2009年12月1日火曜日

[説教要旨]2009/11/29 「主の名によって」

待降節第一主日
初めの日課​ エレミヤ 33:14-16【旧約・1241頁】
第二の日課 ​2テサロニケ 3:6-13​【新約・382頁】
福音の日課 ​ルカ 19:28-40​【新約・147頁】

「待降節」という日本語は、文字通りには「(わたしたちが)降誕を待つ季節」と言う意味であるが、伝統的には、「来る・到来する」を意味するラテン語advenioからアドベントと呼ばれる。これはむしろ「主キリストが、私達のもとへとやって来られる」ことを意味していた。すなわち、主イエスの到来をもって、私たちの古い1年は、新しい1年へと移り変わることが出来るのである。その意味で、主イエスが私達のもとに来られることによって、私たちは初めて、古い時・古い思い・古い生き方から、新しい時を新しい思いで生きることが出来るようになるのである。
本日の聖書では、主イエスが城門を通って、都エルサレムへと到来されたことが語られる。エルサレムへの主イエスの到来の様子は、この後に続く主イエスの運命を暗示させている。群衆が期待と興味を持って取り巻く中、弟子たちは主イエスの都入りを歓喜する。一方で、宗教的権威を持つ者たちは対立的な態度を取る。実際のところ、物語を読み進めると、エルサレム入りした主イエスを取り巻く状況は、決して平穏なものではない。対立はますます厳しくなり、最終的に主イエスは十字架につけられ殺されることになる。その意味では、このエルサレムへの到着は、主イエスの挫折の物語の幕開けであった。そのようにして見るならば、旧約で王を迎える時のように、上着を敷いて迎えているにもかかわらず、立派な軍馬ではなく小さなロバに乗って入城するというのは、いかにも不釣り合いである。そのようなものしか準備できなかったとするならば、この後に続く挫折も当然とすら思わされる。
しかし、それはむしろ神の救いの計画であったことを、聖書は私達に語る。預言書はむしろ、真の平和の王は、軍馬に乗った高ぶるものではなく、子ロバに乗ってこのエルサレムの門をくぐると示している。まさに低みへと下る道へと到るために、主イエスはこの地上に到来されたのであった。そして、その十字架の死からの復活によって、神の救いの道を明らかにされたのである。主の名によって来られた方、イエス・キリストは、人間の目には決して十分ではないようにしか映らない、挫折の道、力足らざる道を歩むことで、この世に救いをもたらされたのである。たとえ私達がこの地上でなしうるあらゆる働きがどれほど力足らざるものであり、挫折に終わるようなものであると思えたとしても、主なる神の示される道を歩む時、そこには神による完成の時があり、また思いを超えた大いなる喜びがあることを、主イエスの歩みは私達に語るのである。

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