2009年11月24日火曜日

2009年クリスマスの諸行事のお知らせ

ルーテル三鷹教会では、2009年クリスマスには以下のようなプログラム・礼拝を予定しております。
どなたでもご参加いただけます。
皆さまのお越しをお待ちしております。

12/13(日) 14-16時 やかまし村のクリスマス チャペルにて(参加費無料)
 クリスマスのおはなしやうた、にんぎょうげき、おはなしのよみきかせなど、親子で楽しめる一時です。

12/20(日) 10時半 クリスマス主日礼拝 チャペルにて (礼拝の中で自由献金があります)
 礼拝の中で、トロンボーンとオルガンのアンサンブル、ルーテル学院ハンドベル「ラウス・アンジェリカ」の演奏、ルーテル三鷹教会聖歌隊のコーラスがあります。
 また、礼拝後、ポットラック(持ち寄り)による食事会も予定されています。

12/23(水) 14-16時 こどもクリスマス チャペル・集会所にて(参加費無料)
 クリスマスのおはなしやゲームで楽しい一時をすごしましょう!

12/24(木) 19時 クリスマス・イヴ・キャンドルサーヴィス チャペルにて (礼拝の中で自由献金があります)

 礼拝の中で、室内楽アンサンブルの演奏と、ルーテル学院聖歌隊によるコーラスがあります。

お問い合わせは、ルーテル三鷹教会(Tel.0422-33-1122)まで。




[説教要旨]2009/11/22「滅びない言葉」

聖霊降臨後最終主日

初めの日課 ダニエル 7:9-10 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 ヘブライ 13:20-21 【新約・419頁】
福音の日課 マルコ 13:24-31 【新約・ 89頁】

 教会の暦の最後の主日として、世の終わりについて、聖書から聞くこととなる。しかし、それは同時に、終わることのない「永遠のことがら」についてもまた、私たちは目を向けることとなる。
 12章で、主イエスは神殿において敵対者たちとの論争をした後、貧しいやもめのわずかな捧げ物を称賛し、神殿を立ち去る。その時主イエスは壮麗な神殿に魅せられた弟子に対して、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られ、神殿の崩壊を予告される。主イエスのまなざしは、この地上において、大きいもの、力あるものとされるものに対して、厳しく向けられることとなる。
 さらに、本日の箇所の直前では、主イエスは、弟子たちと、そして国々を襲う様々な苦難について語られる。敵対と憎悪、混乱と破壊がこの地上を襲うという、その言葉を耳にする時、私たちは、なぜ聖書は、そして主イエスは、このような恐ろしい言葉を語るのか、という疑問を抱かずにはいられない。さらに本日の日課である24節からは、天変地異までが起こり、いわば、天地までが滅びるかの様相を呈し、混乱と破壊が最も激しくなり、苦難の闇が最も深くなることが語られる。
 しかし、その苦難の闇の最も深いところに、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る」と続く。それはダニエル7:13-14において語られているように、暗闇と混乱に光をもたらす出来事に他ならない。それは、マルコ福音書において「人の子」とは、主イエスがご自身を指して語る時の表現であった。つまり、私達人間の混乱と苦難の最も深まる時、主イエスは私達と共におられ、その苦しみと混乱から私たちを解放されるのである。まさにその意味で、「人の子の到来」はたしかに、「世の終わり」の出来事である。しかし同時に、それは私達の苦難と憎悪の終わりの出来事であることを聖書は語る。
 たくさんの捧げものや壮麗な神殿といった、人の目に映る大きな業が、滅びることなく残るということはありえない。つまりそれは、私達を苦難の最も深いところで救うことの出来る、決定的なものにはなりえない。しかし「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主イエスは語られる。「人の子」、主イエスの言葉、それは十字架の死と、その死からの復活を告げる言葉に他ならない。雲に乗って到来する栄光の人の子は、同時に、十字架において最も深い苦難をその身に受け、そしてその死から甦られた「人の子」なのである。人の目にはむなしいものや、挫折としか映らないようなことの中に、「人の子」主イエスは救いの光をもたらされる。それはただ未来のことではなく、私達が日々直面する苦難の中においても、主イエスの言葉は私達を支え、そして導くのである。


[説教要旨]2009/11/15「だれよりもたくさん」

聖霊降臨後第二十四主日

マルコ 12:41-44

 マルコ福音書では11章からこの12章の終りにいたるまでの間、主イエスは神殿の境内でその教えを語られる。それは、神殿に集まっている、自らの豊富な知識や正しい生き方を誇る者たちとの対決の時でもあった。そのような中で、主イエスは一人の貧しい女性に出会う。群衆たちと共に、金持ちたちがたくさんの捧げものをしている中、この女性はレプトン銅貨2枚を捧げていた。レプトン銅貨とは、ギリシア世界における最少通貨であり、1デナリオンの128分の1の価値しかなかった。1デナリオンは1日の日当に相当したことを考えると、この女性の捧げものが、ごくごくわずかなものであったことがわかる。しかし、それを見た主イエスは弟子たち集めて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と語られる。「はっきり言っておく」という言葉は、もともとは「アーメン、あなた方に言う」と書かれている個所である。現代の私たちも使っている、この「アーメン」という言葉は、ヘブライ語で「まことに、真実に」という意味であり、それは特に「然り、そのとおりです」という意味で教会の中で用いられた。すなわち、主イエスは、神殿で多くの金持ちがたくさんの捧げものをしている時ではなく、貧しい女性がわずかなものしか捧げることが出来なかった時に、「アーメン、然り、そのとおりである」と語られたのであった。
 私たちはしばしば、自分自身の持てるもの、あるいは持てる力の小ささを悲しみ、そのようなごくわずかなものや力では、何事もなしえない、そのようなものなど何の意味もないと嘆いてしまう。あるいは、誰かが成す働きに対して、そのような小さくわずかなものは全く不十分である、正しくないものであるといって否定する。しかし、主イエスが「アーメン」と語られたものとは、偉大な事柄あるいは正しい事柄を成し得たものではなく、僅かなものであったとしても、それが自分自身の全てであるとして捧げる姿に他ならなかった。
 この一人の貧しい女性の姿に心を動かされ、「アーメン」と語られた主イエスは、本日の福音書の箇所に続いて、主イエスは十字架への最後の道のりを歩まれる。主イエスの十字架への道を備えたものは、金持ちの豊かな捧げものではなく、一人の女性の、僅かな、しかしその人にとっての全てを捧げる姿であった。十字架における救いの実現とは、まさに小さく僅かなものと力しか持ちえない存在なしにはありえないのである。

2009年11月5日木曜日

[説教要旨]2009/11/1「神の愛につながって」

全聖徒の日

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 ローマ 6:1-11  【新約・ 280頁】
福音の日課 ヨハネ 15:1-17 【新約・ 198頁】

この箇所は主イエスの「告別説教」と言われる、長い長い語りの中の一部分となっている。そこでは、主イエスは十字架の死を目前にしながら、ご自身がこれから弟子たちの元を離れなければならなくなることを予告し、同時に自分なしで弟子たちがこの世での生を歩むことができるように、様々なことを教えられている。十字架の死を間近に控えながら、主イエスの思いは、ご自身の苦しみよりも、残される弟子たちに向けられている。そこで語られるのはまさに、主イエスの「遺言」と言ってもよいものであった。通常私たちが考える「遺言」とは、財産を分与するための指示を思い浮かべる。しかし、ここで主イエスが語られるのは、そうした形ある財産についてではない。残されてゆく弟子たちに主イエスがのこしたもの、それは、富でも権力でもなく、ご自身の言葉そのものであった。主イエスの遺言そのものが、弟子たちにとっての宝であり財産の他ならなかった。
その中で、主イエスはご自身を「まことのブドウの木」とたとえられ、ご自身につながっていることを、弟子たちに命じられる。それは弟子たちが、豊かな実を結ぶようになるためであった。しかし、一見するとそれは全くの矛盾である。今から主イエスは、十字架の死によって、弟子たちのもとからいなくなるにもかかわらず、「わたしにつながっていなさい」と言われているのである。弟子たちにとってみれば、主イエスという存在が目の前にいるからこその、かれれは自分たちの「実り」を期待して、主イエスに従うのであった。目に見える絆が失われてしまえば、つながりつづけることなど無意味であり、不可能であった。しかし、たとえそうした目に見える絆が失われたとしても、いやむしろ、目に見える絆が失われるからこそ、主イエスは「わたしにつながっていなさい」「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られる。なぜならば、たとえ目に見える絆は失われたようにしか見えなかったとしても、神の愛・キリストの愛は、永遠に残るものだからである。主イエスが「わたしにつながっていなさい」と語る時、それは「主イエスの愛にとどまっている」ということに他ならない。主イエスの愛、それは私たち日常体験するような、私たちの内的な感情としての愛なのではない。それはむしろ「信頼関係」に近いものであった。主イエスとの信頼関係、それはこの地上にある、あらゆる障壁と断絶を突き抜けてゆくものなのである。
主イエスとの愛・信頼関係にある時、たとえ私たち自身が生と死へと引き裂かれたとしても、私たちはこの主イエスの愛を通してつながっているのである。