2013年4月27日土曜日

[説教要旨]2013/4/14「キリストを知る」ヨハネ21:1-19

復活節第3主日

初めの日課 使徒言行録 9:1-6 【旧約・ 229頁】
第二の日課 黙示録 5:11-14 【新約・ 458頁】
福音の日課 ヨハネ 21:1-19 【新約・ 211頁】

 復活祭の後の2番目の主日には詩編33編5節「地は主の慈しみに満ちている」からとられた、「主の憐み」という名前が付けられている。それは、主イエスが死から復活されたことは主なる神の慈しみと憐みがこの地に満ち溢れる出来事であるということ、そしてそれは今、私達が生きているこの時間は、漫然とただ昨日からの繰り返し、同じ延長の上にある時間なのではない、私達は主の慈しみに満たされた日を生きているのだということを伝えている。
 ヨハネ福音書では、先週の日課である20章の終わりで、一旦ここで締め括られていたのではないか、とも考えられてきた。おそらく福音書の著者は、一旦自らの福音書を記し終えた後に、なお書き記したいエピソードを聞き及んだのではないだろうか。そしてそれは、主イエスの復活の顕現の物語であった。
 既に20章において、主イエスが復活の姿を現されたことが書かれているが、本日の日課では、復活の主イエスは、弟子たちの日常の中でご自身を顕される。しかし、彼らは最初は、それが主イエスであることが分からなかった。彼らにしてみれば、復活の主が、自分達の日常の中にその姿を現されることなど思いもよらないことであった。しかし、鍵をかけた部屋のただ中に現れたのと同じように、主イエスは彼らの日常の中にその姿を現される。そして弟子たちは、あらゆる努力が何の実りももたらさなかったはずの自分達を満ちたらせる、その言葉に触れた時、そこに主イエスがおられることに気付くのだった。
 そして主イエスは弟子たちを食卓へと招かれる。食卓の交わり、それは命の源を分かち合い、愛を分かち合う場に他ならない。主イエスはご自身の復活の命、そしてご自身の愛を分かち合うために、弟子たちを食卓へと招かれるのだった。
 この食卓の交わりの中での復活の主イエスの出会いが、その言葉が、食卓における命と愛の分かち合いが、かつて主イエスを否認したペトロを変えることとなる。復活の主イエスと出会い、ペトロは「使命」を与えられる。それはいわば、「新たな生」を主イエスから与えられたということでもあった。それは主イエスの復活を通して私たちに示された、神の新しい創造の業が彼のうちに働いたということであった。
 私たちもまた日常の中で、自分の弱さ、その働きの空しさに失望し、倒れ伏すことがある。そしてもし私たちが自分の力だけで立ち上がり、自分のためだけに生きようとするならば、私たちはただ空しさだけをくりかえし味わい、再び歩み出す力を得ることはできない。しかし、復活の主イエスは、そのような私たちの全てを知って、ご自身との信頼の内に生きることを呼び掛けてくださる。この復活の主イエスの言葉に出会うとき、私達のうちに神の新しい創造の業が働く。そしてその時、私たちは新しい命に生きる自分にまた出会うことが出来るのである。そしてその創造の働きは、まさに私達が古い、自分のために生きる自分が、他者のためにその命を紡ぎだすものとして変えられる出来事なのである。
 だからこそ、私たちは様々な問題に取り囲まれていたとしても、主イエスの復活を憶えるこの季節、古いものは過ぎ去り、今やすべては新しいものとされた、ということ、つまり、主なる神の新しい創造の働きの中に、その慈しみのうちに私達が生きていること私達は知るのである。

2013年4月12日金曜日

[説教要旨]2013/04/07「信じて命を受けるために」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日

初めの日課 使徒言行録 5:27-32 【新約・ 222頁】
第二の日課 ヨハネの黙示録 1:4-8 【新約・ 452頁】
福音の日課 ヨハネ 20:19-31 【新約・ 210頁】

 本日の福音書では、ヨハネの福音書の目的を、弟子たちとの間で起こった事柄を通して示している。すなわち、恐れと不安と疑いの中で心を閉ざす者が、復活の主イエスに出会いによって、新しい命に生きる喜びを与えられるという出来事である。
 主イエスの十字架の死によって、弟子達は失意と恐怖の中に突き落とされた。彼らは逮捕を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていたが、その時も、互いの密告と裏切りを疑い、不信に支配されていたであろう。その彼らの真ん中にキリストは突然立ち現れ「あなた方に平和があるように」と呼び掛ける。それは、弟子達に対する赦しと和解の言葉であり、祝福と希望の言葉であった。その時まさに弟子たちは、主イエスの復活の命がもたらされる真の平和を分かち合ったのだった。
 しかしトマスはこの出来事の際にはその場に居合わせなかった。トマスは仲間の弟子達が告げる主イエスの復活の知らせを受け入れられない。その言葉は、今の自分の状況が変わることなど自分には信じられない、自分が誰かと平和を分かち合うことなどありえない、そのように訴えているようにも響く。ところがそのトマスの前に主は現れ、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。この言葉は、ただトマスにだけ語られたのではなく、私たちに対しても向けられている。この地上で生きる私たちが、主イエスのしるしを「見なければ信じられない」と主張すること、それは、私達が自分自身が立たされたその現実に絶望し、落胆し、しかしそれを変えることができないでいる、その嘆きの裏返しであると言っても良いだろう。今の自分の置かれたこの閉塞した現実を変える力などどこにもあり得るはずがない。あるならば見せてみよ、そのような心の闇からの叫びを私達の誰もが抱えている。しかしそのような私たちのもとへ主イエスは訪れられる。さらに本日の福音書で復活の主イエスに出会った弟子達は、主イエスの「息」を吹きかけられる。それは、新たな命を与えられたことを意味する。恐れによって閉じこもっていた弟子達は、新しい「命」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活の希望とよろこびを宣べ伝えるものへと変えられる。
伝統的なキリスト教の暦では、復活祭に続く6回の主日には聖書に基づく主題がつけられている。復活祭後の最初の主日である本日は1ペトロ2:2から「新しく生まれた乳飲み子のように」と名づけられている。これは、古代の教会では多くの受洗者にとってこの日が受洗後最初の主日礼拝となったことに由来する。洗礼を通して与えられた新しい命を憶えつつ、その命は私達の中で育ち続けていることを信仰の先達者達は思い起こした。主イエスの復活という出来事を通して、教会に集うすべての者の命がまさに「新しく生まれた乳飲み子」のようにされているということ、それは成長する力に今も充ち満ちているということを、この主題は思い起こさせる。私達が信仰を与えられキリスト者となるという出来事、それは私達自身が、十字架における主イエスの死と結びつくとともに、復活の命と結びつけられた出来事、すなわち私達のうちに新しい命が生み出された出来事である。その出来事は、私達の内であふれ出る命として、日々成長してゆく。それは、今も、そしてこれからも、私達の地上での歩みを支える力なのである。

2013年4月6日土曜日

[説教要旨]2013/03/31「あの方はここにはおられない」ルカ24:1-12

主の復活(復活祭)

初めの日課 イザヤ 65:17-25 【旧約・ 1168頁】
第二の日課 2徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 ルカ 24:1-12 【新約・159頁】

 復活祭を迎えて教会は、キリストはこの世に来られて死を通って命へと到達されたこと、そしてまたキリスト者自身もまた主イエスが開かれた道を辿り、新しい永遠の命へと到ることを思い起こす。しかし主イエスの十字架と復活は決して受け入れやすい事柄ではない。私たちの生きるこの地上の価値観からするならばそれは馬鹿馬鹿しい話でしかない。けれどももし仮に、それが単なる世迷い言であったとしたなら、十字架と復活の出来事が人々の魂を支えてきたその事実をどのように説明することができるのだろうか。
 金曜の午後3時頃、十字架で主イエスは息絶えた。翌日は安息日であったため、十分な葬りの準備をすることも出来ないまま、日暮れまでにその亡骸は墓穴に葬られることとなった。そして、空白の土曜日が過ぎ、日曜の朝に主イエスの弟子の女性たちが、果たせなかった葬りのための準備をして、主イエスの墓へ向かう。しかしたどり着いた先で彼女らは空の墓を発見し、輝く衣を着た二人の人物から「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」という言葉を聞く。驚いて残りの弟子たちの元へと戻って語ったこの女性達の証言は、主イエスの復活の最初の証言となった。しかし、ルカ23章では「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」とあるように、この女性たちはまず主イエスの十字架の死を証言する者たちに他ならなかった。ところが同時に彼女達は「主イエスは墓におられない。主イエスは生きておられる」ことを証言する者たちともなった。そこには、二つの相容れない現実がぶつかり合っている。主イエスは死んで墓に葬られたという現実と、主イエスは生きておられるという現実である。私たちにとっては、この二つの現実は並び立つことなどあり得ない。しかしこの並び立つはずのない現実を、二人の天の使いは「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語って結びつける。
 女性たちの墓は空であったという証言、それは、意図していた葬りの準備が無意味なものになってしまったこと、あるいは、あるはずのものが失われてしまったということであり、悲しみ、嘆くべきことでなければならないはずである。自らの為す事が無意味となり、あるはずのものが失われることが、喜びと希望の徴となるということは、私たちの価値間、論理では並び立つはずのない事柄だからである。しかし、「主イエスは復活された」というメッセージは、並び立つはずのないものを結びつける。死から命へと私たちを導くそのメッセージを聴くとき、無意味さの中に喜びを、失うことの中に希望を、悲しみの中に慰めを、私たちは見出す。
 本日の福音書箇所においては、主イエスについてはその不在だけが語られる。しかし、それにもかかわらず「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」というメッセージは、私たちの価値観と論理を根底から逆転させる。主の復活は、死へと向かう私たちを命へと導く逆転の出来事であり、私たちのあらゆる悲しみが根底から喜びへと変えられる出来事に他ならない。主イエスの十字架を通して、死の闇の向こう側から、復活の光は私たちにとどけられている。主の復活の喜びを旨に抱きつつ、この日々を歩んでゆきたい。

2013年4月2日火曜日

キャンパス・ミッション2013のご案内[4/21,4/26]

ルーテル学院大学の新年度を迎え、キャンパス・ミッション礼拝として4/21(日)10:30から の主日礼拝では河田優チャプレンに説教をご担当頂きます。また礼拝の中では、ルーテル学院大学聖歌隊による賛美が行われます。礼拝後には昼食会も行われます。
 また4/26(金)13-17時には、三鷹教会集会所のオープンハウスが行われます。また同日18:15より夕礼拝(説教:李明生師)が行われます。
 皆様是非ご予定下さい。
4/21 (日)10:30- キャンパス・ミッション礼拝
 メッセージ 聞こえてほしい あなたにも」河田優牧師(ルーテル学院大学チャプレン)
 ルーテル学院大学聖歌隊による讃美
 礼拝後には昼食会も行われます。
4/26 (金) 13-17時三鷹教会集会所オープンハウス
       18:15- 夕礼拝