2013年12月17日火曜日

[説教要旨]2013/12/15「来るべき方は」マタイ11:2-11

待降節第3主日

初めの日課 イザヤ 35:1-10 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 5:7-10 【新約・ 426頁】
福音の日課 マタイ 11:2-11 【新約・ 19頁】

 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において世の不正を明らかにし悔い改めを呼びかけ、人びとに洗礼を授ける活動を行っていた。彼の厳しい批判と断罪はユダヤの政治的な支配者であるヘロデにまで及んだ。権力に対して容赦なくその批判を向けたヨハネは逮捕され投獄される。獄中において彼は、自分が為し遂げることが出来なかった事の完成を「来るべき方」に期待する。しかし、彼が獄中で聞いた主イエスの教えと働きは、思い描いた来るべき方の姿ではなかった。ヨハネは弟子たちを遣わして、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と問う。洗礼者ヨハネが期待していたものとは、彼が始めた断罪と裁きの呼びかけを徹底する人物であったと思われる。けれども、断罪ではなく赦しを、裁きではなく解放を主イエスは伝え、そして病と貧困、人を苦しめる様々な力から人びとを解き放つ方であった。洗礼者ヨハネの問いに対して主イエスは期待するようには応えられなかった。その意味では、洗礼者ヨハネの期待は裏切られたと言える。
 おそらく洗礼者ヨハネが来るべき方に対して抱いていたイメージは、神の到来に備えてヨハネ自身の思い描く秩序を完成される方、つまり塵一つ無く静寂で厳格な地上を準備する働きを完成する方であったのではないだろうか。しかし主イエスが為されたことはむしろ、その歩まれた場所に溢れるような新たな命をもたらし、そこに喜びと感謝の声をもって満たされるかたであった。それはたしかに、むしろ混沌と騒がしさ、無秩序をもたらすかのようにすら思われたかもしれない。けれどもこの地上に命と喜びを生み出すことこそ、まさに天地を創られた神の愛の業であった。洗礼者ヨハネは確かに、この地上においては最も偉大な者であるとされる。けれども、天の国、神の国の出来事は、その最も偉大な者の計画と思惑すら遙かに凌駕するものであることを、主イエスは語られる。なによりも、その言葉を語られる主イエスご自身が、人間的な視点で見るならば、挫折と絶望としか見えない、十字架への道を歩まれた。しかしその道は挫折と絶望に終わることなく、私たちの思惑と期待を遙かに超えて、主イエスの復活の命は続いてゆくのである。そして、主イエスが備えられた道は、潰えることのない永遠の希望と喜びへ、私たちを導いている。その主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られる。洗礼者ヨハネの抱いていた期待は、いわば人の思いの延長線上にあったと言える。しかし、救いの出来事は、私たちの期待や思惑の延長線上で、計画通りに進展することはなく、むしろ、私たちのそうした思惑の延長を切断し、新しい道、救いと永遠の命への道を歩むことを余儀なくさせるのである。
 主の降誕に備えるアドベントの時を私たちは過ごしている。それは私たちが、自らが抱いてきた思惑や期待を振り返り、その延長線上に救い主はいないということを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いは、主イエスによって私たちに与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。天より与えられる私たちの救いを待ち望みたい。

2013年12月14日土曜日

[説教要旨]2013/12/8「荒れ野で叫ぶ者の声て」マタイ3:1-12

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 11:1-10 【旧約・ 1078頁】
第二の日課 ローマ 15:4-13 【新約・ 295頁】
福音の日課 マタイ 3:1-12 【新約・ 3頁】

 待降節第2主日を迎え、アドベントクランツの2つめの火が灯った。夜の闇が最も長くなる季節であるクリスマスが近づくと共に、アドベントクランツのロウソクの灯火は増え、明るさを増してゆく。それは、世の闇の最も深まる時、世の光・救い主キリストが私たちのもとへ到来されれることを告げる。本日の福音書に登場する洗礼者ヨハネもまた、イスラエルの地に現れた預言者の一人として、救い主キリストの到来を告げるものに他ならなかった。
 ヨハネは、ヨルダン川において悔い改めの洗礼を授ける活動を行っていた。当時のユダヤでは、自らの生活の宗教的清さを保つための儀式として度々沐浴が行われていた。ヨハネはこの「清め」の沐浴に、さらに「悔い改め」の意味を与えて人々に洗礼を施した。その違いを敢えて挙げるならば、清めはある枠内に留まることに強調点があるのに対して、悔い改めは自らを神の方へと向け直す、動的な意味があると言えるだろう。ヨハネは、人々に悔い改めを呼び掛け、地上の力に支配された自らの命を、今や近づきつつある神の国に委ねることを求めたのだった。
 そのヨハネが叫んでいた「荒れ野」とは、神から離れてしまう自らの心を覆い隠すことの出来るものが全て取り去られた場所である。あらゆる虚飾がはぎ取られ、剥き出しにされて、自らが神から離れてしまったことを告白し、悔い改めてその命を委ねよ、とヨハネは叫ぶ。ヨハネの立っている荒れ野では自らを「清い者」であると誇ることはもはや不可能なのである。
 本日の日課に登場するファリサイ派、サドカイ派と呼ばれる人々は、それぞれの仕方で律法・掟を守り、自らを清く保つことに努力し専心した者達であった。それゆえに自分たちこそが民族を代表する、中心的な存在であるという自負も小さくはなかったであろう。しかしその彼らに対してもヨハネは容赦なく「悔い改め」を迫る。自らを清く保つためにの自分達の努力に彼らがどれほど自信をもっていたとしても、それはこの荒れ野では役立たない。神の前にある一つの命として、神の国にその命を委ねるしかない。このヨハネの叫びは、時の権力者たちの耳には痛いものであり、結局彼は逮捕され処刑されてしまう。ならばその叫びは無駄に、未完成のまま終わってしまったのだろうか。
 本日の箇所でヨハネは語る。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」人としてのこの地上での歩みによっては完成することの出来ないものを、来るべき方は完成して下さる。ヨハネは全てを自らの手で完成させることを望んでいたのではなく、むしろ完成して下さる方は他におられること、私たちの悔い改めとは、この方に、全てを委ねることなのだということ、そしてなによりもヨハネ自身が全てをその方に委ねていることをこの荒れ野で叫ぶのである。まさにその意味で、ヨハネは主イエス・キリストの到来を示し、その主イエス・キリストにその全ての希望を託したのだった。アドベントの季節、私たちの思いを越えて、私たちの間に神の約束が実現する希望を持ち続けたい。

2013年12月10日火曜日

[説教要旨]2013/12/1「主の光の中を歩む」マタイ24:36−44

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 2:1-5 【旧約・ 1063頁】
第二の日課 ローマ 13:11-14 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイ 24:36-44 【新約・ 48頁】

教会の暦では、本日から待降節の時を迎えた。アドベントクランツのろうそくに毎週1本づつ火が点けられ、4本灯されたとき私たちは主の誕生を憶える降誕祭の時を迎える。「主の誕生」とは言うものの厳密には「イエス・キリストの誕生日」ではない。キリスト教会はこの日を「イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界へとやってこられたことを憶える」時とした。待降節は本来、「私たちが主の降誕を待つ」よりも「主が、私たちのもとに来られる」ということが本質である。主イエスが来られることによって初めて、古い時、古いものが新しくされて行くことが実現されるのである。
本日の日課は、十字架の直前に主イエスが語られた世の終わりについての言葉が選ばれているが、それは同時に、救い主の再臨についての教えであった。たしかにその言葉には、私たちの日常生活が突然に終わりを告げる不安を覚えさせるような表現がある。しかし、同時にそれは私たちを励まし力づける言葉でもある。将来に対して不安と恐れしか見出せず、日常の中に何の希望も見出すことが出来ないために、絶望のあまり自分より弱い者を傷つけ貶めることでしか鬱屈を発散できない、そのような時代の中を人は生きなければならない。絶望しか見出すことが出来ない私たちを取り巻くその日常は永遠に続くのではないか、私たちはそのようにしか思われない時がある。けれども私たちの見えないところで、何の変化も見えないように私たちの日常の中にも、変化は着実に起こっていることを、主イエスは語られる。畑で仕事をしている2人の男のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。臼をひく2人の女のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。そこに何の区別があるのか、私たちに見出すことは出来ない。しかし、私たちの見えないその背後で、変化は確実に起こっているのである。
主イエスは、人としての痛みと絶望の極みである十字架へと向かおうとする時に、ご自身の到来を語られている。それは、救い主・イエス・キリストは、まさに私たちの恐れ・不安・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝たれ、光をもたらされるために、この地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。その主イエスは語る。「目を覚ましていなさい」。主イエスの到来によって、私たちの見えないところで、変化は起こっている。だから、主イエスの到来の出来事を待ち望むこと、それは私たちを支え、励ます、滅びる事のない約束の言葉なのである。
今、私たちは恐れの時代を生きている。しかし、そのような私たちの心の内のその闇のただ中に主イエスはやってこられるのである。それゆえに、そして変わることのないようにすら思えるその日常の背後で、着実に変化は起こっているのである。また私たちは今、主イエスの到来を待ち望むアドベントの時を迎えている。それは毎年繰り返されるクリスマスを待ち望む季節であると同時に、主イエスが再びこの地上にやってこられるその時を待ち望む期間でもある。それは、私たちを取り巻く闇がますます濃くなって行く中、私たちが「目を覚ましていなさい」というその主イエスの言葉によって励まされ、待ち続けることに他ならない。闇の中に生きる私たちに与えられた光、主イエスの到来の時は近いことを憶えて、この時を過ごしたい。

2013年12月5日木曜日

日本福音ルーテル三鷹教会 2013年クリスマスのご案内[12/22,12/24,1/1]

12/22(日)
10:30より 主日礼拝 チャペルにて
メッセージ「神は我々と共におられる」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊による讃美
礼拝後、大学食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます

12/24(火)
18:00より クリスマスのさんび チャペルにて
19:00より クリスマス キャンドルサービス チャペルにて
今年のキャンドルサービスはルーテル学院大学との合同で行われます。
メッセージ「いま ここに 光」 河田優牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)
ルーテル学院大学聖歌隊/ラウス・アンジェリカ(ハンドベル)による賛美と演奏

21:00より 聖餐礼拝 チャペルにて

2014/1/1(水)11:00より 元旦礼拝 チャペルにて

ともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。
みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

[説教要旨]2013/11/24「選ばれた者なら」ルカ23:33−43

聖霊降臨後第27主日

初めの日課 エレミヤ 23:1−6 【旧約・ 1218頁】
第二の日課 コロサイ 1:11−20 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 23:33−43 【新約・ 205頁】

 本日は、待降節から始まる教会の暦の最後の主日礼拝となる。現在三鷹教会で用いている「改訂共通日課」では、教会暦の最後の主日を「キリストの支配」つまり「王であるキリスト」を憶える日としているが、その日課として主イエスの受難のその最後の箇所が選ばれている。そこでは、十字架に架けられ、「もしメシアであるならば、自分自身を救え」とあざ笑われ、侮蔑され、罵られる主イエスの姿が描かれる。最初に登場する議員たちは、実は目の前の主イエスのことを三人称で語っている。つまり彼らにとっては、赦しと救いを伝える主イエスは、自分達とは無縁な、むしろその平穏な日常を脅かす疎ましい者でしかなかった。続いて兵士達は主イエスをなぶり者にする。兵士達にとっての主イエスとは自らの退屈を一時紛らわせるものでしかなかった。さらに一緒に刑を受けている者もまた主イエスを罵る。おそらくこの男は自らの挫折と孤独とに対する呪詛を主イエスに向かって投げつけていたのであろう。病める者弱き者へと関わることを自分と関わりの無いものとして疎ましく思い、他者の存在をもてあそび、そして呪詛を吐き続ける。十字架を巡るこれらの人々の反応はまさに、この地上に生きる私たちの心の闇を映し出す。とりわけ「選ばれたものなら、自分を救うがよい」という言葉、選ばれたメシア・救い主であるならば、十字架から降りて自分を救うことができるはずではないのか。それは私たち自身の問い、疑念でもある。主イエスを嘲り罵る者たちにとって、無残で力なく十字架にかかったままであることは、主イエスが選ばれた救い主キリストではないことの証拠でしかなかった。
 しかし、もう一人の同じく十字架刑を受けた者は語る。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。彼が見たものは、自分と同じ苦しみを負う方、人間の悲しみと絶望を共に担って下さる方に他ならなかった。彼にとっては、主イエスは十字架から降りられないのではなく、むしろ降りないことによって、まさに選ばれた救い主であった。
 主イエスの王権と支配とは、暴力と恐怖によって支配を争い合うようなものではなかった。むしろ主イエスはこの地上に永遠の神の愛をもたらすために来られたのだった。この永遠の神の愛は、十字架の主イエスこそが、選ばれた救い主であることによって私たちに示される。十字架は、神が私たちの苦しみを悲しみを絶望を、共に担って下さること、そしてまた、さらに永遠の新しい復活の命へと続いて行く、その希望を私たちに与える。主イエスの支配とは、まさに十字架によって示された神の愛の支配なのである。たとえこの世のあらゆる権威と権力が終わりを迎え、滅び去ってしまうとしても、十字架によって示された神の愛の支配は過ぎ去ることはない。地上の私たちの在り様は、不完全で未完成なものでしかなく、私たちは互いに対立し、憎み合い、傷つけ合わずにはいられない。けれども永遠の神の愛が私たちを支配し、その神の愛によって私たちが満たされる時、そのような私たちもまた、神の愛にふさわしいものへと変えられて行くのである。やがてくるクリスマスの時、そのただ中に神の愛、十字架の主イエスが与えられたことを私たちは思い起こす。

[説教要旨]2013/11/17「髪の毛の一本も」ルカ21:5−19

聖霊降臨後第26主日/三鷹教会成長感謝礼拝

福音の日課 ルカ 21:5?19 【新約・ 151頁】

 本日の日課では終末における崩壊について書かれているため、私達に様々な恐れと不安を呼び起こす。たしかにここで挙げられる、戦争・暴動・飢饉・疫病・地震といったものはどれも一人の人間の力ではどうにもならないようなことばかりである。それらに対して、私たち人間は恐れと不安を抱き、絶望せずにはいられない。
 しかし、自分ではどうにもならないものへの恐れと不安そして絶望は、終末に関わるものだけではない。実に私達の毎日の中にそれらは存在している。
 「とってもこわがりな、世界中で一番弱虫な」ラチという男の子が主人公の「ラチとライオン」という絵本がある。ラチは犬が怖い、暗い部屋が怖い。そして友達も怖い。だからいつも一人ぼっちで絵本を読み、強く大きなライオンの絵を眺めるだけだった。そんなラチのところに、ある日小さな赤いライオンがやってくる。大きな強いライオンを願っていたラチは、小さなライオンに失望する。しかし、その小さなライオンはいつもラチと一緒にいて、ラチに勇気と元気を与えることとなる。ライオンがついていてくれるので、ラチは恐れていた暗い部屋に入ってクレヨンを捜し出すことができた。また、小さなライオンがポケットの中に隠れて、ラチは外に出かけてゆく。ライオンは他の者からは見えないが、ライオンがついてくれることを思う時、ラチは自分の怖さを乗り越えて、犬を怖がっている女の子を助けてることができた。さらには、怖かった意地悪な大きな子を追いかけて、とられてしまった友達のボールを取り返すことができた。ラチはもはや友達を怖ることはなく、独りぼっちではなくなった。その時、ラチのポケットの中には、もうライオンはいなかった。ライオンは別の子どもを助けるために去ってしまうが、ラチのために残していた。『ラチくんへ きみは、らいおんと おなじくらいつよくなったね。もう、ぼくがいなくてもだいじょうぶだよ。ぼくはこれからよわむしのこどものところへいって、つよいこどもにしてやらなくちゃならないんだ。ぼくをいつまでもわすれないでくれたま え。ぼくも、きみのことはわすれないよ。じゃ、さよなら らいおんより』残されたライオンの言葉に励まされ、ラチはもう勇気と元気がなくなることはなかった。
 本日の福音書では、たしかに様々な恐ろしく、不安を呼び起こすことが書かれている。けれども主イエスは語られる。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決して無くならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。」絵本の中では、ラチにはライオンが傍らにあって勇気と元気を与えてくいた。そして今私たちにも同じように主イエスは共にいてくださるのである。主イエスは私たちの髪の毛一本も決してなくならない、と約束されている。私たちは、この約束によっていつも守られ、勇気と元気を与えられている。そして主イエスの言葉で私たちが力づけられ、励まされて動く時、私たちもまた、怖れと困難の中にある隣人たちの傍らにいて励まし、助けることができるのである。私たちが主イエスの約束の言葉によって力づけられる時、私たちは孤独ではない。主イエスの言葉に守られ、励まされて、子どもたちが心も体も成長することを祈る。

[説教要旨]2013/11/10「幸いな者たち」ルカ6:20-26

召天者記念礼拝

初めの日課 ダニエル 7:1-3a、15-18 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 エフェソ 1:11-23 【新約・ 352頁】
福音の日課 ルカ 6:20-31 【新約・ 112頁】

 教会の伝統では11/1を「全聖徒の日」とし、すべての先に天に召された人々を記念する礼拝を守るようになった。今年三鷹教会では11/10に、先に天に召された者たちに思いを向けている。私たちは、今自分が生きていることは誰もが知っている。そしてその地上での命には限りがあることもまた知っている。しかし、その命がどこから来たのか、そしてそれはいずれどこへと行くのかについて知っている者は誰もいない。ただ、先に召された者たちに思いを向ける時、私たちは過ぎ去らない命の在り様について垣間見ることができるのである。
 本日の福音書は、主イエス・キリストの「平地の説教」の一部として良く知られた箇所が選ばれている。マタイによる福音書にも本日の箇所と同様の言葉が収録されているが、そちらは舞台が山の上に設定されている。この福音書を編纂したルカは、主イエスの語られる言葉が世の全ての人に行き渡る様子を強調するために、山から下りた地にあえて舞台を移したのではないかと考えられる。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」この主イエスの言葉は、現に目に前にいる者たちだけでなく、あらゆる時代の世界の全ての人々へと響いてゆく。
 ここで主イエスが挙げる、持たざる者であること、植えた者であること、涙を流す者であること、それらはあらゆる意味で私たちの地上の価値観での「幸い」とは全く逆のものなのである。それにも関わらず、主イエスは「幸いである」と祝福の宣言をされる。実に、主イエスがこの祝福を宣言される時、そこには現に今人間に見えているものを超えた、神の国の出来事が重ね合わされ、垣間見えているのである。たしかに地上での生の歩みの中で、人は思い半ばにして、未完成のままで終えなくてはならないこと、報いられないまま終わらねばならないことがある。けれども、それは決してそこに留まることはないということ、あらゆる不足が満たされ、悲しみが慰められ、未完のままに終わったものが完成されるのだということを、主イエスは祝福の宣言によって示されるのである。さらに、主イエスから「あなたがた」と呼びかけられた私たちは、貧しい者、飢えた者、泣いている者が、喜び、満たされ慰められるのは、その人々の功績が充分であったからであるとか、素晴らしいことを成し遂げたからであるとか、そうしたことは何も触れられていないことに気付く。ただ今、持たざるものであり、飢え渇くものであり、涙を流すしかない。そのような、弱く力ない、一人の人であることそのものによって、祝福は宣言されるのである。
 そして何よりも、この祝福を宣言される主イエスご自身が、挫折と痛みの極みである十字架の死へと向かい、その死から甦られたのだった。この十字架によって、神は全ての事柄を完成させ、全ての悲しみと苦悩を受け取り、そしてそこに永遠の命への希望を備えて下さることを、私たちに示された。その意味で、主イエスの十字架を通して、主イエスのこの祝福の言葉は生と死に分けられている、先に召された多くの先達者たちも、そしてまた今なおこの地上を歩む私たちにも届けられている。主イエスの十字架を通して私たちは共に祝福を受け、慰められ、満たされているのである。

[説教要旨]2013/11/03「失われたものを捜すために」ルカ19:1−10

聖霊降臨後第24主日/三鷹教会・West Tokyo Union Church合同礼拝

福音の日課 ルカ 19:1−10 【新約・ 146頁】

本日の日課に先立つ18:31では、主イエスは弟子たちに向かってご自身の十字架と復活についての3度目の予告をされる。そして、その目的地エルサレムに入る直前に、一行はエリコの街を通る。エリコは交通の要所でローマ時代には税関が置かれていた。当時の徴税制度は何重にも積み重なる下請け構造であり、結果として末端で徴収される税額は大きく膨らむこととなった。また下請け構造の途中で金を懐に入れる者も少なくなかった。このため当時のユダヤ社会の中では徴税人は嫌われ者であり、さらには詐欺師であるとして、裁判では証人としての資格がないとされるほどであった。つまり、社会の中で徴税人は、その語る言葉を聞くことなど必要無いものとして扱われていたのだった。本日の物語に登場するザアカイは、「徴税人の頭」であり、金持ちであったと紹介されている。おそらくザアカイは、その立場を利用して利ざやを稼ぎ、自分の財産をつくりあげたのであろう。詐欺師と呼ばれ、誰も彼の言葉に耳を貸すことのない中で蔑まれながら積み上げた財産は、いわば彼の全てであった。ただ金の力だけが、彼が信じることの出来る唯一の力であったかもしれない。しかしそれはまた、苦悩と不安とによって押しつぶされそうにになる人生だったのではないだろうか。
そのザアカイが主イエスを「見ようとした」。この表現には、偶発的ではなく積極的に求める姿勢が込められている。金の力だけを信頼していたであろうザアカイは、主イエスが目の見えない男を癒された出来事を聞き、自分がまだ見たことも聞いたこともない「何か」を主イエスに期待したのではないだろうか。
ザアカイは、この主イエスという人を見ようとするが、群衆に遮られてしまう。しかしなぜかザアカイはそこであきらめず、何かに押し出されるかのように先回りし、木に登って主イエスを待ち構える。主イエスを見ようと求めたザアカイは、逆に主イエスの前に自分自身をさらけ出す。その彼に向かって主イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかける。この主イエスの言葉は確かに、ザアカイへの招きの言葉であるが、主イエスが招く先は、他でもないザアカイ自身の家である。つまり、ザアカイに対する主イエスの招きの言葉が、逆にザアカイに、自分の家に主イエスを迎えさせるのである。つまり、この物語でザアカイは、主イエスを見ようとして逆に見つけ出され、主イエスに招かれて、逆に主イエスを招くこととなるのである。
主イエスを迎え、それまでは金の力だけを信じていたであろうザアカイは全く違う生き方を与えられる。主イエスによって捜し出されたザアカイは、その主イエスによって新しい命へと招かれる。人々から非難される中、主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と主イエスは語るが、物語の中でザアカイの家を訪れたのは、他ならない主イエスご自身であった。つまり、ザアカイのもとに訪れた救いとは、十字架への道を進む、主イエスご自身に他ならない。十字架の死へと進み、しかしその死から甦られた主イエスこそ、私たちに与えられた救いなのである。主イエスの十字架と復活とは、私たちの智恵と力を超えて、私たちに備えられる、永遠に滅びることのない希望、新しい命への約束なのである。
この地上の世で、苦悩と不安の中で、私たちの目に救いは隠されているようにしか思われないことがある。けれども、救いそのものである主イエスご自身が、失われたものを探し出され、私たちの心を開いて私たちのもとを訪ね、私たちを新しい命へと招かれるのである。

2013年12月1日日曜日

やかまし村のクリスマス[12/1]

毎年恒例の「やかまし村のクリスマス」が行われます。
おはなしと歌の楽しいプログラムです。
ご家族で是非お越しください。
日時 2013年12月1日(日)14-15時
会場 ルーテル学院大学チャペル
入場無料

2013年10月30日水曜日

ルーテル学院大学愛(めぐみ)祭および、ウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝のご案内[11/2-3]

今年度のルーテル学院大学愛(めぐみ)祭は11/2-3に行われます。是非皆様ご参加下さい。
また11/3(日)はウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝となります(聖餐式は行われません)。
(礼拝時間、場所は通常通りです。)

ウィークデイの集会について[10/31,11/1,11/13,11/20]

 週日の集会として、聖書の学びとして10/30(水)よりローマ書の学び(水11時)が集会所にて行われます。なお牧師所用のため11/13(水)、11/20(水)の聖書の学びはお休みいたします。
 また、小教理問答の学び(木・午前/午後、金・午後:時間はお問い合わせください)がいずれも集会所にて行われています。なお、10/31(木)、11/1(金)午後の小教理問答の学びは牧師所用のためお休みいたします。

[説教要旨]2013/10/27「自由と愛に生きる」ヨハネ8:31-36

宗教改革主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日の礼拝ではルターの宗教改革の出来事を思い起こしている。世界史では1517年10月31日にルターが贖宥状販売を批判する文書「95箇条の提題」をヴィッテンベルクの城教会の扉に掲示したこととされ、この時から宗教改革が開始したとされている。しかし後の宗教改革の火種となった「神の義」の発見は、それに先立つこと数年前に起こっていた。1511年に開設間もないヴィッテンベルク大学の教員として赴任したルターは、1513年から詩編の講義を行う。しかし聖書に描かれる「義なる神」を前に、ただ裁きと罰に対する恐れを抱く事しかできなかったルターは深い苦悩に陥る。しかし、この詩編講義が行われた1513~1515年の間に、いわゆる「塔の体験」と呼ばれる、「義の神」から、「神の義」を発見するという経験をすることとなる。それは、「あなたの義によって私を解放して下さい」という詩編71編の言葉をどのように解釈するかをめぐって起こったようである。塔に引きこもって聖書を研究する中でルターは、それまでは、裁きと罰を下すためであった正しさの基準は、人を解き放ち、活かすための愛と恵みの出来事として理解したのだった。言うならばそれは、神の義とは、救いと解放をもたらされる主イエス・キリストそのものとして受け取られるようになるという経験であった。ルターを縛っていた恐れと不安、そして苦しみからの解放の体験は、世界を揺るがす出来事の序章であった。
 本日の福音書に登場する者達は、「真理はあなたがたを自由にする」と語られる主イエスに対して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問いかける。彼らにとって、自由とは彼らが既に手にしているものであり、真理とは彼らが既に知っているものであった。それに対して主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られる。それは、十字架へと向かわれ、その絶望的な死から甦られた、この言葉を語られる主イエスご自身が、真理そのものであり、私たちに自由を与える存在であるからに他ならなかった。
 主イエスがご自身の弟子であることを、「わたしの言葉にとどまる」と語られる。主イエスの「言葉」、それは十字架の直前に弟子たちに語られた、「互いに愛し合いなさい」という言葉に他ならない。すなわち、人が主イエスの言葉に留まり、互いへの愛の内に生きる時、十字架へと歩まれる主イエスは常に共に歩みつづけてくださるのである。たとえこの地上において、愛に生きることがどれほど困難に見えたとしても、あるいは徒労にしか見えなかったとしても、十字架への道を歩まれる主イエスが共にいてくださるならば、それは決して失望に終わることはない。主イエスの十字架とは、この世におけるあらゆる絶望と喪失の先に、希望と解放を神が与えられた出来事に他ならないからである。そして、その出来事は人の思いと経験を超えて、ただ神の愛からの恵みとして与えられるのである。十字架へと向かう主イエス・キリストの弟子として、私たちが自由なものとして生きるということ、それは同時に、十字架によって私達に与えられている、神の愛と恵みの中を歩み続けることなのである。

[説教要旨]2013/10/20「絶えず祈るためにて」ルカ18:1-8

聖霊降臨後第22主日

初めの日課 創世記 32:23-32 【旧約・ 56頁】
第二の日課 Ⅱテモテ 3:14-4:5 【新約・ 394頁】
福音の日課 ルカ 18:1-8 【新約・ 143頁】

 絶えず「祈る」こと。それは現代に生きる私たちの信仰生活においても、私たちがキリスト者でありつづけるために非常に大きな意味を持っている。しかし、同時に、そこには私たちがどこまで祈ることができるのか、どこまで祈りつづければ、ふさわしい者とされるのか、それは測り、評価することができるのか、という問いかけもまた常につきまとっている。
 本日の福音書の場面は、弟子と論敵とを前にして17章の終わりで主イエスは神の国の到来について語られたその続きの場面となっている。「神の国はいつ来るのか」という論敵から問いかけられ、主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられる。たとえ人の目には何の変化も無いように見える中にも、実は神の国は「ある」こと、そしてそれは特定の場所や時代に限定されるものではないことを教えられる。そしてこの「神の国」とともに人が生きるために「気を落とさずに祈らなければならない」ことを、本日の譬えを通して語られる。
 本日の譬えに登場する「やもめ」は、古代の地中海世界において経済的・社会的に特に弱い立場におかれていた。言うならば「とるに足りない者」「弱い者」として社会の片隅に追いやられ、その願いも叫びも無視されることが当然とされる存在であった。さらに、このやもめの訴えを聞くべき者が、神を畏れず、人を人とも思わない、不正な裁判官であるとされることで、このやもめを取り巻く状況が絶望的であることが語られる。そうした絶望的な現実の中で、やもめが出来る事は、それがいつ実現するのかという保障はどこにも無いままにただ訴え続けることだけであった。しかし、その訴えは聞き届けられることを主イエスは語られる。
 このたとえの中では、このやもめの訴えが聞き入れられたことについて、彼女が信仰深かったからだとか、正しい人だったからとか、そうした説明は何もなされていない。彼女にあったのは、自らのその絶望的な弱さだけであった。しかし、その弱さゆえに、彼女は訴え続け、その結果として、無いはずのものとして無視される声が、取り上げられることとなる。それは私たちの生きるこの世の価値からするならば、起こりえない非常識な結論である。しかし、私たちに間に起こる神の国は、そのような非常識な逆転を引き起こす力があることを主イエスは、論敵、弟子たち、そして現代の読者である私たちにも教えられるのである。絶望の中に希望が与えられるという非常識な逆転が起こるという、その言葉が真実であることを、この旅の目的地であるエルサレムで主イエスはその十字架と復活によって示された。たとえ人がその弱さの中で悩みと悲しみの中で生きなければならなかったとしても、その苦難と悲しみの中から挙げられた祈りの声は、十字架を通して、神に届けられている。その事実こそが、私たちに与えられた信仰であり希望である。私たちは、その主イエスの十字架の出来事を互いに伝え合うことによって、キリスト者でありつづける。教会であり続けるのである。

[説教要旨]2013/10/13「イエスのもとに戻って」ルカ17:11−19

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 列王記下 5:1-3、7-15b 【旧約・ 583頁】
第二の日課 Ⅱテモテ 2:8-15 【新約・ 392頁】
福音の日課 ルカ 17:11-19 【新約・ 142頁】

本日の福音書の冒頭ではこれが、十字架が待ち受けている都エルサレムへの旅の途中であることが思い起こされる。十字架への旅路が始まる前、洗礼者ヨハネが弟子達を通じて「来るべき方はあなたでしょうか」と問いかけた時、主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(7:22-23)と応えられた。さらに十字架への旅の途上でも、悪霊の癒しについて「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(11:20)と主イエスは語られる。すなわち、主イエスは福音の宣教と癒しの出来事が起こるところに神の国を来たらせるために来られたのであった。そしてその行き着く先が十字架の出来事であった。
本日の福音書では、村はずれで重い皮膚病の人々が主イエスに向かって「憐れんで下さい」と叫ぶ。彼が遠くから主イエスに叫んだのは、当時の社会では彼らはその病のゆえに差別され、共同体から排除され、人との接触を制限されていた。この叫びに主イエスは応えられるが、その様子はいささか奇妙に思われる。主イエスは既に5章でも重い皮膚病の人に触れて直接に「清くなるように」と言葉を与えている。そうであるのに、ここでは主イエスは離れたまま、また直接的な清めの言葉無しに応えられるからである。実はここから私たちは別の意味を見出すことができる。主イエスの力が働くのは、決して直接主イエスに触れることのできる、限られた時と場所のことではない。いかなる隔たりも主イエスの力を遮ることは出来ない。だからこそ、主イエスから遠く離れている私たちが今聖書を通してその言葉を聞くときもまた、そこで主イエスの力は私たちのうちに働くのである。
清められた十人のうち一人のサマリア人は自分が癒されたことを知る。「清くされた」という表現が、ここで「癒された」に変化していることは興味深い。つまりこの人は病気の治癒という外面的な出来事の背後に、もっと根源的な力が働いていること、つまり神の国が今自分のもとに到達したことを知ったのだった。まさに主イエスの言葉が伝えられるところに神の国が到達するということに他ならない。自らの内に起こったことを知り、この人はその出来事の始まりである、言葉と力の源、主イエスの元へと戻る。当時、サマリア人とユダヤ人は歴史の中で対立と憎悪を深めていた。しかし、この人はそうした地上での対立や憎悪を超えて、主イエスの元へと戻る。そのことは、この人の内に到達した神の国の力は、この地上の対立と憎悪を超えて働くものであることを示している。主イエスの元でこの人は、さらに「立ち上がりなさい」という言葉を与えられる。癒しを与える主イエスの言葉は、人を再びこの地上で立ち上がり、生き抜く力を与え、そしてさらにこの世へと派遣する力となる。主イエスの言葉こそが私たちが帰るところである。私たちは主イエスのもとへと戻り、その言葉によって癒され、満たされ、立ち上がる力を与えられ、そしてまたこの世に遣わされて行くのである。

[説教要旨]2013/10/06「たとえ取るに足りなくても」ルカ17:5−10

聖霊降臨後第20主日

初めの日課    ハバクク 1:1-4、2:1-4    【旧約・ 1464頁】
第二の日課    Ⅱテモテ 1:1-14    【新約・ 391頁】
福音の日課    ルカ 17:5-10    【新約・ 142頁】

 本日の福音書の冒頭では、使徒と呼ばれるイエスの直弟子たちが「わたしどもの信仰をましてください」と主イエスに願う。使徒達はその名に恥じないように、周囲の者から尊敬され、その言葉が聞かれるに値する者となる事が出来るために、より多くの信仰を強い思いで求めたのかもしれない。それに対して主イエスが使徒達だけに向かって応えられたのか、それともそこに集まっていた弟子達全員に向かって言われたのかは不明だが、いずれにしてもそこには使徒達を含んだ弟子たちの集団、キリスト教会の原型とも言える集団が聞き手を思い浮かべることができる。主イエスは、その彼らの願いに対して、あなたがたにはからし種ほどの信仰が果たしてあるだろうか、と肩透かしを喰らわせる。
 主イエスはさらに主人と奴隷の譬え話を語られる。今日の社会では、奴隷制は倫理的・道徳に認められるものではないので、こうした社会制度が無条件で語られることに、現代人の私たちはいささか戸惑いを憶える。しかし、この譬えは奴隷制度の善悪について語っているのではなく、当時の社会の中で生きる人の日常の生活の様子を通して、より自分自身に引きつけてこの言葉を聞くための題材として受け取ることが必要である。そうであるからこそ、現代人である私たちがこの題材を理解するには、その背景についてのある程度の知識が必要となる。当時の社会で奴隷は、戦争に敗北し占領された地域の捕虜や、重税のために生ずる負債のゆえに売られた者達であった。つまり奴隷とは、人間の弱さや負い目を象徴するものであった。そしてこの譬えではその奴隷(僕・しもべ)の働きによってどれほどの実りが出たとしても、それはただ主人から与えられたものを扱っているに過ぎないことが強調される。弱さと負い目を乗り越えることなど出来ない人間が、その人生のうちでどれだけの実りをもたらしたとしても、それは与えられた命を生きる上で決定的なことではない。また私たちの為し得るものがどれほど取るに足らないものであったとしても、それもまた問題ではない。ただ命の造り主である神だけが、私たちに命を与えられるのならば、私たちがどれほどの実りを獲得したか、どれほど人からの尊敬を勝ち得たか、ということは、その人の命の価値を決定するものとはなりえない。そうではなく、私たちはただその与えられた命を懸命に生き抜くことこそが、私たちに与えられた使命なのである。そのことを、この譬えは私たちに気付かせる。
 私たち自身のうちにあるものによって、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』というかのような、何か特別な大きなことを為すことなど不可能である。私たちに出来る事とは、ただ主イエスの言葉に信頼し、主イエスの言葉に希望をおくことに他ならない。あらゆる人の思いが敗北してしまった、あの人間としての弱さの極地である十字架の死か甦られた主イエスの言葉は、私たちに、私たちの命の進むべき道筋を、私たちの命の本当の価値を示される。そして、私たちが主イエスの言葉を信頼し、その言葉に希望を見出す時、私たちは、自分自身の背負う様々な敗北、失敗、負い目から赦されて生きることが出来るのである。

2013年10月9日水曜日

ルーテル学院大学「愛(めぐみ)祭」フリーマーケット出店募集[11/02-03]

今年のルーテル学院大学の学園祭「愛(めぐみ)祭」でのフリーマーケットへ出店してくださる方を募集しています。
以下チラシより転載。
<転載ここから>
第35回愛祭「フリーマーケット」開催のご案内
ルーテル学院大学では、11/2(土)~3(日)の2日間、学園祭(愛祭)を開催し、昨年に引き続き「フリーマーケット」を行うことになりました。フリーマーケット出店料は、チャイルド・ファンド・ジャパンに募金し、フィリピンの学校に通うことのできない子どもたちの学費などに充てられます。多くの皆様からのお力添えにより、たくさんの子どもたちの力になりたいと考えていますので、皆様のご出店を実行委員一同、お待ちしております。ご協力よろしくお願いいたします。

■開催日時
第1日目 11月2日(土)10:00~16:00
第2日目 11月3日(日)10:00~16:00
■出店場所
ルーテル学院大学・食堂内(12区画予定)
■区 画
1区画 縦1.5×横1.8 ※区画数、サイズ、場所については変更になる場合がございます。
机1台貸し出し可
■申込方法
出店マニュアルを必ずお読みいただき、メールにてお申し込み下さい。
尚、お申込みをいただいた時点で、出店マニュアルに記載してある事項に同意(誓約)したものと
みなします。
【申込期間】規定区画数に達し次第終了
【申込方法】メールのみ
※お電話、FAX、郵送での申し込みは一切受け付けておりません
大学HPの愛祭のページから「フリーマーケット出店マニュアル」をよくお読みいただき、メールにてお申し込みください。
■申込み後の流れ
●お申し込みを確認できましたら、こちらで出店審査を行い、申込完了(出店許可もしくはお断り)のご連絡をお知らせします(CFJ案内資料、当日参加者マニュアル同封)。
●開催当日会場にお越しいただき、出店料をお支払ください。
■注意事項
規定区画数の応募があり次第、終了とさせていただきますので予めご了承ください。
応募終了の場合は、HPにてお知らせいたします。
■出店資格 高校生以上
■出店料 1日1区画 ¥600(両日参加の場合1区画1,000円=1日あたり500円)
■お問合わせ メールのみ対応いたします (注:お電話、FAXでのお問い合わせ等は一切受け付けておりません)
愛祭実行委員会 バザー・フリーマーケット担当 gakuensai@@luther.ac.jp (メール送信の際は@を一つにしてご使用ください。)
受付時間 9:00~17:00(平日のみ)

2013年10月5日土曜日

[説教要旨]2013/09/29「耳を傾けて」ルカ16:19-31

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 アモス 6:1a、4-7 【旧約・ 1436頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 6:6-19 【新約・ 389頁】
福音の日課 ルカ 16:19-31 【新約・ 141頁】

 本日の譬えでは金持ちとラザロとは極めて絶妙なバランスで描かれている。もしこの物語の中心人物はどちらかを問えば、後半に向けてスポットライトがあたるのは金持ちの方であると言わざるをえないだろう。だとするならば、この譬え話を聞いている多くの者は、ラザロよりも金持ちの方に、自らを重ね合わせて聴いていたのではないだろうか。
 ルカが福音書を編纂した時代、キリスト教会はローマの属州の都市の中にその場所を移していた。そこでは、栄誉と名声を求めてより高い地位を目指し、そのために充分な財力を持つことは、人がその命を意味あるものとするために正しくふさわしい価値観であった。一方で、貧しく困窮した者は、その社会的な境遇が決して自分達自身の責任ではないにもかかわらず、犯罪の温床と見なされ、何事も成し遂げることのできなかったその命は、保護されるべき対象とは見なされなかった。
 全ての人間に平等に訪れる運命である「死」を境にして、地上での境遇と、死後の境遇が逆転するという、この譬えは、聴く者に対して、今の自らの歩みを振り返らさせる。たとえ、この地上において、正しくふさわしいものとして歩み、何事かを成し遂げたかのように思っていたとしても、自分の戸口の前にいる、苦悩し困窮する者が自分には見えていないという現実に目を向けさせるのである。そしてまた同時に、この地上においてはただ苦悩と悲嘆とを心に抱き続けるしかなかった者には、天の祝宴の喜び希望を語るのである。
 物語の後半、地上の名声を得るためではなく、戸口にいる困窮と悲嘆の内にある者のためにその富を用いることの意味を、この陰府において初めて知った金持ちの男は、ラザロを蘇らせて家族のところへ使わして欲しいと願うが、退けられる。「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というアブラハムの言葉は、聴く者に対して、この譬えを語っておられる、主イエスご自身の十字架と復活について思い起こさせる。そしてそうであるがゆえに、この譬えは、十字架と復活の主イエスが語られていることを知りつつ聖書を読む私達に向けて語られていると言える。このたとえの締め括りの部分に至って、その言葉に耳を傾けねばならないのは、まさに今、聖書を読む私達なのである。
 痛みと絶望の極みである、十字架の死から甦られた主イエスが、聖書を通して私たちに呼びかけておられる。そうであるからこそ、この主イエスの言葉は、ただ恐ろしい陰府のイメージによって、私たちを脅迫するためのものではなく、むしろ私たちへの励ましと招きの言葉なのである。この世においては何も成し遂げることが出来ず、ただ痛みと悲しみの中で嘆くしかなかった者にとって、地上の功績は決して命の全てではないことを、死から甦られた方が教えられるからである。そして同時に、この地上における名誉と力を得ることが命の価値の全てではないことを私たちに呼びかけている。それは、どうにもならない死と向き合う中で嘆き悲しむしかない私たちに、その命へ与えられる神の約束と希望について語る言葉にほかならない。そしてそれは、私たちが今生きているこの現実の在り様を、もういちど見つめ直させ、その希望に向かう生へと私たちを導く言葉なのである。

2013年9月29日日曜日

[説教要旨]2013/09/22「本当に価値あるもの」ルカ 16:1-13

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 アモス 8:4-7 【旧約・ 1439頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 2:1-7 【新約・ 385頁】
福音の日課 ルカ 16:1-13 【新約・ 140頁】

 この譬えの登場人物である「不正な管理人」の何が「不正」であったのか、ということを巡っては、古くから議論がある。いずれにしても、このたとえ話だけからでは、私たちは、この管理人の行為と、主人が誉めたという行為との間には、論理的なつながりを見出すことは非常に難しい。そこでこのルカ16章全体に目を向けると、ここでは特に「富」の扱いについての注意を喚起させていることに気付く。ルカが福音書を編纂した時代、富をどのように扱うかということは難しい問題であった。ローマ化された都市では、名声と名誉を求めて、より上の高い階層を目指すことは人生の価値そのものであり、そのためには多くの財産が必要であった。より良き生を求めて、エリート階層は蓄財に励んだ。その結果として、農村は税金や借金を通してその全てを搾り取られ、多くの人々が土地を失い、奴隷へと身を落としたが、それは大変不名誉なことであり、何としても避けたい危機であった。本日の3節の管理人の不安の言葉は、そうした現実を映し出す。そこでは富とは、自分自身を高みに引き上げ、より良き人生を守るためには、欠かすことの出来ない頼るべき唯一のものであった。しかし、本日のたとえ話では、「不正な」とされている管理人は、その人生の危機にあたって、富ではなく、友をつくることに、すなわち助け合い、補うあう仲間に、自分自身の命の根拠を見出すこととなる。それは大いなる皮肉と言わざるを得ない。富が支配する世界から転落することを恐れた結果、富ではないものによって支えられる世界を、この不正な男は見出すこととなるからである。
 さらにこの物語の皮肉な要素は、私たちが生きている価値観や秩序にも向けられる。私たちは、自分の知っているこの生のあり方こそが、「正しい」価値であり、それを主張すれば、誰もがそれを受け入れるべきと思い込んでいる。だから「不正な」管理人が賞賛されるというこの物語は、私たちの価値観からすれば、あり得ないことなのである。したがって、この物語は私たちの価値観と生の在り様を問い直すこととなる。
 私たちの将来にとって、本当に価値あるもの、わたしたちにとって決定的であること、それは神の国における救いに他ならない。それは富によって決して手に入らないものなのである。むしろただ、私たちは、その神の国に向かって、主イエスの後を共に歩む、信仰の友、信仰の共同体だけが、私たちに備えられた地上の財産であることを、この極めて皮肉なたとえを通して、私たちは気付かされることとなる。この地上において、価値の無いものとしてあざ笑われる時、私たちは嘆く必要な無い。それは神の国において決定的な事柄ではない。本当に価値あるものは、ただ神によって私たちに与えられる。主イエスが十字架において処刑されたということは、この世において最も価値無き者となったということであった。しかし、その主イエスを神は甦らされた。この十字架の元に私たちが呼び集められる言うこと、それは、この地上における価値観では、自らにとっては価値無き者、無意味な者と見なされたとしても、神は共に主イエスの後に従う群れに必ず救いを与えて下さるのである。地上の言葉によって傷つく私たちは、その十字架の主イエスの言葉によって招かれ、そして共に歩む力を与えられる。

2013年9月21日土曜日

[説教要旨]2013/09/15「一緒に喜んでください」ルカ15:1-10

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 出エジプト 32:7-14 【旧約・ 147頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 1:12-17 【新約・ 384頁】
福音の日課 ルカ 15:1-10 【新約・ 138頁】

 私たちは、自らの利益を見込むとき、期待に胸をふくらませて喜ぶ。しかしそれは、同時にその影で、奪い取られ、与えられずに捨て置かれる声があることを忘れさせる。ならば私たちが、本当の意味で、喜びを分かち合うことは、どのようにして可能なのだろうか。
本日の箇所では、「徴税人や罪人が皆」、主イエスのもとにやってきたことが報告されている。ます。1世紀の時代、徴税人は異教徒であるローマ帝国の手先として厭われた職業であった。徴税人は金持ちであったというイメージがあるが、福音書ではザアカイの他には、そのことは明示されてはいない。むしろ道端で異教徒、外国人の手先として金を集め、時として、規定以上にとりたてようとすることもあり、人々からは「こずるい奴ら」というような扱いをうけていたようである。その一方で、取り立てた税は、元締めに吸い取られてしまい、何かトラブルがあれば、まっさきに首をきられる。そのような不安定な立ち場にあった者が圧倒的に多数であった。またここで、徴税人と並んで登場する「罪人」は、いわゆる道徳的な意味で悪いことをしたとか、現代的な意味での犯罪者ということだけを意味していたのではなかった。むしろ、ユダヤの民としてふさわしい基準、律法を守ることができないような職業についている人々をも意味していた。たとえばそれは安息日にも働かなくてはならない人であった。彼らはいわば、当時のユダヤの社会の基準でいうならば、ふさわしくない、つまはじきにされた存在でありました。
 そうした人々と共に、主イエスが交わり、食卓を共にされることを、ユダヤの民としてふさわしく、敬虔で信心深い者として尊敬と信頼を集めていた者たちが非難する。これに対して、主イエスはたとえを用いて応えられる。羊の放牧、家の中での探し物、それらはいずれも民衆の生活そのものであった。しかし、その日常生活の中で繰り広げられる出来事は、私たちの考える価値観からあまりにもかけ離れたものであった。99よりも1の方に、大きな喜びがあり、それは(この後につづく譬えから類推するに)近所の人を招いて宴席を催すほどだというのである。あるいは1枚の銀貨が、友達を招いて(やはりここも何らかの宴席を設けて)祝うほどの価値があるというのである。一匹の家畜の値段がどれぐらいであったかについては、その種類や大きさによって諸説あるが、およそ100日分の日当に相当したと思われる。銀貨はおよそ一日の日当に相当した。したがって、祝宴の規模にもよるが、それらはいずれも、決して経済効率としては良いものとは言えなかったと思われる。つまり、当時の物価を考えるならば、これらは、およそふさわしくない振る舞いであるとしか言いようがないのである。しかし、そのふさわしくない振る舞いは、天をも巻き込む大いなる喜びを分かち合うことをもたらすというのである。
 十字架へと向かう主イエスは、罪人と共に歩まれ、そして、その十字架によって、贖うにふわさしくないはずの私たちのために、その命を分かち合われた。この主イエスの十字架によって、私たちは大いなる喜びへと招かれているのである。主イエスによって招かれている、この喜びを憶えつつ私に達に備えられた日々を歩んでゆきたい。

2013年9月10日火曜日

[説教要旨]2013/09/08「十字架を負って」ルカ14:25-33

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 申命記 30:15-20【旧約・ 329頁】
第二の日課 フィレモン 1-21 【新約・ 399頁】
福音の日課 ルカ 14:25-33 【新約・ 137頁】
説   教 「 十字架を負って 」

 本日の福音書箇所は、主イエスがガリラヤからエルサレムへと向かうその旅の途中で、ご自分の後を一緒についてきた者たちに「振り向いて言われた」とある。それは、旅の終着点であるエルサレムでの十字架を主イエスが見据えていることを思い起こさせる。本日の箇所の前半では、主イエスに従う者は、あらゆるもの、家族の絆、また私たちの命にすら優先して主イエスに従わなくてはならないことが語られる。それは、私たちと主イエスとの関係は全てに先立つものであり、むしろその主イエスとの結びつきが成り立つ時、私たちの既存の信頼関係また私たちの命すらも、全く新たなものにされることを示している。
 そして本日の福音書の後半では、いわば主イエスの弟子として、主イエスに従おうとする者の心構えとは、慎重に検討し、勇気を持って思い切った決断を下さなくてはならないものであることが語られる。この後半に語られる二つのたとえを読み返すならば、そこには「腰をすえて」という表現が共通していることに気付かされる。腰をすえる、ということは、何か別のこと意図しながらではなく、そのことに専心するということでもある。一度に押し寄せる数多くの準備から離れ、腰をすえて考えるのだ、と語るのである。つまりこれらの譬えは、終着点に辿り着くという一点以外の、全てから離れ去ることを語っている。家族と命を捨て、自分の十字架を負って主イエスに従う前半の教えと、後半の譬えがこの点で結びつく。
 古代の社会と文化において、家族とは一族郎党を含む大家族であり、その集団によって積み上げられてきた伝統、名声、財産をも示唆していた。そうした意味で、家族はこの世での力の根拠であり、自分の生の価値でもあった。したがって、家族また命すらも失うという教えは、自らの力を過信し、思い通りに他者と世界を動かそうとする者にとって、厳しい警告となる。しかしその一方で、全てを失い、挫折と苦しみのなかに投げ出される者にとって、それは大いなる救いの言葉となる。
 弟子達は、ガリラヤからエルサレムへと向かう主イエスの後を、自分自身の決断と意志によってついていっていると考えていた。しかし十字架へと向かう主イエスの後をついてゆくことはできなかった。しかし、まさに彼らがそういう存在であるからこそ、主イエスはその死を超えて彼らの元へと戻られたのであった。十字架の死に打ち勝たれる主イエスがその傍らで共に歩まれることによって初めて、人はあらゆることに優って主イエスに従うことができるのである。まさにその意味で、ガリラヤからエルサレムの旅は、実は、弟子たちが主イエスについていく旅なのではなく、主イエスが弟子たちと共に歩まれる旅であった。
 主イエスと共にその人生の旅路を歩むためには、出自も、家柄も、財産も関係がない。ただ一人一人が、何も持たざる者であり、苦悩する弱い人間であることそのものが問題なのである。そして、その苦悩の先には新しい命があることを、主イエスはご自身の十字架の死からの復活によって示された。その意味で、私たちが自らの十字架、つまり自らの苦悩を負う時、主イエスは私たちと共に歩んでくださっているのである。主イエスが私たちの人生の旅路を共に歩まれるからこそ、私たちは全てに優って主イエスに従うものとして、喜びと希望に満ちた新しい命への道を歩むことが出来るのである。

2013年9月4日水曜日

[説教要旨]2013/09/01「キリストの祝宴においては」ルカ14:1、7-14

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 箴言 25:6-7a 【旧約・ 1024頁】
第二の日課 ヘブライ 13:1-8、15-16 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 14:1、7-14 【新約・ 136頁】

 十字架の待ち受けるエルサレムへの旅の途中、14:1で主イエスは安息日にファリサイ派の議員の家に食事に招かれ、そこで病気の者を癒し、続いて宴席の譬えが語られる。主イエスの癒しの出来事は神の国の先触れであった。したがってここでは、主イエスが共にいる食卓が神の国の宴席に譬えられていることが示唆され、十字架の死に至るまで自らを低くされた、主イエスの生き様に私たちが倣うということこそが、神の国の宴席で欠かすことのできない振る舞いとして示されている。主イエスは十字架へと向かう途上で、抑圧され排除された人々へ関わり、食卓を共にされた。この世の価値観によって差別され、排除され、抑圧されてきた者たちにとって、イエスと出会い、招かれ、食卓を共にするという出来事は、自らを苦しめるこの世の力からの解放の出来事に他ならなかった。まさにその意味で、主イエスとの食卓は、救いと解放の出来事であった。そして本日の福音書では、この主イエスの言葉を聞く私たちもまた、主イエスの謙虚さに倣い、低みへと向かいつつ、この世において招かれざる者を招くことを教えられる。
 ここに、主イエスの捉え方についてのルカによる福音書の特徴が現れている。すなわち、無条件に私たちに出会い、招き、私たちを苦しみから解放し、救われる方としての主イエスの姿が示される一方で、同時に、私たちがそのみ後に続くことによって初めて出会うことができる、目指すべき模範としての主イエスの姿が重ね合わせられている。それゆえに、この同じ主イエスの言葉は、それを聞く者の立場によって、その受け取り方が異なってくることとなる。つまり、「お返しができない」「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」たちにとって、主イエスの言葉は無条件の救いの言葉であり、招きの言葉である。しかし同時に、人を招く余裕のある者、あるいは、盛大な宴会に招かれるような地位と名誉を持っている者にとっては、それは警告と戒めの言葉となり、主イエスとの出会いを求めて、主イエスに倣い、そのみ後に従い、低みへと下って行くことが促されることとなる。
 そのことは福音書をまとめたルカの教会の背景と、私たちの教会がおかれた状況が似ていることを思い起こさせる。おそらくルカの教会は、弱小集団にすぎないことを嘆きつつも、既に、決して困窮しているわけでも、特別に抑圧されているわけでもない、そのような集団となっていたのであろう。しかしそのような中で、主イエスの言葉から救いのメッセージを受け取り、それを伝える教会の使命は何かを見いだそうと模索していたのであろう。
 もし教会が現に今持っているものだけに目を向けるならば、ただその小ささと弱さを嘆き、孤立の内に取り残されるだけである。しかし教会が、抑圧され、言葉を奪われた人々に解放をもたらされた主イエスのみ後に続くならば、あの神の国の祝宴の喜びと希望に満たされることができるのだと福音書は語る。主イエスに倣い、他者のために自らを用いる時、私たち自身もまた大いなる尽きることのない喜びに満たされる。そのことを、この世の価値観・処世術では説明することはできない。しかし、十字架の死から甦られた主イエスは、決して消えることの無い希望として信仰者の群れを導くのである。主イエスの呼びかけに応える群れとして歩みたい。

[説教要旨]2013/08/25「癒しと解放の時」ルカ13:10-17

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 イザヤ 58:9b-14 【旧約・ 1157頁】
第二の日課 ヘブライ 12:18-29 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 13:10-17 【新約・ 134頁】

 私たちが、自分の経験や知識、秩序の外側にあるものに触れ、受け入れることは、決して簡単なことではない。それは私たちの築き上げてきたもの否定しかねない脅威だからである。しかし、私たちが自らの内側の論理だけに依拠するとき、私たちは致命的な誤りを繰り返さざるを得ないことを、私たちは過去の戦争の歴史から学ぶ。ならば、私たちはどこから、自分達の外側にあるものから聞く勇気を得ることができるのだろうか。
 本日の福音書は、世の終わりについて語られてきた直前までの箇所から一転して、「癒し」と「安息日についての論争」が語られる。しかし「世の終わり」もまた、この地上に「神の国」が実現することの教えであり、また本日の日課に続く13:18以下においても、「神の国」についてのたとえ話である。そして、なによりも「癒し」の出来事は、そこに神の国の先触れが現れていることの徴に他ならなかった。十字架の待ち受けるエルサレムへと向かう途上で主イエスは様々な角度から神の国について語られる。
 前半では18年間腰の曲がった女性の癒しが語られる。この女性が敢えてここで「病の霊にとりつかれている」という表現がなされている。それは、この女性の癒しを告げる主イエスの言葉「婦人よ、病気は治った」という言葉が、直訳するならば「病は離れ去った」と語っておられることに対応する。主イエスの言葉こそ、命を脅かす力に打ち勝つものであることを、福音書記者は特に強調する。
 後半ではこの癒しの出来事が安息日に起こったことを巡っての論争が巻き起こされる。緊急性がないにもかかわらず、なぜ安息日でなければならなかったのかを問題にする宗教的指導者たちの言い分は、ある意味で妥当である。安息日が創造の完成であることを憶えるために労働が制限されることは、少なくとも、ユダヤ・イスラエルの地で生きてきた人々にとって、誰もが知り経験している秩序であった。しかし主イエスは「偽善者達よ」という厳しい言葉で応えられる。
 この女性について主イエスは18年間サタンにしばられていたと語る。その背後には、「18年間もの間、サタンの支配にあるということは、それ相応の罪をおかしているに違いない」という世間の目にこの女性がさらされ続けてきたことが暗示される。主イエスを非難する宗教的指導者達は、いわばそうした「世間の目」を代表する立場であった。彼らが自らの秩序の枠組からのみこの女性に向かう時、痛みを分かち合うことは阻まれ、むしろ増し加えられることとなった。主イエスの言葉は、自分達の秩序に留まろうとすることが、むしろ他者への愛の欠如を招いていることを明らかにする。実に主イエスは、その十字架によって無限の神の愛をこの世界に分かち合われたのであった。
 主イエスは安息日であっても癒しはなされるべきであると語る。なぜならば、安息日は神の創造の業が完成されることであり、それは神の国が立ち現れることに他ならなかった。主イエスの言葉によって癒しと解放がなされる時こそが真の創造の完成であり、それは十字架に向かう主イエスの言葉によって私たちに示される。たしかに、私たちが、自分達の経験の外側から学ぶことは困難である。しかし、主イエスの言葉は、そのような私たちを、私たちの外側にある、真の創造の完成・キリスト者がめざす真の平和へと招いている。

[説教要旨]2013/08/18「分裂と対立を超えて」ルカ12:49-56

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 エレミヤ 23:23-29 【旧約・ 1221頁】
第二の日課 ヘブライ 11:29-12:2 【新約・ 416頁】
福音の日課 ルカ 12:49-56 【新約・ 133頁】

 本日の福音書の日課で語られる「火」という表現を聴くと私たちはおそらくまず破壊的な裁きの炎を連想する。しかしルカ福音書の続巻である使徒言行録の冒頭では聖霊降臨の出来事として天から下る炎が語られている。聖なる神の霊の炎によって浄められた弟子たちは、福音を世に伝える者として新たな命を与えられた。火は恐るべき裁きの炎であるのと同時に、聖なる力によって浄められ、新たな命が燃え立つ様子をも表す。火がもつこの二つの性質は、聖書が語る「世の終わり」の持つ両義性と重なる。確かに世の終わりは一面では裁きと滅びを語るが、それは命を傷つけ抑圧する古い時代の力が裁かれ滅び去ることを告げる。そして他面では、全ての涙と悲しみが報いられ、神の愛と正義が満ちる場が実現することをも示す。その意味で、主イエスが地上に投じられる火とは、古い世を新しい世へと造り替えるものなのである。
 さらに本日の日課では、世を新たにする主イエスの炎は、主イエスが受けねばならない「洗礼」と結びついている。エルサレムへと向かう旅の途上で主イエスが語られる「受けねばならない洗礼」とは、主イエスを待ち受ける十字架の出来事に他ならない。世を新たにする主イエスの炎は、十字架の出来事として私達が生きるこの地上にもたらされる。主イエスはその十字架の死によって私たちにご自身の命を分かち合われ、しかしその死に留まらず永遠の命への道を私たちに開かれた。主イエスの十字架こそが、私たちの生きるこの地上の世界を、新たなにしうる唯一のものなのである。そうであるならばこそ、なぜ主イエスは十字架が分断と対立とをもたらすと語られるのだろうか。
 実に、主イエスのもたらす平和は根本的かつ決定的なものであり、一時的な、いずれ変わりゆくものではない。主イエスのもたらす平和とは、生きる術と力を奪われ抑圧され差別された者達のその涙と呻き・嘆きの声に報いられるものなのである。この主イエスの真の平和が私たちのもとにもたらされる時、そこで問われるのは、主イエスの平和が私たちにとって居心地が良いかどうかなのではなく、全く逆に、私たちの方が主イエスの平和にふさわしいものであるかどうかが問われる。
 私たちが生きているこの地上の世界においては、人は自分の既得権益が脅かされることを恐れ、悪がどこから生じているのかを明かにすることを好まない。私たちが生きているこの地上の世界は既にその内側に決定的な歪みと断絶を抱えていながら、私たちはそれに向き合うことを恐れている。むしろ、歪みも断絶もあたかも存在しないかのように隠し、それによって生み出される負債と矛盾を他者に、あるいは未来に押しつけようとしている。それこそが私たち人間の姿に他ならない。しかし主イエスはその言葉によってこの分裂と対立をその根底まで明らかにし、ご自身の十字架によってその命を与え、全く新たなものとされる。私たちに主イエスがご自身の命を分かち合われたことによって、私たちは自らの内にある分断と対立に、恐れることなく向き合い、乗り超え、新たな世界・新たな分かち合い支え合う命を生きることが出来るのである。真の平和とは何かを主イエスの言葉から聞きつつ、主イエスの十字架と復活によって新たな命を生きることを求めつつ、この残された8月の時を歩みたい。

2013年8月16日金曜日

[説教要旨]2013/08/11「小さな群れよ、恐れるな」ルカ12:32-40

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 創世記 15:1-6 【旧約・ 19頁】
第二の日課 ヘブライ 11:1-3、8-16 【新約・ 414頁】
福音の日課 ルカ 12:32-40 【新約・ 132頁】

 8月は日本社会においては、平和について思いを寄せなければならない季節である。しかし、私達が思い浮かべる平和とは、より大きな力を自分が有することによって、周囲の者を圧倒し、押さえつけることでしか成り立たない。過去の戦争の歴史を振り返るならば、より強い力を得ることで、自らの平和と繁栄を確保しようとしては、それが破綻し、大量の破壊と殺戮が繰り返されてきたことに気づく。したがって、私達が歴史に学び、真の平和を求めるのであれば、自らが強くなり、他の者を圧倒し押さえつけるのではない方法で、平和を構築していくしかない。けれども一方で、そのようなものは誰も見たことも体験したこともないような夢想・理想論でしかないではないか、それよりも今、強くなり、豊かになることの方が現実的ではないかとも非難される。ならば私達はどこに、真の平和のあり方を見出すことができるのか。
 十字架において、そのご自身の命すらも、私達の救いのために分かち合われた主イエスは、この十字架の待ち受けるエルサレムへの旅の途上で、弟子たちに対して、分かち合うこと、支え合うことを繰り返し語られる。そうした文脈の中で、本日の福音書では、「恐れるな」「富を天に積みなさい」という教えと、「終末に備えて目を覚ましているように」という教えとが語られる。一見無関係のように見えるこの二つの教えで、「盗人」=「泥棒」という同じ語が、敢えてそれぞれの教えの結論のところで用いられている背後には、財産に対する教えと、終末についての教えとの間に、強いつながりがあったことを示唆している。この二つを結びつけるものとは一体何なのだろうか。
 聖書が語る、終末・世の終わりとは、単に世界の破滅的な終わりの恐怖を煽るものではなく、神の国の完成と、主イエスとの再開への希望を意味していた。それは同時に、この地上で、人の命を傷つけ脅かすいかなる力、暴力も貧困も差別も抑圧でさえも、いずれ滅び去るものであることを意味した。それこそが古い世の終わり、そして新しい、まだ誰も見たことも体験したこともない世界が創り出される出来事であった。その時が一体いつなのかは誰にも分からない。けれども、そのまだ誰も見たことも体験したこともない神の国は、必ず、しかし人知れず、まるで盗人のようにやってくる。だから、主イエスの弟子であろうとするもの、主イエスに従おうとする者は、そのまだ見たことも体験したこともない神の国を思い描き続け、備え続けることが求められるのである。
 ならば、どのように備えることができるのか。その一つの示唆が、本日の前半の部分で語られている。それは「神の前に豊かになる」ことの内実でもある。「神の前に豊かになる」こととは、力と富を独占することではなく、分かち合うことに他ならない。そしてさらに、これは「思い悩むな」という教えの結論でもある。主イエスが語られる「思い悩むな」とは、単に消極的な制限・否定の戒めではなく、むしろ積極的に神の国を求める姿なのである。「小さな群れよ、恐れるな」とは決して困難なことから目を背け、見ないようにするという道なのではない。むしろそれは、私達が恐れることなく、まだ見ぬものへ向かって歩むための根拠なのである。平和について思いを寄せるこの8月、恐れることなくまだ見ぬ真の平和を求め続けたい。

2013年8月7日水曜日

[説教要旨]2013/08/04「平和―神の前の豊かさ」ルカ12:13-21

聖霊降臨後第11主日・平和の主日

初めの日課 コヘレト 1:2、12-14、2:18-23 【旧約・ 1034頁】
第二の日課 コロサイ 3:1-11 【新約・ 371頁】
福音の日課 ルカ 12:13-21 【新約・ 131頁】

 本日、8月第1日曜はルーテル平和主日である。68年前に多くの犠牲者を生み出した戦争、とくにヒロシマとナガサキの二つの原子爆弾の出来事は、日々風化しつつあるようにすら思える。しかし2011年3月11日の東日本大震災以来、真の平和とは何なのかということが問われている。解決されない放射能の問題、復興の名の下に切り捨てられて行く社会的弱者、そうした現実を前に、多くの人が、深い失望と絶望に、そして不安と危機感とにとらわれている。平和について考える時、私たちを本当の意味で満たすものは何なのかを問わなければならない。ルカによる福音書では、「財産」「富」に関する教えが度々取り上げられる。それは、奪い合いではない、真の豊かさとは何かを示す。この主イエスの言葉から「真の平和とは何か」を聞き取ってゆきたい。
 15節で、主イエスの「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉に続いて、一人の金持ちのたとえが語られる。17節以下の金持ちの独白は、新共同訳では気付きにくいが、これをギリシア語もしくはその他の言語で読むと、そのほとんどが「私」が主語となっていることに気付く。しかもそこでは「私の」作物、「私の」倉、「私の」穀物と財産、と何度も「私の」ということが強調されている。そしてついには「自分(=「私の」魂)に言ってやるのだ」と語る。いわばこの男はあらゆるものを「私」が独占することを追求している。客観的に見るならば、この人物は決して愚かな人物ではない。むしろ有能な優れた人物であり、彼はその自分の持てる能力によって、あらゆるものを独占し、幸福を追い求めようとしていると言える。しかし、この金持ちのそうした試みに対して、「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる」と神は語られる。この有能な人物が、どれほどその能力を駆使して地上の富の独占を実現したとしても、彼は自分の命を自分のものとすることは出来なかった。実のところ、ただ命の創造主である神から命を与えられ、生かされている存在に過ぎない全ての人間は、誰一人自分自身の命をしまい込み、独占することなど出来ないのである。
 この譬えを語られる主イエスご自身は、十字架を通して、そのご自身の命すらも私たちの救いのために分かち合われた。その十字架の主イエスに従う弟子として、神の前に豊かであること、それは私たちが、奪い合い、独占するのではない生のあり方、すなわち真の平和を求めることに他ならない。
 平和の実現を求め、自らの持てるものを分かち合っていくことは、時として、全く愚かな振る舞いであるかのように語られる。なぜそのような損を引き受ける必要があるのか。そのようなことは自分達の知ったことではない。それは後の時代の人間にまかればよい。むしろ今はなぜ強く、豊かになることを求めないのか。そのように非難されることがある。しかし、主イエスに従う私達は、そうではない神の前の豊かさとしての「真の平和」があることを知っているのである。それは奪い取り、独占することで、自らを満たそうとする姿の対局にある。喜びも痛みも分かち合うことの中にこそ、真の神の前の豊かさがあることを私達は思い起こすのである。私たちを神の慈しみが満たし、神の平和によって今日が守られることを憶えつつ、この平和を考える8月の日々を共に歩んでゆきたい。

2013年8月1日木曜日

[説教要旨]2013/07/28「祈るときには」ルカ11:1-13

聖霊降臨後第10主日

初めの日課 創世記 18:20-32 【旧約・ 24頁】
第二の日課 コロサイ 2:6-15 【新約・ 370頁】
福音の日課 ルカ 11:1-13 【新約・ 127頁】

 「祈り」そのものは、おそらくあらゆる時代の宗教の中で普遍的に行われる宗教行為であろう。自分ではどうにもならないこと、どうにもならない願いを、人は、人ならざるものに託す。そうした表面的な形だけを見るならば、キリスト教でなされる祈りも同じ行為であると言える。ならば教会で行われる「祈り」と、「呪術」「魔術」との違いは無いのだろうか。私達のなす「祈り」とは、自分ではどうにもならないことを、人ならざるものの力を利用して実現しようとすることでしかないのだろうか。
 本日の福音書では、まず最初に「主の祈り」として私たちが毎週の礼拝の中で唱えている祈りについて描かれ、それに続いて、求め続けることと、神はそれに応えられることについての主イエスの教えが語られる。他の福音書と異なり、ルカではこの2つが続いて述べられている。この主の祈りと、求め続けることの教えとは、ルカにおいてどのような意味で結びついているのだろうか。
 マタイ福音書と異なりルカの「主の祈り」においては、まずはじめに主イエスご自身が祈っておられる点が特徴的である。いわば弟子が祈りの言葉を得るよりも前に、まず主イエスの祈りがあることが示されている。私達の祈りは、まずなによりも主イエスご自身の祈りによって導き出されていることを、本日の福音書は語る。そして主イエスが弟子たちに与えられた祈りの言葉は、摩訶不思議な意味不明の呪文の言葉ではなく、むしろ、私達の日常に深く根付いた言語であった。祈りの言葉は、決して、人に理解出来ないような、特殊な言語ではなく、私達が生きるこの地上の命の中に根付いた言語なのである。しかし私達人間の言語が神を思い通りに動かすことなど出来はしない。主イエスが教えられる祈りは、命の造り主である神を、私達の思い通りに動かすためのもの呪文なのではない。むしろ全く逆に、私達が、神の愛と恵みによって満たされ、神の力のもとで動かされることを、祈り求めるものなのである。
 主の祈りはさらに、私達の地上での生活に結びつく事柄を祈り願う。しかし、それはただ私だけが満たされ、私だけが正しい者とされ、ただ私だけが救われるのではなく、「私達」の間に、神の愛と恵みが満ちあふれ、神の支配が働くこと、そしてそのことによって、私達が、私達の生きるこの地上が変えられて行くことを祈り願う。そのように読んで行くとき、後半の「求め続けること」は決して「私」一人のために求めるのではなく、「私達」の間に、神の愛による支配が実現することを祈り求め続けることを示しているとも言えるのである。そしてそれは、求め「続ける」こと、つまり、神の愛が満ちあふれること、それによって、私達のそのあり様が帰られて行くことを祈り続けることが決して無為・無駄で終わることはないことを約束されているのである。
 聖書が語る神の国とは、神の愛が支配する領域であり、その神の愛は、生と死との境目を超えてあらゆる領域へと及ぶ力であり、永遠の命への希望をもたらす力である。主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちを満たし、変えて行く、神の愛の力の証しに他ならない。十字架によって示される神の愛は、争いと憎しみを生み出そうとするあらゆるこの世の力をはねのけ、平和と公正、赦しと和解をつくり出すものとして、私たちと私達の世界を新たに創り変えてゆく力なのである。

2013年7月25日木曜日

夏季の主日礼拝の場所について[07/14-08/31]

熱中症対策のため、夏季はチャペルではなく大学教室で礼拝を行う場合があります。
当日朝、礼拝堂にその日の礼拝堂の場所を掲示しておりますのでご確認下さい。
(今年度は原則として8月末までの間は105教室を利用する予定です。)

なお教会員の皆様への配布物は礼拝堂の週報ボックスをご確認ください。

[説教要旨]2013/07/21「しかし必要なことは」ルカ10:38-42

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 創世記 18:1-10a 【旧約・ 23頁】
第二の日課 コロサイ 1:15-28 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 10:38-42 【新約・ 127頁】

 本日の福音書を読む時、なぜ主イエスは、マルタの献身的な奉仕よりも、マリアの態度の方を評価したのかという疑問が浮かぶ。しかし主イエスは、本当にマルタの行為を価値の無いものと見なし、マリアを良しとしたのだろうか。先週の日課では、律法の専門家である男性に主イエスは「行って、実行するように」命じられた。一方で本日の箇所では、もてなしのために立ち働く女性に座って聞くように命じられる。確かにこの二つの戒めは矛盾するように思われる。しかし実は、ここではそのどちらもが主イエスに従う者、あるいは群れにとって重要な態度であり、むしろその双方をつなぐための根源を問いかけていると言える。
 マルタとマリアの二人の振る舞いは、その間に優劣を付けるべきものというよりも、主イエスに従う教会の様々な姿、福音のメッセージを聞き、そのために奉仕する教会の働きを象徴しているといえる。したがってここで問題となっていることは、奉仕をするべきか、そうではないのか、ということではない。そうではなく、もっとも重要なことはもっと根源的な「ただ一つ」のことである。すなわち、あらゆる奉仕の主体は主イエスご自身であり、消え去ることも取り去さられることもなく残るものは、主イエスの言葉だけだ、ということなのである。本日の箇所で問題となっているのは、二人の姉妹の行為の優劣ではない。むしろここで対比されているのは、全ての奉仕の主体と根源は「わたし」なのか、それとも「キリスト」なのか、ということに他ならない。
 主イエスではなく、行為する者自身がその奉仕の働きの中心にある時、私たちは自分が為す業が、計画通りに完成し、成果や結果を上げることを求める。しかしそうした期待は、たとえ一時的にはうまくいったとしても、遠くない将来には、必ず行き詰まることになることを私たちは知っている。なぜならば、私達が一時たとえどれほどのことを成し遂げたとしても、やがてそれはやがて古び、消え去るものでしかないことを知っているからである。そうした奉仕の一つ一つの本来の主体は、私たちではなく主イエスご自身なのである。そして同時に、それを完成させられるのもまた、私達ではなく、主イエスご自身なのである。だからこそ、不十分かつ未完で終わらざるを得ない業の全てを、私達は主イエスに委ねることが出来るのである。そして主イエスがそれらを完成して下さる時、それは決して古びることも消え去ることの無い、喜びを伝える業となる。
 奉仕の主体としてその完成を急ぐマルタは苛立ちを訴える。しかしマルタに主イエスは親しく語りかける。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」その言葉は、決してマルタを断罪するものではなかった。むしろマルタの心を癒し、満たし、彼女の為す業の全てを主イエスが引き受けられるための言葉であった。
 主イエスの言葉に聞き従うということを通してのみ、私たちは主イエスに結ばれ、主イエスによって私達が成し遂げられなかったこと、報いられなかったことその全てが完成され満たされる。そして、それこそが、私たちにとって必要なただ一つのことなのである。

夏季の週日の集会はお休みいたします[07/24-09/13]

7/24(水)-9/13(金)の間、週日の集会(聖書の学び、キリスト教入門)はお休みします。
9/18(水)より再開いたします。

2013年7月17日水曜日

[説教要旨]2013 /07/14「わたしの隣人とは」ルカ10:25-37

聖霊降臨後第8主日

初めの日課 申命記 30:9-14 【旧約・ 329頁】
第二の日課 コロサイ 1:1-14 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 10:25-37 【新約・ 126頁】

 本日の箇所は律法の専門家と主イエスとの対話である前半25-28節と、「善きサマリア人」の譬えを含む後半29-37節の二つの部分から成っている。前半の対話では、主イエスの知識を試そうと、律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけるが、逆に主イエスによって質問を投げかえされる。そこで「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」と彼が答えると、主イエスから「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と言葉を返される。主イエスを試そうとしたはずの律法の専門家が逆に試され、しかもさらにはそれを「実行」するように命じられる。つまりそれは彼がその教えを実践はしていないことを示唆するものであった。律法の専門家は食い下がり「わたしの隣人とはだれですか」と問い、それに応える形で主イエスは譬え話を語られる。
 この文脈を考慮すると、本日の譬え話は「永遠の命を受け継ぐ」ということは何かということ、また「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」とはどういうことかということ、そして「わたしの隣人とはだれか」という問いを結びつけていると言える。
 永遠の命を受け継ぐということは、決して不老不死のごとく今の私たちの状態がそのまま延長されていくことではない。そうではなく、私たちが神の国にふさわしいものとしての新しい命を創造され、その命を生きることを意味している。本日の前半の箇所はその新しく造られた命を生きることと、「神を愛する」ということは密接なつながりがあることを語る。私たちが神の国にふさわしいものとして新たに創造されるということ、それは私たちが地上の過ぎゆくいかなるものにも優って、私たちの命の源、私たちの喜びと希望の源である神を愛し、求めることなのである。
 そして神を愛し、求めるということは、他者との関係の中においてこそ実現することを、続く譬え話は語る。傷ついた旅人を見捨てていった者たちにとっては、自分の世界を守り、そこに留まることが神の国を求めることであった。しかし最後に登場したサマリア人は、民族的・政治的対立、自分自身の都合、そういったものを全て超え出て、目の前にいる傷ついた他者との間に関わろうとする。その姿こそが、永遠の命を受け継ぎ、永遠の命を生きる者の姿として私たちに示される。
 永遠の命を受け継ぐ者として、自分の世界を超えた神の愛へと開かれ、他者のために生きることを、私達は主イエスから求められる。それは何よりも、十字架の死によってご自分の命の全てを他者のために投げ出された、主イエス・キリストの姿を私たちが追い求め、そのみ後に従って行くことでもある。復活によって、十字架の先には永遠の命があることを、み後に従う私たちに主イエスは示された。
 キリストの教会がこの社会にあってその使命を果たすということは、他者のために生きる群れとなっていくことに他ならない。それはこの世の価値観から見るならば、何の利益にもならない、愚かな行為でしかない。しかし、あの主イエスの十字架がそうであったように、この世の価値観では計ることのできないような、大いなる恵み、永遠の命が約束されているのである。永遠の命へと向かう主イエスのみ後に従って歩みたい。

2013年6月18日火曜日

[説教要旨]2013/06/16「安心して行きなさい」ルカ7:36-8:3

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 サムエル下 11:26-12:10、13-15 【旧約・ 496頁】
第二の日課 ガラテヤ 2:15-21 【新約・ 344頁】
福音の日課 ルカ 7:36-8:3 【新約・ 116頁】

 キリスト者とは高潔で道徳的で優れた人物であると見られることが多いのではないだろうか。たしかに、そうした特性を理想とすることは必要なことである。しかしむしろ、自分自身ではどうすることも出来ないほど弱く、自分の力では流れ出る涙を止めることができないからこそ、私達キリスト者は神の憐れみを、そしてなによりも救い主イエス・キリストを求めずにはいられないのである。
 本日の日課では、一人の「罪深い女」と呼ばれている女性が登場する。聖書の時代の「罪」とは、いわば社会の価値観から外れる事全般を意味していたとも言える。したがって今日の日本社会で言えば、「恥ずべき」とか「恥知らず」という意味もそこには含まれていたと理解することも出来る。敢えて言えば、この女性は「恥ずべき」「恥知らず」女と言われていたとも理解できるかもしれない。そして食卓の席を囲む人々は、自らの正しく清い、誇り高い態度をもって、この恥知らずな存在を糾弾し、排除することこそが、自分たちの正しさと清さの証であると考えていた。
 そのような中でこの一人の女性の流した涙は、無慈悲に人を非難し糾弾する周囲の人々の態度に対する、無言の訴えであったかもしれない。無言で流された涙は、自分に押しつけられた社会の歪みへの、この女性が出来るたった一つの抵抗であったかもしれない。その涙が、主イエスの足を濡らし、女性は、その涙を自分の髪で拭う。当時の価値間では有り得ないようなその振る舞いがそのままにされたということは、主イエスは、この女性がどういう人物であるか、そして今どのような思いでこの場にいるのか、その全てを理解し、そして受け止められたことを意味していた。主イエスのこの振る舞いは、周囲の人々の態度との間に鋭い明暗を形作る。主イエスは、この排除された女性を受け入れ、その振る舞いを高く評価し、あまつさえ「あなたの罪は赦された」とすら宣言する。いうならばそれは「あなたはもはや、何ら恥じることなど何もない」と宣言したということであった。その言葉に人々は、いったいこの男は何者のつもりだ、と呟き合う。この男が何を言ったところで、何をしたところで、世界の何が変わるのか。どれだけの年月がたとうとも、恥ずべき者は変わらないはずだ。そのような思いが、この周りの人々の心の内にはあったことであろう。
 しかし、変わるはずなどないと思っていた世界は、この一人の男の言葉と、その十字架の出来事によって変えられたのである。十字架の死から甦られたその方の言葉は死に打ち勝つ力を持っていること、人と人との間を引き裂き、傷つけ合う闇の力を打ち負かす力であることを、聖書は語る。それは、決して揺らぐはずなど無いと思っていたその絶望の現実の彼方に、救いと解放の光が待っていることを、私たちに教えている。
 主イエスを前に流された涙は、もはや空しい無言の抵抗には留まらなかった。7:13で息子を亡くしたやもめに「もう泣かなくともよい」と語りかけられた主イエスは、さらに「安心して行きなさい」と語られる。無言のうちに抵抗するしか無かった一人の女性の涙は、主イエスの言葉と共に、時代と場所を越えて、どうすることも出来ずに涙を流すしかない者に、あふれるほどの慰めと励ましを与える言葉として、今ここで生きる私たちのもとに届けられている。

2013年6月15日土曜日

[説教要旨]2013/06/09「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【新約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

 本日の始めの日課である旧約列王記上では、偉大な預言者の一人であるエリヤが、命の危機にあるやもめとその家族に神の言葉を告げ救い出す。それは、私達が危機の中にある時、神の言葉は、私達を死から命へとその歩みをむき直させる力を持つことを物語る。聖書が伝えるそのような神の言葉の力の理解の先に、福音書の主イエスは立っておられる。
 本日の福音書は先週に引き続いてルカによる福音書の7章から取り上げられ、主イエスがガリラヤ地方での様々な驚くべき業を行われたことが報告されている。これらは7:18以下で洗礼者ヨハネへの弟子たちに対する返答「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」に結実してゆく。これはまさに主イエスこそが「来るべき方」であることの宣言に他ならなかった。さらにこれらのことは4:16以下で、故郷ナザレの会堂で読み上げられた、預言書イザヤ書のことば「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と一致することにに気付かされる。つまり今この物語の中で語られているイエスこそが、私達に自由と解放を与え、主の恵みの時を告げる「来るべき方」であることを伝えるのである。
 本日の福音書で主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町で、息子を失って悲嘆の中に沈む一人のやもめに出会う。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれているが、「憐れに思い」とある言葉は「はらわたが突き動かされる」という表現が用いられている。家族を失ってしまった一人の女性の悲しみと嘆きを、主イエスは、はらわたがよじれる思いで分かち合われるのである。主イエスの憐れみとは痛みと悲しみを共に分かち合うことであった。そしてこの憐れむ主の言葉は、棺に横たわる若者へと向けられる。既に死の力に屈した者に言葉をかけるという行為は、人間には太刀打ちできない死の強大な力を思い起こさせる。しかし、救い主である主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という言葉を中心にして、死の運命は逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗うことのできる唯一の力であることを、この聖書の物語は語る。
 今日私達をとりまく世界は、多くの不条理な力によって蹂躙され、多くの弱い者たちの命が、あるいはその心が、生きる力が奪われている。たしかに私達を取り巻くこの世の力はあまりにも強く、希望を見出すことはあまりにも難しいように思われる。けれども主イエスは「もう泣かなくともよい」と私達に語られる。憐れみの主は、私達の涙と不安を共に分かち合い、そして、十字架の死と、その死からの復活によって、その涙と恐れに終わりをもたらし、新しい命の始まりを与えて下さった。たとえどれほど、私達の地上での歩みが闇に閉ざされているように見えたとしても、憐れみの主の言葉「もう泣かなくともよい」が、私達のもとに届けられている限り、私達は新しい命へと向かう道を進むことができるのである。

2013年6月7日金曜日

[説教要旨]20131/06/02「命の言葉を受ける」ルカ7:1-10

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 列王記上 8:22-23、41-43 【新約・ 541頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:1-12 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:1-10 【新約・ 114頁】

本日から聖卓の布の色が緑に代わった。待降節にいたるまで、主イエスの教えを聖書から聞くことを通して、私たちの信仰生活の成長と成熟を求めてゆく季節を、歩んでゆくこととなる。
本日ルカによる福音書から、主イエスのガリラヤ宣教の中からのエピソードとなっている。冒頭には「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とある。「これらの言葉」というのは、直接には6章の終わりまでで語られてきた主イエスの「平地の説教」のことを指す。注意して読むならば、ルカによる福音書「平地の説教」から「百人隊長の僕の癒し」以下の流れは、この後の8章で繰り返される「種まきのたとえ」、「イエスの母、兄弟であること(弟子であるこちの教え)」以下の流れと対の関係があることに気付かされる。つまり、「種まきの譬え」で語られるその「種」とは、それに先立つ主イエスの「平地の説教」であり、そして「種を受け入れるもの」は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8:21)と主イエスが語られた、その一つの例としてこの百人隊長の出来事が挙げられていると考えられる。
新約に登場する百人隊長とは、ローマ軍の制度の中の一身分で、50-100人前後の歩兵の指揮をとった下士官であった。ここで登場する百人隊長というのが、ローマ軍そのものであったのか、あるいはガリラヤの領主であり、ローマ好きで知られたヘロデ・アンティパスがローマ軍を模して導入した軍隊に属するものであったかは明記されていない。いずれにせよ、この人自身はユダヤ人ではなかった。舞台となるカファルナウムという町は、そうしたユダヤ人以外の人々がおおくすむ、大きな商業都市であった。百人隊長は、この雑多で大きな町の中では、それなりの名士であったと思われる。したがって百人隊長という自分の経歴や能力、権力を駆使して、主イエスとの出会いを一刻も早く急かさせることもできたはずなのに、そうすることなく、ただ主イエスの言葉だけが届くことを待ち続けようとする。
しかし結果として、百人隊長は、その言葉を通して主イエスに出会う。癒しの出来事は、どれほどのキャリアと能力を持ってしても乗り越える事の出来ない困難と不安の中にある者が、主イエスの言葉を通じて命の希望に出会う出来事であった。今、こうして現代に生きる私たちの歩みを振り返るならば、百人隊長と同じく、私達は主イエスに直接目の前で出会うことは出来ない。しかし、主イエスの言葉を通して私たちは、主イエスに出会うのである。そこでは私たちの経歴や能力は問題とはならない。ただ主イエスの言葉が私達へと届けられることによって、私達は主イエスと出会い、私達のうちに命が与えられるのである。
私達ははるか遠くに、主イエスと再び出会う実りの時、神の国の実現の時を思い浮かべながら、今の時を歩むしかない。しかし私達には主イエスの言葉が残されている。主イエスの言葉は、私達のうちに新しい命を与え、さらにその命を育み、成長させる力なのである。
これから約半年にわたって続く、聖霊降臨後の季節、主イエスの言葉に聞き従い、命と希望に満たされることを祈りつつ、共に歩んでゆきたい。

2013年5月31日金曜日

徳善義和先生特別礼拝・講演会のご案内[07/07]

特別礼拝 7/7(日)10:30より
 昨年岩波新書より「マルティン・ルター -ことばに生きた改革者」を著された徳善義和先生に説教をご担当頂きます。
説教者:徳善義和先生(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校名誉教授)
説教題「喜びは常に満たされる」

講演会 同日14:00より (入場無料)
「『ことば』が生きる、『ことば』に生きる!―信仰のキーワードを学ぶ ルター『ローマ書序文』に拠って」

どなたでも是非お気軽にご参加下さい。

[説教要旨]2013/05/26 「真理を告げる」ヨハネ16:12-15

三位一体(聖霊降臨後第1主日)

初めの日課 箴言 8:1-4 【旧約・ 1000頁】
第二の日課 ローマ 5:1-5 【新約・ 279頁】
福音の日課 ヨハネ 16:12-15 【新約・ 200頁】

聖霊降臨祭の後の最初の主日である本日は、教会の暦では「三位一体」の祝祭日である。三位一体の教理はキリスト教信仰の中心として教会の中で受け継がれてきた。しかし聖書の中には三位一体の教えについて体系的に記されている箇所は無い。むしろ歴史の中で教会は苦悩と葛藤の歩みを通して三位一体という表現を獲得したと言える。その意味で三位一体の教理とは本来、キリスト者が地上を歩む中で、どこで神の働きに出会い、どこに救いを見出すのかを示すものである。すなわち、私たちは自分に与えられた命を通して造り主である神の愛に触れる。そして、私たちと同じくこの地上をこの歴史を生きた主イエス・キリストによって、救いと新しい命を与えられる。そして、神の見えない力である聖霊の働きによって、私たちの魂は常に慰められ励まされるのである。
本日の福音書もヨハネ福音書のいわゆる告別説教から取り上げられている。主イエスは弟子たちに「真理の霊」について伝えるが、それに先立ってまず「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語られる。主イエスを眼前で見聞きしてきた弟子たちですら、主イエスが地上で為された事、語られた事のその真の意味について、まだ分からないでいる。彼らにとって、主イエスの業と教えが、本当の意味で「救いの出来事」として「分かる」には、主イエスの十字架と復活の出来事、そして「真理の霊が来る」のを待たなければならなかった。さらに「真理はあなたがのものになる」と主イエスは言われない。真理の霊は弟子たちに告げ、導くものなのである。実に、人間が「真理」を我が物とすることなど出来ないのである。もしこの私が真理を手にしていると誤解するならば、私たちはあまりに容易に、自分自身を絶対化し、他者を裁き、貶め、支配しようとしてしまうだろう。真理の霊は、この地上で憎悪と敵対との中で悩み傷つく私たちに新しい命と平和の喜びを告げ、和解と解放へと導く力である。
もちろん、新しい命と平和の真理へ至る歩みは決して平坦ではない。主イエスが弟子たちを遺してこの地上を離れた「主の昇天」とそれに続く主日は、地上に生きる私たちに託された使命を思い起こさせるが、その使命はあまりにも荷が重すぎるようにすら思われる。続く聖霊降臨の出来事を通して、私たちは自分自身の力だけでその使命を背負うわけではないこと、神の見えない力=聖霊が共におられることによってそれらの使命を私たちは果たすことが出来るのだということを知るが、それでもなお使徒言行録の物語を読み返すならば、聖霊はキリスト者達に対して、それまで見たことも無い道を示すことに気付かされる。それゆえに人はそこに恐れと不信を抱かずにはいられない。けれども、過ぐる復活節第5主日に取り上げられてきた黙示録で、主は「見よ、わたしは万物を新しくする」と語られる。たとえ私たちが恐れと不信の中にある時にも、万物を新しくされる聖なる力によって、新しい命・平和の真理へと向かう私達の歩みは支えられているのである。聖書の語る私たちの命を造られた神とは、憎悪と対立の中から私たちを救い上げられ、命と平和の真理へと導かれる方であり、その困難な恐れと不信に満ちた道筋を、喜びと希望の道へと変えられる方なのである。今この地上において生きる私達の歩みもまた真理の霊によって導かれることを祈り求めたい。

2013年5月21日火曜日

2013年三鷹教会バザーのご案内[06/23]

いつもルーテル三鷹教会バザーへのご支援をありがとうございます。
今年も教会バザーを開催することにいたしました。
2013年6月23日(日)12:00~14:00
また献品のご協力をお願い申し上げます。
ご家庭でご使用にならないものがありましたらバザーのためにお寄せください。
献品の受付 :6/9まで
☆会場の都合上、誠に勝手ながら家具・家電・書籍などはお受けできません。
☆衣類は、新品または新品同様・洗濯済みのお品をお願いいいたします。

[説教要旨]2013/05/19「永遠に共に」ヨハネ14:8-17

聖霊降臨祭

初めの日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
第二の日課 ローマ 8:14-17 【新約・ 284頁】
福音の日課 ヨハネ 14:8-17 【新約・ 196頁】

 本日はペンテコステ、聖霊降臨祭である。ペンテコステとはギリシア語で「50日目」という意味であり、もともとはユダヤでは過越祭から数えて50日目を表し、過越祭の季節を締めくくる祝祭であった。使徒言行録によれば、過越祭に起こった主イエスの復活から50日目の時、天から聖霊が降り、弟子達があらゆる国の言葉で福音すなわち「良き知らせ」を語り始めた、教会の誕生の時となった。
 主イエスが天に昇られた後、何をすべきか良くわからないまま残された弟子達に、聖霊が働きかける。これによって、祭のために都に集まった人々へ「福音」を伝える言葉を彼らは見い出すこととなった。その時彼らは口々に同じ言葉を語ったのではなく、それぞれが異なる言葉を語りながらも、それが同じ福音を伝えるものであることを互いに理解することが出来た。またそのメッセージを聞く者達にとっては、そのメッセージはそれぞれ自分の言語・文化から理解することが出来る言葉となった。ペンテコステの日の聖霊降臨の出来事では、見かけ上はまるで新しい酒に酔っているかのようにばらばらに語りながらも、そこに互いを深く理解しあう一致が生まれているのである。その意味でペンテコステの出来事とは、違いを塗りつぶしてしまうのではなく、その多様なありかたの違いをそのままに、互いの距離を縮める力が働く出来事なのである。これこそ聖霊の働きによる教会であり、信仰の交わりの始まりであった。そこでは異なる一人一人が欠くことの出来ない存在となるのである。
 本日の福音書の日課は、告別説教の一部となっている。告別説教の中で主イエスは、弟子たちが不安と悲しみにつぶされることなく、目に見えないものを希望とし、一人一人の命を生き抜くことができるように、弁護者である「聖霊」を送ると約束された。その約束が実現した出来事こそが聖霊降臨であった。弁護者を送る約束の中で主イエスは「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と語られる。私たちがこの言葉を聞くならば、いつまでも同じ形で留まり続けるものをまずイメージするだろう。使徒言行録で語られる、聖霊降臨そしてその後の教会の物語を読むならば、確かに私たちの目には見えない部分においては、まさにその通りであった。けれども見える部分においては、全く反対の状況が展開していく。聖霊によって慰められ力づけられた教会は、異なる人々に向かって異なる言葉を語り、やがて迫害を契機として世界各地へと散らされてゆく。それは人の目から見るならば、分裂であり消滅とすら見えるものであった。しかし人の目には、分裂・消滅としか見えない状況にあっても、神の力である聖なる霊は常にキリスト者と共におられて、彼らを一つに結びつける。神の力である聖なる霊が永遠に共にあるということは、人の目では見いだすことの出来ない一致を私たちにもたらす力が、常に私たちを導いているということに他ならない。
 常に形を変えながら、常にその違いと多様性を増しながら、教会は福音を伝えてきた。そしてそれはこれからも続いてゆく。しかし、そのただ中にはいつも、私たち一人一人を欠くことの出来ない存在として、違いと多様性を超えて私たちを結びつける神の力・聖なる霊の働きがあることを、主イエスの言葉と教会の誕生の物語は私たちに伝えるのである。

[説教要旨]2013/05/12「一つになるために」ヨハネ17:20-26

復活節第7主日

初めの日課 使徒言行録 16:16-34 【旧約・ 245頁】
第二の日課 黙示録 22:14、16-17、20-21 【新約・ 480頁】
福音の日課 ヨハネ 17:20-26 【新約・203頁】
説   教 「一つになるために」

 伝統的な教会の暦では、イースターの後の6回の主日にはそれぞれに名前がつけられており、復活節最後の主日には「エクスアウディ」、すなわち「(主よ、)聞いて下さい」と名付けられている。本日の福音書はヨハネ福音書において主イエスが神に向かって祈る、長い祈りの一部からとられている。
 ここで主イエスは将来にわたるキリスト者全体のことを憶えて「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(21節)と祈られる。たしかに主イエスは、全ての者が一つになることを何よりも祈られる。しかし、ここでいう一つになるということは、単に形式的な一致を意味してはいない。主イエスは、ご自身と父なる神とは一つでありながら、「わたし」「あなた」そして「彼ら」というそれぞれは独立した立場・働きであることを憶えて祈られている。つまり、主イエスが語られる「一つになること」とは、全てが一色に塗りつぶされてしまい、そこに一人一人の有り様をもはや区別できなくなるような、そのような「一つ」となることではない。そのような一体性は、むしろ暴力による同化にすぎないのである。
 主イエスが祈られたのは、それぞれに異なる働き、立場、有り様、そうした違いがありつつも、そうした違いを残しつつも、もっと深いところで、一つに結ばれる、そのような在り方であった。それは、告別説教の中で繰り返し語られたように、互いに愛し合うことを通じて、主イエスの命において一つへと結ばれる、そのような在り方であった。そして、そのような在り方は、実は既に私たちに与えられているのである。主イエスは語る。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」主イエスの栄光、それは十字架の死からの蘇り、復活の命に他ならない。つまり、主イエスの復活の命において、私たちは既に一つとなることを備えられているのである。
 しかしながら、私たちの現実に目を向けるならば、そのことは決して自明ではない。地上に生きる私たちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争いあうことを避けることが出来ない。けれども私たちは、そのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ない。むしろ、そのために主イエスは、この地上に聖霊を与えられると約束され、そしてまたそのことを天の父に祈られたのだった。たとえどれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、私たちのために神に祈り求めて下さるのである。
 本日はアジアキリスト教協議会(CCA)の呼びかけるアジア祈祷日でもある。本日の礼拝ではCCAが提案した祈祷文を用いられるが、そこではアジアキリスト教協議会に属する諸教会の一つ一つが憶えられる。アジアとは広く、そしてまた大きな多様性を含む地域である。そのアジアにあって、繰り返し一致を求めつつ、同時に正義と平和とへ私たちが導かれることが祈られる。一つになることとは決して皆が同じ色、同じ顔になることではない。それぞれに異なる者同士が既に命の神によって一つとされていることを知ることを通して、私たちは互いを愛し、尊敬し、支え合うことが出来るのである。

2013年5月7日火曜日

[説教要旨]2013/5/5「平和を与える」ヨハネ14:23-29

復活節第6主日

初めの日課 使徒言行録 16:9-15 【新約・ 245頁】
第二の日課 ヨハネの黙示録 21:10,22―22:5 【新約・ 478頁】
福音の日課 ヨハネ 14:23-29 【新約・ 197頁】

 本日の福音書は、先週の日課から引き続いて、「告別説教」と呼ばれる箇所となる。十字架の出来事が目前に迫る中、ご自分が弟子たちの前から去った後のためにこれらの言葉を語られる。そこで主イエスが語る「別離」と「喪失」とは、一般には心をかき乱し、悲しみと不安とをもたらす元凶と言えるものであり、それらをできるだけ避けることこそが平和・平安をもたらすと私たちは考えている。しか、別離と喪失とを語りながら主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と語る。
 冒頭の23-24節で主イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と語る。この短い節には肯定・否定を含めて「愛する」という語が3回も繰り返され、同時に「言葉」という語も同じように繰り返されている。つまり、私たちと主イエスと父なる神とが愛の交わりのうちにあるということと、私たちが主イエスの言葉を聞くということとは、切り離すことの出来ない事柄であることがここで語られている。
さらに本日の福音書では「弁護者」を与えるという約束が語られる。「弁護者」とは、原語では仲介者、助け手を指す言葉が用いられている。ここではこの「弁護者」「助け手」とは、神の見えない力としての「聖霊」であるとされる。私たちにとって最も身近な、弁護者であり助け主である聖霊の働きとは、私たちが日々を生きる中でぶつかる、なぜ、どうして、そうならなければならないのか、なぜ、このような中を生きなければならないのか、という問いかけに対して、聖書の言葉が、私に向けて語られた言葉として私の中で生き、私に力を与える言葉となるということである。
 主イエスが約束される平和とは、聖霊の働きによって、聖書の言葉、主イエスの言葉が生きて私たちを満たし、支えるようになること、そしてそのことによって、この世界を支配する欲望と恐怖から私達が解放され、神の愛の交わりの内に主イエスの命を生きることが出来るようになることなのである。さらに、この告別の説教の中で、主イエスは「互いに愛し合いなさい」という言葉を繰り返し語られている。この主イエスの言葉こそ、私達が神の愛の交わりのうちに生き、私達の内に主イエスの命を与えるものに他ならない。なによりもそのために、主イエスは十字架において、ご自身の命を私達に分け与えられたのだった。そして、その死からの復活の出来事によって、私達の思いと理解を超えた、平和への尽きることのない希望を与えられたのである。この尽きることのない希望こそ、全ての人が満たされ、全ての人が互いに愛し合うことのできる、そのような在りようを私達にもたらす力なのである。
 自らの充足と安定のために、互いに奪い合い、貶め合うことを止めることが出来ないこの地上の世界に私達生きている。しかし、この地上での歩みおいても、主イエスの言葉が私達のうちに生きて働く時、私達は、愛の交わりのうちに、尽きることのない希望を生きることが出来るのである。

[説教要旨]2013/4/28「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:31-35

復活節第5主日

初めの日課 使徒言行録 11:1-18 【旧約・ 234頁】
第二の日課 黙示録 21:1-6 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 13:31-35 【新約・ 195頁】

 本日の福音書は、夜にユダがイエスのもとを去ったところから始まる。この「夜」とはいわば人間を取り巻くこの世の闇を象徴の中へと、ユダが去ったことを印象づける。ところがその夜の闇と対照的に主イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。」と語られる。ユダが消えていった人間を取り巻くこの世の闇の先には、その闇によってもたらされる、逮捕、拷問、十字架での処刑という悲惨な運命が主イエスを待ち受けていた。しかし、その出来事は同時に、神の栄光、光の勝利の出来事でもあるという矛盾した意味を聖書は私たちに示す。この同時には成り立たないはずの二つの事柄をつなぐものが、復活という出来事であった。復活の出来事によって、イエスの受難の出来事は全く違った意味を私たちに見せることとなる。そしてまた、この世の闇と、救いの光という二つの領域の間で、主イエスが地上に残される弟子達に「互いに愛し合いなさい」という言葉を語られたのだった。それはまさに、この世の闇を切り裂いて、その向こう側へと続く、命の光、栄光の光へと弟子達を、そしてまた私たちを導くために、主イエスが残された言葉に他ならない。
主イエスの弟子であるための奥義とは、私たち自身の知識や努力によって、私達が人間以上のものとなることでなない。むしろ、「互いに愛し愛なさい」という主イエスの言葉が実現するところにおいて、この地上に生きている、限界ある私たちは、永遠のものに満たされることができる、ということ、つまり、その言葉と共にその場におられる主イエスによって、私たちの日常が変えられてゆくということなのである。
 私たちがその日常の中で成し遂げられることが、どれほど小さく空しいものであったとしても、世間の目から見た時に、それがどれだけ不十分としか見なされないようなものであったとしても、それが「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉によって押し出される時、そこには既に永遠の命の世界が開かれているのである。知識や清さを誇るための努力ではなく、主イエスの言葉に押し出され、用いられる時、不十分で不完全な私たちの業は、永遠の神の愛によって満たされるのである。私たちの魂の飢えと乾きが満たされる時、それは、私たちの日常の中に差し込む光、すなわち主イエスの言葉、新しい愛の掟によって動かされる時なのである。
 本日、復活節第5主日には、伝統的な教会の暦では「カンターテ」(歌え!)という名前がつけられている。これは、詩編98編「新しい歌を主に向かって歌え」からとられたものである。詩編はこう続く。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する 慈しみとまことを御心に留められた。 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た。」
「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉は、私たちがこの日常の中にあって、神の驚くべき御業、救いの出来事、神の愛の出来事を仰ぎ見つつ生きるための、まさに究極の教え、信仰の奥義に他ならない。闇の中にある私たちへと投げかけられた光、主イエスの言葉に押し出されて、神の愛のうちに歩んでゆきたい。

2013年4月27日土曜日

[説教要旨]2013/4/14「キリストを知る」ヨハネ21:1-19

復活節第3主日

初めの日課 使徒言行録 9:1-6 【旧約・ 229頁】
第二の日課 黙示録 5:11-14 【新約・ 458頁】
福音の日課 ヨハネ 21:1-19 【新約・ 211頁】

 復活祭の後の2番目の主日には詩編33編5節「地は主の慈しみに満ちている」からとられた、「主の憐み」という名前が付けられている。それは、主イエスが死から復活されたことは主なる神の慈しみと憐みがこの地に満ち溢れる出来事であるということ、そしてそれは今、私達が生きているこの時間は、漫然とただ昨日からの繰り返し、同じ延長の上にある時間なのではない、私達は主の慈しみに満たされた日を生きているのだということを伝えている。
 ヨハネ福音書では、先週の日課である20章の終わりで、一旦ここで締め括られていたのではないか、とも考えられてきた。おそらく福音書の著者は、一旦自らの福音書を記し終えた後に、なお書き記したいエピソードを聞き及んだのではないだろうか。そしてそれは、主イエスの復活の顕現の物語であった。
 既に20章において、主イエスが復活の姿を現されたことが書かれているが、本日の日課では、復活の主イエスは、弟子たちの日常の中でご自身を顕される。しかし、彼らは最初は、それが主イエスであることが分からなかった。彼らにしてみれば、復活の主が、自分達の日常の中にその姿を現されることなど思いもよらないことであった。しかし、鍵をかけた部屋のただ中に現れたのと同じように、主イエスは彼らの日常の中にその姿を現される。そして弟子たちは、あらゆる努力が何の実りももたらさなかったはずの自分達を満ちたらせる、その言葉に触れた時、そこに主イエスがおられることに気付くのだった。
 そして主イエスは弟子たちを食卓へと招かれる。食卓の交わり、それは命の源を分かち合い、愛を分かち合う場に他ならない。主イエスはご自身の復活の命、そしてご自身の愛を分かち合うために、弟子たちを食卓へと招かれるのだった。
 この食卓の交わりの中での復活の主イエスの出会いが、その言葉が、食卓における命と愛の分かち合いが、かつて主イエスを否認したペトロを変えることとなる。復活の主イエスと出会い、ペトロは「使命」を与えられる。それはいわば、「新たな生」を主イエスから与えられたということでもあった。それは主イエスの復活を通して私たちに示された、神の新しい創造の業が彼のうちに働いたということであった。
 私たちもまた日常の中で、自分の弱さ、その働きの空しさに失望し、倒れ伏すことがある。そしてもし私たちが自分の力だけで立ち上がり、自分のためだけに生きようとするならば、私たちはただ空しさだけをくりかえし味わい、再び歩み出す力を得ることはできない。しかし、復活の主イエスは、そのような私たちの全てを知って、ご自身との信頼の内に生きることを呼び掛けてくださる。この復活の主イエスの言葉に出会うとき、私達のうちに神の新しい創造の業が働く。そしてその時、私たちは新しい命に生きる自分にまた出会うことが出来るのである。そしてその創造の働きは、まさに私達が古い、自分のために生きる自分が、他者のためにその命を紡ぎだすものとして変えられる出来事なのである。
 だからこそ、私たちは様々な問題に取り囲まれていたとしても、主イエスの復活を憶えるこの季節、古いものは過ぎ去り、今やすべては新しいものとされた、ということ、つまり、主なる神の新しい創造の働きの中に、その慈しみのうちに私達が生きていること私達は知るのである。

2013年4月12日金曜日

[説教要旨]2013/04/07「信じて命を受けるために」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日

初めの日課 使徒言行録 5:27-32 【新約・ 222頁】
第二の日課 ヨハネの黙示録 1:4-8 【新約・ 452頁】
福音の日課 ヨハネ 20:19-31 【新約・ 210頁】

 本日の福音書では、ヨハネの福音書の目的を、弟子たちとの間で起こった事柄を通して示している。すなわち、恐れと不安と疑いの中で心を閉ざす者が、復活の主イエスに出会いによって、新しい命に生きる喜びを与えられるという出来事である。
 主イエスの十字架の死によって、弟子達は失意と恐怖の中に突き落とされた。彼らは逮捕を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていたが、その時も、互いの密告と裏切りを疑い、不信に支配されていたであろう。その彼らの真ん中にキリストは突然立ち現れ「あなた方に平和があるように」と呼び掛ける。それは、弟子達に対する赦しと和解の言葉であり、祝福と希望の言葉であった。その時まさに弟子たちは、主イエスの復活の命がもたらされる真の平和を分かち合ったのだった。
 しかしトマスはこの出来事の際にはその場に居合わせなかった。トマスは仲間の弟子達が告げる主イエスの復活の知らせを受け入れられない。その言葉は、今の自分の状況が変わることなど自分には信じられない、自分が誰かと平和を分かち合うことなどありえない、そのように訴えているようにも響く。ところがそのトマスの前に主は現れ、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。この言葉は、ただトマスにだけ語られたのではなく、私たちに対しても向けられている。この地上で生きる私たちが、主イエスのしるしを「見なければ信じられない」と主張すること、それは、私達が自分自身が立たされたその現実に絶望し、落胆し、しかしそれを変えることができないでいる、その嘆きの裏返しであると言っても良いだろう。今の自分の置かれたこの閉塞した現実を変える力などどこにもあり得るはずがない。あるならば見せてみよ、そのような心の闇からの叫びを私達の誰もが抱えている。しかしそのような私たちのもとへ主イエスは訪れられる。さらに本日の福音書で復活の主イエスに出会った弟子達は、主イエスの「息」を吹きかけられる。それは、新たな命を与えられたことを意味する。恐れによって閉じこもっていた弟子達は、新しい「命」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活の希望とよろこびを宣べ伝えるものへと変えられる。
伝統的なキリスト教の暦では、復活祭に続く6回の主日には聖書に基づく主題がつけられている。復活祭後の最初の主日である本日は1ペトロ2:2から「新しく生まれた乳飲み子のように」と名づけられている。これは、古代の教会では多くの受洗者にとってこの日が受洗後最初の主日礼拝となったことに由来する。洗礼を通して与えられた新しい命を憶えつつ、その命は私達の中で育ち続けていることを信仰の先達者達は思い起こした。主イエスの復活という出来事を通して、教会に集うすべての者の命がまさに「新しく生まれた乳飲み子」のようにされているということ、それは成長する力に今も充ち満ちているということを、この主題は思い起こさせる。私達が信仰を与えられキリスト者となるという出来事、それは私達自身が、十字架における主イエスの死と結びつくとともに、復活の命と結びつけられた出来事、すなわち私達のうちに新しい命が生み出された出来事である。その出来事は、私達の内であふれ出る命として、日々成長してゆく。それは、今も、そしてこれからも、私達の地上での歩みを支える力なのである。

2013年4月6日土曜日

[説教要旨]2013/03/31「あの方はここにはおられない」ルカ24:1-12

主の復活(復活祭)

初めの日課 イザヤ 65:17-25 【旧約・ 1168頁】
第二の日課 2徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 ルカ 24:1-12 【新約・159頁】

 復活祭を迎えて教会は、キリストはこの世に来られて死を通って命へと到達されたこと、そしてまたキリスト者自身もまた主イエスが開かれた道を辿り、新しい永遠の命へと到ることを思い起こす。しかし主イエスの十字架と復活は決して受け入れやすい事柄ではない。私たちの生きるこの地上の価値観からするならばそれは馬鹿馬鹿しい話でしかない。けれどももし仮に、それが単なる世迷い言であったとしたなら、十字架と復活の出来事が人々の魂を支えてきたその事実をどのように説明することができるのだろうか。
 金曜の午後3時頃、十字架で主イエスは息絶えた。翌日は安息日であったため、十分な葬りの準備をすることも出来ないまま、日暮れまでにその亡骸は墓穴に葬られることとなった。そして、空白の土曜日が過ぎ、日曜の朝に主イエスの弟子の女性たちが、果たせなかった葬りのための準備をして、主イエスの墓へ向かう。しかしたどり着いた先で彼女らは空の墓を発見し、輝く衣を着た二人の人物から「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」という言葉を聞く。驚いて残りの弟子たちの元へと戻って語ったこの女性達の証言は、主イエスの復活の最初の証言となった。しかし、ルカ23章では「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」とあるように、この女性たちはまず主イエスの十字架の死を証言する者たちに他ならなかった。ところが同時に彼女達は「主イエスは墓におられない。主イエスは生きておられる」ことを証言する者たちともなった。そこには、二つの相容れない現実がぶつかり合っている。主イエスは死んで墓に葬られたという現実と、主イエスは生きておられるという現実である。私たちにとっては、この二つの現実は並び立つことなどあり得ない。しかしこの並び立つはずのない現実を、二人の天の使いは「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語って結びつける。
 女性たちの墓は空であったという証言、それは、意図していた葬りの準備が無意味なものになってしまったこと、あるいは、あるはずのものが失われてしまったということであり、悲しみ、嘆くべきことでなければならないはずである。自らの為す事が無意味となり、あるはずのものが失われることが、喜びと希望の徴となるということは、私たちの価値間、論理では並び立つはずのない事柄だからである。しかし、「主イエスは復活された」というメッセージは、並び立つはずのないものを結びつける。死から命へと私たちを導くそのメッセージを聴くとき、無意味さの中に喜びを、失うことの中に希望を、悲しみの中に慰めを、私たちは見出す。
 本日の福音書箇所においては、主イエスについてはその不在だけが語られる。しかし、それにもかかわらず「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」というメッセージは、私たちの価値観と論理を根底から逆転させる。主の復活は、死へと向かう私たちを命へと導く逆転の出来事であり、私たちのあらゆる悲しみが根底から喜びへと変えられる出来事に他ならない。主イエスの十字架を通して、死の闇の向こう側から、復活の光は私たちにとどけられている。主の復活の喜びを旨に抱きつつ、この日々を歩んでゆきたい。

2013年4月2日火曜日

キャンパス・ミッション2013のご案内[4/21,4/26]

ルーテル学院大学の新年度を迎え、キャンパス・ミッション礼拝として4/21(日)10:30から の主日礼拝では河田優チャプレンに説教をご担当頂きます。また礼拝の中では、ルーテル学院大学聖歌隊による賛美が行われます。礼拝後には昼食会も行われます。
 また4/26(金)13-17時には、三鷹教会集会所のオープンハウスが行われます。また同日18:15より夕礼拝(説教:李明生師)が行われます。
 皆様是非ご予定下さい。
4/21 (日)10:30- キャンパス・ミッション礼拝
 メッセージ 聞こえてほしい あなたにも」河田優牧師(ルーテル学院大学チャプレン)
 ルーテル学院大学聖歌隊による讃美
 礼拝後には昼食会も行われます。
4/26 (金) 13-17時三鷹教会集会所オープンハウス
       18:15- 夕礼拝


2013年3月16日土曜日

[説教要旨]2013/03/10「失われた者を見出す」ルカ15:1-3、11b-32

四旬節第4主日

初めの日課 ヨシュア 5:9-12 【旧約・ 345頁】
第二の日課 2コリント 5:16-21 【新約・ 331頁】
福音の日課 ルカ 15:1-3、11b-32 【新約・ 138頁】

 四旬節の間、復活の朝を待つ私たちは自らの歩みを振り返る時を過ごしている。しかし、たとえ自分自身としては努力していたとしても、その結果はとうてい「清く正しく美しく」とはいえないものであったことを、私たちは認めざるをえない。ならば、そのような私たちは復活の朝を迎え、イースターを祝うことはできないのだろうか。しかし、復活の朝が私たちのところに近づくことをとどめることはできない。喜びのメッセージは、私たちの事情とは関係なく、私たちのもとへと届けられる。
 本日の福音書は、「放蕩息子のたとえ」として良く知られた箇所である。しかしこの15章全体を見ると、そこでは、「失われたものの回復」が主題となっていることに気付く。そうした意味では本日の福音書箇所は「失われた息子の生還」とも言うべきものである。
 主イエスは、さまざまな喩え物語をガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途上で、弟子達にあるいは主イエスを非難する者たちに対して語られる。15章の冒頭では主イエスの話しを聞くために、徴税人や罪人たちが近づいて来る。彼らは当時の宗教心や敬虔さの基準からするならば、枠の外にあると見なされた人々であった。その様子を見た者たちが、主イエスを「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難する。この非難に応えて、主イエスは三つの「失われたものの回復のたとえ」を語られる。それは、私たち人間の価値間を逆転させるようなものであった。いうならば、私たちの価値基準を超えた神の愛がこの地上に働く時、私たちの世界はどのように変えられるのかを示すものであった。そしてまたそれは、主イエスがエルサレムへと旅する歩みのその目的である、十字架と復活とが、私たちに示すものでもあった。
 本日のたとえでは二人の息子とその父親が登場する。遠い国で財産を使い果たした弟息子が故郷に戻った時、父親は失われた息子の生還を喜び、何も求めはしないかった。また後半に搭乗する兄息子は弟の帰還を喜ぶことが出来ず、家に入ることを拒否する。そのような兄に対して父親はわざわざ家から出てきて「一緒に喜んで欲しい」と語りかける。注意するならば、家に入ろうとしない兄息子もある意味で弟息子と同じように、失われた息子であることに気付くこととなる。しかしいずれにしても、ここで注目すべきは父親の姿である。父親は弟の事件においても、兄の事件においても父親は怒ったり叱ったり裁いたりせず、常に受容的である。そして受容に際しては、父親はどちらの息子の求めも聞き入れていない。弟息子の謝罪も全てを聞かずに、非常識ともいえる寛容さを持って父親は迎え入れる。この父親の非常識な態度は兄に対しても変わることがない。父に対する侮蔑とも言える兄の態度に対して、父親は「なだめて」「語りかけ」そして宴へ「招く」のです。自分から家を出てくる父親、なだめ、慰め、招く父親。たとえ話の中で描き出されるのは、失われた息子達に対して、一方的に差し出される父親の非常識とも言える深い愛なのである。それはまさに、私たちのためにその独り子をこの世に与えられた神の愛を指し示すのである。
 四旬節も後半へと入る。四旬節は、私たちが主イエスの十字架と復活を通して私たちに既に注がれている神の愛に気づく時でもある。主の愛のあふれる復活の朝を憶えて残された四旬節の日々を歩みたい。

2013年2月26日火曜日

[説教要旨]2013/2/24「十字架への道」ルカ13:31-35

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 15:1-12、17-18 【旧約・ 19頁】
第二の日課 フィリピ 3:17-4:1 【新約・ 365頁】
福音の日課 ルカ 13:31-35 【新約・ 136頁】

 四旬節も2回目の日曜を迎えた。キリスト教の伝統の中では四旬節は禁欲の期間でもある。それは不足と欠けの体験をすることで、私たちの生活を満たし守られる神の働きを、より一層実感するためでもあった。自らの欠けを知ることを通して、私たちはこの世界を自分自身の望む姿に整えることなどは出来ないということを思い起こし、自分はこの世界の創造者でも所有者でもなく、この地上に生きる全ての命は等しく神によって創られたということに思いを向けることとなる。
 本日の福音書に先立つ13:22では、隠された目的地である十字架へと向かいつつ、町や村を巡り歩いて教えるこの主イエスに、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねている。この質問は、昔も今も、読者である私たちにとっても切実な問いである。しかし、救いの出来事は神の働きであり、私たちは、自分で自分の救いを整え、確実なものにすることなどできないのである。この救いに関する問いに対して、本日の福音書では、主イエスはご自身の働きについて語られる。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。これはご自身にヘロデの魔の手が迫っていることを訊いて、ヘロデに対する言葉として主イエスが語られたものであった。主イエスのエルサレムへの旅は救いの実現の旅でもあること、そこでヘロデが自らをこの地の支配者として、所有者としてどのような企みを持とうとも、神の救いの業は主イエスの十字架とその三日後の復活によって実現する。そのことを主イエスは、自らに迫る危機を通じて、はっきりと語られる。一方では、主イエスに迫る危機とはいわば、都エルサレムとその支配者たちが自分達にとって世界を最適なもの、確実なものとするための企図でもあった。しかし、どれほど自分達を整え、守ろうとしたところで、それは適わないのだということを、主イエスは、エルサレムへの嘆きとして語られる。
 そこには、ある鋭い対比が描き出されている。つまり、運命に翻弄され命を危機に直面しながらも、救いの完成へと向かう者と、現在は力を手にし充足しており、その安定を整え続けようとするものの、滅びの運命を逃れることの出来ない者との対比である。それは、私たちの生きている、目に見える世界と、未だ見えない、しかしいつの日か来る神の国との対比でもある。
 主イエスのエルサレムにおける十字架は、客観的に見るならば、失敗と挫折に過ぎない。しかしそれこそが救いの出来事であることを聖書は語る。まさに救いの出来事は、私たちの思いと理解を超えた神の業に他ならない。もしその救いを、人が自らの手で確かなものにしようとする時、自分のために世界を最適化し、満たし整えようとしてしまう。しかし実はそのことによって、人は自らを救いの出来事から遠ざけてしまう。むしろ私たちが自らの不足と弱さに向きあうことを選ぶ時、私たちもまた十字架から復活への旅路を歩む主イエスの後にしたがっているのである。主イエスが辿られた受難の道のりを思う四旬節の時、私たちは、自らの弱さと欠けのただ中にあって、ただ十字架と復活を望みとすることを知るのである。

2013年2月22日金曜日

2013年受難週・復活祭のご案内[3/29-3/31]

2013年の復活祭(イースター)は3/31(日)です。
イースターに先立つ受難週の礼拝としては、3/29(金)19時より受苦日礼拝、3/30(土)夕方には復活祭前夜祭(イースターヴィジル)が行われます。
また3/30(土)午後には教会集会所にて教会学校を中心にイースターエッグ作りをします。
3/31(日)は復活祭(イースター)礼拝、午後には学生食堂を会場に、一品持ちよりによる祝会の時を持ちます。
皆様のご参加をおまちしております。

[説教要旨]2013/02/17「荒野の中で」ルカ4:1−13

四旬節第1主日

初めの日課 申命記 26:1−11 【旧約・ 320頁】
第二の日課 ローマ 10:8b−13 【新約・ 288頁】
福音の日課 ルカ 4:1−13 【新約・ 107頁】

先週の水曜日は、四旬節の始まりの日である「灰の水曜日」、そして本日は、四旬節最初の日曜日である。イースターまでの40日余りの日々の最初の主日にあたって、伝統的に荒れ野での主の40日間の誘惑の箇所が福音書として選ばれている。この箇所は、イースターまでに私たちが過ごす40日間が、主イエスの荒野での40日間を記念するものなのだ、ということを思い出させる。この四旬節の季節を通して、主イエスの生涯における荒れ野での40日間は、私たちの教会生活の中での40日間へと結び付けられる。つまり、私たちが今直面する様々な困難と試練とを、かつて主イエスもまた、荒れ野において辿られたということを、私たちは知ることとなる。
主イエスの荒れ野での日々は、聖霊の導きによって始まる。主イエスを満たす霊は、困窮と試練とに向かわせる力でもある。また、荒れ野と40という数字は、旧約聖書で語られる、イスラエルの民の40年に渡る砂漠での彷徨を思い出させる。40という数字は、その期間が人の予想を超える、大変長い年月であることを象徴する。つまり、それほどの長い期間に渡信仰への試練の時を意味している。現代の日本社会に生きる私たちにとって、信仰の試練の時はイースターの前の40日だけではない。私たちはこの世における日々の生活において、常に試練の中で生きている。
本日の日課では悪魔が誘惑者として描かれる。主イエスの試練、それは困窮と弱さだけではなく、いわばそれらを逃れ、力と高みへと向かう誘惑でもあった。主イエスは、それらの誘惑に対して徹底してみ言葉を持って応え、自ら困窮と弱さに留まられるのである。
人生の荒れ野の中にある時、その時は私たちにとって不毛以外の何物でもない。しかし、荒れ野の時、試練の時は、決して無意味な不毛なだけの時なのではない。エジプトを脱出したイスラエルの民が、神が約束した地に辿り着くまでに実に40年もの年月を要した。しかしその長い試練の時を経て始めて、未来への決して消えることのない信仰を与えられたのである。この40年の荒野での生活は、地上を旅するものにとって必要な時であった。その意味で、荒れ野の時を超えてゆくことは神の救いが実現する道筋なのである。
本日の聖書箇所の初めには、「荒れ野の中を“霊”によって引きまわされた」とある。旧約においても、預言者あるいはイスラエルの民が荒れ野へと向かうのは、本人の自発的意思によってではなく、むしろ見えない神の力が彼らを荒れ野へと駆り立てていったのだった。おそらくそれは、彼らにとっては、自分たちが望んでいた将来とは全く異なるものであった。しかし、むしろその望まざる荒れ野での体験を通して、彼らは神の人、神の民として変えられていった。それはまさに、荒れ野での体験を通して、神の業がその人に働いたということに他ならない。
主イエスが歩まれた荒野の日々を憶えるのはイースターの前の40日間に限られることではない。私たちは日々の生活の中で、私たち自身の直面する荒野において、主イエスその荒れ野の中で共におられることに思いを寄せるである。そして、その荒野の時は、決して無駄な、無意味な時なのではなく、私たちが主イエスに出会うための備えの時であるということに気づくのである。私たち自身の荒れ野の中で、私たちは主イエスと出会うことを憶えつつ、四旬節の時を歩んでゆきたい。

2013年2月8日金曜日

灰の水曜日の祈り[2/13]

今年は2/13(水)より主の受難を憶える四旬節に入り、3/31(日)に復活祭を迎えます。
2/13(水)19時よりチャペルにて灰の水曜日の祈りを行います(神学校との合同として平岡仁子師にご担当頂きます)。
是非ご参加ください。

[説教要旨]2013/2/3「神の愛を分かち合う群れ」1テサロニケ3:11-13

顕現後第4主日・三鷹教会定期総会

初めの日課 エレミヤ 1:4-10 【旧約・ 1172頁】
第二の日課 1コリント 13:1-13 【新約・ 317頁】
福音の日課 ルカ 4:21-30 【新約・ 108頁】

 使徒言行録によればパウロは第2回宣教旅行の途中でテサロニケで教会を創設、その後さらなる宣教地を目指して旅立つが、その後テサロニケ教会を様々な苦難が襲った。この苦難の中にあるこのテサロニケ教会を再び訪れて慰め励ましたいとパウロは強く願うが、何らかの理由によってその計画は頓挫する。その理由は様々に推測されているが明らかではない。いずれにしても、パウロはこの事を「サタンによって妨げられている」とすら感じるほど、焦燥と不安を覚えることとなる。現代人である私たちにとって、擬人化されたキャラクターとしての「サタン」はファンタジーのようである。しかし、励ましと希望を語る事、互いに喜びを分かち合い神に感謝すること、祈りを一つに合わせることを妨げる力が、この世に満ちているということ、そして私たちは日々そのような力に脅かされているということは、極めて現実的な体験でもある。
焦燥と不安の中、パウロは若い同労者であるテモテを派遣する。やがてテサロニケの教会から戻ったテモテは、パウロに「うれしい知らせを伝え」る(3:6)。「うれしい知らせを伝える」とは「福音を伝える」と同じ言葉である。テサロニケに福音を伝え、彼らを励まさなければならないと考え、焦燥と不安の中にあったパウロは、今や逆にテサロニケの信徒達によって福音を知らされ、励まされ、希望と生きる力を与えられる。そこには人の思いと予想を超えて働く神の力があることを確信し、パウロは祈りを捧げる。11節では、たとえ今、進むべき道が閉ざされているように見えたとしても、私たちの思いを越えて、主なる神は、そして主なるイエスが、その道を必ず備えて下さることを願う。その祈りは、福音の宣教の使命は、パウロ個人の思いや能力によって成し遂げられるのではなく、神と主イエスとによって成し遂げられるのだということを、改めて私たちに訴える。さらに続いて「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように」と祈る。そこでは「お互いの愛」つまり信仰の兄弟姉妹に対してだけでなく、「全ての人への愛」とによって、教会が満たされるようにと願っている。あらゆる困難、妨げを越えて、人と人とを出会わせ、希望を分かち合うことができるのは、神の愛によって人が満たされるからに他ならない。そしてそれは、ただ教会の中だけに留まることはない。満ちあふれる神の愛は、全ての人を満たしていくのである。最後に再臨の主に備えて生きることを願って祈りを締めくくる。主イエスの再臨の時、それは終わりの時であり、またあらゆる労苦と困難が報いられる時でもある。私たちを満たす神の愛は、主イエスの再臨の時、世の終わりの時に至るまで、私たちを結び合わせ、励ましと希望を分かち合わせる力であることを、パウロは力強く訴える。
今、この日本社会は不安と混乱の中にある。その中で生きる私たちもまた決してその不安と混乱から無縁ではない。けれども私たちが、神の愛によって満たされる時、私たちは、その不安と混乱を越えて希望と慰めの「うれしい知らせ」を伝え合うことが出来る。この2013年度、私たちが神の愛を分かち合う群れとして歩んでゆけることを祈り求めてゆきたい。

2013年1月31日木曜日

[説教要旨]2013/01/27「主の恵みの年を告げる」ルカ4:14-21

顕現後第3主日

初めの日課 ネヘミヤ 8:1-3,5-6,8-10 【旧約・ 749頁】
第二の日課 1コリント 12:12-31a 【新約・ 316頁】
福音の日課 ルカ 4:14-21 【新約・ 107頁】

 本日の福音書では主イエスの宣教の始まりについて取り上げられている。教会の伝統の中では、このガリラヤでの宣教の始まりもまた顕現節の季節に取り上げられてきた。救い主が私たちの間に与えられたことを憶えた後、徐々に主日のテーマは、「この方は何者なのか」ということへとその重心を移してゆく。現代人には、これは順序が転倒しているように思われる。通常は、まず「イエスとは何者か」を知り、それについての充分な知識を得た上で、「イエスとは救い主である」と理解し、そしてその救い主が私たちに与えられたことを確認することが、私たちにとっての「筋の通った」順序であると考えられている。しかし、降誕から顕現節に至る順序はむしろ逆になっている。まず「救い主」が与えられる。その後で、「では、この男は一体何者なのか」が問われることになるからである。
 確かにそれは、思考の上では、転倒した順序のように思われる。しかし、信仰体験の現実からそれを受け止める時、むしろそれは、一人一人の体験に即しているとも言える。私たちが主イエスに出会う、というのは、主イエスについての完全な知識を得て、全てを理解した上で、主イエスを救い主として私たちが認めるということなのではない。主イエスとの出会いはむしろ、私たちがそれと気付き理解する前に、既に与えられている。そして後になって初めて、その出来事の意味を私たちは知ることになる。
 顕現節、私たちは主イエスの宣教のその始まりを福音書の中で追うことを通して、既に私たちに与えられた救い主に今一度出会い直し、私たちにとって「イエスとは何者なのか」を知ることとなる。
 本日の福音書箇所で主イエスは、荒れ野での誘惑を経て、ガリラヤに戻られ宣教を開始される。ルカ福音書では公的宣教活動の始まりとしてナザレの会堂でのイザヤ書の言葉を主イエスは読み上げる。その内容は、主の恵みの年、赦しの時・解放の時が実現したということであった。
 そのイザヤ書の言葉は、主イエスがもたらされる「赦し」すなわち「解放」とは何かを公に宣言された言葉であった。それは人の力では辿り着くことの出来ない地平へと、神の力は私たちを導くためにその独り子を、この世へと与えられたのだ、ということを告げる。まさにその意味で、私たちにとっての「赦し」と「解放」とは、私たちが主イエスと出会うことに他ならない。
 そしてその出来事は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは語られる。赦しと解放を告げる主の恵みの年は、この聖書の言葉を私たちに告げられたその時、まさに実現するのである。
 現代は「不寛容の時代」であるとも言われる。自らの正しさを誰もが主張し、それにそぐわない他者を非難し、価値観の違う他者を受容することができない。この「不寛容」は、極めて簡単に、さまざまな関係を断絶させ破綻させる。私たちは「不寛容と断絶」の時代に生きている。不寛容と断絶の時代の中で、私たちは、私たちに関係の回復を、真の赦しと解放をもたらす救い主を求めずにはいられない。しかし、私たちの思いと知識を超えた向こう側から真の赦しと解放は既に与えられた。私たちの間に主の恵みの年は、今日聖書の言葉を聞く私たちの間で実現したと、聖書は語るのである。私たちは既に主の恵みの年を生きていることを憶え、この顕現節の時を歩んでゆきたい。

2013年1月24日木曜日

[説教要旨]2013/1/20「救いのしるし」ヨハネ 2:1-11

顕現後第2主日

初めの日課 イザヤ 62:1-5 【旧約・ 1163頁】
第二の日課 1コリント 12:1-11 【新約・ 315頁】
福音の日課 ヨハネ 2:1-11 【新約・ 165頁】

教会の暦では、12月末の主イエスの誕生つまり主の降誕の後、年明けを経て、1/6には東方の学者たちが主イエスを訪ねた主の顕現、そして先週は主の洗礼の出来事を福音書の物語を通して憶えてきた。それらは、救い主が私たちの生きるこの世界に与えられたという出来事を、様々な角度から振り返るものであった。そしてまた顕現節においては、いわゆる「カナの婚礼」の箇所が選ばれている。この箇所もまた、教会の古い伝統の中では、救い主がこの世界に姿を現された出来事として憶えられてきた福音書箇所の一つであった。というのもヨハネ福音書の中でこのカナの婚礼での出来事は「最初のしるし」と書かれているからである。それは、ヨハネ福音書の物語の中では、これから始まる主イエスの地上での歩みの幕開けを告げる出来事となっている。そこで主イエスは「水をぶどう酒に変える方である」と語られる。そのことは、私たちに何を伝えるのだろうか。
本日の福音書の物語はいわば、私たちは、過ぎ去ることのない出来事とどのように出会うことが出来るのかを問いかけている。「過ぎ去ることのない事柄」とは、この世に生きる私たちが神に結びつけられた出来事、すなわち主イエスの死と復活の出来事に他ならない。この主イエスの死と復活の出来事に私たちが出会う時、私たちは過ぎ去ってしまうものに翻弄される生から、命の根源である神に繋がれた、揺らぐことのない生へと引き戻される。
ぶどう酒の不足というアクシデントに際して、母マリヤがイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った時、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と応えられる。私たちがこのヨハネ福音書を通して読むならば、十字架に付けられた主イエスが、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」場面に再び出会う。そのことを知る時、主イエスの「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という応えもまた、それが十字架の出来事との関わりにおいて語られている事を知ることとなる。主イエスのまなざしは、神と人とを繋ぐご自身の十字架のみを見つめている。本日の日課の物語での主イエスの視線は、目の前で繰り広げられている婚宴で起こっている不測の事態に向かっているのではない。ここでいうならばぶどう酒の不足というアクシデントこそが、移りゆき、過ぎ去ってしまう出来事なのである。しかし、その過ぎ去ってしまう出来事が、死と復活へと向かう主イエスに出会う時、そこでは根本的な変化が起こる。それは単にぶどう酒の欠乏が満たされるということにとどまらない。主イエスの、死からの復活という出来事の前では、水がぶどう酒に変わるという出来事は「しるし」に過ぎない。水をぶどう酒に変えた力は、過ぎ去るものに心を奪われる私たちを、神へと結びつける力なのである。
ただの水でしかないものを、上等なぶどう酒に変える方は、過ぎゆく事柄によって翻弄される私たちを根底から変えられ、信仰を与えられる方であった。私たちの日常は、さまざまな過ぎゆく事柄によって翻弄されている。しかし、主イエスの死と復活の出来事に触れるとき、私たちは「変わることのない命の根源」に結びつけられる。

2013年1月15日火曜日

[説教要旨]2013/01/13「私の心に適う者」ルカ3:15-17、21-22

主の洗礼

初めの日課 イザヤ 43:1-7 【旧約・ 1130頁】
第二の日課 使徒言行録 8:14-17 【新約・ 228頁】
福音の日課 ルカ 3:15-17、21-22 【新約・ 106頁】

 本日は教会の暦では「主の洗礼」と名付けられている。これは、古代アレクサンドリアのキリスト者が1/6に救い主の誕生を憶えて祝うことを始めた時、併せて「主の洗礼」の出来事をも祝ったことに遡る。それは、主イエスの洗礼の出来事にあたって天が開け、鳩のように聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたという出来事が、主イエスが私たちの生きるこの地平に姿を現された出来事と深く結びついたためであった。一方で、罪無き神の子主イエスと、罪の赦しの洗礼とは矛盾であるという考え、またそのような矛盾を抱えることを良しとしない思いも古代の教会の中には根強くあった。しかし本日の福音書は、私たち人間の論理では矛盾するはずの出来事の中に、私たちの論理と思いを越えた何かがあることを伝えようとしている。
 主イエスの洗礼に先立つ、洗礼者ヨハネの公の活動の紹介から続けて読むと、興味深いことに気付く。3:7では洗礼者ヨハネの元に集まって来た時には「群衆」つまり単に「寄せ集め」と呼ばれた人々が、15節で「待ち望む」者として描かれる時には「民衆」つまり「民」と呼ばれるのである。特にルカ福音書は、そこには徴税人や兵士といった、当時の社会の中で排除され敬遠された者たちもやってきたことを伝えている。いわばそこに集まった者たちは、地上の論理や思いでは一つになることなどあり得ないような者たちであった。しかし洗礼者ヨハネによって主イエスの到来を告げられ、それを待ち望む時、人々は一つの「民」と呼ばれるのである。
 そして、そのように待ち望む民のところへ主イエスはその姿を現される。21節「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」というルカの描写は、主イエスが、民のそのまさにただ中におられることを伝えている。地上の論理と思いによっては、一つになることなどあり得ないような矛盾したばらばらな人間の集まりの中で、主イエスは人々と共に生き、共に祈られる。それは、洗礼者ヨハネの呼びかけによって集まった人々は、その中心において主イエスが共に生き、共に祈られることを通して、一つの民とされてゆくことを物語る。そしてまさにその主イエスの姿を前にして、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」ことを福音書は伝える。神の愛される御子は、人々のただ中で共に生き、共に祈られる方なのである。
 ばらばらであった群衆は、共に生き共に祈られる主イエスによって一つとなる。しかしその主イエスは、この世の権力や経済力、暴力によって、民をまとめ上げるのではなかった。主イエスは十字架において、ご自身の命を世に生きる者に分かち合われた。命を分かち合って下さるこの方が共に生き共に祈られるからこそ、群衆は一つの民となることができる。つまり、この世に生きるばらばらな私たちが一つの民となることが出来るのは、私たちと共に生きて下さるその主イエスの命を分かちあうからに他ならない。神の愛する子、その心に適う者である主イエスの命は、私たちを分断する様々な矛盾を乗り越えて私たちを結びつけ、私たち自身を神の愛する子、神の御心に適う者とされるのである。

2013年1月8日火曜日

[説教要旨]2013/1/6「あなたを照らす光」マタイ 2:1-11

主の顕現

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

 教会史によれば1月6日の顕現日が、救い主がこの地上に現れたことを憶える「クリスマス」としてそもそも祝われていたが、やがて新年をはさんだ主イエスの誕生を憶えるこの二つの祝祭が、教会の中に定着することとなった。新しい年の始まりにあたって様々な希望抱く時、私たちは、自分達がクリスマスの光の中にあって、その希望がどこから与えられるのかを思い起こすこととなる。
 主の顕現の日にあたっては、マタイ福音書における主イエスの誕生物語が伝統的に読まれ、クリスマスと同様に、暗闇の世を照らす光がその主題とされてきた。占星術の学者達は星に導かれて、引き寄せられるように地上にその姿を現された王の中の王のもとへと導かれる。しかし最初に彼らが訪ねたのは都エルサレムのヘロデ大王のもとでしあった。たしかに「新たに生まれた王」を求めるならば都の王を訪ねることは理に適ったことである。しかし、権力を誇るヘロデ大王のもとにも、壮麗な神殿の中にも、遠く東の国から旅してきた学者達が求めたものは見いだすことは出来なかった。むしろ彼らが都を離れた時、再び星を見い出し喜びにあふれたのだった。その先で彼らが出会ったものは、期待はずれとも言える、権力からも富からも遠い一人の小さな赤子でしかなかった。しかし彼らは、この小さく弱い存在にこそ、自分たちを闇の中から救い出す光があることを確信する。彼らは、幼子を伏し拝み、彼らが持てる宝を献げるのだった。
 一方で学者達の到来は、ヘロデには不安を憶えさせる。権力も富も無い小さく弱い存在にこそが世を救う光であるという事柄は、ヘロデそして都に住む者達にとっては、自らを脅かすものでしかなかった。彼らの立つ価値観では、人を支配し、奪い取ることによってしか、自らを満たし、平安を守ることが出来なかった。つまりここでは一つの事柄が、一方では喜び拝むことを生み出し、一方では不安と恐怖を生み出す。そこでは、自らの期待し思い描いていたものとは異なる結果の中に喜びと讃美を見いだした者と、自らが拠って立つ価値を譲ることの出来なかった者とが、はっきりとしたコントラストをもって描き出されている。
本日の福音書では、この暗闇の世を照らす救い主は、地上のいかなる力も持ち得ない姿で、私たちの前に現される。それは約束とは違う、期待していたものとは違うものであったかもしれない。さらに、この無力な赤子は、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる。その有り様は、人を支配し奪い取ることでしか自らを豊かにすることが出来ない地上の価値観では、何の意味も持たない。しかし、主イエスの十字架は死で終わることは無かった。主イエスはその死から復活され、絶望と挫折を貫く、朽ちない希望の光を私たちに与えられた。まさにそのことによって、この地上に姿を現された救い主は、この地上の闇の中で生きる私たちを神の光によって照らされるのである。
 まさにその意味で、救い主が与えられたことを憶えるこの季節、主イエスの十字架と復活の光が、新しい年を歩み出す私たちを照らしていることを思い起こす。この光に照らされて、人間の目には挫折と絶望、失望と悲しみしか映らない時であっても、私たちは滅びることのない希望を与えられることを、私たちは知る。