2009年8月9日日曜日

[説教要旨]2009/8/9「世に遣わす」

聖霊降臨後第10主日

 初めの日課    アモス 7:10-15 【旧約・1438頁】
 第二の日課    エフェソ 1:3-14 【新約・352頁】
 福音の日課    マルコ 6:6b-13 【新約・71頁】

 本日の福音書では、主イエスは12弟子を各地に派遣する。12人という数字は、実際に12人であったかというよりも、神の約束を受け継ぐ民の代表としての存在を象徴的に表している。その意味で、派遣されたのは、この12人という数に限定されているわけではない。あるいは、ある特定の人たちだけに限定して、主イエスは特別な権威を授けたという意味でもない。主イエスの派遣は、この最初の弟子たちを端緒として、キリストに従う全ての人に向けられているのである。
 主イエスによって悪霊払いや癒しの力を与えら得て派遣された最初の弟子たちが、果たして、完璧な信仰者であるのかと問うならば、答えは明確に否である。むしろこの後に続くマルコ福音書は、この弟子たちが主イエスの言葉に対して、いかに無理解であったかということを、繰り返し強調している。その意味で、主イエスによって派遣された最初の弟子たちは、いわば極めて欠けが多く、無責任で、弱く不完全な信仰者であった。しかし、その弱い人間を用いて、主イエスは、神の国の到来を告げられ、人々に神へと立ち帰らされたということは、非常に興味深い。主イエスが必要最小限以外のものは「何も持たず」に弟子たちを派遣されたということ、それは、その弱い人そのものを、神が導かれることを私たちに伝えている。人が、主イエスによって遣わされる時、その人の強さや責任感の強さといった美徳によって、神の国と主イエスを、この世に告げるのではないのである。むしろ、自らの欠けと弱さの中で葛藤しつつ、それでもなおこの世に関わる、そのあり様の中でこそ、主イエスの言葉はこの世に伝えられるのである。
 また同時に、私たちは自らの弱さを知りながら、むしろそれを知っているからこそ、自分の成したことに稔り見えない時に、悲嘆し、先へ進むことを諦めてしまう。しかし、「足の裏の埃を払い落しなさい」との言葉は、私たちにある種のユーモアすら感じさせつつ、私たちを落胆から呼び戻す。世に遣わされた者にとって、その働きの結果がどう実るかは、ただ神に委ねることができるのみである。たとえ人の目には、そこに何も確たるものが見えなかったとしても、私たちはそのことに思い悩むことなく、次へと進むことができるのである。
 日本社会において8月は「平和」について思い起こす時である。しかし、日本社会の状況は、平和よりもむしろ武力で立ち向かうことを是としつつあるように見える。そのような中、平和について語ることは、もはや意味を失ってしまったかのうように見える。しかし、キリストの平和を伝えることを、キリスト者一人一人は託されており、たとえそのことが実らないように見えたとしても、私たちは落胆する必要などないのである。

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