているものと交わることによってではない。むしろ自らこそが正しいと主張することこそが、その原因となのである。「正しい」者は主イエスを必要としないからである。逆に、この世において非難され排除される者こそ、主イエスを求め、主イエスと共にあり、分裂と危機とを乗り越える力を与えられるのである。

2009年7月2日木曜日

[説教要旨]2009/6/28「命を救う神の子」

聖霊降臨後第4主日

初めの日課    イザヤ58:11-14       【旧約・1157頁】
第二の日課    2コリント 5:1-10      【新約・330頁】
福音の日課    マルコ3:1-12         【新約・65頁】

 先週につづいて、安息日を巡る論争が展開される。そこでは同時に、主イエスをめぐって二つの立場の人間が描き出されている。一方の人間は、安息日の規定ゆえに、主イエスの業に敵対する。そして、もう一方の人間は、主イエスによって癒される。
敵対者たちにとって、このイエスという男は、たとえどのような力ある業を行おうとも、赦しがたい存在であった。主イエスを受け入れることができない者は、たとえその癒しの業を目の前にしたとしても、その考えを変えることはなく、むしろ、主イエスの命を狙おうとするだけであった。すなわち、敵対者たちにとって、主イエスの存在よりも、自分たちの生活を秩序付ける安息日の規定の方が重要であった。そして、主イエスの存在は、その秩序を乱すものでしかなかった。安息日規定のような、自分達の生活を支える秩序を破るということは、自分達自身の存在を無意味なものとするということでもあったそうであるからこそ、。敵対者たちにとっては、そのような秩序を乱す存在は、何が何でも、たとえ暴力に訴えてでも排しなければならないような、決定的なものであった。片手の不自由な人にとっても、主イエスとの出会いは、決定的な意味をもっていた。しかし、それは敵対者たちのような、主イエスを排除しなければならない、というものではなかった。むしろ、その出会いを通して、この人の生き方はおそらく大きく変化することとなった。この人は名もなき一人でしかなかったが、主イエスによって、人々の真ん中へと立たせられ、そして、主イエスの命令のとおり、手を動かすことができたのであった。この人にとって、主イエスとの出会いは、癒しと救いの出来事にほかならなかった。そして、この人は、ただ主イエスに命じられるままに動いたにすぎなかった。
 神の創造の業を人が憶えるために、安息日規定は作られた。しかし、主イエスの業は、この世界に救いを造り出す、神の国における創造の業そのものであった。まさにその意味で、主イエスの存在は、安息日の規定を凌駕している。だからこそ、主イエスがおられるということ、それはそこに、神の国が立ち現われるということに他ならない。そして、神の国を見、そしてその力に触れることができたのは、自分たちの秩序を守りぬこうとした人々なのではなく、ただ主イエスの命令に従った人であった。
 主イエスを通して現れる、神の国の救いの業、それは私たちが守ろうとする、私たち自身の価値を遥かに優るものである。だから時として、それは私達自身の価値観を打ち砕くことすらある。ただ主イエスの言葉に聞くものだけが、その神の国の救いを受け入れることができるのである。