2011年1月29日土曜日

[説教要旨]2011/1/16「陰に射す光」マタイ4:12-17

顕現節第3主日
初めの日課 アモス 3:1-8【旧約・ 1431頁】
第二の日課 1コリント 1:10-17【新約・ 299頁】
福音の日課 マタイ 4:12-17【新約・ 5頁】

顕 現日の主題の一つである「光」のイメージは、本日の福音書においてなお継続されている。主イエスが本格的に地上での宣教活動を始めるにあ たって、福音書は イザヤ書を引用して、「闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」と告げる。具体的には、本日の日課のすぐ後4:23や9:35にあるように「諸会堂で教 え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とある。
主 イエスは、洗礼者ヨハネの逮捕の報を聞き、エルサレムのあるユダヤ地方から、ガリラヤへと移られ、そこで公の活動を始めることとなる。洗 礼者ヨハネという 存在は、主イエスの到来を告げ、主イエスの進むべき道を備える役割を担わされていた。その洗礼者ヨハネが「捕らえられた」という出来事 は、やがて主イエス に起こる十字架の出来事を予告するものであった。その意味で、主イエスの地上での歩みはその初めから十字架の出来事へと向かっていたので ある。そして、そ の始まりにあたって、福音書は「光の到来」を告げているのである。
主 イエスは十字架への道、光を投げかける歩みを都エルサレムからではなく、「異邦人の地」と呼ばれたガリラヤから開始する。辺境の地とも呼 ばれたガリラヤは 水の豊富な肥沃な土地であった。そうであるがゆえに、一部の権力者による土地の占有が進み、多くの農民は土地を失って流民化した。都市と 農村の貧富の差は ますます開き、持てる者がますます富む一方で、持たざる人々の貧困と窮乏は深刻になっていた。いわばそこは、闇と陰に覆われ、閉ざされた 場所でもあった。 そのただ中で主イエスは、「天の国は近づいた」と語られ、病と患いを癒されたのである。そして、やがて都エルサレムへと主イエスは向かわ れる。そこはまた ヘロデ大王のエピソードによって思い超されるように、富と権力の集中する場所であり、同時に人の心に最も深い闇の満ちる場所でもあった。 辺境から始まった 神の国の福音の光は、やがてその闇と陰の内部へと射し込んでゆく。そしてその光は、主イエスが最も闇と陰の深いところ、痛みと苦しみの最 も深いところであ る、十字架の死へと向かわれ、その死からの復活の出来事によって、決定的なものとなった。この世界を閉ざすあらゆる闇も陰も、神の国の福 音の光に優ること は出来ないのである。
主イエスによって、闇と陰の中に差し込んでくる光、そ れはただ2000年前の人々にとってのみ意味があることであったのではない。それは、今 を生きている私達にもまた与えられた光でもある。主イエスの光、それは私達の内に満ちる闇、外を閉ざす陰を照らすのである。


2011年1月28日金曜日

キリスト教入門講座時間変更のお知らせ[1/27-]

毎週木曜日午後のキリスト教入門講座(ルター「小教理問答の学び」)は、1/27(木)より15-16時に行われます。
皆様のご参加をお待ちしております。




2011年1月11日火曜日

ルーテル三鷹教会定期総会のお知らせ[1/30, 2/6]

2011年の三鷹教会定期総会は2月6日(日)に行われます。
教会員の皆様は万障お繰り合わせの上ご参集下さい。
やむを得ず欠席される場合は必ず委任状をご提出ください。

また総会に先立って1/30(日)には拡大役員会が行われます。
この機会に皆様の教会に対す るご意見をお聞かせ下さい。

[説教要旨]2011/01/09 「天が開いた」マタイ3:13-17

主の洗礼日・顕現節第2主日

初めの日課 イザヤ 42:1-7    【旧約・ 1128頁】
第二の日課 使徒 10:34-38   【新約・ 233頁】
福音の日課 マタイ 3:13-17   【新約・ 4頁】

 主の洗礼日は、教会の歴史の中では降誕・顕現の出来事の一環として、神がこの世に受肉したことを憶える時として守られてきた。それは本来天にある神の愛と慈しみが、私達人間の生きるこの地上の世界において結実した出来事であった。
 イザヤ42章では「主の僕の召命」の預言として次のように語られている。(1)「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。」それは、本日の福音書で「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」という場面を連想させる。事実、マタイ福音書は12:15-21において、このイザヤ42:1-3を引用して、主イエスの地上での働きについて語っているのである。しかし預言において「国々の裁きを導き出す」とあるにも関わらず、福音書で語られているその働きは、人々の病を癒し、天の国について人々に伝えるものであり、そして十字架の死へと向かうものであった。実は、おなじくイザヤ42:6には次のように書かれている。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。」ここで「恵み」となっている言葉は本来は「義」「正しさ」という意味のものである。神の義、それはただ人を裁き罰するものなのではない。それはむしろ神の愛と慈しみと等しいものなのである。
 ヨハネの問いかけに対して、主イエスはマタイ福音書における最初の言葉を語られる。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」主イエスは、ご自身の洗礼の出来事を「正しいこと」すなわち「義」と語られている。それはまさに、この出来事が神の義の出来事、すなわち、神の愛と慈しみの出来事であることを意味しているのである。そして水から上がられた主イエスに神の声が届く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。それは、私達人間と同じ地上に生きた、このイエスという一人の人において、神の愛と慈しみが結実していることを伝える言葉であった。
 「天が開く」という、大スペクタクルとも言うべき表現に続いて、主イエスが主の僕としての地上でのその使命を聞く様子を、福音書は主イエスの目線から物語る。それは、私達が生きるこの地上からの目線でもある。主イエスは、ご自身が何者であるかということを、私達と同じ地平から聞くのである。それは、自分は何のための生まれ、生きる者であるかということを、私達はただ神から聞いていくのだということを私達に伝える。
 主イエスがこの地上を歩まれたことによって、天が開き、神の愛と慈しみはこの地上に実現した。そうであるからこそ、この地上に生きる私達は、神の愛によって呼び出され、語りかけられ、自分自身が何者であるかを知ることが出来るのである。

2011年1月5日水曜日

[説教要旨]2011/1/2「光は昇る」マタイ2:1-12

顕現主日・新年礼拝

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・ 2頁】

1月6日はキリスト教では伝統的に「顕現日」(エピファニー)と呼ばれている。古代エジプトではこの日に太陽神の祭儀がナイル河畔で行われていた。その後、初期のキリスト教はこの習慣を、主イエスのヨルダン川での洗礼を祝うために利用した。それは、主イエスの洗礼をキリストの受胎と誕生すなわち受肉と結びつけて理解したからである。その伝統を受けて東方教会では、この日をキリストの誕生日(降誕日)としていた。西方教会では後に12月25日を降誕日すなわち受肉の出来事を憶える時とし、1/6は東方の占星術師たちの到来と顕現、すなわち主イエスの存在が世に明らかとなっていく出来事を結びつけていくこととなった。
降誕においては神が低みへと下ることが主題となるとすれば、顕現は、低みに下るキリストの支配を強調する。それは神の支配が主イエスにおいてこの地上に姿を現したこと、「王の中の王」としてのキリストを憶える祝祭の時であった。またさらに、教会の伝統の中では、王としてのキリストという主題と共に、「光」が主題となってきた。主イエスにおいて現された神の支配は、世を隅々まで照らす光であり、また信仰者一人一人の魂をも照らし、その生活の中に希望と喜びを与える光として受け止められてきた。降誕によって始まった救いの出来事が、この地上において顕現し一人一人の魂へと行き渡ってゆく、いわば救いの歴史の実現を、この間に体感したのである。
顕現にふさわしく選ばれたイザヤ書60章は、光について語る。補囚から解放されたイスラエルの民は、荒廃した故郷を前にして、ただただ嘆き悲しむことしか出来なかった。しかし、そのような無力で為す術をもたない民のところに、光は昇り、その魂の闇の隅々までも照らし、自分たちをとりまくいかなる困難も、神の愛と慈しみに優るものではないことを、悟らせるのであった。
福音書において、東方の占星術の学者達は、星の光に導かれて、幼子イエスに出会う。彼らを照らし導いた光とは、一体彼らの何を照らす光であったのだろうか。占星術とは、世界で起こる、私達の期待を裏切る様々な事柄を、自分たちの理解できる仕方で秩序付けるものである。天変地異、飢饉、戦争、そしてそれによって引き起こされる様々な悲しみと苦痛を、星を用いてその原因を説明し計算し、より良い暮らしを実現することを求める。たしかに、彼らは星の出現によって、「王の中の王」がこの地上に与えられたことを知り、その王に近づこうとする。しかし、彼らにはその光の意味が分からず、ヘロデ大王の待つ宮殿を訪れる。権力の中枢にあったものは、むしろこの世に闇を生み出す力であった。王の元を離れた学者達は、無力で非力な幼子に出会う。しかし、その時彼らは喜びに溢れたのであった。
幼子イエスによって顕現した神の支配、それはこの世における力とは真逆の仕方で、この世界を照らす光であった。なによりも、ご自身の十字架の死と、その死からの復活の出来事によって、この地上において迫り来る苦難に対して非力で為す術もない私達に、それに優る神の愛の支配する世界を開かれたのであった。闇の中を歩む私達に、今も昇る光は届いている。