2010年12月29日水曜日

[説教要旨]2010/12/26「神の言葉に導かれて」マタイ2:13-23

降誕後主日

初めの日課 イザヤ 63:7-9 【旧約・ 1164頁】
第二の日課 ガラテヤ 4:4-7 【新約・ 347頁】
福音の日課 マタイ 2:13-23 【新約・ 3頁】

 本日の福音書では、天使から告げられたヨセフが、マリアそして幼子主イエスを連れてエジプトへと旅立つ出来事が描かれている。エジプトという地は、聖書の世界とは古く、深いつながりのある場所であった。敢えて言うならば、イスラエルの歴史を振り返る時、エジプトとの関わりは欠かすことの出来ないものであった。聖書の中で語られるエジプトの姿には2つの側面があった。一つは、創世記に描かれているように、かつてもう一人のヨセフがその地で要職につき、父ヤコブと一族とを救った場所であった。またその後も、ユダヤの王達の中には政変の中で一時的にエジプトに身を寄せる者がいた。そこは、いわば避難先としての土地であった。しかし、同時にそれは、神に選ばれたモーセによって導かれて脱出するまでの間、かつてイスラエルの先祖達が奴隷として使役された場所でもあった。イスラエルの民にとって、エジプトとは時に憧れ頼る先であり、また時に憎み敵対する相手であった。いわば、イスラエルの民にとって、エジプトとは自分たちの有り様を逆に映し出す「外側に立つ他者」であった。内側が飢え乱れる時、民はそこに逃れる。そして虐げられ、貶められる時、再び人は内なる故郷へと戻る。その意味で、エジプトとの関わりが語られる時、人はイスラエルの民自身の歩んできた歴史を振り返ることとなった。
 そうした歴史の中で、ヨセフは、同じ名前を持つ先祖と同じように、住み慣れた場所に戻ることなく、見知らぬ土地エジプトへと旅立つ。それは、ヨセフ個人自身にとって大きな転機であり、人生の危機であった。しかしそれは同時に、イスラエルの民が歩んできた流転の歴史そのものにヨセフもまた連なっていたということでもあった。かつてイスラエルの民を導いた力は、今またヨセフにも働き、どのような状況の中でも、彼を見捨てることなく、見知らぬ土地で生きることを支えるのである。
 さらに、その避難に際して語られるエレミヤの言葉は、かつてバビロンへと補囚とその解放の出来事、神の「新しい契約」を語るものであった。ヨセフの旅立ち、それはただ彼一人の旅立ちではなかった。なぜなら、この地上に新しい契約として与えられた、救い主イエス・キリストが共にいるからである。それは、かつてのイスラエルの民の旅立ちの単なる繰り返しではなく、新しい契約、新しい救いの歴史への旅立ちであった。それは、全ての民へと開かれた救いの歴史の始まりであった。まだ見ぬ新しい出会い、新しい価値観、新しい関係が紡ぎ出される、その始まりの出来事であった。
 今年もまた私達はクリスマスを迎えた。それはまるで機械的に繰り返される同じ周期がただ巡ってきただけと捉えることも出来る。しかし、私達は、主イエスと共に、新しい時へと歩み出している。ヨセフが天使によって神の言葉を聞き、未知の世界に歩み出した時、新しい救いの歴史が始まった。私達もまた、神の言葉によって導かれ、新しい時を歩み出すことが出来るのである。

2010年12月23日木曜日

[説教要旨]2010/12/19「その憐れみは代々にかぎりなく」ルカ1:46-55

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 サムエル上 2:1-10 【旧約・ 429頁】
第二の日課 ローマ 2:17-29 【新約・ 275頁】
福音の日課 ルカ 1:46-55 【新約・ 101頁】

 4回のアドベントの主日を過ごしてきた私達は、今週クリスマスを迎えることになる。この日曜はいわばクリスマスの幕開けの時となっている。それに際して、神を褒め称える言葉が並ぶ箇所が本日の福音書として選ばれている。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」それはまるで、このクリスマスの時の幕開けを告げるファンファーレのように私達の心に鳴り響く。
 この箇所は、主イエスの母であるマリアが、洗礼者ヨハネの母エリザベトからの祝福を受けて語る言葉として記されているが、そこで語られている事柄は、さまざまな矛盾と逆説にみちていることに私達は気付かされる。それはまず、マリアが自らを「幸いな者」と呼ぶことである。いいなずけであるヨセフとの結婚を前にして子を宿したことは、当時の社会的な規範からすれば、とんでもない出来事であった。しかし、天使ガブリエル、洗礼者の母エリザベト、そしてエリザベトの胎の中にいる、最後の預言者である洗礼者ヨハネは、マリアを祝福する。そこには、人間の視点と天的な視点との間の決定的な相違がある。実に、マリアに起こった出来事は、神の祝福と恩寵の出来事であるということは、マリアが宿したその子が、世の救い主であるということを抜きにしては理解できないのである。人の目に見える領域、すなわち自分の規範にあてはまる事柄からのみ、目の前の出来事を捉えるならば、それは苦悩と絶望の出来事としか映らない。しかしマリアを祝福する視点、いわばそれはまだ起こってはいない未来の救いの出来事から今自分の前で起こっている出来事を見る視点なのである。
 それらの祝福に応えて、マリアは自らを「幸いな者」と語る。しかし、もし私達が、目に見える事柄だけを追うならば、その祝福と恩寵はただ一人に向けられ、その幸いな出来事はただ一人にのみ起こったことでしかない、なんという不公平な出来事なのだ、そのような苛立ちと嫉妬を憶えるかもしれない。しかし、マリアに個人的に起こった神の恩寵の出来事はただマリア一人の問題ではないということ、それは全ての人々に及ぶとする。ここでも大いなる逆説が語られることとなる。救い主を宿したのはマリアという個人以外には体験しえない出来事であり、その意味でマリアは特権的な存在でしかない。誰もがマリアと同じ体験をすることなどできないのである。それにもかかわらず、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とマリアは語る。それもやはり、そこで与えられた祝福と恩寵とは、主イエスが与えられたという出来事であることを抜きには理解することができないのである。
 実に主イエスは、苦悩や絶望、怒りや嫉妬、そうしたさまざまな人間の困窮の中に与えられた光なのである。主イエスの出来事を抜きには、困窮はただ深い闇でしかあり得ない。私達はその闇の中でただぶつかり合い、傷つけあうだけである。しかし、その闇、憎悪と嫉妬、裏切り、そして十字架の死という絶望的な苦悩を越えて、命の世界を主イエスは私達に示されたのである。その主イエスが私達の光として与えられたのである。主イエスの光は、まだ見ぬ救いへの希望を動かぬ確信として私達の魂に届けるのである。
 今年もクリスマスの幕が開ける。2000年以上前に一人の女性に投げかけられたその祝福と恩寵の光は、時空を越えて私達のもとに届いている。

2010年12月17日金曜日

こどもクリスマスのごあんない[12/23]

ルーテルみたかきょうかい こどもクリスマス

こどものためのクリスマスのおはなしをきいたあと、ゲームしてあそんだり、みんなで
おかしをたべたりします。
だれでもさんかできます。(さんかひむりょう)
たくさんんおおともだちのさんかをおまちしています。

12がつ23にち(もく)ごご2じ〜4じ
ルーテルがくいんだいがく チャペルにて


2010年12月9日木曜日

0422市民クリスマス[12/11]

0422市民クリスマスは武蔵野市・三鷹市・小金井市などのキリスト教会による超教派(エキュメニカル)な市民クリスマスです。
今年は12月11日(土)18:30よりカトリック吉祥寺教会にて行われます。
どなたでもご参加頂けます(礼拝の中で自由献金あり)。
礼拝後、第2部として、ICUハンドベル「ベルペッパーズ」のコンサートが行われます。

また礼拝に先立ち16時からは会館前にてクリスマスグッズのバザールも行われます。

皆様是非お越し下さい。

クリスマスイヴ・キャンドルサービス[12/24]

今年のクリスマスイヴ・キャンドルサービス は

12/24(金)19時より行われます。

ソプラニストの長尾篤子さんによる賛美を交えて礼拝を守ります。
お知り合いやご家族とご一緒にお出かけ下さい。

クリスマス 主日礼拝・祝会[12/19]

12/19(日)10時半の主日礼拝では、クリスマスを憶えて三鷹教会聖歌隊、ルーテル学院大ラウスアンジェリカ(ハンドベル)による演奏が行われます。
また礼拝の中で洗礼式も予定されています。
礼拝後(12時半頃より)学生食堂にてクリスマス祝会の時を持ちます。
参加される皆様には料理の各自一品持ち寄りへのご協力をお願いいたします。