2009年8月5日水曜日

[説教要旨]2009/8/2「イエスにつまずく」

聖霊降臨後第9主日

 初めの日課    エゼキエル 2:1-7a 【旧約・1297頁】
 第二の日課    2コリント 12:1-10 【新約・339頁】
 福音の日課    マルコ 6:1-6a 【新約・71頁】

 8月第1週はルーテル教会では平和の主日とされている。64年前の敗戦以来、8月は平和と戦争、そして人間の罪に向き合うことが強く求められる月であると言える。そして特にキリスト者にとって、それは「この世の力に従うのか」あるいは「キリストに従うのか」ということが問われることでもある。
 しかし、ナザレ出身の大工、イエスという男に従うということは、決して単純なことではない。いったいこの男は何者なのか、ということが、そこでは問われることとなる。そしてマルコ福音書における最大の問いは、この「神の国を宣え伝えるイエスとは何者か」ということであると言える。しかし、それは百科事典的な知識としての問いではない。むしろ、自分自身とイエスとの関係とが問われているのである。
 悪霊たちは、イエスが何者であるか、すなわち「神の子である」ことを知っている。あるいは名も力も無い群集たちは、イエスのもとへと集まる。しかしその一方でイエスの周囲の人間は、それがわからない。3節では次のように書かれている。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。彼らが知っていた事実、イエスという男についての知識は彼らの人生を変えるような決定的な出会いを生み出しはしなかった。むしろ、彼らが見聞きし知っていた事実は、彼らが主イエスに出会うことを妨げ、躓かせる。彼らは、自分たちの目に映る事柄にこだわり過ぎるあまり、主イエスの本当の力に触れることができなかったのである。そして、それは十字架の時にいたるまで、人の目には隠されている。主イエスの伝えた神の国の到来、それはその十字架と復活の出来事と切り離すことは出来ないのである。
 その意味で、神の国とは、人の考えるような、目に見える権力や経済力、あるいは軍事力によって他者を圧倒し、支配する存在ではない。むしろそれは、他者のために命を注ぎ出すことによって、逆にその命が永遠のものとなるような、この世の論理と価値観とは真っ向から対立する存在なのである。イエスとは誰か、このような奇跡は一体何か。聖書が投げかけるこの問いに対して、知識としての答えではなく、信仰としての応答を返すと言うこと、それは見えるものではなく、見えないものをこそ信じ、希望としていくことである。
 だからこそ、神の子イエス・キリストに従うことは、たとえ自分の周りの現実はおよそ平和とはほど遠い状態の中にあったとしても、望み、信じ抜くことこそが平和を生み出すものであると信じて歩むことに他ならないのである。

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