2014年10月18日土曜日

ルーテル三鷹教会・ウェスト東京ユニオンチャーチ合同礼拝のご案内[2014/11/02]

ルーテル学院大学愛(めぐみ)祭が行われる11/2(日)はルーテル三鷹教会とウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝となります。

2014年11月2日(日)10:30より ルーテル学院大学チャペルにて

お気軽野ご参加下さい。

[説教要旨]2014/10/12「全ての人への招き」マタイ22:1-14

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ書 25:1-9 【旧約・1097頁】
第二の日課 フィリピの信徒への手紙 4:1-9 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイによる福音書 22:1-14 【新約・ 42頁】

21:23以下で祭司長や長老達たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と、神殿の境内で人々を教える主イエスに問い糾したのに対して、主イエスは3つの「天の国についてのたとえ」によって応えられ、本日の日課はその3つめにあたっている。一つ目のたとえでは洗礼者ヨハネについて、二つ目では主イエスご自身の受難について触れられている。そして本日の日課である3つめでは、使徒達の働き、教会の在り方について触れられることとなる。
譬えではしばしば神は王の姿で物語られるが、ここでは王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。王は、王子の婚宴に招かれていた者たちに、使いのものを派遣して呼びに行かせるが、彼らは王の呼びかけに応えない。王の呼びかけを無視した後の行動としてここで語られているのは、彼らの日常生活であった。彼らにとって、王の呼びかけは自分達が既に手にしている財産を保持する以上には、重要性をを持ってはいなかった。彼らにとっては、自分自身の思い通りに計画が進むことの方が遙かに重要であった。しかし、自分の計画を変えることを拒み、呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなった。
一方で、宴席には予想外の者たち、すなわち「招かれなかった者たち」がやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、それはおよそ、雑多な、まとまりのない、集まりであった。しかし、その雑多な人々と共に祝宴は始まることとなる。このたとえが語る祝宴とは、主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それはまた天の国における祝宴の先触れとして、教会とはそのような場とであるはずということが、ここで問いかけられている。たしかに今、教会に集う私たちは、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないような、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力も無いものでしかない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。
たとえの終わりでは、礼服を着ていない者が宴の席から放り出される様子が描かれるが、通りを歩いていたところ呼び集められたのに、礼服を着ていないといって咎められるというのは、あまりにも理不尽で不可解な話である。しかし敢えてその意味を問うならば、神の宴に招かれた者、その先触れとしての教会に集う者は、そのその雑多でまとまりのない宴を、その全存在をもって喜び祝わなければならない、ということなのである。この雑多な集まりの中にこそ、天の祝宴の先触れがあることを、私たちは希望とし続けなければならないのである。パウロは語る。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:4?7)
私たちは今、世界のいたるところで、キリストのもとで教会に集まっている。この教会という雑多な祝宴を私たちが喜び祝うとき、神の平和は私たちに与えられるのである。

[説教要旨]2014/10/05「捨てられた石が」マタイ21:33-46

聖霊降臨後第17主日

初めの日課    イザヤ書 5:1-7    【旧約・ 1067頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14    【新約・364頁】
福音の日課    マタイによる福音書 21:33-46    【新約・ 41頁】

本日の福音書では、先週につづいて、エルサレム入城後に、神殿を舞台にして主イエスとユダヤの宗教的権威を持つもの達との間でのやりとりが続いている。本日のたとえでは「石」と共に、旧約に登場する「ぶどう園」のモチーフが用いられる。それは本日の旧約の日課であるイザヤ5章を彷彿とさせる。旧約では、ぶどう園とは神の国を受け継ぐ民イスラエルの象徴でもあった。いのちと愛の源である神は、その民の間で、不正ではなく正義が支配し、すべての人々の、とくに最も貧しく弱い人々の命と尊厳と権利が守られることを望まれる。正義と命の尊厳こそが、主が植え育てたぶどう園がもたらさなければならなかった実であった。言うならば、預言者が語る「ぶどうが良い実を結ぶ」ということは、公正な世が確立すること、つまり弱い者が虐げられ排除されることなくその命が守られる世界、人としての尊厳が貶められることなく、互いに尊重される世界が実現することであった。
本日の福音書のたとえでは、ぶどう園を借りた農夫たちは正義を実践せず、命の尊厳を守ろうともしてはいない。そこではただ、自らが手にしているものをいかにして一時の間失わないでいるか、だけが最優先事項となっている。短期的な利益を追求するのであれば、農夫達の判断は合理的である。しかし、神の救いの歴史が実現してゆくその長い長い道筋の中で彼らの価値基準を見るならば、今あるものを失うことを恐れ、不正義と抑圧を選び取ることはあまりにも愚かである。主イエスと対峙する宗教的権威者たちは、自らの正義を疑わなかった。しかし、彼らの正義は、一時の彼らの面目と権益を固守するものであることを、この一連の問答の中で主イエスは厳しく問い詰めてゆく。権威を持つ者達と、主イエスとの間の決別は決定的となってゆく。
この後マタイ福音書では、過ぎ越祭の直前の箇所(25:31−46)で、貧しい人に食べ物を与えないことはキリスト自身を否定することである、という譬えが語られることとなる。そこでは、キリストを受け入れ、キリストに従う者になることは、キリストからいのちを受け、そしてその命を分かち合い、与え合うことに他ならないことが語られる。
神殿で宗教的権威を持つ者達と対決する主イエスは、この後に続く、十字架と復活の出来事によって、その命を私たちと分かち合われた。だからこそ、主イエスの命を与えられ、主イエスの後に続く私たちは、この地上において、新しい永遠の命に向かって、正義と命の尊厳を実現する道を既に歩んでいる。それは確かに、今は報われることもなく、失うことを余儀なくされるかもしれない。けれども、まさにその時、主イエスは私たちと共に歩まれているのである。
本日の使徒書であるフィリピ書3章でパウロはこう語る。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
私たちもまた、既に主イエス・キリストに捕らえられ、十字架の道を歩んでいる。それはまた、復活の命、新しい永遠の命、正義と愛とが支配する神の国に生きる命への道でもある。

[説教要旨]2014/09/21「この最後の者にもあなたと同じように」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    ヨナ書 3:10-4:11    【旧約・ 1447頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 1:21-30    【新約・362頁】
福音の日課    マタイによる福音書 20:1-16    【新約・ 38頁】

本日の福音であるたとえ話では人の思いと業に対して、神の思いと業が鋭いコントラストによって語られている。本日の福音書の日課である譬えでは、あるぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために広場へと出て行く。彼は「ふさわしい」賃金を支払う約束で、夜明け頃(おそらく朝6時頃)から3時間おきに夕方5時にいたるまで労働者を雇い、ぶどう園へと送る。日没の頃(おそらく夕方6時頃)、賃金を支払う際に主人は全ての人に同じように1デナリオンを支払うが、これに対して朝一番から働いていた者たちは不平を言う。しかし主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と語る。ここで展開されている事柄は、私たち人間の考える正論からは大きくかけ離れている。同じ種類の仕事であるのに、1時間の労働と丸一日の労働が同じ報酬であるということは正しいものとは考えられない。もちろん、今日の社会において、それぞれの生活を守るために、労働に対する不当な扱いに抗議することは必要であることは言うまでもない。しかし、「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉によって始められるこの譬え話は、私たちに人の思いを超えた、天の国の在り様を垣間見せる。
当時の一人の日雇い労働者の平均年収は約200デナリオンと考えられ、それは6人の家族が生存していく最低限の金額であったと言われている。したがってこの1デナリオンという金額は、単に一日の労働の対価であるだけでなく、家族の命を支える値でもあった。すなわち、ぶどう園の主人が依拠する正しさの基準、それは「全ての者の命が救われる」ことにあった。救いの恵み、それは何よりも、後へと追いやられ、他に先んじることが出来なかった者、持っていたはずのものを失ってしまった者、失意と悲しみの中にある者にとって、なによりも大きな喜びとなる。この譬えで語られる、天の国の「正しさ」の基準とは神の限りのない恵みに基づくものであった。一方で、不平をつぶやくものたちに、ぶどう園の主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と語りかける。ここで「友」とされている言葉は同労者への呼びかけに近い表現である。しかしこの表現はこの後、22:12では礼服を着ないで婚宴に参加した者への呼びかけとして、また26:50では主イエスを逮捕しようと近づくユダに対する呼びかけとして用いられている。言うならば、主イエスの呼びかけを受け入れることの出来ない者に対して、それでもなお呼びかけ続けるという思いが込められている。「不当なこと」とはつまり「ふさわしい賃金」と語られた、その「ふさわしい」ことではないことであり、つまり神がその限りのない慈しみをもって「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」というのはむしろふさわしい、正しいことではないか、と呼びかけている。私たちが、主イエスの「友よ」という呼びかけに応える時、私たちは、後へと追いやられ、奪い取られた者へと思いを合わせ連帯する事が出来る。そしてその時、私たちは限りの無い恵みと救いの喜びを共に分かち合う者とされるのである。

[説教要旨]2014/09/14「赦されて生きる」マタイ18:21-35

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 創世記 50:15-21 【旧約・92頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 14:1-12 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイによる福音書 18:21-35 【新約・ 35頁】

本日の日課では、「罪を犯したものを、何回赦すべきでしょうか、7回まででしょうか」とまずペトロが主イエスに問いかける。ペトロにしてみればこの7回というのは常識的な限度を大きく超えていると、誇るべき数字であっただろう。しかし、それは赦しというものの本質を問うものになっていないことを、主イエスは「7回どころか、7の70倍まで赦しなさい」と答えによって示される。それはもはや数値が問題ではなく、いわば数え上げることの出来る、自分の生きている世界の範囲で自らの正しさを証明しようとする、人間の発想とその限界に対して、限界など無い天の国の価値観が示されていると言える。それは続く譬えにおいてより際立たせられる。
このたとえでは、ある王の家来に1万タラントンの負債があるということが発覚する。1万タラントンとは国家予算の何年か分にも相当するような途方もない金額であった。それはもうこの金額が、現在の価値に換算することそのものが、無意味となるほどの負債であった。ここで最も重要なことは、この負債が赦される・免除されるということにある。人間の常識と発想を遙かに越えた負債が、人間の常識をやはり遙かに越える神の憐れみ、神の無制限の愛によって赦されることをこのたとえの前半部分は語る。
たとえの後半部分で、非常識な額の負債を免除された家来は、100デナリオンの貸しのある仲間を見つける。100デナリとはおよそ3ヶ月分の給与に相当すると考えられる。それはたしかに決して小さい金額ではない。したがって、この家来がこの仲間の返済を迫って訴えることは、正当な権利であると言うことができるだろう。その意味で、この家来の態度は「正しい」態度だと言える。しかし、前半部分からの続きで、この後半部分を読む私たちには、この家来の「正しい」態度の持つ限界が見えてしまう。彼の態度は「正しい」にも関わらず、その正しさによって生み出されたものは不和と対立だけであり、弱い者がさらに弱い者を叩く、負の連鎖でしかないことを、このたとえ話は私たちに厳しく訴えかける。
マタイ18章は、教会がこの地上において表れた天の国の先触れであるためには、どのようにあるべきかを語る。教会という、弱い人間の集まりに過ぎない存在がそのようなものとなること、それはまさに人間の常識と発想を遙かに超え出たものに他ならない。人間の思いにすぎない「正しさ」が生み出す不和と対立が、神の国の先触れとして神の赦しと和解の業に取って代えられるような場所に教会がなりうるとするならば、それはまさに、そこに集う者達の中心に主イエスが共におられるからに他ならない。主イエスが共におられる時、私たちは自らの思い描く「正しい」世界にしがみつくことから逃れ出ることができるのである。
神は、この神の赦しが私たちに満ち溢れるために主イエスとその十字架を送られた。まさにその意味で、教会が主イエスによって建てられるということ、その十字架を基とするということ、それは3回か7回かと問うような人の思いではなく、無制限の神の愛こそが教会を作り上げるのだということに他ならないのである。

[説教要旨]2014/09/07「キリストと共にある群れ」マタイ18:15−20

聖霊降臨後第13主日

初めの日課    エゼキエル書 33:7-11    【旧約・ 1350頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 13:8-14    【新約・293頁】
福音の日課    マタイによる福音書 18:15-20    【新約・ 35頁】

マタイ福音書は二度目と三度目の受難予告とに挟まれた部分で教会の在り方について触れることで、教会の本質を十字架へと向かう道にある主イエスと結びつけて理解しようとしている。現在の教会は確かにこの地上にある人間の集まりに過ぎない。しかし同時に、来たるべき天の国の先触れでもあり、そのようなものとしての教会はこの地上のさまざまな制約と抑圧の力をはねのけ、そこに集う私たちを新しい永遠の命が約束された天の国へと結びつける場である。その事を伝えるためにマタイ福音書は、私たちの生きるこの地上と天の国とを結びつける道筋と、主イエスが十字架と復活へと歩む道を重ね合わせて物語る。地上の集団としての教会は確かに様々な制約、限界があり、またこの世の抑圧や憎悪から決して完全に解放されているわけではない。しかし十字架へ歩む主イエスの後に従う弟子の集団である時、教会は天の国の先触れとなることをマタイ福音書は伝えようとしている。
そこでは様々な課題も描かれる。18:1では弟子達が主イエスに天の国で一番偉いのは誰かと問う。それは天の国の先触れとしての教会の中での権威がどここにあるかを問うことでもある。しかし、主イエスはその問いに対して、子どもという、権威とは無縁の小さく弱い存在を示す。それは、教会という場において小さく弱いことは決して誤りではなく、むしろそれを尊ぶことこそが、天の国の先触れである教会の本質であることを示すものであった。続いて、これらの小さな者の一人をつまずかせる者についての警告、そしてこれらの小さな者を一人でも軽んじないようにという戒めが語られる。それらは、強さと正しさをこそ求めるこの地上にあって、弱さを自らの内に包摂し続けることの中に信仰の共同体としての教会の本質があることを伝えている。
そうした、弱さを包摂する共同体の在り方を語る中で、本日の日課が語られる。前半の15-17節は、宗教団体にはよくある、意見の異なるものを処分するために作られた掟とも言える。しかし、ここではそれだけでは終わらずに18節以下が続いていることにむしろ注目しなければならない。紀元2世紀ごろにまとめられた、ミシュナーと呼ばれるユダヤの教師達の教え集には、この18節以下とよく似た文言が納められている。「ふたりの者が同席し、両者の間に律法の言葉が話題になるときには、両者の間には偏在者(神の臨在)がある」というものである。これらはたしかに非常によく似ているが、一点、決定的に異なる部分がある。それは、律法ではなく、「わたし」すなわち「主イエス」が間におられるということである。この地上にある限界にもかかわらず祈りが合わせられる教会の場には、様々な弱さと限界を抱えた私たち人間を結び合わせられる主イエスが共におられることを福音書は語る。
傷つけ憎み合わずにはいられない私たちを結び合わせるために、主イエスは世に与えられた。そしてその主イエスは、私たちを結び合わせるために、その弱さと絶望の極みである十字架へと進み、そして、そこから新しい永遠の命への道を開かれた。教会もまた人間の集団である以上、そこには不信、裏切り、過ちがある。しかしたとえそうであったとしても、その弱い人間の集まりに過ぎない私たちの群れのただ中に、絶望と不信の中から甦られた主は共におられ、私たちを結び併せてくださるのである。

[説教要旨]2014/08/31「イエスの後に従って」マタイ16:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 15:15-21 【旧約・1206頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 12:9-21 【新約・ 292頁】
福音の日課 マタイによる福音書 16:21-28 【新約・ 32頁】

4:17-16:20では主イエスがメシアとして広く群衆に対して教えと活動を展開する様子が描かれてきた。その教えと業が人々の間で様々な思いを引き起こす中、主イエスは弟子達にご自身について問いかけ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるペトロはに対し、祝福と共に教会の権威を託す。しかし、その直後である本日の箇所では、そのペトロに対して厳しい叱責を加えている。この落差の原因はいったいどこにあるのかだろうか。その原因は、21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」ことにあると言える。マタイ福音書では、この箇所から20章でエルサレムへと入られるまでの部分で、主イエスが十字架において苦難を受けられる存在であることを語られ始められること、主イエスの歩みが次の段階へと展開していることをを強調している。
マルコ福音書に準じてマタイ福音書も、3度に渡ってご自身の受難と復活について弟子達に語られているが、興味深いことに、2回目と3回目の受難と復活の予告の間では、マルコ福音書には無い「教会」の在り方についての教えが語られている。福音書の中で「教会」という言葉は、マタイ福音書においてしか使われていない。マタイ福音書は、教会の在り方について、敢えて、十字架において苦難を受けられるキリストに結びつけてその物語を編纂したと言える。それは、この福音書の著者が、十字架へと向かわれた主イエスにこそ教会の本質を見出していたからに他ならない。
おそらくペトロにとって、主イエスがメシアすなわち世の救い主であるということは、主イエスが語るような、世の権威を持った者達から否定され、その計画が全て挫折し、悲惨な運命を辿ることであってはならなかった。だからこそ、主イエスが、ご自身の挫折と死の運命について語られ始められた時、主イエスを連れ出して諫めずにはいられなかったのであろう。しかし、そのようなペトロに対して主イエスは厳しく叱責する。この叱責は直訳するならば、「私の後へと退け、サタン」というものである。主イエスが諫めたのは、人の思いを十字架に向かう主イエス後へと退けられるためであった。その意味で、十字架について語り始められた主イエスは、ペトロの信仰告白を取り消そうとしているのではなく、むしろその信仰告白を受けたからこそ、ペトロに対して「後に退け」という言葉を与えられることで、ペトロに託した教会に対して、その本質を示したと言うことが出来る。ペトロへの叱責を通して示される教会の本質とは、人が自らの思いと正しさを最優先するような在り方ではない。むしろそれは、自分の十字架を背負って「主イエスの後に従う」ことなのである。自分の十字架を担うということ。それは、自分が中心の心地よい場所ではなく、むしろ不快であり、避けたいもの、自らの挫折と失望の中を歩むことに他ならない。しかし、主イエスは、その十字架を通して、新しい永遠の命への道を私たちに開かれたのである。私たちが、自らの十字架を背負って、失望と悲嘆の道を歩む時、その道は主イエスが先立ち、私たちと共に歩まれる道なのである。

[説教要旨]2014/08/10「逆風の中で」マタイ14:22-33

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記上 19:9-18 【旧約・566頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 10:5-15 【新約・ 288頁】
福音の日課 マタイによる福音書 14:22-33 【新約・ 28頁】

本日の福音書の直前で、弟子達と共に5000人の供食の奇跡をなしたで主イエスは、そのまま弟子達と共にいることをせず、ただちに弟子たちを真夜中の湖で、向こう岸へ強いて渡らせる。主イエスが一人山で祈りに集中する一方で、弟子たちの舟は湖上で逆風に翻弄されることとなる。弟子達の内には漁師もいたはずだが、彼らがその人生の中で培ってきた経験と能力は、逆風の中で今や全く役に立たない。おそらく舟上の弟子たちの間では、責任を互いになすりつけて非難しあっていたのではないだろうか。舟を揺さぶる波風は同時に舟の中にある弟子たちの内面をも強く揺さぶっていたであろう。
その逆風の中で、弟子たちは湖上を歩く人影が近づいてくるのを目撃し、さらなる恐怖に襲われる。しかしその人影は語りかける。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。神が民に呼び掛ける際の「わたしだ」という語りかけそのままの言葉を聞いて、それが主イエスであることを弟子たちは知る。まさに逆風のただ中で、弟子たちは目の前におられる方こそが、神の子救い主キリストであることを知る。
主の呼びかけによって、ペトロもまた湖の上を歩み出す。しかしペトロはすぐに波に飲まれて溺れてしまう。しかしそうであるがゆえにペトロは主イエスに向かって「主よ助け手下さい」と叫ぶ。その意味でペトロは、いわばあらゆる信仰者の姿を示していると言える。主の言葉に応える事は湖の上に歩み出すがごとく私たちを危機へと追いやる。しかもその危機の中では、自分の持てる力は何一つ役に立たないこと、自分はただ主イエスを呼び求めるしかないことを知るのである。けれどもその叫び求める中で、主イエスは最も近くおられること、そして必ずすくい上げられることを私たちは知る。
溺れたペトロに向かって、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスは呼びかける。この「信仰の薄い者よ」(直訳すると「小さな信仰の者」)という呼び掛けは、マタイ福音書では主イエスの言葉に聞くものに向かって語りかけられているものである。その意味で、この言葉決して溺れるペトロを見捨てるための言葉なのではない。それはむしろ、逆風の中で溺れそうになり、自らの信仰の小ささをただ嘆くしかない者を勇気づける言葉なのである。たしかに私たちは、逆風の中で漕ぎ悩み、波に飲まれるだけの小さな信仰の者でしかない。しかし、その小さな信仰の者の叫びを、主イエスは聞き取り、救いの手をさしのべられることを伝えるからである。
逆風の中での救い主との出会いは、舟の中の弟子達の有り様をも変えていったであろう。順風の中、自らに最適化された世界の中を生きる時、私たちは自らの体験・価値観こそが、最も正しいものであることを疑うことがない。しかしその正しさの行き着く先は、互いが自己を正当化し、互いの正しさをもって裁き合い、残された席を奪い合うことにしかならない。しかし、逆風の中で主イエスに出会い、その言葉を聞き、救い上げられる時、私たちは自らの弱さと小ささを知る。そしてそれでもなお私たちに投げかけられた、救いの言葉、慰めと励ましの言葉を、互いに伝えあうことができるのである。キリスト者としてこの社会の中で生きる私たちは、自らに最適化されないの世界を生きる中で救い主に出会う。そしてそれは、私たち相互の有り様をも変えてゆく出会いなのである。

[説教要旨]2014/08/03「愛と和解の道を歩む」ヨハネ15:9-12

平和の主日

初めの日課 ミカ書 4:1-5 【旧約・ 1452頁】
第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:13-18 【新約・354頁】
福音の日課 ヨハネによる福音書 15:9-12 【新約・ 198頁】

本日はルーテル教会平和の主日である。8月は日本社会において平和に思いを寄せる時である。戦争という暴力によって命と尊厳が蹂躙され憎しみが生み出されてきた。歴史を振り返るならば、憎しみと暴力は命と世界を破壊し深い傷跡を残すことしか出来なかったことを私たちは知る。だからこそ、憎しみと暴力を超える道筋を探し続けることこそ、歴史の責任を担うことであるはずである。しかし今日、その歴史の責任は風化しつつあるように見える。現代の日本社会では再び、暴力を求める雰囲気が育ちつつあるようにすら思う。その背後にあるものは、誰かを貶め傷つけなければ自分を肯定することが出来ないという、現代社会が抱えている深い闇ではないだろうか。私たちはこの深い闇をどのように乗り越えてゆくことができるのだろうか。
ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエス・キリストは、残されてゆく弟子達に向かって長い別れの言葉を述べる。主イエスはその言葉によって、弟子達がこの世の様々な力に屈することなく、信仰を保ち続けるための励ましと慰めを語られる。本日の福音書はまさにその別れの言葉のただ中に位置している。そこでは主イエスと結ばれた者の生き方について語られている。
9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とある。つまり父なる神の主イエスへの愛と、主イエスの私たちへの愛が、同じように語られている。しかし、私たち自身を振り返るならば、その二つが等しい価値を持つということは出来ない。主イエスが私たちを愛されるのは、私たちが主イエスに匹敵する何かを成し得る者だからではなく、それがただ値無しに与える愛だからに他ならないからである。だとするならば「わたしの掟を守るなら」とあるのは、条件付けをして私たちを切り捨てるための言葉なのではなく、私たちが主イエスの愛を受けるならば、ということに他ならない。私たち自身の中から出て来る愛といえば、暴力を求め憎しみをもたらす自らへの愛でしかない。しかし主イエスは、値無しに与える愛よって私たちを満たし、憎しみと暴力から私たちを解き放たれる。キリストの愛の言葉は、私たちが愛と和解への道、暴力ではなく、対話への道を歩むための力の源に他ならない。
現実にはちっぽけでしかない自分の支配欲求と万能感を満足させるために、ひたすら他者支配しつづける先には破綻した未来しかない。そのことを対話を通じて後の世代に伝えることこそ私たちが担うべき歴史責任であった。しかし今私たちは、再び対話無き「他者の絶滅」を求める時代を生きなければならないのだろうか。私たちは闇の力に打ち倒されるしかもう道は残されていないのでだろうか。
しかし今もキリストの愛の言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の闇、満たされることのない自己中心的な欲望に抗う力を、私たちはこのキリストの言葉から与えられている。たとえ私たち自身の力は小さく弱いものしかかなったとしても、たとえ私たちの前にある闇がどれほど深いものであったとしても、私たちの希望の光は消えることはありません。なぜならば、私たちの希望の光は、十字架の死を超えて輝くものだからである。主イエスの愛の言葉はこの地上に生きる私たちを力づけ、愛と和解の道を歩ませるのである。

[説教要旨]2014/07/27「どんな種よりも小さいのに」マタイ13:31-33、44-52

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 列王記上 3:5?12 【旧約・531頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:26?39 【新約・ 285頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:31?33、44?52 【新約・ 25頁】

本日の日課もマタイ13章の天の国のたとえがとりあげられている。最初の「からしだねのたとえ」そして「パン種のたとえ」はいずれも、始まりの時の小ささにもかかわらず、時が来れば予想を超えて大きくなるというその対比が印象的である。「天の国」は「天の支配」と翻訳することも出来る。天におられる神の支配の働きは、今地上に生きる者の目には確かに見えないかもしれない。しかし時が来れば確実に大きくなるということをこれらのたとえは語る。始まって数十年というキリストの教会は、近づきつつある帝国の迫害に脅えつつ、また一方でユダヤの会堂との対立の中にあった。教会は、そのような緊張に絶えられず、行き場のない不安を互いにぶつあい、互いに裁き合う中を生きなければならないこともあったと思われる。そのような中で、天の国の支配はたしかにまだ見えないけれども、そのことを不安に思うことはない、むしろそれは私たちの見えないところでますます大きくなってゆくものなのだというたとえは、恐れと不安の中に生きるキリスト者達を大いに慰め励ますものだっただろう。
後半のたとえではさらに、「天の国」とは自分の努力によって導き出される実りではない、ということが語られる。それは私たちの間に既に与えられており、それを私たちはただ「発見」することが出来るだけなのである。後半の最初のたとえの中に登場する人物は、おそらく他人の土地を耕しているにすぎ無かったのであろう。しかし、そこで偶然に起こった畑の中の宝との出会いは、この人の人生のあり方をその根底から変えてしまうこととなる。この人は自分の生きてきた全てを用いて、この宝を得ようとするのである。二番目の商人は、おそらく市場で偶然に高価な真珠を発見したのであろう。あるいは他にも、同じ真珠を見ている人たちはたくさんいたかもしれない。しかし、この真珠との出会いによって、この商人もまた、自分の持てる全てを売り払ってしまう。つまりこの真珠との出会い、彼の積み重ねてきた蓄えの全てに優るものであったのである。いわば、この二人が積み重ねてきたもの、成し遂げてきたものの全ては、偶然に彼らが出会ったに過ぎないものに勝つことは出来なかったのである。その意味では、彼らのそれまでの人生は敗北に終わってしまったとすら言えるであろう。けれども彼らは喜びに満たされる。
さらに最後の漁師のたとえでは世の終わりにおける裁きについて取り上げられる。しかしそこで語られるのは、裁きの主体は人間ではなく、神の側にあるということであった。私たちに出来ることは、その終わりの時を希望を持って待ち望むことでしかない。
教会とは、天の国との出会いによって、自らの成し遂げてきたこと、成せることを相対化してゆく存在である。時として私たちは、意志を貫き純粋な集団を造り上げることこそが、信仰者の模範であると誤解する。しかしそこに生み出されるのは、互いを裁き合い、対立し合うことでしかない。主イエスはむしろ逆に、そうした一切を終わりの時の神の手に委ねることを語られる。天の国との出会いを前にするとき、私たち自身が成し遂げたこと、成し得る事は確かにごくわずかなものでしかないことを知る。しかしその一方で、天の国は確実に大きくなってゆく。私たちは、ただその天の国との出会うことを喜ぶのである。

[説教要旨]2014/07/20「刈り入れの時を待つ」マタイ13:24−30、36-43

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 イザヤ書 44:6-8 【旧約・ 1133頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:12-25 【新約・284頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:24-30、36-43 【新約・ 24頁】

先週から引き続き、本日の箇所も「天の国」のたとえについて語られている。本日の前半部分でも「毒麦のたとえ」と呼ばれる「譬え話」が語られ、後半部分で「たとえの説明」が語られる。先週と同様に、この後半の説明の箇所は、主イエスの言葉としてたとえを受け取った初期の教会が、過去のものとしてではなく、今を生きる自分たちに向けられた言葉として受け取った証しとして聖書に収められたと考えられる。この後半の説明の部分は「終わりの日に備えて、私たちは、毒麦ではなく、良い麦にならなければならない」、あるいは「良い麦の群れとして毒麦に警戒せよ」という教えとして受け取られて来た。しかしこの説明部分には「ドクムギをすみやかに排除せよ」とは書かれてはいない。そこにはただ、むしろ前半のたとえで語られている「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」という言葉を受けて、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」という励ましと慰めの言葉が語られ、それに続いて「耳のある者は聞きなさい」と書かれているだけなのである。私たちが成すべきことはただ、希望を持ち続けること、そしてみ言葉に聞くということだけなのである。
そのことに留意しつつ、再び「たとえ」に目を向けるとき、そこにはまた新しい側面が見えてくる。そこで主イエスが語られることは、人間には何が小麦で何がドクムギかを見分けることは出来ないし、それを選り分けて排除する事も出来ない、ということなのである。刈り入れの時、言い換えるならば、世の終わりの裁きの時に裁き手となるのは私たち自身では無い。人に出来る事はただ、刈り入れの時を希望を抱いて待つことだけなのである。主イエスはこのたとえを通じて、人間が善悪を性急に区別し裁き合うことがいかに危いことであるか、むしろそこにこそ人間の弱さ、罪の本質があることを示されたのである。しかしその一方で、そうした人間の弱さと罪を、天の国は圧倒していくということもまた語られている。なぜなら、このたとえでは、たとえ小麦と毒麦とが一緒であったとしても、麦は刻一刻と成長し、確実に実りの時に近づくからである。確かに、この世に「悪」は存在し、私たちは自らの弱さのゆえに、その悪の力にあらがえず、互いに憎悪し命を奪い合う。けれども、どれほどこの世界の現実が絶望的であったとしても、天の国は確実に近づき、神は実りの時をもたらして下さる。その深い信頼をこのたとえは伝えている。
主イエスの語られた天の国は、人が自らの正しさによって他者を裁くことによってもたらされるのではない。それはただ神からもたらされる。天の国は、人が主張するそれぞれの正しさを補強するのではない。主イエスの語られた天の国は私たちの思いと予断を超えて、私たちが共に生きる時をもたらす。たとえこの地上では絶望的な弱さの中で嘆かなければならかったとしても、そこには神の備えられた永遠の命への道があることを、主イエスは十字架の死と、その死から甦りによって私たちに示された。だからこそ、私たちは今、互いに裁き合うのではなく、他者と共に生きることの中にこそ、私たちは、主イエスが死から甦られたことを、天の国が私たちに近づいていることを確信することが出来るのである。

[説教要旨]2014/07/13「種が実を結ぶには」マタイ13:1-9,18-23

聖霊降臨後第5主日

初めの日課 イザヤ書 55:10-13 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:1-11 【新約・ 283頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:1-9、18-23 【新約・ 24頁】

本日の福音書では、前半では、まず種まきのたとえが語られ、後半ではその解釈が語られている。よく読むと、この二つの間にはそれぞれを語る主体の立場が異なることに気付く。前半のたとえそのものは、種を蒔くという行為を行う人の視点で始まり、その行為の結果、蒔かれた種がどうなるか、という顛末が描かれている。しかし、後半のたとえの説明になると、むしろ蒔かれた種を受けるそれぞれの地が主体として語られる。この種まきの譬えについては多くの研究がなされているが、概してこの前半の「たとえ」そのものと後半の「たとえの解釈」は、時代が降ってから組み合わせられたのではないかと考えられている。つまり、主イエスの教えとして「たとえ」を受け取った者達が、それを自分自身に語られた神の言葉として受け取ったという歴史が、この組み合わせの背後にあったのではないかということである。多くの人々の間で信仰が受け継がれる中で、聖書は一つの文書となってきた。主イエスの言葉を良き知らせ・福音として受け取り、さらに次へと伝えずにはいられなかった、その中で、形作られてきた。いわば神の言葉が、人々を動かしてきた歴史そのものでもある。そうした意味で、この前半と後半の立場の不整合は、初期の教会が、主イエスの言葉を自らのものとした証しである、ということが出来る。そうであるならばなおのこと、今この「たとえ」を読む私たちは、それをどうやって自分のものとするのか、ということが問われている。
前半で語られる、このたとえにおいて注目すべきなのは、失われる種の割合の多さである。このたとえで紹介されたケースの4分の3は実りにつながらない。そうであるならば、種蒔く人の働きは空しく徒労に終わるだけである。しかし、そうした私たちに人間の予想を裏切って、100倍、60倍、30倍という実りを神は与えられることを、主イエスは語られる。
もし私たちがこのたとえで語られている場面に私たちが立つならば、失われたものの大きさに嘆き、わずかな収穫を奪い合うしかない。あるいは、互いに失敗を非難し、ついには、その働きの空しさに疲れ、種蒔くことを放棄してしまうかもしれない。しかし、主イエスは、種を蒔き続けられる。十字架の死という結末を迎えた、地上での主イエスの歩みは、この世の常識から言うならば、その働きの結果が挫折と徒労でしかないことを物語る。けれども、たとえどれほど、その働きが空しいものであるかのように見えたとしても、主なる神は、私たちの思いを遙かに超えた恵みの実りを与えて下さることを、主イエスのその死からの復活は私たちに示している。
たとえの解釈における良い地とは耕される地である。耕されるということは、元の形を残さない程に砕かれることである。私たちが自分の思いのみによって、未来を見据えるならば、そこには徒労と挫折そして空しさしか見いだすことが出来ない。しかし主イエスがたとえを通して語られる天の国は、私たちの思いも力も全く及び得ない領域である。そこにこそ、私たちの予想と思いを遙かに超えた実りの恵みがあることを私たちが自分のこととして受け取るには、私たちは徹底的に砕かれ、耕されねばならないのである。私たちが砕かれ、蒔かれた種を受け入れる時、私たちはこの世の挫折を超えた主イエスの十字架に希望を見いだすことができるのである。

[説教要旨]2014/07/06「重荷を負う者はだれでも」マタイによる11:16-19、25-30

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 ゼカリヤ 9:9-12 【旧約・ 1489頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 7:15-25a 【新約・283頁】
福音の日課 マタイによる福音書 11:16-19、25-30 【新約・ 20頁】

本日の福音書の前半では、主イエスに対して「徴税人や罪人の仲間だ」と言って非難する声が少なくなかったことが伝えられている。徴税人や罪人とは、彼らの生きる糧を得るための働きが、当時の社会規範から逸脱するものとして白眼視されていた者達であった。主イエスは、この世の価値観と対立しつつ、そうした人々と共に食卓を囲まれる。そして本日の後半においてさらに主イエスは、ご自身が救い主であることは「知恵ある者や賢い者」には隠されていると語られる。おそらく、自分たちこそが何が正しいかを判断出来ると主張する人々こそが、徴税人や罪人と共に食卓を囲む主イエスを非難したことであろう。ここではそうした人々をして「知恵ある者や賢い者」としていると思われる。一方で主イエスは、この「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密は、「幼子のような者」に示されたと語られる。「幼子のような者」とは、自分の力では期待されるような正しいことも、十分な働きも出来ないような弱い存在である。それは「知恵ある物や賢い者」が自らの正しさと理想を実現するためには、厳しく責め立て、排除すべき存在であった。しかし主イエスは、ご自身において神の救いが始まっているということは、この「幼子のような者」にこそ示されると語られる。それはまさに、世の人々の価値観とは真っ向から対立するものであった。このように正しさについて世の価値観と対立するなかで主イエスは、最も虚しい者となるため、罪無き罪を負い、十字架に進まれた。十字架の直前となる23:4、神殿の境内で主イエスは宗教的権威者たちを指して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」語る。しかし本日の福音書で主イエスは次のように語られる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」まさにこの対照的な在り様の中に福音が示されている。主イエスは、担いきれない重荷を誰かに課し、その重荷を担うことが出来ないことを断罪し責め立てるのではない。そうではなく、その荷を共に担って下さるのである。それはまさに「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密に他ならない。担えないこと、応えることができないこと。そうしたことを責め立てるのではなく、共に担おうとすること。それはまさに、幼子のように、弱く、持たざる者、足らざる者だけが、その意味を知ることが出来る、主イエスが共にあることの安らぎ、救いの出来事なのである。
主イエスに従うということは自らの考える正しさを人に課し、その重荷を背負いきれないことを非難する事なのではない。むしろ私たち自身もまた、十字架の道を進まれた主イエスの柔和と謙遜に倣い、弱いもの、持たざる者、足らざる者と共にその重荷を分かち合うことに他ならない。
この現代社会の中で、私たち自身が自らの弱さを思い知らされている。しかしそのような私たちがそれでもなお、弱く非力とされる者と共にある時、それはまさに主イエスが共におられる時なのである。主イエスと共にあること、そこにこそ私たちの真の希望、真の安らぎがある。

[説教要旨]2014/06/29「イエスに従う人は」マタイ10:40−42

聖霊降臨後第3主日

初めの日課    エレミヤ書 28:5-9    【旧約・1229頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 6:12-23    【新約・ 281頁】
福音の日課    マタイによる福音書 10:40-42    【新約・ 19頁】

ナチス台頭下のドイツで、自分たちを救うのは偏狭な自民族中心主義や愛国心ではなく、ただイエス・キリストへの信仰のみであることを告白し抵抗した「告白教会」と呼ばれるキリスト者達がいた。しかし開始から3年後、弾圧によって活動は分裂・停滞、重要な指導者であったM.ニーメラーが1937年7月1日に逮捕されたことで、告白教会は事実上崩壊したと、人々の目に映ることとなった。しかしその年の11月、同じく指導者の1人であったD.ボンヘッファーは「キリストに従う」と題した本を著す。この本で彼は、今の世の人々が求める「安価な恵み」を批判し、ただイエス・キリストにおいて啓示される神の「高価な恵み」に応えることを訴えることとなる。その中でボンヘッファーは、本日の福音書を含むマタイ福音書10章についての黙想を著している。本日の日課にあたる箇所でボンヘッファーはこう語る。「彼らと共にイエス・キリストご自身が、彼らを受け入れる家に入って行かれる。彼らはイエスの現臨の担い手である。彼らは、イエス・キリストという値の高い贈り物を、またキリストと共に父なる神を人間にもたらす。そしてそれは、赦しと救いと命と幸福が与えられることを意味するのである。(中略)弟子たちは、自分たちが家にはいって行くことは無益かつ空虚に終わることがないということ、また、彼らが例えようもない賜物をもたらすということを知ることを許される。(中略)何の敬称も似つかわしくないようなこのいと小さい者、この極めて貧しい者のひとり、このイエス・キリストの使者に、たった一杯の水を与える者は、イエス・キリストご自身に奉仕したのであって、イエス・キリストの報いはその人に与えられるであろう。」ナチスの支配が決定的となっていく中で、ボンヘッファーはイエス・キリストの福音を伝えることの喜びと励ましを若い牧師たちに託す。しかしそれは何よりも、先の見えない戦いを続けるボンヘッファー自身が、この聖書の言葉から受け取った励ましと慰めであったのだろう。
主イエスの「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉は、私たちにもまた、大いなる慰めと希望を与える。資質も功績も「無意味」としか見なされない者を受け入れ、しかもたった一杯の水を与えるというごく僅かな営みしか為すことができなくとも、神はそれを見過ごされることはないと、主イエスは語られるからである。主イエスは、この地上において無価値とされ十字架の死に至ったにもかかわらず、そしてその死から甦られ、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この主イエスに従うということは、この地上における一時的な強さや栄光に従うこととは真っ向から相対するものであることを、聖書は語る。まさにその意味で、私たちが主イエスに従うということは、この地上においては「無意味」されること「無価値」とされるものへと自らを関わらせてゆくことに他ならないのである。
この現代社会の中で、弱く非力であるとされ、無価値なものとして排除される者と共に、主イエスは共におられるということ。そこに希望を見いだしていくことこそが、まさに主イエスに従う道なのである。

[説教要旨]2014/06/22「だから恐れるな」マタイ10:24-39

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 エレミヤ書 20:7-13 【旧約・1214頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 6:1b-11 【新約・ 280頁】
福音の日課 マタイ 10:24-39 【新約・ 18頁】

現在三鷹教会で用いている3年周期の改訂共通日課のうち、今年はマタイによる福音書が中心に取り上げられている。マタイによる福音書では、主イエスに従う弟子の群れとしての、信仰の共同体に向けた主イエスの教えが多く取り上げられている。マタイによる福音書は、おそらく紀元80年頃にまとめられたのではないかと考えられている。1世紀後半、教会は外には帝国からの迫害、それに加えて、内には信徒間の対立と分裂の危機を抱えていた。51?96年にローマ皇帝であったドミティアヌス帝治世下、ユダヤ戦争によるエルサレム神殿崩壊後、従来エルサレム神殿へなされていた献金がローマ帝国の国庫に納付されることになるが、ユダヤ人の一部はこれを拒否する。これに激怒したドミティアヌス帝によってユダヤ人迫害が始まり、その際多くのユダヤ人キリスト教徒も迫害されることとなった。またこの迫害の背景には、ドミティアヌス帝は、ローマの伝統と権威をこよなく愛して、その回復を願っていたことも関連していたようである。ドミティアヌス帝は大火と内乱から十分には復興していなかったローマ市内で、自分の好みを反映させた公共事業を多く起こし、大競技場を建築、オリンピア競技を模して陸上競技、戦車競争を開催する。また晩年には、自らを「主にして神」と呼び、自分を祀る神殿を建てさせ、その後の皇帝崇拝に大きな影響を与えることとなった。そのようなドミティアヌス帝の目には、ユダヤの民も、キリスト者も、ローマの神々を拝むことを拒み、ローマの伝統を否定し、自分の政策を拒否する憎むべき者、不道徳な者と映ったのだった。そのような中で、教会は自らの内部の対立を克服し、信仰の一致を深めて行かなくてはならなかった。マタイによる福音書は、そのような時代を背景として、自分たちが互いに愛によって結ばれた兄弟関係を作りあげるためのその基礎を、主イエスの教えの中に求めたのだった。
本日の福音書で、主イエスは12人の弟子たち向かって励ましの言葉を語られる。しかしそれはまた、今聖書を読んでいる私たち一人一人にもまた向けられている言葉でもある。自分自身のなせる事の小ささに嘆くしかない全ての者に対して、主イエスはこの励ましと慰めの言葉を語られているのである。そして自分に非難を向ける相手が、たとえどれほど強大な権威と権力を持っていたとしても、「恐れてはならない」と主イエスは語られる。なぜならば、魂を滅ぼすことが出来るのはただ主なる神のみだからである。わずかな市場価値しかない一羽の雀でさえ、主なる神はその命を見守っておられるならば、たとえ私たちが、他者と比べて、弱く小さなものであるとしか思えず、いかに自分に価値が無いように思えたとしても、その私たちを主なる神は、髪の毛の一本まで見守って下さる。主イエスはそう語られるのである。
この主イエスの励ましの言葉が真実であることは、主イエスご自身がその十字架において、傷つけられ、罵られ、苦しめられ、その全てを失ったにも関わらず、死から甦られたことによって明らかとなった。罵られ追い詰められ、私たちが傷つき、弱り果てる時、十字架の主イエスは、私たちの最も近くにおられるのである。だからこそ、その慰めと励ましは、私たちのもとを離れることはないのである。

[説教要旨]2014/06/15「世の終わりまで共に」マタイ28:16-20

三位一体主日

初めの日課 創世記 1:1-2:4a 【旧約・ 1頁】
第二の日課 コリントの信徒への手紙二 13:11-13 【新約・341頁】
福音の日課 マタイによる福音書 28:16-20 【新約・ 60頁】

本日、聖霊降臨祭・ペンテコステの後の最初の主日は教会の暦では「三位一体」の祝祭日となっている。キリスト教会が三位一体という神学的主題を通して確認してきたものは、自分は今、神の愛、キリストの救い、聖霊の慰めと励ましによって満たされているという、救いの喜びのリアリティであった。その意味で三位一体とは単なる理論ではなく、私たちが現に生きているこの地上での生活もまた神の救いがの歴史の一部であるということを示している。
主イエスの大宣教命令とも呼ばれている本日の福音書は、19節で「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあり、新約中で数少ない「父と子と聖霊」について言及された箇所である。それこではまた復活の主イエスがこの全世界の人々を弟子とするために、弟子たちを派遣されたことが記されている。その弟子達が、最初に主イエスの後に従った際には、自分達がいずれそのように未知の世界と人々のために派遣されることなど予想してはいなかっただろう。そこには様々な思いと考えがあったと思われる。そのある者はイエスの人格に触れて、あるいある者はイエスの力に憧れ、あるいはまた自分自身の将来の夢のために、イエスという人物と共に旅を続けたのであろう。おそらく彼らは、小さく弱い自分を何か大いなる者としたい願い、イエスの後に従ったのではないだろうか。しかし、主イエスの十字架によって、彼らの期待は全て潰えることとなる。いわば、主イエスの地上での歩みが終わると同時に、弟子たちが思い描いていたそれぞれの物語はそこで終わってしまうこととなった。しかし、福音書の物語はそこで留まることはなかった。主イエス復活の出来事を福音書が語ることで、弟子たちの物語には続きがあることが示される。復活の主イエスとの出会いを通して、主イエスの物語は弟子たちの物語となってゆくのである。復活の主イエスは語られる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」。私達が直面する喪失・断絶・困窮といった現実を凌駕するほどの権能をもって、主イエスは弟子たちを派遣する。自分の思いと計画のために生きてきた弟子たちは、復活の主によって、ここにはいない「誰か」のために押し出されてゆく。そしてその時には、弟子たちはもはや、自らの小ささに絶望することはない。なぜならば主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られるからである。
マタイ福音書では、主イエスの復活顕現と大宣教命令はガリラヤの地での出来事として語られる。ガリラヤは当時のユダヤ社会では周縁化され、蔑まれた地域であった。しかし社会の片隅へと追いやられたところからこそ福音は伝えられ始められる。たしかにそれはかつての弟子達には思いもよらないことであっただろう。けれどもそれこそが、主イエスの物語を引き継いでゆくことに他ならなかった。そしてそれは、決してかつて弟子達だけに託された使命ではない。それは救いの歴史の中で世界へと伝えられ、現代の私たちにまで続いている。私たちが、社会の周縁へと歩みだし、そこで福音を分かち合う時こそ、私たちが主イエスの物語を受け継ぐ時であり、主イエスが共におられるその時に他ならないのである。

[説教要旨]2014/06/08「神の息吹を受けて」使徒2:1-21

聖霊降臨日

初めの日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 12:3b-13 【新約・315頁】
福音の日課 ヨハネによる福音書 20:19-23 【新約・ 210頁】

本日は聖霊降臨日である。新約聖書では、聖霊降臨の出来事から、教会という交わりがこの地上に生まれた時として描かれている。使徒言行録では、それは、過ぎ越しの祭りと時を同じくして起こった、イースターの出来事、主イエスの死と復活の事件からの50日目の出来事として語られる。
礼拝での聖書朗読の順序とは逆と成るが、本日の福音書で語られる出来事が、まさにイースターの日の夕方のことであった。その日、弟子達は恐れの中で戸に鍵をかけ、部屋に閉じこもっていた。しかし、その鍵のかかった部屋のただ中に、復活の主イエスが現れ、弟子達に「平和があるように」と声をかけられ、そして息を吹きかけられるのだった。息を吹きかけるという行為は、創世記で、人を土から作りだした神が、命を吹き込んだ出来事を思い起こさせる。それは、主イエスが弟子達に使命を託した出来事でもあった。その使命とは、まさに弟子達が体験したように、怖れに満たされた、「平和」無きところに主イエスの命を伝え、平和を創り出す使命であったと言えるだろう。そしてまた、それは「赦し」を伝える働きであることを主イエスは語る。主イエスの新しい命が与えられる時、私たちは恐れを手放し、解放と赦しへと導かれる。そして赦しと解放がもたらされる時、そこには平和が創り出される。そのような解放と平和を伝え創り出す働きを為す使命に、弟子達は押し出されてゆくこととなったのだった。
そして、その50日後、本日の聖書では始めの日課として選ばれている、使徒言行録の出来事を弟子達は体験する。それは、かつては怖れて部屋に閉じこもっていたはずの弟子達に、語るべき福音の言葉が与えられた出来事であった。聖霊が降ったとき、弟子達は「一つになって集まっていると」と書かれている。しかし、聖霊降臨の出来事を読み進めてゆくならば、ここでいう「一つ」というのは、一つのあり方、一つの生活様式、一つの言葉を一斉に語る、ということではなくなってしまうことに気付かされる。というのは、弟子達は聖霊が与えられることによって、それぞれが異なる様々な言語で語り始めるからである。しかし、そのことによって、弟子達が語っている言葉を聞いた者達はみな「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚くこととなる。すなわち、それは特定の文化や生活様式からだけではなく、それぞれが皆「自分たちの言葉」として福音のメッセージを受け取ることが出来たということなのである。
聖霊降臨の出来事において、弟子たちが多様性を持ちながら、一つになるということ、それは復活の日の夕方に赦しと平和をもたらす働きへと押し出された弟子達が、キリストのからだである教会として動き始めたということでもあった。弟子たちが突然、様々な言葉で福音を語り始めた時、弟子たちを捕らえたその力は、復活の主が与えた新しい命の力は、遙か昔の弟子たちだけに留まってはいない。それはやがて教会の使命として伝えられ、さらにわたしたち一人一人へと続いているのである。まさにそのことを通して、人間が生きている世界のあらゆる場所に、主イエスの命、そして平和と赦しとがもたらされるのである。わたしたちもまた、神の息吹を受けて、この世界に平和と赦しを伝える力に満たされてゆくことを祈り求めてゆきたい。