2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/6/21「いったい、この方は」マルコ4:35-41

聖霊降臨後第4主日 初めの日課 ヨブ記 38:1-11 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 6:1-13 福音の日課 マルコによる福音書 4:35-41 本日の日課である4:35以下では、1-3章までと同じく主イエスの奇跡の業が続いて語られる。しかしここからは主イエスの奇跡に対する人々・群衆の「この人は、いったい何者なのか」という反応がより鮮明に描き出される。それは、主イエスの存在が、人間にとって全く知らないもの、全く新しいものであることを描き出す。 本日の福音書では、湖に船で漕ぎ出し、突風に悩まされる弟子達の様子が描き出される。前半では慌てふためく弟子達と、静かに眠っておられる主イエスとの対比が印象的に語られる。弟子達は「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、怒りとも嘆きともつかない叫びをあげる。弟子達のこの訴えは、客観的にはきわめて真っ当なものである。私たちが同じ体験をしたならば、たしかに、同じように訴えるであろう。しかし物語は、彼らがある重要な事柄を理解していないことを描き出す。すなわち、彼らが荒れ狂う波の中に居るとき、主イエスが共におられた、ということの意味である。主イエスは嵐が静まるように神に祈るのではなく、直接に波風に命じられるが、それは主イエスご自身が神の力をふるっていることを示している。嵐を沈めた主イエスは弟子達に向かって語られる。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」そして弟子たちは非常に恐れ「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いあうのだった。 この後に続く物語において、主イエスの奇跡を目の当たりにした者達は皆激しく驚き、主イエスについて噂し始める。やがてそれは8章での「あなたは、メシアです」というペトロの応答へとつながってゆく。しかし、そこではまだ物語は半分にしかいたっていない。つまり、ペトロが「あなたは、メシアです」と応えたとき、ペトロはそのことの真の意味をわかっていなかった。主イエスが、神の子キリストであることが明らかになるには、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ出す、十字架の出来事を待たなければならなかった。しかし、主イエスの十字架の死は、それによって全てが終わってしまう、挫折してしまうものではなかった。むしろ、そこから全てが始まることとなった。それはまさに命の終わり、計画の中断と挫折が全ての始まりになるという、全く新しい出来事であった。 新しいものは私たちを脅かすがゆえに、私たちは新しいものを警戒し、命に満ちた新しいメッセージをむしろ、古いものによって覆い隠そうとする。しかし、キリストに結ばれるということは、私たちが全く新しい命に結ばれるということに他ならない。そしてキリストに結ばれた命とは、自分の生活だけでなく、世で困難に直面している人々、様々な嵐に翻弄されている人々に思いを向け、その人々への愛を生み出すことのできる命なのである。 私たちは今聖書を通して、キリストに呼び出され、キリストに出会い、聖書の言葉と共にキリストは私たちと共にいる。そうであるがゆえに、キリストに従い、キリストに結び付けられた私たちは、私たちが未だ出会っていないものへと関わり、愛する力を、共におられるキリストから与えられているのである。見えない力に翻弄されたこの世界の荒波は、私たちは脅かす。けれども私たちが結ばれているキリストによって与えられる愛の力は、世の荒波を鎮める力となるのである。

[説教要旨]2015/06/14「どうしてそうなるのか」マルコ4:26-34

聖霊降臨後第3主日 初めの日課 エゼキエル書 17:22-24 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 5:6−10、14−17 福音の日課 マルコによる福音書 4:26-34 本日の福音書箇所を含むマルコ福音書4章では「神の国」に関するたとえ話が語られている。しかし、これらの神の国についての教えは、わたしたちの日常の延長で想像できるような、天国の姿を伝えてはいない。むしろそれらは、私たちが思いもよらなかったような全く新しい生き方を示している。 本日の箇所の前半「成長する種のたとえ」で「ある人」として登場する人間は、穀物の成長に対して何も関与してないことが注目される。人間の努力とは無関係に「ひとりでに」実を結ぶように、神の国は「ひとりでに」成長し実を結ぶことが強調される。種の成長について、どうしてそうなるのかはわからないにも関わらず私たちはその収穫に与ることを、このたとえは語る。後半「『からし種』のたとえ」は、はじまりの小ささと結末の大きさとが印象的に対比される。その大きな結末は、はじまりの「蒔かれる時」には、全く予測がつかないものであることが強調される。旧約では度々、空の鳥は地上を移っていく移住者・寄留者を象徴するものとして語られている。小さな種は、地上に住み、収獲を期待して種を蒔く者にとってだけでなく、空を旅する鳥すらも身を寄せることができるほどのものとなる。聖書が語る「神の国」とは「神の力の及び支配領域」とも言い換えることが出来る。この世界と、そして私たち自身の命をも作られた、神の創造の力は、何もないところから、命を生み出す力である。その力がいつどのように働くかは、私たちの目から隠されているが、私たちは神が働かれたその結果を、ただ恵みとして受け取るのである。 私たちが人間として成し遂げることの出来る働きは、ごく限られた不完全なものに過ぎずない。私たちがなすことのできることは、それらを完成してくださる神の力を信頼し、また希望として、失敗や不完全・不十分であることを恐れずに歩むことでしかない。新約聖書が形づくられた時代のキリスト者達は、さまざまな困難に遭遇したであろう。しかし、彼らに伝えられた、主イエスの業と教えを通して、目に見える現実のその奥に、神の国の現実はたしかにはじまっていることを彼らは確信したのだった。 主イエスの地上での働きは、十字架の死によって中断させられることになる。それは目に見える成果として見るならば、不完全なままで挫折したということになる。しかしキリストは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、見えない神の力は働くということ、そして希望が必ず訪れることを私たちに示された。そして、この十字架と復活を希望とし、信頼して歩むこと、それこそが信仰に他ならない。 私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし、その私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられている。この聖書が伝える出来事を通して、私たちは、自分の思いと力と知恵を超えて、神は全てを良しとされるのだということを確信するとき、私たちは全く新しい生き方へ、主イエスの御後に従う道へとその歩みを進めることが出来るのである。

[説教要旨]2015/06/07「神の御心を行う人」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日 初めの日課 創世記 3:8-15 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 4:13-5:1 福音の日課 マルコによる福音書 3:20-35 本日の福音書の冒頭では「群衆がまた集まってきて、一同は食事をするヒマもないほどであった」とあり、主イエスの癒しを目の当たりにした人々が、主イエスの廻りに押し寄せる様子が描かれる。そこに主イエスの身内の者が、主イエスを取り押さえにやってくる。癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内のもの」は、この男は「気が変になっている」として、取り押さえるためにやってくる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「(自分の)外側に立つ」という意味である。つまり、この言葉の中には、社会の外側に追いやられた者へと向かわれた、主イエスの姿とも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都からやってきた宗教的権威を持つ指導者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と主イエスを非難する。たしかに権力者達にとって、主イエスが行っていることは、自分達の権威と権力の外側へと人々を連れ出し、それによって自分達が命じることの無意味さを明らかにし、自分達の権威と権力を否定するものであった。したがって、彼らにとってみれば、そのような主イエスの教えも行いも、「悪」でしかなかった。 しかし主イエスは、その非難が、実は、権力を持った者の欺瞞でしかないことを譬えを用いて指摘し、続いて誰が主本当の意味での「身内」であるかを語られる。主イエスが語られる、本当の身内とは、時代の空気や趨勢に敏感に飛び乗り、権力を守り、利益を得ようとする者達のことではなかった。むしろそれらに反することがあったとしても、神のみ心を行う者こそが、本当の身内であると語られる。それは、イエスに従う者たちが、社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。 そのように神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、十字架の死に至るまで、神のみ心に従って歩まれ、そしてその歩みはその死で終わることはなかった。それは、神のみ心を生きる者に「命の道」を備えるために他ならなかった。 日本カトリック司教協議会発行の戦後70年司教団メッセージ「平和を実現する人は幸いー今こそ武力によらない平和を」の結部には、1981年にヨハネ・パウロ2世が広島で行った平和アピールが引用されている。そこでは「目標は、つねに平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。」に続いて、次のように書かれている。「険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命をまっとうさせるものであります。平和の道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢では泣く、現実のものとする道なのです。」私たちは今、様々な不安と危機の中で、この地上での生を歩んでいる。しかし、その私たちの日々の中に、主イエスの十字架と復活によってもたらされた、神の御心に生きる道、命への道が備えられている。主イエスの後に従い、この命の道を歩んでゆきたい。

[説教要旨]2015/05/24「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21

「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21 聖霊降臨日 初めの日課 使徒言行録 2:1-21 第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:22-27 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:26−27、16:4b-15 イースター・主の復活の朝から50日目である本日、私たちは聖霊降臨日の礼拝に預かっている。使徒言行録では、過越際から50日目にあたる五旬祭の時、都エルサレムに残された弟子達が、とある家の階上の部屋で集まっていたところに、天から炎の舌のような聖霊が降り、弟子達があらゆる国の言葉で語り始めたとされている。それは教会の宣教が始まった時であるとも言われる。 順序としては逆だが、本日の福音書の日課は、ヨハネ福音書における十字架の直前に、主イエスが弟子達に向かって語る告別説教の一部が取り上げられている。この告別説教の中で、主イエスは、残される弟子達には彼らを助ける力として「真理の霊」が与えられることを約束された。霊=プネウマという語は、風、息、命、魂などなど非常に広い意味を持つ言葉であるが、その共通する要素を取り出すならば、目には見えないが、何かを動かす力であるといえるだろう。そしてここでそれは特に、神の見えない、しかし命を与える力を指し、しかもそれは「真理」の霊である、と語られている。聖書の語る真理、それは、主イエスの十字架によって救いがこの世界において明らかになること、主イエスの命が私たち達とともにあることに他ならない。主イエスの十字架の元から逃げ出してしまった弟子達は、主イエスの新しい復活の命に出会い、彼ら自身が新しい命に生かされる。それはまさに救いの真理を、彼らが体験する出来事であった。 使徒言行録は、その出来事を別の物語として描き出す。聖霊を受けた弟子達は、様々な言語で語り始めたとある。これは、ただ突然に外国語で話し始めたということがというだけではなく、大変奇妙なことであった。使徒言行録の1章では、復活された主イエスに弟子達は、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と問いかける。つまり彼らの関心は、いわばイスラエル民族の内側にもっぱら向いていたことが記されている。辺境の地であるガリラヤ出身者が多かったからこそ、この都において、異国人を放逐し民族的な純粋性を実現し、強い国を打ち立て、人々から賞賛を得たい、という思いが彼らのうちに強く働いたのかもしれない。しかし、真理の霊が降った時、彼らはエルサレムから見るならばいわば「辺境の言語」である「外国語」を話し始める。それはまさに大きな大きな転換点であった。都という中心に向かって内へ内へと閉塞していた弟子達は、真理の霊を受けた時、辺境を自らの中に取り入れることとなった。そしてそのことによって、彼らは外なる世界へと開かれたのだった。辺境出身の鬱屈を解消するべく、異国人を放逐し、民族的な純粋性を実現しようとする、その凝り固まった妄執から、彼らは解放される。そしてむしろ、弱い者、貧しい者へと向かい、分かち合うことに喜びを見出すこと、救いの出来事をまだ見ぬ人々と分かち合うこと、和解の福音を伝えることへと、彼らは押し出されてゆく。真理の霊を受けた弟子達は、隠れていた部屋から踏み出してゆくのだった。 かつて弟子達を解放した命与える真理の霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たす力である。それは、空しい過去への妄執から解き放ち、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。

[説教要旨]2015/05/17「よろこびでみちあふれるように」ヨハネ17:20−26

復活節第7主日 福音の日課 ヨハネによる福音書 17:6−19 本日の日課である17章の祈りでは、1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」とあるように、父なる神に向き直り、地上に生きる人間の立場から、わたしたち人間を背負って、執り成しの祈りを神に向かって祈られている。主イエスはその祈りの中で「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)と祈られる。この17章では繰り返し「一つになる」ことが祈られていることに気づく。そして「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と語る。 ヨハネ福音書の告別説教の全体では「一つになること」が繰り返し語られる。しかし全ての人の顔も色も有無を言わさず同じ色で塗りつぶし、一人一人の区別がなくしてしまう時、個々の人格はもはや尊重されず、交換可能な部品となってしまう。聖書が語る、「一つであること」の本来の意味とは何なのか。 ここでいう一つになるということは、力による抑圧的な同化を意味してはいない。わたしたち人間を背負って主なる神へと向かう祈られる、主イエスのその祈りの中では、「わたし」「あなた」「彼ら」という立場の違いは残されているからである。主イエスが語られる「一つになること」とは、暴力的な同質化ではない。確かに、ある集団が皆同じように考え、同じことを語り、同じように行動することが強制される時、一時的には力を増し、豊かになるかもしれない。その理想型とはまさにかつてのローマ帝国の軍隊であり、近代の戦争をの背景となった軍産構造そのものでもある。しかしその行き着く先は荒廃でしか無いことを、わたしたちは人類の歴史の中で見い出すことが出来る。主イエスが祈られたのは、そのような「一つになること」ではなかった。それぞれに異なる有り様を残しつつも、互いに愛し合い、互いに認め合うことを通じて、一つの命へと結ばれる、そのようなあり方に他ならなかった。それこそがわたしたちが喜びに満ちあふれるためのあり方であった。 しかしながら、わたしたちの現実に目を向けるならば、地上に生きるわたしたちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争い合うことを避けることが出来ないでいる。わたしたちの生のあり方はあまりにも喜びからかけ離れている。けれども、わたしたちはそのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ないのである。むしろ、そのような分裂と対立の現実の中で生きるしか無いわたしたちのために,主イエスはこの世のただ中にやって来られたからなのである。わたしたちがこの地上で互いに愛し合い、認め合う、一つの命へと結ばれて生きることを実現することを、あきらめることなく求め続けることが出来るために、主イエスは、この地上に生きる弟子達に、そしてその後に続く者達を背に負って、神に祈られるのである。たとえわたしたちの目の前にある現実が、どれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、そしてわたしたちを背負って、神に祈り求めて下さるのです。そしてこの主イエスの祈りは、今を生きるわたしたちのために続く祈りなのである。

[説教要旨]2015/05/10「キリストの愛に留まる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日 初めの日課  使徒言行録 10:44-48 第二の日課  ヨハネの手紙一 5:1-6 福音の日課  ヨハネによる福音書 15:9-17 本日の日課9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」つまり、父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、この二つの事柄は決して等価値を持つということに私たちは違和感を持つ。父なる神が御子イエス・キリストを愛するとうことと、その主イエスが私たちを愛されるということは、同じ次元の事柄ではない。実に、私たちがそのような主イエスの愛の中にいるということは、決してあたりまえのことでも当然のことでもない。そうであるからこそ、それは恵みに満ちた言葉なのである。そして、それに続いて「わたしの愛にとどまりなさい」というキリストの掟を聞く。ここで「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とあるからと言って、キリストの掟を守ることが、決して主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら主イエスの愛は条件付などではなく、無条件の、無制限の愛だからである。したがって、むしろここで「わたしの掟を守るなら、」とあることは、わたしたちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。 ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエスが、弟子達に向かって、長い別れの言葉を述べる。その中で主イエスが「互いに愛し合いなさい」と語り、そして「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」語られる。その愛とはまさに主イエスがその十字架において示された愛、無条件で無制限の愛に他ならない。しかし私たちは自己中心的な愛から離れることの出来ない存在でしかない。けれども、同時に、私たちはそのような私たちのためにすら、主イエスはその命を献げて下さった。そのような愛が私たちに注がれていることを、この箇所は語る。 主イエスは弟子達に対して、ひいては私たちに対して、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と語られる。主イエスの友となるということは私たちがなにか人間以上の存在になるということではない。それは、わたしたちが喜びに満たされて日々を歩むことができるということに他なりません。それは、たとえどんなに小さく弱い者であったとしても、私たちが愛されるに値するかどうか、そのように強く大きい者であるかどうかに関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛を、私たちが受け入れることなのである。 キリストの言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の力とは、ヨハネが闇と呼んだ、奪い取り、支配することを望む、欲望の誘惑である。この闇の力に抗い、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし主イエスが歩まれたその道は今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

[説教要旨]2015/05/03「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8 復活節第5主日 初めの日課 使徒言行録 8:26-40 第二の日課 ヨハネの手紙一 4:7-21 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:1-8 本日から復活節の終わりまでは、復活節に新入信者を迎えた信仰者の群れがあらためてイエスの教えを受けとめるため、ヨハネ福音書のいわゆる「告別説教」が福音書の日課として続く。それはまた、神の霊が与えられ、教会が生み出されることとなる、聖霊降臨の出来事へと思いを向けることを私たちに呼び掛けている。 ヨハネ福音書全体のおよそ1/4にあたる分量が、最後の晩餐に関しての報告となっており、その大部分は主イエスのいわゆる告別説教が占めている。この告別説教では、まず前半で、主イエスがまもなく弟子達の前を去り、「父」のもとへと向かうこと、しかしそこで弟子達のための場所を備えられること、弟子達が主イエスの「いましめ」を守ること、主イエスが去った後、真理の霊・弁護者が使わされること、主イエスが残される平和は「世」が与えることのない平安であることが繰り返し語られる。それらは、弟子達を襲うこの世での苦難を予告しつつ、また一方では、その弟子達に与えられる、「この世ならぬ」喜びの約束となっている。そして本日の日課を含む、後半では、同じ主題が繰り返されながら、とりわけ、弟子達が主イエスにつながること、そして互いに愛し合うこと、これが主イエスのいましめであることが、特に印象的に語られることとなる。 本日の箇所では、信じる者一人一人が枝であり、それがすべて幹である主イエスにつながっている(共にいる)、ということが語られている。そしてまた、「(3)わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」これは、聖霊が与えられることを通して、信仰の共同体の中に主イエスは共におられる、ということと深く結びついている。その意味で本日の箇所は、主イエスと共に同じ時、同じ空間を生きた弟子達に対してのみ意味があるのではなく、時と場所を隔ててなお、主イエスの語られた言葉によって、私たちは主イエスと結びつけられて、今生かされているということを伝えている。ヨハネ福音書では、主イエスは「わたしは〜である」という仕方で、繰り返しご自身について語られる。それは、今を生きる私たちが聖書を通して救い主である主イエスを知るということでもある。だから今聖書を通して、この「わたし」は、「わたしはまことのぶどうの木である」と語られる主イエスに出会う。そして、その主イエスは「わたしにつながっていなさい」と呼び掛けられる。この「わたし」は今や、主イエスにつながり、の命を生きるものとなる。それは「わたしただ一人」ではなく、共に主イエスにつらなる「わたしたち」へと変えられてゆく。まさにその意味で、主イエスの命を生きる私は、今や孤独な存在では無く、主イエスと共に新しい命を生きるわたしたちなのである。主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会うのである。 自分が何のために生きているのか、何をしたいのかわからない。この世に生きる私たちは皆、そのような出口の見えない苦悩にぶつかることがある。しかし、キリストの言葉をわたしへと呼び掛けられたものとして、キリストにつながって生きる時、このわたしは、孤独のまま立ち枯れてゆくだけの存在なのではないこと、わたしはわたしたちとなり、そのわたしたちには主イエスの古びることの無い命が与えられていることに気付くのである。