2012年12月26日水曜日

[1/1]2013年元旦礼拝のご案内

来る2013年の元旦は11:00よりチャペルにて元旦礼拝を行います。
新しい年を主の祝福のうちに共に歩み出しましょう。

[説教要旨]2012/12/23「幸いな者」ルカ1:39-55

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 ミカ 5:1-4a 【旧約・ 1454頁】
第二の日課 ヘブライ 10:5-10 【新約・ 412頁】
福音の日課 ルカ 1:39-55 【新約・ 105頁】

 クリスマスが祝日ではない日本では、多くの教会がクリスマスの直前の日曜にクリスマスを憶えて祝う。私たちもまた、まもなく来るクリスマスの時を待ち望みつつ、また同時に、私たちのもとに主イエス・キリストが与えられた出来事を喜び祝いつつ、この礼拝に集っている。
 いわゆるクリスマス物語と呼ばれるルカによる福音書の冒頭部分では、ザカリア、エリサベト、マリア、シメオンといった、「待ち望む人々」について語られている。彼らはそれぞれの場所で神の約束が実現することを確信しつつ、今は隠されていることがやがて必ず明らかとなるという信念に満たされて、それぞれの状況を生き抜く。さらに彼らの誰一人として、自分達の行く末について確定した結論を持ってはいない。いわば、自分達の行く末の全てを神に委ねつつ、しかし約束の実現への確信を持ちつつ、待ち続ける。
 現代に生きる私たちは皆自分の願望に絡み取られ、その願望を実現させるために未来を思い通りにコントロールし、限られた方向にだけ進むことを願う。しかしそれが実現しない時、私たちを待ち受けているのは失望でしかない。それに対して、ルカ福音書のクリスマス物語が伝える人々は、あらゆる未来に対して開かれた態度で、神の約束の実現を確信し続ける。まさにそうであるからこそ、彼らは待ち望み続けることが出来るのである。
 ならばどのようにすれば、私たちは、未来に対して開かれつつ約束の実現を待ち望むことができるのだろうか。本日の福音書では、神の約束を告げられたマリヤの訪問とその挨拶を受け入れた時、エリサベトは自らのうちに、神の約束が実現しつつあることを確信する。彼女たちが出会い、神の約束の言葉を告げ合ったことによって、二人は喜びに満たされ、その喜びを分かち合う場が創り出される。そこには信仰の共同体の一つのひな形を見ることができる。私たちは、自分達に未来が拓かれることを願いつつも、自分達の空虚さに嘆いている。けれどもそのような私たちが互いに出会い、神の約束を告げ合う時、私たちは自らのうちに既に何かが始まっていることを知ることができる。神の約束のもとで共に過ごし、互いの間に起こっていることを分かち合い、受け入れ合うこと。それこそまさにキリスト者が集うことの意味に他ならない。
 この後にエリザベトとマリヤの息子達が辿る運命を人間的な価値観から見るならば、それは悲惨なものであり、彼女たちの喜びは空虚なものでしかない。しかし私たちは、その喜びの言葉がただ彼女たちだけのものではないことを知っている。主イエスが私たちのもとに与えられるその道筋をヨハネは整えた。その主イエスはその十字架によって私たちにその命を与えられた。そして主イエスの命を私たちは生き、主イエスの復活によって与えられた神の救いの約束の内に私たちは今歩んでいる。だからこそ今私たちは、神の約束の下に集い、その喜びを分かち合っている。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」。それは今ここに集う私たち自身の言葉でもある。今日、待降節最後の主日を迎えた私たちは、主イエスを待ち望みつつ、同時にまた、私たちのうちに既に始まっている出来事、私たちが主イエスの命を生きている「幸いな者」であることを互いに告げ合い、喜び祝うのである。

2012年12月18日火曜日

[説教要旨]2012/12/16「メシアを待ち望む」ルカ3:7-18

待降節第3主日

初めの日課 ゼファニア 3:14-20 【旧約・ 1474頁】
第二の日課 フィリピ 4:4-7 【新約・ 366頁】
福音の日課 ルカ 3:7-18 【新約・ 105頁】

 待降節の間、アドベントクランツに火が点る度に救い主イエス・キリストがこの世界へと近づいていることを私たちは思い起こす。それはいわば、聖書の民が救い主を待ち望んだその長い歴史の歩みを追体験することでもある。時代の荒波の中で々争乱と困窮に翻弄されつつ、救いと解放を待ち望むことは私たち人間全ての願いでもある。
 本日の福音書は、先週の日課に引き続いて洗礼者ヨハネの言葉が語られる。ヨハネの大変厳しい言葉を受けて、人々は全く新しい生き方へと歩み出そうと「では、わたしたちはどうすればよいのですか」とヨハネに問いかける。あれほどまでに厳しい言葉によって呼びかけるのだから、これまでの生活とは全く異なるような生活ができるような何かを、ヨハネは示すだろうと人々は期待したのではないだろうか。しかしヨハネの答えは、新しい生き方を瞬く間に実現するような、誰も知らないような秘密の教えではなかった。それはただ、それぞれの日常の中で自らが満ち足りることよりも分かち合うことに、得ることよりも与えることにより大きな意義を見出すように、厳しく徹底して求めるものでしかなかった。それはいわば、どのようにして人は待ち望む民として自らを形作るのか、そのためにどのような努力が必要なのか、を徹底して語るものであった。そして人々は、待ち望むあの存在はこのヨハネではないかと期待する。しかし、ヨハネは人々のそうした期待を否定し、自らが救いと解放をもたらす存在ではないことを人々に伝える。それは実に、真の救いと解放とは、人が自らの努力によって到達し獲得出来るものではないことを物語る。
 ヨハネが語ったように、それぞれの日常の中で分かち合うこと・与え合うことが真に意味あるものであることを、確かに私たちもまた知っている。しかしまた、その実践がいかに困難であるか、またそのためにどれほどの痛みに耐えなければならないかもよく知っている。だからこそ、厳しく徹底してその呼びかけが為されれば為されるほど、それを十分に為すことの出来ない自分に絶望し、救いと解放とが遠ざかることを悲しむしかないのである。
 しかし聖書の語る真の救い主は、その救いを携えて自ら私たちのもとへとやって来られる。たとえ私たちが、自分自身に絶望し悲しむしかないような弱く足らざる存在であったとしても、その私たちのところに救い主は与えられるのである。そのような私たちのところに主イエスは与えられ、その十字架によってその命を私たちに与えられたのである。だから私たちはもはや主イエスの命を生きるものなのである。
 私たちが、救い主を待ち望む民となることができるのは、私たちが、自分のなしたことを自信満々に正しいこととして誇ることができるからなのではない。弱く足らざる者でしかない私たちのところに、救いと解放が与えられることが約束されているからこそ、なおかつ、私たちに主イエスの命が与えられているからこそ、私たちは待ち望む民として歩み続けることができるのである。そうであるからこそ、たとえそれが不十分であったとしても、私たちは自らの日常の中で、分かち合うこと・与え合うことを真に意味あるものとして生きることができるのである。このアドベントの時、主イエスの命を生きるものとして、救い主を待ち望みつつ歩みたい。

2012年12月11日火曜日

[説教要旨]2012/12/9「救いを仰ぎ見る」ルカ3:1-6

待降節第2主日

初めの日課 マラキ 3:1-4 【旧約・ 1499頁】
第二の日課 フィリピ 1:3-11 【新約・ 361頁】
福音の日課 ルカ 3:1-6 【新約・ 105頁】

 本日の福音書には、主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネが登場する。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において人々に悔い改めの洗礼を呼び掛け、これまでの生き方を刷新することを求めた人物であった。本日の箇所の冒頭に登場する最初の7人は、政治・宗教の中心である都や大都市をその本拠地として、支配する側にあって権謀術数を駆使する者達であった。紀元1世紀、ローマ帝国の軍隊と都市部への食料の供給のために農地の大土地所有化が急速に進み、借金のかたに多くの農民が土地を取り上げられ次々と貧困層へと転落してゆく一方で、権力者達は自分達の自らのひたすら自らの権力と利益の維持・拡大だけに目を向ける、そのような時代であった。
 しかしそれに続く二人ザカリヤとその子ヨハネは、先行する7人とは大きく異なっていた。ザカリヤもヨハネも、この二人はいわば歴史の表舞台で利益と権力の維持拡大に躍起になる者達とは全く逆の、周縁に立つ者として福音書に登場する。さらに権力の中心にではなく荒れ野のヨハネのもとに「神の言葉が降った」と福音書は続ける。「降った」と翻訳されている表現は直訳するならば「生じた」とか「起こった」という表現ともなる。いわば、政治権力の跳梁跋扈する中央から離れたこの荒れ野で、神の言葉が洗礼者ヨハネの働きを起こすのである。神の言葉によって起こされた洗礼者ヨハネの働きを、福音書はイザヤ書からの引用をもって説明する。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」洗礼者ヨハネは、腐敗した権力を厳しく批判し、世の人々に悔い改めを呼びかける。それは、権力の高みを目指し自らの縄張りを守ろうと壁を張り巡らす者たちの企みを削り取り、曲がりくねった道をまっすぐに、平らにする働きであった。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身は、その働きを全うすることは出来なかった。その呼びかけのあまりの厳しさゆえに、彼は捕らえられて処刑されることとなる。ならばヨハネの働きは無意味なものでしかなかったのだろうか。イザヤの預言は語る。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」。これらの働きが受け身形で語られているということ、その働きはただ洗礼者ヨハネのみの力によってではなく、神ご自身によって成し遂げられることを物語る。洗礼者ヨハネが呼びかけた悔い改め、それはやがて到来する主イエスによって「救い」の実現へとつながってゆく。救いの実現、それはまさに神が成し遂げられる事柄であった。
 聖書が語る希望とは何かが実現することを信頼することである。しかし、それは神の約束に従って実現するのであって、私たちの願望にそって実現するのではない。だからこそ真の意味で希望を持つ者は、たとえ自分の思う通りに事がが成し遂げられなかったとしても待ち望み続けることができる。自分の願いを手放そうとする時のみ、私たちの期待を超えた全く新しいものが起こされることを聖書は語る。洗礼者ヨハネと同じく、このアドベントの季節に私たちもまた救いを仰ぎ見る。自らの思いを越えて私たちの間に神の意志が実現することを待ち望みたい。

2012年12月6日木曜日

2012年クリスマス礼拝のお知らせ[12/16-12/24]

12/16(日)14:00-15:30
やかまし村のクリスマス(子どもクリスマス) チャペルにて
人形劇・うた・クリスマスのメッセージなど、楽しいプログラムがいっぱいです。ご家族でぜひどうぞ!

12/23(日)10:30より クリスマス 主日礼拝  チャペルにて
メッセージ「幸いな者」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊による讃美
礼拝後、大学食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます

12/24(月・休)18:00より クリスマスイヴ・キャンドルサービス チャペルにて
メッセージ「ここにも」 伊藤早奈牧師
ラウス・アンジェリカ(ルーテル学院大学ハンドベル)による演奏

ともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。
みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

[説教要旨]2012/12/02「時は近い」ルカ21:25-36

待降節第1主日

初めの日課 エレミヤ 33:14-16 【旧約・ 1241頁】
第二の日課 1テサロニケ 3:9-13 【新約・ 376頁】
福音の日課 ルカ 21:25-36 【新約・ 152頁】

 教会の暦では、本日からクリスマスの準備に向かう待降節・アドベントの時を迎えて、新しい1年のサイクルが始まる。アドベントとは、「やってくる、到来する」という意味を表すラテン語を語源とするが、これは支配者や総督などが、その支配地に赴いて人々の前に姿を現すことに用いられた表現でもあった。その意味では本来アドベントとは「主がやって来る」ことに強調が置かれている。つまり、教会が古い年を終えて、新しい年へとその歩みを進めることが出来るのは、私たちの側からの働きかけによってではなく、主が来られることによって初めて実現されるのである。いわば主イエスの到来が、私たちを新しいものへと変えて行くのである。
 十字架の直前に位置する本日の箇所で主イエスが語られたことは、世の終わりの時に神の国の力を授けられた者として主イエスが再び到来される「再臨」についてであった。一見すると、そこで語られる言葉は私たちにとっては様々な恐れや不安を覚えさせるような表現が続くいている。しかし主イエスは、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と語られる。たとえこの地上を揺り動かすほどの大きな恐れと不安とが私たちを襲うとしても、主イエスがやってこられる時、それは「解放の時が近い」のだと語られるのである。十字架という恐れと不安の極みへと向かおうとするまさにその時に主イエスが解放の約束を語られたということは、私たちの恐れ・不安のただ中に救いと解放の光をもたらされるために、救い主はこの地上へと到来されたということを物語る。主イエスは語る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」それは私たちを支え、励ます、滅びる事のない約束の言葉である。
私たちは今、主イエスの到来を待ち望む、アドベントの時を歩んでいる。それは毎年繰り返されるクリスマスを待ち望む季節のことであると同時に、主イエスが再びこの地上にやってこられる、解放の時を待ち望む期間のことでもある。しかしながら、今日「待つ」ということはただ受け身のまま何も生み出すことのない不毛な時間であると考えられている。何かを成し遂げるためには、待っていては駄目であり、何か積極的で生産的な活動をしなければならない。私たちはそのように教育され、待つことを価値のないこととして厭う時代に生きている。しかし、実はそれは、私たちが「恐れ」にとりつかれているからに他ならないとヘンリー・ナウエンは語る。ナウエンによれば、現代において多くの人は、内なる感情に、他人に、そして将来に怖れを抱いている。恐れにとりつかれた者は、待つことに耐えられない。恐怖の世界に生きている人は、攻撃的で、敵対心をもちやすく、破壊的行動で応じようとする。私たちの持つ恐れが強ければ強いほど、待つことは難しくなるのである。
 まさに今、私たちは恐れの時代を生きている。怖れから逃れようとして、ますます他者と対立し憎悪を増し、心の闇を深めてしまう。しかし、そのような私たちの心の内のその闇のただ中に主イエスはやって来られ、「解放の時は近い」という滅びることのない約束の言葉を語られる。だからこそ、私たちがこの約束の言葉によって励まされ、待ち続けることこそ、主イエスの到来に備えることに他ならない。