2009年4月21日火曜日

[説教要旨]2009/4/19「わたしは主をみました」

復活後第1主日

初めの日課    使徒言行録 3:11-26    【新約・218頁】
第二の日課    1ヨハネ 5:1-5       【新約・446頁】
福音の日課    マルコ 16:9-18       【新約・97頁】

 伝統的なキリスト教の暦では、復活祭の後の主日に、それぞれラテン語による主題がつけられていた。復活祭後の最初の主日である今日は、“Quasimodogeniti”(クヮシモドゲニティ「新しく生まれた乳飲み子のように」)とされている。それは、復活祭に洗礼を受けることが、古代の慣習であったため、多くの受洗者にとって、この日は受洗後最初の主日礼拝となったからである。このため、この主日は、主イエスの復活という出来事が、ただ主イエスという一人の方に関係する事柄なのではなく、教会に集うすべての者にとって、その命がまさに「新しく生まれた乳飲み子」のようにされているということを、私たちに伝えるのである。
 マルコ16:9-18の部分は、かなり後の時代になってから、他の3つの福音書とのバランスをとるために、他の3つの福音書を要約したものを付加したものと考えられている。そのうちの冒頭の9-11節、マグダラのマリアに起った出来事については、ヨハネ福音書20:11-18が詳しく語っている。ルカ8:2によれば、マグダラのマリアは、主イエスによって「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれている。かつてのマグダラのマリアが、どれほど深い苦しみと悩みのうちにいたのか、ということは想像に難くない。そして主イエスとの出会いを通して、彼女はその苦しみからの解放を与えられたのであろう。その彼女にとって、主イエスが死に、その亡骸すら見つけられないということは、自分の大事なもの全てが失われてしまい、自分は再びかつての苦悩と孤独のうちに引き戻されてしまうかのような、不安と怖れとをもたらす出来事であった。失われたものを前に、彼女にできることはただ泣くだけであった。
 しかし、泣いているその彼女に、復活の主は声をかけられる。そこに立っているのは、もはや、失われてしまったかつての「先生」ではなく、「甦りの主」であった。甦りの主との出会いを通して、泣いていたはずのマグダラのマリアは復活の主の最初の証人として、人々のもとへと派遣されることとなる。「わたしは主を見ました」、そのように語るマグダラのマリアは、もはや涙のうちにはいない。すでに彼女の新しい生は始まっているからである。たしかにそれはまだ新生児のように弱い存在であるかもしれない。しかし、そこには同時に、無限の可能性と溢れ出る命の力がある。復活の主との出会い、それは失われたものではなく、これから出会っていくことになる未来へと、私たちの命を向けさせるのである。


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