2009年2月5日木曜日

[説教要旨]2009/2/1「歩み寄るイエス」

初めの日課    ヨブ記 7:1-7        【旧約・ 783頁】
第二の日課    1コリント 9:16-23    【新約・ 311頁】
福音の日課    マルコ 1:29-39      【新約・ 62頁】

 「シモンのしゅうとめのいやし」の出来事は、マタイ・マルコ・ルカのいずれもが述べているが、その内容は大変簡潔になっている。おそらく、当時既に非常によく知られていたエピソードであったのであろうと考えられる。おそらくこの女性は初代の教会の中で重要な働きをした多くの無名の女性の一人であった考えられる。その出来事は、弟子の召命(16-20節)と、汚れた霊に取りつかれた男の癒し(21-28節)との両方のエピソードとコントラストをなしている。
 シモン(ペトロ)をはじめとする弟子たちは、主イエスに声をかけられてそのあとに従う。しかし、この女性の場合は、主イエスの方がこの女性のそばへと行き、「手を取って起こされ」(31節)、この女性の病を癒された。声をかけられた弟子たちは、主イエスに「従う」が、この女性は「一同をもてなした」。「もてなす」とは「給仕する」「仕える」を意味する「ディアコネオー」という言葉が用いられている。この女性は、主イエスとの出会いのその時から、「仕える」ことを実践している。それはただ主イエスに対してだけではなく「一同」に対してであった。それはいわば、主イエスへの信仰の証として、信仰の交わりの全体に対して、己を低くして「仕える」ことを実践している。弟子たちは主イエスに従っているものの、それはまだ「仕える」ということには至っていない。だからこそ、この後主イエスは、弟子たちが「仕える」者とならなければならないということを、その教えの中で繰り返さなければならなかった。また、大騒ぎをした「汚れた霊にとりつかれた男」とは対照的に、この女性の一連の出来事は粛々と起る。癒されたこの女性は、静かに日常生活のうちに奉仕の実践をなす。この二つのコントラストを通して、この女性は、主イエスの弟子であることの本質をすでにこの1章の段階で示しているのである。
 主イエスとの出会いに関しては、この女性は徹底して受け身でしかない。彼女は自分から主イエスのもとを訪れたのでもなければ、主イエスに来てもらうことを望んだのでもない。しかし主イエスとの出会いを転換点として、むしろ主体的にこの女性自らを低くし「仕え」始める。その転換はなによりもそばへと歩み寄られた主イエスとの出会いによって生み出されている。十字架の低みへと向かわれる主イエスとの出会い、それは私たちの生の在り方を変える転換点なのである。