2012年7月26日木曜日

[説教要旨]2012/07/22「全ての人が満たされる」マルコ 6:30-34、53-56

聖霊降臨後第8主日

初めの日課 エレミヤ 23:1-6 【新約・ 1218頁】
第二の日課 エフェソ 2:11-22 【新約・ 354頁】
福音の日課 マルコ 6:30-34、53-56 【新約・ 72頁】

 本日の箇所では6章の最初の部分で派遣された弟子たちが主イエスの元に戻ってくる様子が描かれる。弟子たちは、主イエスに自分達が為したこと残らず報告する様には弟子たちの意気揚々とした雰囲気を感じることもできるのではないだろうか。しかし、杖一本の他には何も持たずに遣わされたその道行きは決して平坦なものではなかったであろう。直面する困難の中で、自分達は主イエスによって派遣されたという誇り、自分達は正義を為しているという自信、その成果を認められたいという思い、そうしたものが彼らを突き動かしたのではないだろうか。しかしやがて、主イエスは彼らの元を離れなければならなくなる。そうであるからこそ、主イエスは、おそらくご自身もまた多くの悪霊と戦い、病を癒し、疲労困憊されていたであろうにもかかわらず、今この時、派遣先から戻り、今ご自身とともにある弟子たちを深く慈しみ、ねぎらい、食事と休息をとらせようとされる。
 しかし、疲れ切った彼らを、群衆はそっと静かにしておくことは出来ない。群衆は彼らをおいかけ、先回りして待ち構え、教えと癒しを求め続ける。群衆にしてみれば、主イエスとその弟子たちにも休むことが必要であるなど、考えもしなかったのであろう。静かに休む筈であった場所に舟から降り立った主イエスは、おびただしい群衆を見出す。私たちであるならば、怒りちらすか、泣きわめくか、無視して立ち去るかしても不思議ではない。しかし、主イエスは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」のだった。群衆達は、やがて主イエスを歓呼して都にむかえながら、主イエスを十字架につけることを求めることとなる。しかし今群衆と共にある時、主イエスは集まったその群衆の心も体も満たされ、さらに再び湖を渡って行た先でも次から次へと繰り出される要求に、主イエスは応え続ける。
 主イエスのもとで、「全て」の人が満腹し、「全て」の人が癒されたことを、聖書は語る。主イエスに任命され、困難な中で正義を実行してきた弟子たちが、あるいは、大勢の群衆の中からそうなるにふさわしい正しい人だけが、満たされ癒されたというのならば、私たちには理解しやすい。しかしそうではないと、福音書は語る。主イエスを求める全ての人は満たされ、全ての人は癒された。主イエスが、この地上の世界でのべつたえられた、「神の国」の到来とはまさにそのようなものであった。私たち地上の世界に生きる者の価値観を越えて、神の国は近づいてくる。無限の寛容さをもって、求めるもの、必要とするものを、それぞれに満たし、癒されるのである。
 群衆に裏切られ、十字架において処刑されてなお、神は主イエスを甦らせ、憎悪と対立、なによりも不寛容さの支配するこの地上の世界に、その限りのない恵みと慈しみとを示されたのでした。まさにそれこそが、主イエスにおいて表された神の正義、神の国の恵みの義に他ならない。不寛容な時代を、私たちは今生きている。嫉妬、憎悪、怒り、そうした不寛容さが、正義の衣を着るとき、私たちは互いに裁き合い、傷つけ合うことしか出来ない。しかし、この地上に実現した生ける神の国・主イエスが私たちと共におられるとき、私たちは、嫉妬、憎悪、怒りを越えて、恵みを分かち合えることを福音書は語るのである。

2012年7月21日土曜日

夏季の礼拝について[07/22-09/30]

熱中症対策のため夏季はチャペルではなく大学教室で礼拝を行う場合があります。
チャペル以外の場所で礼拝が行われる場合は、日曜の朝に礼チャペルにて掲示いたしますのでご確認下さい。
なお教会員の皆様への配布物は礼拝堂の週報ボックスをご確認ください。

2012年7月19日木曜日

[説教要旨]2012/07/15「恐れの中から」マルコ6:14-29

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 アモス 7:7-15 【旧約・ 1438頁】
第二の日課 エフェソ 1:3-14 【新約・ 352頁】
福音の日課 マルコ 6:14-29 【新約・ 71頁】

 洗礼者ヨハネが逮捕されたのは、このヘロデ大王の息子の一人でガリラヤ地方の領主であった、ヘロデ・アンティパスの結婚について批判したことがアンティパスの妻の恨みを買ったためであると本日の箇所では報告されている。またユダヤの歴史家ヨセフスによれば、民衆への洗礼者ヨハネの影響力が大きくなりすぎたため、騒乱につながることをヘロデ・アンティパスが恐れたためであると伝えている。いずれにしても、アンティパス自身は、政治的混乱による自分自身の失脚への恐れ、そして自分の妻の憎悪と怒りへの恐れ、いわば内外の双方からの恐れによって苛まれていたことが推察される。また本日の箇所にはアンティパスは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とあり、ヨハネを信頼し、殺すことが出来ずにいた。しかし結局のところ、権力を巡る陰謀の渦巻く宮廷で自らの利益と面目を守るため、アンティパスは洗礼者ヨハネを残酷な方法で処刑することとなる。このアンティパスの姿は、旧約に記された、預言者の語る神の言葉を前にして怖れつつも、その言葉に従うことのできない王・権力者たちの姿を思い起こさせる。それは今も昔も変わることなく人の世に巣くう闇、嫉妬、憎悪、怒り、恐れ、不安を描き出す。
 主イエスについて聞き及んだ人々は、主イエスを「エリヤ」だとか「預言者だ」と語ります。そしてその評判を聞き、アンティパスは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と語るのです。しかし、そのいずれもが、「イエスとは何者か」という問いに対する答えとして適切なものではなかった。恐れの中で、洗礼者ヨハネを処刑させたヘロデはたしかに、主イエスの中に洗礼者ヨハネとの共通点を見出した。様々に推測する世の人々も、不安定な政情と生活事情の中で、主イエスの教えと業の中に、かつて預言者が、そしてまた洗礼者ヨハネが示したものと同じものを見出していたのであろう。しかしながら、今現れた主イエスは、そのいずれをも凌駕するものであることを、福音書は語ることとなる。
 主イエス・キリストは、多くの預言者達が踏み込んできたのと同じこの世の闇の道を歩みながら、その闇から抜け出る道、命と救いの道を私たちに開かれた。洗礼者ヨハネに対するヘロデ・アンティパスの共感と同じく、やがてポンテオ・ピラトは、主イエスに同情するが、結局のところ自らの利益と面目のために、主イエスの処刑を行うこととなる。世の権力の利益と、人々の気まぐれな憎悪によって、主イエスもまた死の道を歩むこととなる。しかし、その十字架の死から主イエスは甦られた。この世の不安と恐れのただ中に誰よりも深く踏み入った主イエスは、誰も見出すことの出来なかった、さらにその先に続く道、命と救いの道を私たちに開かれたのである。
 嫉妬、憎悪、怒り、恐れ、不安。それらは私たちにとってあまりにもなじみ深い、私たちの日常を巣くう闇の力である。洗礼者ヨハネと同様に、その闇の中に踏み入る主イエスの姿を福音書は語る。そしてさらにその闇の中から甦り、福音の恵みを私たちに与えられた。この地上における恐れの中で、主イエスは既に私たちに命と救いの道を備えて下さっているのである。

2012年7月12日木曜日

[説教要旨]2012/07/08「巡り歩く主イエス」マルコ6:1-13

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 エゼキエル 2:1-5 【新約・ 1297頁】
第二の日課 2コリント 12:2-10 【新約・ 339頁】
福音の日課 マルコ 6:1-13 【新約・ 71頁】

 ガリラヤ湖畔で二つの癒しの奇跡を行われた主イエスは、主イエスの家族とその家族らを良く知るもの達がいる故郷の街へ弟子たちと共に向かう。マルコ福音書は3章で既に主イエスの家族に対する冷淡な態度を報告している。神への信頼と人との交わりを回復された主イエスの業と教えからすると、なぜ主イエスはそのような振る舞いをされたのか理解しがたく感じる。一方本日の箇所では、周辺のガリラヤの各地で神の国を宣教し力ある業をなした主イエスが、故郷の地では理解されないことが語られる。3章の報告とこれらの箇所を併せて読む時、それは単に主イエスが冷淡であったのではなく、周囲が主イエスを受け入れることが出来なかったことを浮き彫りにする。神の国の宣教とその力ある業は、故郷の人々が知っているイエスという人物とは結びつかなかった。彼らは自分達の理解出来る範囲の中で、自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとした。しかし神の国の福音を告げる主イエスは、彼らの知る世界には留まってはおられなかったのである。では主イエスはどこにおられたのか。
 続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちに、主イエスに並ぶ働きを任命し派遣されことが報告されている。ご自身と同様の働きを託すにあたって、弟子たちが安全で快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。主イエスと同じく放浪する弟子たちは、やはり主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病を癒すのであった。このことをもって主イエスと故郷との間の溝について振り返る時、主イエスは、全てが整えられた、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかったことに気付く。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされた。それこそまさに主イエスが告げられた神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。その主イエスは常に、悲しみと苦しみの中にある人々を訪ね、村々を巡り歩き続けた。主イエスの家族と故郷の人々は、そのような主イエスを理解することが出来なかった。おそらく彼らにとっては、自分の日常が整えられ、満たされ、全てを把握し、自分の支配の元に置くことこそが意味あることであったのであろう。しかし主イエスにおいて示された神の国・新しい永遠の命は、その延長線上にはなかった。
 あたりまえの日常が崩れ去り、今まで手にしていたものが失われる時、私たちは立ち直れない程の大きな衝撃を受ける。しかもそのような自分とは関係なく、世の日常は過ぎて行くことに気付く時、誰一人として、自分のその痛み・悲しみ・嘆きを理解することが出来ないことに気付き、私たちの悲しみはさらに深くなる。しかしたとえ世の全ての者が理解することが出来なかったとしても、ただ主イエスだけはその悲しみも痛みも苦しみも知っておられる。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれたからである。その十字架の死は人の目には、悲嘆と挫折の行き詰まりでしかない。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この地上に生きる私たちの悲嘆と挫折の中で、主イエスは私たちを訪ね、慰め、癒し、新しい命へと導かれる。

2012年7月5日木曜日

夏季の週日の集会について[07/19-09/20]

週日の諸集会は7/19(木)-9/13(木)の間お休みいたします。

聖書入門(水曜日11時より)は7/18(水)が夏前の最終となります。
9月は9/19(水)から再開いたします。

キリスト教入門講座(木曜日11時、15時)は7/12(木)が夏前の最終となります。
9月は9/20(木)から再開いたします。

[説教要旨]2012/07/01「人々はあざ笑った」マルコ5:21-43

聖霊降臨後第5主日

初めの日課 哀歌 3:22-33 【旧約・ 1290頁】
第二の日課 コリント 8:7-15 【新約・ 334頁】
福音の日課 マルコ 5:21-43 【新約・ 70頁】

 本日の福音書では主イエスによる二つの癒しの奇跡の物語が語られる。
冒頭で会堂長ヤイロが主イエスのもとを訪ねる。会堂長とはユダヤの民が礼拝のために集まる会堂の責任を持つ信徒代表であり、その地域のユダヤ人の伝統とその権威を守ることに責任を持つ立場であった。いわば主イエスの権威とは対立する立場にあった彼は、自分の知っている伝統やしきたりだけでは娘の命を救うことが出来ないことをまた知っている。自分の知っている世界の外側にある何かを求めて、ヤイロは主イエスの前にひれ伏し「娘に手をおいて欲しい」と願う。ヤイロの願いに応えて、主イエスは彼の家に向かう。
 その途中で12年出血が止まらない女性がいたことが報告される。出血中の女性は、ユダヤの伝統では「穢れ」とされ共同体の交わりから遠ざけられていた。この女性は、病気のゆえに12年もの間交わりから排除され、社会的に死んだものとされていた。世から見捨てられ交わりからも排除されたこの女性は、世においては得られることの無かった癒しを求めて主イエスの衣服に触れる。本来であれば、この女性は「穢れた」ものとして他者に触れることを禁じられていた。しかし、彼女は主イエスへの思いからその禁を破り、その衣服に触れる。常識的に考えれば、それは誰にも知られることなく、また何の効果もないまま過ぎ去ってゆくだけの出来事であった。しかしこの女性は癒され、主イエスは振り返って女性を捜される。大勢の群衆の中から無名の一人を捜し出すことの愚かさを弟子たちは諭す。彼らにとってはこの女性の姿は未だ見えない存在であった。見えないものを見出そうとする主イエスのその態度を、あるいは彼らは心の中で嘲笑していたかもしれない。しかし振り返った主イエスは、進み出た女性と言葉を交わす。それはまさに、存在しないものとされた命が、一人の生きた存在として再び取り戻された瞬間であった。それは単なる病気の治癒ではなく、この女性が再び「生きるもの」となった瞬間であった。主イエスがこの女性へと呼びかけられた言葉が、死に追いやられていた女性に命をもたらしたのである。
 その時、会堂長ヤイロの家から、娘の死の知らせが届く。常識で考えれば、ヤイロと主イエスは少女の死に間に合わず、彼らは死に対して何もなすことが出来なかったという失敗と無力さの物語として、それは終わることとなる。しかしながら、福音書は悲嘆の声の中をさらに先へと歩む主イエスの姿を伝える。人々には、主イエスがどこへ進もうとされているのか見ることが出来ない。悲嘆から一転し人々は主イエスをみてあざ笑う。人々の嘲笑を超えて、目には見えない領域へと主イエスは踏み込んで行かれる。当時のしきたりでは穢れた存在であるはずの亡骸に歩み寄り、手を取って言葉を掛けられる。「少女よ、起きなさい」という呼びかけ、それは一つに命に向かって呼びかけられた主イエスとの出会いへの招きの言葉であった。主イエスの言葉に命は応え、少女は起き上がる。
 現代人は奇跡物語を合理的に説明しようと試みる場合もある。しかし、そうした試みは主イエスのその教えと働きを理解する上では意味がない。重要なことは、主イエスは、この世の価値観では嫌悪され、排除されているそのただ中にこそ踏み込んで行かれたということ、そしてそのただ中で、主イエスはその言葉によって命を与えられたということなのである。挫折と悲嘆の中で、私たちもまた命を与える主イエスの言葉に出会うのである。