2013年5月31日金曜日

徳善義和先生特別礼拝・講演会のご案内[07/07]

特別礼拝 7/7(日)10:30より
 昨年岩波新書より「マルティン・ルター -ことばに生きた改革者」を著された徳善義和先生に説教をご担当頂きます。
説教者:徳善義和先生(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校名誉教授)
説教題「喜びは常に満たされる」

講演会 同日14:00より (入場無料)
「『ことば』が生きる、『ことば』に生きる!―信仰のキーワードを学ぶ ルター『ローマ書序文』に拠って」

どなたでも是非お気軽にご参加下さい。

[説教要旨]2013/05/26 「真理を告げる」ヨハネ16:12-15

三位一体(聖霊降臨後第1主日)

初めの日課 箴言 8:1-4 【旧約・ 1000頁】
第二の日課 ローマ 5:1-5 【新約・ 279頁】
福音の日課 ヨハネ 16:12-15 【新約・ 200頁】

聖霊降臨祭の後の最初の主日である本日は、教会の暦では「三位一体」の祝祭日である。三位一体の教理はキリスト教信仰の中心として教会の中で受け継がれてきた。しかし聖書の中には三位一体の教えについて体系的に記されている箇所は無い。むしろ歴史の中で教会は苦悩と葛藤の歩みを通して三位一体という表現を獲得したと言える。その意味で三位一体の教理とは本来、キリスト者が地上を歩む中で、どこで神の働きに出会い、どこに救いを見出すのかを示すものである。すなわち、私たちは自分に与えられた命を通して造り主である神の愛に触れる。そして、私たちと同じくこの地上をこの歴史を生きた主イエス・キリストによって、救いと新しい命を与えられる。そして、神の見えない力である聖霊の働きによって、私たちの魂は常に慰められ励まされるのである。
本日の福音書もヨハネ福音書のいわゆる告別説教から取り上げられている。主イエスは弟子たちに「真理の霊」について伝えるが、それに先立ってまず「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語られる。主イエスを眼前で見聞きしてきた弟子たちですら、主イエスが地上で為された事、語られた事のその真の意味について、まだ分からないでいる。彼らにとって、主イエスの業と教えが、本当の意味で「救いの出来事」として「分かる」には、主イエスの十字架と復活の出来事、そして「真理の霊が来る」のを待たなければならなかった。さらに「真理はあなたがのものになる」と主イエスは言われない。真理の霊は弟子たちに告げ、導くものなのである。実に、人間が「真理」を我が物とすることなど出来ないのである。もしこの私が真理を手にしていると誤解するならば、私たちはあまりに容易に、自分自身を絶対化し、他者を裁き、貶め、支配しようとしてしまうだろう。真理の霊は、この地上で憎悪と敵対との中で悩み傷つく私たちに新しい命と平和の喜びを告げ、和解と解放へと導く力である。
もちろん、新しい命と平和の真理へ至る歩みは決して平坦ではない。主イエスが弟子たちを遺してこの地上を離れた「主の昇天」とそれに続く主日は、地上に生きる私たちに託された使命を思い起こさせるが、その使命はあまりにも荷が重すぎるようにすら思われる。続く聖霊降臨の出来事を通して、私たちは自分自身の力だけでその使命を背負うわけではないこと、神の見えない力=聖霊が共におられることによってそれらの使命を私たちは果たすことが出来るのだということを知るが、それでもなお使徒言行録の物語を読み返すならば、聖霊はキリスト者達に対して、それまで見たことも無い道を示すことに気付かされる。それゆえに人はそこに恐れと不信を抱かずにはいられない。けれども、過ぐる復活節第5主日に取り上げられてきた黙示録で、主は「見よ、わたしは万物を新しくする」と語られる。たとえ私たちが恐れと不信の中にある時にも、万物を新しくされる聖なる力によって、新しい命・平和の真理へと向かう私達の歩みは支えられているのである。聖書の語る私たちの命を造られた神とは、憎悪と対立の中から私たちを救い上げられ、命と平和の真理へと導かれる方であり、その困難な恐れと不信に満ちた道筋を、喜びと希望の道へと変えられる方なのである。今この地上において生きる私達の歩みもまた真理の霊によって導かれることを祈り求めたい。

2013年5月21日火曜日

2013年三鷹教会バザーのご案内[06/23]

いつもルーテル三鷹教会バザーへのご支援をありがとうございます。
今年も教会バザーを開催することにいたしました。
2013年6月23日(日)12:00~14:00
また献品のご協力をお願い申し上げます。
ご家庭でご使用にならないものがありましたらバザーのためにお寄せください。
献品の受付 :6/9まで
☆会場の都合上、誠に勝手ながら家具・家電・書籍などはお受けできません。
☆衣類は、新品または新品同様・洗濯済みのお品をお願いいいたします。

[説教要旨]2013/05/19「永遠に共に」ヨハネ14:8-17

聖霊降臨祭

初めの日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
第二の日課 ローマ 8:14-17 【新約・ 284頁】
福音の日課 ヨハネ 14:8-17 【新約・ 196頁】

 本日はペンテコステ、聖霊降臨祭である。ペンテコステとはギリシア語で「50日目」という意味であり、もともとはユダヤでは過越祭から数えて50日目を表し、過越祭の季節を締めくくる祝祭であった。使徒言行録によれば、過越祭に起こった主イエスの復活から50日目の時、天から聖霊が降り、弟子達があらゆる国の言葉で福音すなわち「良き知らせ」を語り始めた、教会の誕生の時となった。
 主イエスが天に昇られた後、何をすべきか良くわからないまま残された弟子達に、聖霊が働きかける。これによって、祭のために都に集まった人々へ「福音」を伝える言葉を彼らは見い出すこととなった。その時彼らは口々に同じ言葉を語ったのではなく、それぞれが異なる言葉を語りながらも、それが同じ福音を伝えるものであることを互いに理解することが出来た。またそのメッセージを聞く者達にとっては、そのメッセージはそれぞれ自分の言語・文化から理解することが出来る言葉となった。ペンテコステの日の聖霊降臨の出来事では、見かけ上はまるで新しい酒に酔っているかのようにばらばらに語りながらも、そこに互いを深く理解しあう一致が生まれているのである。その意味でペンテコステの出来事とは、違いを塗りつぶしてしまうのではなく、その多様なありかたの違いをそのままに、互いの距離を縮める力が働く出来事なのである。これこそ聖霊の働きによる教会であり、信仰の交わりの始まりであった。そこでは異なる一人一人が欠くことの出来ない存在となるのである。
 本日の福音書の日課は、告別説教の一部となっている。告別説教の中で主イエスは、弟子たちが不安と悲しみにつぶされることなく、目に見えないものを希望とし、一人一人の命を生き抜くことができるように、弁護者である「聖霊」を送ると約束された。その約束が実現した出来事こそが聖霊降臨であった。弁護者を送る約束の中で主イエスは「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と語られる。私たちがこの言葉を聞くならば、いつまでも同じ形で留まり続けるものをまずイメージするだろう。使徒言行録で語られる、聖霊降臨そしてその後の教会の物語を読むならば、確かに私たちの目には見えない部分においては、まさにその通りであった。けれども見える部分においては、全く反対の状況が展開していく。聖霊によって慰められ力づけられた教会は、異なる人々に向かって異なる言葉を語り、やがて迫害を契機として世界各地へと散らされてゆく。それは人の目から見るならば、分裂であり消滅とすら見えるものであった。しかし人の目には、分裂・消滅としか見えない状況にあっても、神の力である聖なる霊は常にキリスト者と共におられて、彼らを一つに結びつける。神の力である聖なる霊が永遠に共にあるということは、人の目では見いだすことの出来ない一致を私たちにもたらす力が、常に私たちを導いているということに他ならない。
 常に形を変えながら、常にその違いと多様性を増しながら、教会は福音を伝えてきた。そしてそれはこれからも続いてゆく。しかし、そのただ中にはいつも、私たち一人一人を欠くことの出来ない存在として、違いと多様性を超えて私たちを結びつける神の力・聖なる霊の働きがあることを、主イエスの言葉と教会の誕生の物語は私たちに伝えるのである。

[説教要旨]2013/05/12「一つになるために」ヨハネ17:20-26

復活節第7主日

初めの日課 使徒言行録 16:16-34 【旧約・ 245頁】
第二の日課 黙示録 22:14、16-17、20-21 【新約・ 480頁】
福音の日課 ヨハネ 17:20-26 【新約・203頁】
説   教 「一つになるために」

 伝統的な教会の暦では、イースターの後の6回の主日にはそれぞれに名前がつけられており、復活節最後の主日には「エクスアウディ」、すなわち「(主よ、)聞いて下さい」と名付けられている。本日の福音書はヨハネ福音書において主イエスが神に向かって祈る、長い祈りの一部からとられている。
 ここで主イエスは将来にわたるキリスト者全体のことを憶えて「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(21節)と祈られる。たしかに主イエスは、全ての者が一つになることを何よりも祈られる。しかし、ここでいう一つになるということは、単に形式的な一致を意味してはいない。主イエスは、ご自身と父なる神とは一つでありながら、「わたし」「あなた」そして「彼ら」というそれぞれは独立した立場・働きであることを憶えて祈られている。つまり、主イエスが語られる「一つになること」とは、全てが一色に塗りつぶされてしまい、そこに一人一人の有り様をもはや区別できなくなるような、そのような「一つ」となることではない。そのような一体性は、むしろ暴力による同化にすぎないのである。
 主イエスが祈られたのは、それぞれに異なる働き、立場、有り様、そうした違いがありつつも、そうした違いを残しつつも、もっと深いところで、一つに結ばれる、そのような在り方であった。それは、告別説教の中で繰り返し語られたように、互いに愛し合うことを通じて、主イエスの命において一つへと結ばれる、そのような在り方であった。そして、そのような在り方は、実は既に私たちに与えられているのである。主イエスは語る。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」主イエスの栄光、それは十字架の死からの蘇り、復活の命に他ならない。つまり、主イエスの復活の命において、私たちは既に一つとなることを備えられているのである。
 しかしながら、私たちの現実に目を向けるならば、そのことは決して自明ではない。地上に生きる私たちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争いあうことを避けることが出来ない。けれども私たちは、そのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ない。むしろ、そのために主イエスは、この地上に聖霊を与えられると約束され、そしてまたそのことを天の父に祈られたのだった。たとえどれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、私たちのために神に祈り求めて下さるのである。
 本日はアジアキリスト教協議会(CCA)の呼びかけるアジア祈祷日でもある。本日の礼拝ではCCAが提案した祈祷文を用いられるが、そこではアジアキリスト教協議会に属する諸教会の一つ一つが憶えられる。アジアとは広く、そしてまた大きな多様性を含む地域である。そのアジアにあって、繰り返し一致を求めつつ、同時に正義と平和とへ私たちが導かれることが祈られる。一つになることとは決して皆が同じ色、同じ顔になることではない。それぞれに異なる者同士が既に命の神によって一つとされていることを知ることを通して、私たちは互いを愛し、尊敬し、支え合うことが出来るのである。

2013年5月7日火曜日

[説教要旨]2013/5/5「平和を与える」ヨハネ14:23-29

復活節第6主日

初めの日課 使徒言行録 16:9-15 【新約・ 245頁】
第二の日課 ヨハネの黙示録 21:10,22―22:5 【新約・ 478頁】
福音の日課 ヨハネ 14:23-29 【新約・ 197頁】

 本日の福音書は、先週の日課から引き続いて、「告別説教」と呼ばれる箇所となる。十字架の出来事が目前に迫る中、ご自分が弟子たちの前から去った後のためにこれらの言葉を語られる。そこで主イエスが語る「別離」と「喪失」とは、一般には心をかき乱し、悲しみと不安とをもたらす元凶と言えるものであり、それらをできるだけ避けることこそが平和・平安をもたらすと私たちは考えている。しか、別離と喪失とを語りながら主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と語る。
 冒頭の23-24節で主イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と語る。この短い節には肯定・否定を含めて「愛する」という語が3回も繰り返され、同時に「言葉」という語も同じように繰り返されている。つまり、私たちと主イエスと父なる神とが愛の交わりのうちにあるということと、私たちが主イエスの言葉を聞くということとは、切り離すことの出来ない事柄であることがここで語られている。
さらに本日の福音書では「弁護者」を与えるという約束が語られる。「弁護者」とは、原語では仲介者、助け手を指す言葉が用いられている。ここではこの「弁護者」「助け手」とは、神の見えない力としての「聖霊」であるとされる。私たちにとって最も身近な、弁護者であり助け主である聖霊の働きとは、私たちが日々を生きる中でぶつかる、なぜ、どうして、そうならなければならないのか、なぜ、このような中を生きなければならないのか、という問いかけに対して、聖書の言葉が、私に向けて語られた言葉として私の中で生き、私に力を与える言葉となるということである。
 主イエスが約束される平和とは、聖霊の働きによって、聖書の言葉、主イエスの言葉が生きて私たちを満たし、支えるようになること、そしてそのことによって、この世界を支配する欲望と恐怖から私達が解放され、神の愛の交わりの内に主イエスの命を生きることが出来るようになることなのである。さらに、この告別の説教の中で、主イエスは「互いに愛し合いなさい」という言葉を繰り返し語られている。この主イエスの言葉こそ、私達が神の愛の交わりのうちに生き、私達の内に主イエスの命を与えるものに他ならない。なによりもそのために、主イエスは十字架において、ご自身の命を私達に分け与えられたのだった。そして、その死からの復活の出来事によって、私達の思いと理解を超えた、平和への尽きることのない希望を与えられたのである。この尽きることのない希望こそ、全ての人が満たされ、全ての人が互いに愛し合うことのできる、そのような在りようを私達にもたらす力なのである。
 自らの充足と安定のために、互いに奪い合い、貶め合うことを止めることが出来ないこの地上の世界に私達生きている。しかし、この地上での歩みおいても、主イエスの言葉が私達のうちに生きて働く時、私達は、愛の交わりのうちに、尽きることのない希望を生きることが出来るのである。

[説教要旨]2013/4/28「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:31-35

復活節第5主日

初めの日課 使徒言行録 11:1-18 【旧約・ 234頁】
第二の日課 黙示録 21:1-6 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 13:31-35 【新約・ 195頁】

 本日の福音書は、夜にユダがイエスのもとを去ったところから始まる。この「夜」とはいわば人間を取り巻くこの世の闇を象徴の中へと、ユダが去ったことを印象づける。ところがその夜の闇と対照的に主イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。」と語られる。ユダが消えていった人間を取り巻くこの世の闇の先には、その闇によってもたらされる、逮捕、拷問、十字架での処刑という悲惨な運命が主イエスを待ち受けていた。しかし、その出来事は同時に、神の栄光、光の勝利の出来事でもあるという矛盾した意味を聖書は私たちに示す。この同時には成り立たないはずの二つの事柄をつなぐものが、復活という出来事であった。復活の出来事によって、イエスの受難の出来事は全く違った意味を私たちに見せることとなる。そしてまた、この世の闇と、救いの光という二つの領域の間で、主イエスが地上に残される弟子達に「互いに愛し合いなさい」という言葉を語られたのだった。それはまさに、この世の闇を切り裂いて、その向こう側へと続く、命の光、栄光の光へと弟子達を、そしてまた私たちを導くために、主イエスが残された言葉に他ならない。
主イエスの弟子であるための奥義とは、私たち自身の知識や努力によって、私達が人間以上のものとなることでなない。むしろ、「互いに愛し愛なさい」という主イエスの言葉が実現するところにおいて、この地上に生きている、限界ある私たちは、永遠のものに満たされることができる、ということ、つまり、その言葉と共にその場におられる主イエスによって、私たちの日常が変えられてゆくということなのである。
 私たちがその日常の中で成し遂げられることが、どれほど小さく空しいものであったとしても、世間の目から見た時に、それがどれだけ不十分としか見なされないようなものであったとしても、それが「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉によって押し出される時、そこには既に永遠の命の世界が開かれているのである。知識や清さを誇るための努力ではなく、主イエスの言葉に押し出され、用いられる時、不十分で不完全な私たちの業は、永遠の神の愛によって満たされるのである。私たちの魂の飢えと乾きが満たされる時、それは、私たちの日常の中に差し込む光、すなわち主イエスの言葉、新しい愛の掟によって動かされる時なのである。
 本日、復活節第5主日には、伝統的な教会の暦では「カンターテ」(歌え!)という名前がつけられている。これは、詩編98編「新しい歌を主に向かって歌え」からとられたものである。詩編はこう続く。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する 慈しみとまことを御心に留められた。 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た。」
「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉は、私たちがこの日常の中にあって、神の驚くべき御業、救いの出来事、神の愛の出来事を仰ぎ見つつ生きるための、まさに究極の教え、信仰の奥義に他ならない。闇の中にある私たちへと投げかけられた光、主イエスの言葉に押し出されて、神の愛のうちに歩んでゆきたい。