2010年11月25日木曜日

やかまし村のクリスマス[12/12]

やかまし村のクリスマス
にんぎょうげきとおはなしの会


おともだちもいっしょに。ご家族でもどなたでもどうぞ!お待ちしています

と き 2010ねん12がつ12にち(にち) ごご2じ~ (無料・ただです)
ところ ルーテルがくいんだいがくチャペル

 *クリスマスのおはなし(石居牧師)
 *にんぎょうげき(バリちゃんず)
 *おはなし(川田洋子・横澤多栄子)
 *クリスマスのうた(河田晶子)

主催:日本福音ルーテル三鷹教会
    子ども文庫やかまし村

ルーテル学院大学「キャンパス・ウィンター・フェスティバル」のご案内[11/26]

とき 2010年11月26日 · 18:30 - 20:00
場所 ルーテル学院大学チャペル


ルーテル学院大学で活動している音楽団体が一堂に会し、一年の恵に感謝を込めて、演奏会を開きます。教会の暦では主の降誕を待ち望む待降節に入ります。そのことを憶えて、クリスマスツリー点灯式も行われます。音楽と光に彩られた素敵な夜をお楽しみ下さい。

出演
 聖歌隊/Laus Angelica(ハンドベル)/チャペルオルガニスト/楽友会/弦楽アンサンブル ナージャ/北川家/Evening Prayers ほか


また、東教区Campus Club「座」として、演奏会前の16時より三鷹教会集会所でコーヒーアワーも行われます。

どなたでもご参加頂けます。皆様のお越しをお待ちしています!(いずれも入場無料です)

[説教要旨]2010/11/21「いのちへの祝福」ルカ21:5-19

聖霊降臨後最終主日・成長感謝礼拝

福音の日課 ルカ 21:5-19 【新約・151頁】

本日は教会の暦の最後の主日となっている。暦の終わりにあたって、聖書は「世の終わり」について思い起こさせる箇所が選ばれている。「世の終わり」というこ とを思うとき、私たちはどうしようもない不安に襲われる。自分の生きている世界が崩壊し、滅びてしまうということは、確かにとてつもなく恐ろしいことである。しかも、そのことに対して、人間の力では全く手の打ちようがないということは、絶望にすらとらわれそうになる。しかし、不安や絶望は、決して私たちにとって、「世の終わり」においてのみ待ち受けているものではない。むしろそれは、私たちの日常の中で、絶えず私たちに襲い来る出来事でもある。その意味で、「世の終わり」に対する不安と絶望は、実は、私たち自身の世界の内側にある恐れでもある。
 しかし、その恐れは、主イエスの十字架と復活によって、決して最後のものでないことが明かとされた。十字架は、この世のあらゆる力は、私たちを滅ぼすことができないことの「しるし」なのである。この地上に作られた命は全て、神によって「良し」とされたものであった(創世記1章)。 神は、その命を祝福し、救うために、主イエスを、そしてその十字架と復活の出来事を私たちに与えられたのである。
 とはいえ私たちは一人では、この地上の恐れと不安に立ち向かうことは容易ではない。十字架に頼りつつ、また信仰の仲間と共にあゆむ時、「命を勝ち取る」ができるのである。

2010年11月17日水曜日

[説教要旨]2010/11/14「死に打ち勝つ言葉」ヨハネ福16:25-33

三鷹教会召天者記念礼拝

初めの日課 ヨナ 2:1-10 【旧約・1446頁】
第二の日課 1コリント 15:50-58 【新約・322頁】
福音の日課 ヨハネ福 16:25-33 【新約・201頁】

 本日の福音書は、ヨハネ福音書の「告別説教」と呼ばれる、主イエスによる大変長いメッセージの一部となっている。ヨハネ福音書の著者は、神の国とこの地上との別離を誰よりも強く意識していたと言える。そうであるからこそ、この地上に遺される弟子達に向かって主イエスが語られた言葉に集中し、それを人々と分かち合わずにはいられなかったのであろう。それは物語の中では直接には弟子達に語られたものであるかもしれないが、むしろ、聖書を読むであろう全ての読者に向かって伝えられているのである。愛するもの、信頼すべきもの、頼るべきものを失った時、人はどうすれば良いのか。別離と共に襲い来る悔悟と悲嘆の思いに、そして同時に迫り来るこの世の荒波に、自分は独りで立ち向かってゆけるのか。それは、古今を問わず、私たち人間にとって大きな問題である。とりわけ死による別れは、私たちの全く手の届かない領域を、私たちにまざまざと見せつける。この世に遺された私たちは、死を前にしてただ絶望と痛みとにただおびえることしか出来ないように思われるのである。
 しかし、ヨハネ福音書が伝える主イエスの別れのメッセージは、地上に遺されたもの達はただ悲しみにくれるだけではないことを示している。本日の箇所では特に、二つの「時」が、主イエスの言葉の背後において語られている。一つは主イエスがこの地上において現に歩まれている時である。そしてもう一つの時とは、主イエスの十字架と復活の出来事が起こった後の時である。直前の22節では「『今は』あなたがたも、悲しんでいる」と語られ、その直後で「あなたがたは心から喜ぶことになる」と続けている。悲しみに満ちた「今」が、喜びに満たされるようになる。そしてその間にあるものとは、主イエスとの出会いに他ならなかった。この世の苦難の中にある時、人はこの二つの「時」は、決して重なることのない時であるかのように思う。たしかにこの世において、私たちは多くの「なぜこのような出来事が起こるのか」「なぜこのような悲しみがあるのか」といった疑問を前にして、その答えを見つけあぐねている。それはまるで「たとえ」によって謎かけを投げかけられたものの、その答えを見いだすことが出来ないままでいるのと似ていると言える。
 本日の福音書の末尾で主イエスは語られる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」十字架の死から復活された主イエスの言葉は、この世において、死、別離、苦難、悲嘆という様々な力によって責め苛まれている私たちが「喜び」に心が満たされる時、地上に遺された私たちに、それは主イエスの十字架と復活を通して、命の意味がはっきりと示される時をもたらされるのである。

2010年11月9日火曜日

三鷹教会成長感謝礼拝[11/21]

11/21()は成長感謝礼拝として、主日礼拝の中で子ども祝福式を行います。
教会から子ども達にプレゼントもあります。
是非ご家族で礼拝にお越し下さい。

三鷹教会召天者記念礼拝[11/14]

今年度の三鷹教会召天者記念礼拝は11/14()に行われます(聖餐式あり)。
礼拝の中で三鷹教会に関係する
召天者の方がたを祈りに憶えます。
召天者の方のお写真を正面に並べることを希望される方は、額装の上、礼拝前に聖壇前に設置いただけますようお願いいたします。

2010年11月3日水曜日

JELC三鷹教会・ウェスト東京ユニオンチャーチ合同礼拝のご案内

11/7(日)は、普段ルーテル学院大学の中でそれぞれに礼拝を守っている、日本福音ルーテル三鷹教会とウェスト東京ユニオンチャーチ(WTUC)との合同礼拝として、英語と日本語を交えて礼拝がが行われます。

メッセージ「神と共に歩む Walking with God」キャロル・サック宣教師


10時半よりチャペルにて

[説教要旨]2010/10/31「本当の自由」ヨハネ福8:31-36

宗教改革記念日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ福 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日の福音書箇所で主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られる。しかし普通の価値観で考えるならば「弟子である」ことは、不自由な状態であり、不完全な状態であることを意味している。それなのになぜ弟子であることが「自由」であるのだろうか。直前の箇所では「多くの人々がイエスを信じた」と書かれており、それに続いて「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とある。「信じた」という過去の出来事として表されているということは、これらの人々が今なお迷いと試みの中にあることを暗示している。なぜならば「信じる」という生き方は、人が与えられた救いを受け取り、古いあり方を放棄することだからである。すなわちそれは、自分自身は見えていると思い込んでいる見えない人であり、自由人であると思い込んでいる奴隷であるにすぎないことに目を覚まさせることなのである。
 確かに、他者の身体を暴力的に支配し所有することは、近代民主主義において紛う事なき「罪」である。しかし聖書が問題とするのは、そうした法的な意味での罪に留まらない、むしろもっと人間存在の奥深くに関わる事柄としての「罪」の問題であった。本日の福音書に登場するユダヤ人達は、主イエスに対して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問いかける。彼らにとって、アブラハムの子孫であることは、彼らの所有する資産の一つであった。しかし、人は自分で自分の命を創り出すことは出来ない以上、それは本来神から与えられた賜物であった。彼らが自分たちの出自とその実績を誇れば誇るほど、彼らは自らが神によって創り出された命であることから離れてしまっているのである。そしてあたかも、自分自身で、自分自身の命を創り出し、その価値の優劣を定めることができるかのように錯覚することであった。それこそまさに人間の罪の姿に他ならないのである。
 主イエスの弟子であること、それは主イエスが歩まれた十字架への道を、人が共に歩みつづけるということであった。主イエスの十字架とは、この世におけるあらゆる絶望と喪失の先に、希望と解放を神が与えられた出来事に他ならなかった。そして、その出来事は人間が自分自身の手によっては絶対に獲得することのできないもの、ただ神の恵みとしてしか与えられ得ないものであった。キリスト者がキリスト者であり続けることは決して自明なことではない。むしろキリスト者は常に試みの中に立たされ、常にキリスト者になろうと葛藤しつづける存在でしかない。しかし、それは同時に、十字架によって私達に与えられている、神の恵みの中を歩み続けることなのである。