2009年4月15日水曜日

[説教要旨]2009/4/5「平和が告げられる」

初めの日課    ゼカリヤ 9:9-10     【旧約・1489頁】
第二の日課    フィリピ 2:6-11      【新約・363頁】
福音の日課    マルコ 11:1-11       【新約・83頁】

  マルコ福音書は、主イエスがエルサレムの城砦の門をくぐったところから、復活までの日々を1週間(8日間)として描き出している。それは、私達が今日からイースターを迎えるまでの8日間の一日一日を通して、主イエスが私たちに救いをもたらされた、その十字架と復活の出来事を思い起こすことを助けている。
 旧約聖書ゼカリヤ書は「見よ、あなたの王が来る」と語る。ろばに乗ってエルサレムへとやってくる主イエスに、その言葉は重ねられる。「彼は神に従い、勝利を与えられた者」とその言葉は続く。しかし、「勝利」という言葉と、「ろば」に乗って来る様子、そして「戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」という言葉との間に、私たちはある種の矛盾を感じずにはいられない。勝利とは、相手を圧倒しつくすことであると私たちは考えてしまうからである。古代、「ローマの平和」と呼ばれた時代があった。それはローマ帝国の圧倒的な力による支配を通してもたらされた、平和と繁栄の時代であった。しかし、それはローマの強大な軍事力を背景にしたものであった。やがて、生産力を軍事力の維持拡大のコストが上回ってゆくなかで、ローマの平和もまた、もろくも崩れ去って行くこととなった。力によって押さえつけ、奪い取ることによって成り立つ平和は、その力と同じく、いずれ失われてしまうものでしかない。
 しかし、聖書が主イエスを通して語る「勝利」、そしてその勝利によってもたらされる「平和」は、そのようなものではなかった。イエスは子ろばに乗ってエルサレムへと入る。大きな力などない子ろばは、主イエスによって用いられ、主の十字架と復活への歩みの中で欠くことのできないものとなる。主イエスは、この世では顧みられることなどないような、取るに足らない小さな僅かな力を、世の救いのために用いられる。主イエスがもたらされる平和、それは、強大な力をもって、他者をねじ伏せ、奪い取ることをしなければ成し遂げられないような、そのようなものではない。むしろ、この地上においては取るに足りないとされるような弱いものを用いてこそ成し遂げられる、滅びることのない永遠の平和であった。小さな子ろばに乗ってエルサレムへと入られた主イエスは、弱さの極みである十字架へ向かい、そして復活された。その出来事は、私たちに、真の平和をもたらすものは、何かを示してくださるのである。


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