2009年3月31日火曜日

2009/4/5 アフタヌーンコンサートのお知らせ

日本福音ルーテル三鷹教会

アフタヌーンコンサート ~オルガンと聖書朗読のひととき~

2009年4月5日(日) 午後1時~ ルーテル学院大学チャペルにて(入場無料)

演奏予定:
詩篇:36 スウェーリンク
詩篇:24 A.V.ノールト
詩篇:137 バビロン川のほとり J.S.バッハ
おお人よ 汝の罪の大いなるを嘆け J.S.バッハ
幻想曲ト長調  “ピエスドルグ”  BWV572 J.S.バッハ             他

[出演]

■ オルガン : 苅谷 和子

国立音楽大学器楽学科ピアノ専攻卒業、同大学大学院オルガン科修了。ピアノを池澤幹夫、オルガンを吉田 實、小林英之の各氏に師事。東京教会、田園調布、名古屋めぐみ、宇部、札幌、みのり台等 各ルーテル教会の他、白百合女子大にてオルガンコンサートを行う。また宗教曲のオルガンパート、合唱伴奏などを行う。
日本オルガ二スト協会会員。日本福音ルーテル武蔵野教会オルガ二スト。


■ 聖書朗読 : 横澤 多栄子

日本福音ルーテル三鷹教会会員・聖書朗読者1993 年より、女優・白坂道子に師事して、朗読を学ぶ。三鷹市立図書館朗読サービス員・盲人伝道協議会録音ライブラリー所属 1977 年より家庭文庫を開くかたわら、おはなしグループ「わたげの会」のメンバーとして、図書館・学校等で朗読やおはなしをしている。

 [問い合わせ]

日本福音ルーテル三鷹教会

181-0015 三鷹市大沢3-10-20 ルーテル学院大学内

[Tel.&Fax] 0422-33-1122


2009年3月5日木曜日

2009/3/15 合同礼拝のお知らせ

2009/3/15(日)の主日礼拝は、午前10:55よりルーテル学院大学105教室にて日本福音ルーテル三鷹教会と、ウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝として守ります。
礼拝の中で、キャロル・サックさんによるハープ演奏と祈りの時がもたれます。
また礼拝後、両教会でお茶の時間を共にします。
皆様ぜひご出席ください。





2009/3/22 三鷹教会オープンフォーラムのお知らせ

三鷹教会オープンフォーラムのお知らせ

エジプトの王子として育ったモーゼが、イスラエルの民を脱出させるまでの物語を、子どもも楽しめる映像と共に学びます。

日時  3月22日(日曜日)午後一時から
場所 ルーテル学院大学 ブラウンホール152教室

入場無料です。

皆さんお誘い合わせで是非お越し下さい。

[説教要旨]2009/3/1「荒れ野に送り出される」

四旬節第1主日

初めの日課    創世記 9:8-17       【旧約・11頁】
第二の日課    1ペトロ 3:18-22     【新約・432頁】
福音の日課    マルコ 1:12-13      【新約・61頁】

 本日の聖書箇所に先立つ4節では、洗礼者ヨハネが荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。そこでは「荒れ野」とは、人々が神に立ち帰るきっかけを与えられる場所として捉えられている。一方で、洗礼を受けた主イエスが霊によって送り出された「荒れ野」とは、サタンが支配する試練の場であった。すなわち「荒れ野」とは、神へと向かう新しい命と生き方が示される希望の場所でありながら、同時に、闇と悪の力の支配する場所、いわば光と闇とが相半ばする場所なのである。主イエスは、その荒れ野へと霊によって導かれる。

 闇の支配と光への希望が相半ばする場所に、主イエスは40日間留まられる。「40」という数字と、「荒れ野」という場所は、40年間荒れ野を彷徨したイスラエルの民の歴史を思い起こさせる。40年の荒れ野での彷徨は、イスラエルの民が真の意味で神に従うものとなるために必要な試練の時であった。40年という数字は人間にとって決して短い年月ではない。それ程の年月が荒れ野で過ごされたとするならば、普通であれば私たちはその無為な時間のあまりの長さに打ちのめされてしまうであろう。たしかに、個人の生活の尺度でみるならば、そこに意味を見出すことは難しい。しかし、個人に留まらない、人類全体の救済という視点で見るならば、その40年は動かしがたい意義を有している。主イエスの荒れ野での40日間が、福音書の冒頭で、洗礼の出来事と宣教開始という極めて重要な事柄の間で描かれているということは、それがやはり、救済の歴史の中で欠くべからざる出来事であるということを如実に示している。天使が仕え、野獣が主イエスを傷つけることなく、ともにいるという様子は、神の国が既にそこに実現しつつあるということ、つまり荒れ野において主イエスはすでにサタンに打ち勝たれたということを物語っている。今や荒れ野は、光が勝利した場所、神の救いの希望が始まる場所となった。だからこそ、主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られるのである。闇の支配する場所は、今や主イエスによって救いの始まる場所へと変えられたのである。

 私たちは、イスラエルの民が荒れ野を彷徨した時と同じように、人生の中で、無為としか思えないような不毛な「荒れ野の時」を過ごさなくてはならない時がある。しかし、その荒れ野は主イエスによって、既に「希望の生まれる場」へと変えられているのである。イースターまでの四旬(40日間)を過ごす季節を教会の暦は迎えている。それは私たちが、私たち自身の荒れ野において、主イエスと出会い、その希望を見出す時でもある。


[説教要旨]2009/2/15「罪人を招くため」

顕現節第7主日

初めの日課    イザヤ 44:21-22    【旧約・ 1134頁】
第二の日課    2コリント 1:18-22    【新約・ 326頁】
福音の日課    マルコ 2:13-17      【新約・ 64頁】

 神の国の福音を宣べ伝える主イエスの周りで、主イエスに対する疑念と対立が生じてくる。それは、主イエスの福音を受け取ったのは誰であったかということと対を形作っている。自らを正しい存在であると考える者たちは主イエスを疑い、反感を憶える。しかし、「罪」とされた者たちは、主イエスの呼びかけに応えて、主イエスに従ってゆく。

 主イエスに従うと言うこと。それは私達の意志を超えた力が私達に働くことである。主イエスの呼びかけこそが、私達をして主イエスに従わしめる。主イエスの呼びかけがあるからこそ、私達は主イエスの後を追うことができる。しかし、その主イエスの声を聞くことができるのは、自らを掟と規範の内側に留まる、正しい存在としている者たちではなかった。

 主イエスは、異民族の手先として蔑まれた税吏、あるいは職業上、掟に定められた清浄さを維持することが出来ない人々らと共に食事をする。罪と侮蔑にまみれた者との食卓の交わり、それはいわば罪と侮蔑によって「汚染」されるものとして、あまりにも非常識な振る舞いとして、「正しい」もの達の目には映った。それはいわば、「正しい者」たちが立っている日常生活の基盤を無意味なものであるとする行為であった。それゆえに「正しい者」たちは、主イエスにその真意を問わずにはいあっれなかった。

 しかし、主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられる。「罪人」とを、現代的な意味で「犯罪者」と捉えることはあまり正確ではない。むしろ「恥に耐えねばならない者」「心に悲しみを抱えている者」と言う方が適切であろう。その意味では「正しい者」とは「自分を清潔で健康であると考えている者」ということが出来る。しかし「清潔で健康である」ということは、実は、ただ苦しむ者との関わりを恐れているに過ぎない。苦しむ者と関わることが恐ろしいと感じるからこそ、「健康で清潔な」場所に閉じこもるのである。その一方で、「罪」とされる者、弱く、苦しみを抱えている者こそが、神の国の福音を告げる、主イエスの招きを聞き、立ってイエスの後に従って歩むことが出来る。自らの弱さと苦しみをこの方が共に担って下さることを知ることが出来るのである。それゆえに、罪人を招くイエスと出会うとき、私達は自らの弱さと苦しみから逃げ、その弱さと苦しみを押しつけ合うことから解放されるのである。


[説教要旨]2009/2/8「あなたの罪は赦される」

顕現節第6主日

初めの日課    ミカ 7:14-20      【旧約・ 1458頁】
第二の日課    1コリント 9:24-27    【新約・ 311頁】
福音の日課    マルコ 2:1-12      【新約・ 63頁】

 罪とは何かということは、キリスト教に留まらず、多くの文化にとって大きな問題である。罪とは何かという問いは、その社会の枠組みを形作っている。罪を犯した者、それはその社会の内側には居られない者、ということだからである。しかし、それは往々にして逆にもあてはめられる。ある社会において、排除されている者は、無条件で「罪の存在」とされるのである。人間は、何かを「罪」として、自分の世界から排除することによって、自らの属する領域を清く保とうとする。弱い者や数少ない者は、しばしばこうした排除の対象とされ、この排除の働きによって、人は自らが健康で清潔であることを確認しようとする。

 聖書の物語の時代、病気によって体が動かないこと、それは社会から排除されることを意味した。そして、その人は罪の存在であるとみなされた。人はそのことを通して、病気ではない自分が社会の中に留まる「清く正しいもの」であることを確認しようとしたのである。社会から排除されているこの病人は、主イエスがおられる家にもまた、入ることができなかった。しかしこの病人は「屋根をはがして」つり下ろされる。それはいわば、罪ある外側の存在が、清いとされる内側に無理矢理に入り込んでくる出来事であった。それは、清い内側にいる者たちにとっては、「いかにも罪の存在がやりそうな愚かな行為」であり、本来、断固として拒否されなければならないような振る舞いであった。しかし、主イエスは「あなたの罪は赦される」と語られる。「罪が赦される」ということ、それはこの人が排除される理由がなくなってしまうということであり、同時に、社会の内側を清く正しく保つことを無意味であるということと同じであった。

 主イエスを批判する人々は、主イエスは「神を冒瀆している」と考える。彼らにとって主イエスの行いは、自分たちを清く正しくしてくださっている神の業に真っ向から反対するものであった。しかし主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と語られる。主イエスに命じられた病人の男は、自らの足で立ち起き上がって家を出てゆく。それは、「罪の存在」としてその命に価値を見出されていなかった男が再び一人の人間として生きることができた瞬間であった。主イエスが父なる神から与えられた権威、それは内と外とを隔てる壁を取り壊し、人に生きる喜びを与えられるものであった。