2010年10月27日水曜日

Campus Club 座エクストラ[11/3]

日本福音ルーテル教会東教区教育部の学生層向けのプログラムであるCampus Clubが、ルーテル三鷹教会集会所を会場に11/3(水)に行われます。

皆で集まって料理を作ります、食卓を囲み、この夏に行われた様々なプログラムに参加した学生や青年に
その報告をしてもらい、体験を分かち合います。
学生(やその年齢層)の皆さんの参加をお待ちしております!

座EXTRA
11月3日(水)17:00より

日本福音ルーテル三鷹教会集会室にて
 三鷹市大沢3-10-20 ルーテル学院大学内
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2010年10月26日火曜日

[説教要旨]2010/10/24「胸を打ちながら」ルカ18:9-17

聖霊降臨後第22主日

初めの日課 申命記 10:12-22 【旧約・297頁】
第二の日課 2テモテ 4:6-18 【新約・394頁】
福音の日課 ルカ 18:9-17  【新約・144頁】

 度々福音書では、「ファリサイ派」というグループは、主イエスに敵対する存在として、悪い・謝った存在として描かれている。しかし本来はその厳格な信仰的態度ゆえに、当時の社会の中では尊敬される立場にあった。
 本日の福音書のたとえ話では、ファリサイ派の男は祈りの内にこれらのことを主の前に証しし感謝する。しかしながらその感謝は自らの努力と正しさを誇る態度となっていた。しかも、ルカ福音書の主イエスのガリラヤからエルサレムへの旅の途中では、ファリサイ派の人々について、ここで彼が自分について主張していることとは全く逆の批判の言葉が挙げられてきている(11:39、16:14、16:18)。尊敬されるべき人々に対して、これほど厳しい非難が向けられるのを聞いた人々は、大いに驚いたにちがいない。そして、その驚きは一つの疑問を人々に呼び起こす。「正しさ」とは一体何なのか。枠からはみ出さないこと、厳格に伝統に従い、それを守ることが出来ること、それこそが「正しい」ことであると人は考える。しかし、それは本当にそうなのか。
 本日のたとえ話では、もう一人徴税人が登場する。ファリサイ派からは「この徴税人のような者でもないことを感謝します」とすら言われている。それはつまり、世の中ではファリサイ派に対する対極として、世間で蔑まれ、つまはじきにされるような、存在として考えられていたことを物語っている。それゆえにこの徴税人は祈りの場に近づくことすらできなかった。そしてさらに、彼は「胸を打ちながら」「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と独白する。「胸を打つ」という行為は、中東では女性に特有の悲しみのしぐさであった。男性がそうした行為することは尋常ではないことであった。しかし世間での慣習からはみ出してでも、「わたしを憐れんで下さい」と求めずにはいられなかったこの徴税人こそが、主なる神によって「正しい」ものとされたと主イエスは語られる。
 主イエスの十字架は、私達に「このような者でもないことを感謝します」と神に感謝させるためにあるのではなかった。むしろ、主イエスが十字架にかかって命を落とされた時、人々は胸を打ちながら帰って行ったのであった(23:48)。主イエスの十字架は、私達を神の起こされる逆転の渦の中に私達を巻き込んでゆく。そしてまさに福音は、逆転に満ちているのである。私達の目には失敗・挫折・遠回り・逆行・衰退・喪失としか目に映らないことの中に、新しい命、新しい世界、豊かな実り、尽きることのない喜びと希望を、神は与えられる。
 このたとえに続いて、主イエスは子どもを祝福される。弱く、何の生産性もない子どもが選ばれ祝福される。それが神の国の出来事であることを主イエスは語られる。主イエスの十字架によって、この神の国は私達の間に与えられた。私達はもはや自分の正しさを誇るために他者を蔑むことは必要ない。胸を打ちながら神に憐れみを求めることが私達には許されているのである。

2010年10月21日木曜日

[説教要旨]2010/10/17「祈りの行方」ルカ18:1-8

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 創世記 32:23-31 【旧約・ 56頁】
第二の日課 2テモテ 3:14-4:5 【新約・ 394頁】
福音の日課 ルカ 18:1-8 【新約・ 143頁】

 弟子と論敵とを前にして17章の終わりで主イエスは「神の国はいつ来るのか」という論敵からの問いに対して、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられている。たとえ人の目には見えなかったとしても、この神の国は現に私達とともにあるのである。人の目には何の変化も無いように見える私達の日常の中にも、実は神の国は「ある」ことを主イエスは教えられているのである。そして、目には見えないこの「神の国」とともに生きるとはどういうことなのか。そのことを主イエスは続いていくつかの譬えを用いて語られる。
 その手始めに「気を落とさずに祈らなければならない」ことを主イエスは教えられる。人は自分の願いが実現しない時、自分の祈りは聞き届けられていないと思う。そしてそれは自らの信仰の弱さのせいではないかと思う。それは私達の日常生活の感覚から言うならば、勤勉さ、熱心さは、時間の短縮という形で目に見えるかたちとなるからである。しかし信仰の本質は人の意志の力や能力ではない。その意味で、祈りが聞き届けられたことが実感されるまでの時間の長短は、その人自身の信仰の強さとの間に相関関係はないのである。むしろ、重要なことは、どれほど絶望的な状況であったとしても、気を落とさずに祈りつづけることなのである。
 「やもめ」という存在は、経済的・社会的な活動が男性に集中していた古代の聖書の世界において、現代よりもなお弱い立場におかれていた。「不正な裁判官」という存在によって、やもめを取り巻く状況がまさに絶望的であることがここで確実なものとされる。しかし、そうした全ての「目に見える」現実に反して、やもめの訴えは聞き届けられる。それは私たちの常識では起こりえないことであり、矛盾した結論でしかない。しかし、私たちに間に現にある「神の国」には、私たちの論理と矛盾する結論、絶望的な状況の中から弱い者が勝利する、そのような「非常識」な逆転を引き起こす力があることを主イエスは、論敵にも弟子たちにも、そして現代の読者である私たちにも教えておられるのである。
 そして、その言葉が真実であること、つまり、絶望の中に希望が与えられる、死の中に命が生まれる、ということが実現するということは、主イエスがこの旅の目的地であるエルサレムで、ご自身の十字架と復活によって、論敵に、弟子たちに、そして私たちに示されたのであった。十字架を見上げるとき、私たちは、私たちの祈りの行方がどこにあるかを知る。私たちの祈りは、十字架を通して、現に今神に聞き届けられているのである。

2010年10月15日金曜日

Evening Prayer in English [10/22]

Japan Lutheran College and Department of Church-Education in JELC-Eastern-Parish hold the english Evening Prayer.

Oct. 22. (Fri) 18:15-45

  in the Chapel of Japan Lutheran College
  Message: Rev. Dr. Timothy Mackenzie

We have this worship with the Liturgy of "Holden Evening Prayer", that was made in Holden Village, the ELCA Retreat Center in north central Washington state.

Everybody can join the worship.
After the worship, we have a supper at domitory of theological seminary (500 yen).

Evening Prayerのご案内[10/22]

ルーテル学院大学とJELC東教区教育部によるEvening Prayer(英語による夕礼拝)が行われます。

10/22(金)18:15-45

 ルーテル学院大チャペルにて
 メッセージ:ティモシー・マッケンジー牧師(ルーテル学院大准教授)

アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のリトリートセンター、Holden Villageで作られたHolden Evening Prayerという式文を用いた英語による礼拝です。

どなたでもご参加いただけます。
礼拝後、神学生寮にて夕食会(食事代¥500)もあります。希望者は当日お問い合わせください。

2010年10月12日火曜日

宗教改革記念合同礼拝2010のご案内[10/31]

2010年10月31日(日) 17時より
市ヶ谷ルーテルセンター(市ヶ谷教会)礼拝堂にて

司式 杉本洋一牧師(副教区長)
説教 マルッティ・ポウッカ牧師(スオミ教会:9月着任)
説教題「キリスト者の自由」

ポスターはこちらから

[説教要旨]2010/10/10「立ち上がって行きなさい」ルカ17:11-19

聖霊降臨後第20主日

初めの日課 列王記下 5:1-14 【旧約・ 583頁】
第二の日課 2テモテ 2:8-13 【新約・ 392頁】
福音の日課 ルカ 17:11-19 【新約・ 142頁】

 エルサレムに向かうにあたって、主イエスが「サマリアとガリラヤの間を通られた」と物語は語る。サマリヤとユダヤは元来同じ民族であった。しかし、歴史の中で、二つの地域は、対立を繰り返し、互いへの憎悪を募らせてきた。ガリラヤもまた都の人々からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、社会の周縁に位置づけられていた。その「間を通って」十字架の地であるエルサレムへと向かわれる主イエスが通られるということ、そこには主イエスとその十字架が、まさに人間同士の対立と憎悪、嘲笑と妬み、そうした、人間の「負」の側面、「闇」のただ中を貫いて働かれていることを、読者に思い起こさせるのである。
 その途上で、主イエス達は、10人の重い皮膚病の人々に出会う。彼らは、主イエスを発見し、遠くから「わたしたちを憐れんでください」と願う。5章での同じ病を持つ者への癒しとは異なって、主イエスは直ちにその場で彼らに癒しの業を行わない。ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と語られる。祭司に体を見せるということ、それは、社会的な交わりが回復するための一つの関門であった。病の癒しという具体的な出来事よりも、交わりの回復の方が、人間の命にとっては、より本質的で深刻な問題であり、解決することが困難な問題であることを示している。しかし「サマリアとガリラヤの間を通られた」主イエスは、その言葉をもってこの排除された人々を社会の中へと復帰させられる。主イエスの言葉はまさにそのような力を持って、人と人を隔てる様々な闇のただ中に働かれるのである。
 主イエスの力に出会った10人うち1人はサマリア人であったことが報告される。この人は主イエスの元に「戻って来た」のであった。社会から排除されていた者たちの中にも、さらに憎悪と対立があったのか、あるいはそれは問題ではなかったのか、それは定かではない。しかし、ここで明確であるのは、このサマリア人は、自分が再び「生きる」者となったのは、この主イエスの言葉によるものであったということを、はっきりと分かっていたということである。おそらく10人の中でもっとも不安定な立場にいたであろうこの人物こそが、自分自身の救い主がどなたであるかをもっともはっきりと知ることができたのであり、「救い主」として主イエスに出会うことができたのであった。
 主イエスは最後に語られる。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主イエスの言われる「あなたの信仰」、それはこのサマリア人が、もっとも弱く不安定な立場の中で生きてきたということ、そしてそれゆえに、主イエスに真の意味で出会うことが出来たという、その体験であり、その人の人生の歩みそのものに他ならない。信仰とは弱さの中で、主イエスが私たちと出会うために待っておられるということ、その出来事なのである。

2010年10月9日土曜日

ルーテル三鷹教会 秋の集い[10/24]

ルーテル三鷹教会では、「秋の集い」として、市川一宏先生(ルーテル学院大学学長)をお迎えして、講演会と懇親の時を持ちます。お気軽にお越し下さい。

10月24日(日)
 10:00- 子どもと大人の合同礼拝
 
 11:00- 講演
  「キリスト教社会福祉の目指すもの ー隣人とはだれですかー 」
   市川一宏先生(ルーテル学院大学学長)
    
    専門分野:社会福祉制度政策、地域福祉、高齢者福祉

※講演後、参加者で昼食を共にして懇親の時を持ちます。(昼食代300円)

お問い合わせはルーテル三鷹教会まで

[説教要旨]2010/10/03「共に生きるために」ルカ17:1-10

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 ハバクク 2:1-4 【旧約・ 1465頁】
第二の日課 2テモテ 1:3-14 【新約・ 391頁】
福音の日課 ルカ 17:1-10 【新約・ 142頁】

本日の福音書の日課につけられた「赦し、信仰、奉仕」という新共同訳の小見出しは、確かにこの箇所において取り上げられているモチーフを簡潔に表している。しかし、それらはどのようなつながりを持っているかを、聖書を前にする読者は今一度考えてみることが求められている。
この箇所のいくつかの教えから、つまずきをもたらす者への決定的な裁きの恐怖、奇跡的な信仰の力の強調、使徒的な働きへの過小評価などを結論として導くことは適切ではない。なぜならば、そこにはこれらの教えを結びつけるものが見えてこないからである。これらの結論は、信仰の共同体の中で、自らの立場を正しいものとする時に出てくるものであると言える。すなわち、自分は、躓きをもたらす者ではなく、奇跡的な信仰の力を持ち、使徒的な権威を持ちつつもそれ誇ってはいない、という立場からの理解である。
しかしむしろ、その逆の視点から見る時にこそ、そこに一つのつながりが浮かび上がってくると言える。自分は、いつつまずくかもしれない者の一人であり、いつ罪を犯すかもしれない兄弟の一人であり、自らの信仰の足りなさに嘆く者であり、自分は評価に値することを何も為すことの出来ない者である。そしてその結果として、いつも周囲の者達との間での、さまざまな軋轢と摩擦に悩み、苦しむ存在でもある。しかし、たとえどのような軋轢によって悩まされていたとしても、自分自身の弱さと傲慢さに失望していたとしても、私達はそのことによって信仰をあきらめる必要はないのである。つまずく者は守られるべきであり、罪を犯した者は赦されるべきであり、たとえわずかな信仰であっても十分であり、不必要な取るに足りない働きなど一つもないのである。いわば、この地上における基準に照らして、より強くより正しくより高みを目指すことは、信仰においては必要ではないのである。
主イエスは十字架刑という、この地上の基準では、最低最悪の評価を与えられた存在であった。しかし、命の創造主である神は、主イエスをその死から甦させられた。この主イエスの十字架と復活の出来事は、私達にこの世の基準によっては測られることのない新しい世界、神の国の始まりを示したのである。主イエスの十字架のメッセージ、神の国の福音を聞いた者は、人はその強さと正しさによって、周囲から優れた者であるとして評価されることを追い求めることはもはや必要ではなくなる。むしろ人間としての弱さと低さを互いに受け入れあうことが喜びとなるのである。主イエスの言葉、それは罪ある者、力なき者を信仰の弱い者として排除してしまう私たちを、共に生きる者へと変えられるのである。