2013年1月31日木曜日

[説教要旨]2013/01/27「主の恵みの年を告げる」ルカ4:14-21

顕現後第3主日

初めの日課 ネヘミヤ 8:1-3,5-6,8-10 【旧約・ 749頁】
第二の日課 1コリント 12:12-31a 【新約・ 316頁】
福音の日課 ルカ 4:14-21 【新約・ 107頁】

 本日の福音書では主イエスの宣教の始まりについて取り上げられている。教会の伝統の中では、このガリラヤでの宣教の始まりもまた顕現節の季節に取り上げられてきた。救い主が私たちの間に与えられたことを憶えた後、徐々に主日のテーマは、「この方は何者なのか」ということへとその重心を移してゆく。現代人には、これは順序が転倒しているように思われる。通常は、まず「イエスとは何者か」を知り、それについての充分な知識を得た上で、「イエスとは救い主である」と理解し、そしてその救い主が私たちに与えられたことを確認することが、私たちにとっての「筋の通った」順序であると考えられている。しかし、降誕から顕現節に至る順序はむしろ逆になっている。まず「救い主」が与えられる。その後で、「では、この男は一体何者なのか」が問われることになるからである。
 確かにそれは、思考の上では、転倒した順序のように思われる。しかし、信仰体験の現実からそれを受け止める時、むしろそれは、一人一人の体験に即しているとも言える。私たちが主イエスに出会う、というのは、主イエスについての完全な知識を得て、全てを理解した上で、主イエスを救い主として私たちが認めるということなのではない。主イエスとの出会いはむしろ、私たちがそれと気付き理解する前に、既に与えられている。そして後になって初めて、その出来事の意味を私たちは知ることになる。
 顕現節、私たちは主イエスの宣教のその始まりを福音書の中で追うことを通して、既に私たちに与えられた救い主に今一度出会い直し、私たちにとって「イエスとは何者なのか」を知ることとなる。
 本日の福音書箇所で主イエスは、荒れ野での誘惑を経て、ガリラヤに戻られ宣教を開始される。ルカ福音書では公的宣教活動の始まりとしてナザレの会堂でのイザヤ書の言葉を主イエスは読み上げる。その内容は、主の恵みの年、赦しの時・解放の時が実現したということであった。
 そのイザヤ書の言葉は、主イエスがもたらされる「赦し」すなわち「解放」とは何かを公に宣言された言葉であった。それは人の力では辿り着くことの出来ない地平へと、神の力は私たちを導くためにその独り子を、この世へと与えられたのだ、ということを告げる。まさにその意味で、私たちにとっての「赦し」と「解放」とは、私たちが主イエスと出会うことに他ならない。
 そしてその出来事は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは語られる。赦しと解放を告げる主の恵みの年は、この聖書の言葉を私たちに告げられたその時、まさに実現するのである。
 現代は「不寛容の時代」であるとも言われる。自らの正しさを誰もが主張し、それにそぐわない他者を非難し、価値観の違う他者を受容することができない。この「不寛容」は、極めて簡単に、さまざまな関係を断絶させ破綻させる。私たちは「不寛容と断絶」の時代に生きている。不寛容と断絶の時代の中で、私たちは、私たちに関係の回復を、真の赦しと解放をもたらす救い主を求めずにはいられない。しかし、私たちの思いと知識を超えた向こう側から真の赦しと解放は既に与えられた。私たちの間に主の恵みの年は、今日聖書の言葉を聞く私たちの間で実現したと、聖書は語るのである。私たちは既に主の恵みの年を生きていることを憶え、この顕現節の時を歩んでゆきたい。

2013年1月24日木曜日

[説教要旨]2013/1/20「救いのしるし」ヨハネ 2:1-11

顕現後第2主日

初めの日課 イザヤ 62:1-5 【旧約・ 1163頁】
第二の日課 1コリント 12:1-11 【新約・ 315頁】
福音の日課 ヨハネ 2:1-11 【新約・ 165頁】

教会の暦では、12月末の主イエスの誕生つまり主の降誕の後、年明けを経て、1/6には東方の学者たちが主イエスを訪ねた主の顕現、そして先週は主の洗礼の出来事を福音書の物語を通して憶えてきた。それらは、救い主が私たちの生きるこの世界に与えられたという出来事を、様々な角度から振り返るものであった。そしてまた顕現節においては、いわゆる「カナの婚礼」の箇所が選ばれている。この箇所もまた、教会の古い伝統の中では、救い主がこの世界に姿を現された出来事として憶えられてきた福音書箇所の一つであった。というのもヨハネ福音書の中でこのカナの婚礼での出来事は「最初のしるし」と書かれているからである。それは、ヨハネ福音書の物語の中では、これから始まる主イエスの地上での歩みの幕開けを告げる出来事となっている。そこで主イエスは「水をぶどう酒に変える方である」と語られる。そのことは、私たちに何を伝えるのだろうか。
本日の福音書の物語はいわば、私たちは、過ぎ去ることのない出来事とどのように出会うことが出来るのかを問いかけている。「過ぎ去ることのない事柄」とは、この世に生きる私たちが神に結びつけられた出来事、すなわち主イエスの死と復活の出来事に他ならない。この主イエスの死と復活の出来事に私たちが出会う時、私たちは過ぎ去ってしまうものに翻弄される生から、命の根源である神に繋がれた、揺らぐことのない生へと引き戻される。
ぶどう酒の不足というアクシデントに際して、母マリヤがイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った時、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と応えられる。私たちがこのヨハネ福音書を通して読むならば、十字架に付けられた主イエスが、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」場面に再び出会う。そのことを知る時、主イエスの「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という応えもまた、それが十字架の出来事との関わりにおいて語られている事を知ることとなる。主イエスのまなざしは、神と人とを繋ぐご自身の十字架のみを見つめている。本日の日課の物語での主イエスの視線は、目の前で繰り広げられている婚宴で起こっている不測の事態に向かっているのではない。ここでいうならばぶどう酒の不足というアクシデントこそが、移りゆき、過ぎ去ってしまう出来事なのである。しかし、その過ぎ去ってしまう出来事が、死と復活へと向かう主イエスに出会う時、そこでは根本的な変化が起こる。それは単にぶどう酒の欠乏が満たされるということにとどまらない。主イエスの、死からの復活という出来事の前では、水がぶどう酒に変わるという出来事は「しるし」に過ぎない。水をぶどう酒に変えた力は、過ぎ去るものに心を奪われる私たちを、神へと結びつける力なのである。
ただの水でしかないものを、上等なぶどう酒に変える方は、過ぎゆく事柄によって翻弄される私たちを根底から変えられ、信仰を与えられる方であった。私たちの日常は、さまざまな過ぎゆく事柄によって翻弄されている。しかし、主イエスの死と復活の出来事に触れるとき、私たちは「変わることのない命の根源」に結びつけられる。

2013年1月15日火曜日

[説教要旨]2013/01/13「私の心に適う者」ルカ3:15-17、21-22

主の洗礼

初めの日課 イザヤ 43:1-7 【旧約・ 1130頁】
第二の日課 使徒言行録 8:14-17 【新約・ 228頁】
福音の日課 ルカ 3:15-17、21-22 【新約・ 106頁】

 本日は教会の暦では「主の洗礼」と名付けられている。これは、古代アレクサンドリアのキリスト者が1/6に救い主の誕生を憶えて祝うことを始めた時、併せて「主の洗礼」の出来事をも祝ったことに遡る。それは、主イエスの洗礼の出来事にあたって天が開け、鳩のように聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたという出来事が、主イエスが私たちの生きるこの地平に姿を現された出来事と深く結びついたためであった。一方で、罪無き神の子主イエスと、罪の赦しの洗礼とは矛盾であるという考え、またそのような矛盾を抱えることを良しとしない思いも古代の教会の中には根強くあった。しかし本日の福音書は、私たち人間の論理では矛盾するはずの出来事の中に、私たちの論理と思いを越えた何かがあることを伝えようとしている。
 主イエスの洗礼に先立つ、洗礼者ヨハネの公の活動の紹介から続けて読むと、興味深いことに気付く。3:7では洗礼者ヨハネの元に集まって来た時には「群衆」つまり単に「寄せ集め」と呼ばれた人々が、15節で「待ち望む」者として描かれる時には「民衆」つまり「民」と呼ばれるのである。特にルカ福音書は、そこには徴税人や兵士といった、当時の社会の中で排除され敬遠された者たちもやってきたことを伝えている。いわばそこに集まった者たちは、地上の論理や思いでは一つになることなどあり得ないような者たちであった。しかし洗礼者ヨハネによって主イエスの到来を告げられ、それを待ち望む時、人々は一つの「民」と呼ばれるのである。
 そして、そのように待ち望む民のところへ主イエスはその姿を現される。21節「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」というルカの描写は、主イエスが、民のそのまさにただ中におられることを伝えている。地上の論理と思いによっては、一つになることなどあり得ないような矛盾したばらばらな人間の集まりの中で、主イエスは人々と共に生き、共に祈られる。それは、洗礼者ヨハネの呼びかけによって集まった人々は、その中心において主イエスが共に生き、共に祈られることを通して、一つの民とされてゆくことを物語る。そしてまさにその主イエスの姿を前にして、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」ことを福音書は伝える。神の愛される御子は、人々のただ中で共に生き、共に祈られる方なのである。
 ばらばらであった群衆は、共に生き共に祈られる主イエスによって一つとなる。しかしその主イエスは、この世の権力や経済力、暴力によって、民をまとめ上げるのではなかった。主イエスは十字架において、ご自身の命を世に生きる者に分かち合われた。命を分かち合って下さるこの方が共に生き共に祈られるからこそ、群衆は一つの民となることができる。つまり、この世に生きるばらばらな私たちが一つの民となることが出来るのは、私たちと共に生きて下さるその主イエスの命を分かちあうからに他ならない。神の愛する子、その心に適う者である主イエスの命は、私たちを分断する様々な矛盾を乗り越えて私たちを結びつけ、私たち自身を神の愛する子、神の御心に適う者とされるのである。

2013年1月8日火曜日

[説教要旨]2013/1/6「あなたを照らす光」マタイ 2:1-11

主の顕現

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

 教会史によれば1月6日の顕現日が、救い主がこの地上に現れたことを憶える「クリスマス」としてそもそも祝われていたが、やがて新年をはさんだ主イエスの誕生を憶えるこの二つの祝祭が、教会の中に定着することとなった。新しい年の始まりにあたって様々な希望抱く時、私たちは、自分達がクリスマスの光の中にあって、その希望がどこから与えられるのかを思い起こすこととなる。
 主の顕現の日にあたっては、マタイ福音書における主イエスの誕生物語が伝統的に読まれ、クリスマスと同様に、暗闇の世を照らす光がその主題とされてきた。占星術の学者達は星に導かれて、引き寄せられるように地上にその姿を現された王の中の王のもとへと導かれる。しかし最初に彼らが訪ねたのは都エルサレムのヘロデ大王のもとでしあった。たしかに「新たに生まれた王」を求めるならば都の王を訪ねることは理に適ったことである。しかし、権力を誇るヘロデ大王のもとにも、壮麗な神殿の中にも、遠く東の国から旅してきた学者達が求めたものは見いだすことは出来なかった。むしろ彼らが都を離れた時、再び星を見い出し喜びにあふれたのだった。その先で彼らが出会ったものは、期待はずれとも言える、権力からも富からも遠い一人の小さな赤子でしかなかった。しかし彼らは、この小さく弱い存在にこそ、自分たちを闇の中から救い出す光があることを確信する。彼らは、幼子を伏し拝み、彼らが持てる宝を献げるのだった。
 一方で学者達の到来は、ヘロデには不安を憶えさせる。権力も富も無い小さく弱い存在にこそが世を救う光であるという事柄は、ヘロデそして都に住む者達にとっては、自らを脅かすものでしかなかった。彼らの立つ価値観では、人を支配し、奪い取ることによってしか、自らを満たし、平安を守ることが出来なかった。つまりここでは一つの事柄が、一方では喜び拝むことを生み出し、一方では不安と恐怖を生み出す。そこでは、自らの期待し思い描いていたものとは異なる結果の中に喜びと讃美を見いだした者と、自らが拠って立つ価値を譲ることの出来なかった者とが、はっきりとしたコントラストをもって描き出されている。
本日の福音書では、この暗闇の世を照らす救い主は、地上のいかなる力も持ち得ない姿で、私たちの前に現される。それは約束とは違う、期待していたものとは違うものであったかもしれない。さらに、この無力な赤子は、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる。その有り様は、人を支配し奪い取ることでしか自らを豊かにすることが出来ない地上の価値観では、何の意味も持たない。しかし、主イエスの十字架は死で終わることは無かった。主イエスはその死から復活され、絶望と挫折を貫く、朽ちない希望の光を私たちに与えられた。まさにそのことによって、この地上に姿を現された救い主は、この地上の闇の中で生きる私たちを神の光によって照らされるのである。
 まさにその意味で、救い主が与えられたことを憶えるこの季節、主イエスの十字架と復活の光が、新しい年を歩み出す私たちを照らしていることを思い起こす。この光に照らされて、人間の目には挫折と絶望、失望と悲しみしか映らない時であっても、私たちは滅びることのない希望を与えられることを、私たちは知る。