2011年7月28日木曜日

[説教要旨]2011/07/24「共にある安らぎ」マタイ11:25-30

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 イザヤ 40:26-31 【旧約・1125頁】
第二の日課 ローマ 7:15-25 【新約・283頁】
福音の日課 マタイ 11:25-30 【新約・20頁】

 本日の福音書において主イエスは、ご自身が救い主であることは「知恵ある者や賢い者」には隠されている、と語られる。ここでいう「知恵ある者や賢い者」とは、主イエスを受け入れることのできなかった、ユダヤ社会の指導者達を示唆している。正しくあることのために、そして救いにふさわしくあるために、ユダヤの指導者達は様々に律法を解釈し、その遵守を人々に課していた。彼らにとってみれば、何が正しく、何が間違っているかを判断するのは、自分達をおいて他ならなかった。自分たちの主張こそが、神の言葉を正しく伝える唯一の正解であると確信していた。そして、そうであるからこそ、彼らのその立場を批判し、自分達の正しさを否定する主イエスを、彼らは受け入れることが出来なかったのである。
 主イエスは、「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密は、「幼子のような者」に示されたと語られる。「幼子のような者」、それは知恵も賢さもない者、未熟で弱々しい存在である。自分の力だけでは正しいことも十分な働きも出来ないような者のことである。しかし、主イエスが救い主であるということ、この主イエスにおいて神の国は始まっているということは、この「幼子のような者」に示されていると主イエスは語られる。それはまさに、世の人々の価値観とは真っ向から対立するものであった。
 十字架の直前となる23:4では、神殿の境内で主イエスは「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と語られる。これに対して、主イエスは本日の福音書で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と語られる。実に、主イエスは、私たちに重荷を課すのでも、重荷を担うことが出来ないことを責めるのでもなく、私たちと共にその荷を担って下さるのである。これこそが「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密に他ならなかった。担えないこと、応えることができないことを責め立てるのではなく、主イエスが共に担ってくださるのだということ。それはまさに、幼子のように弱く、足らざる者だけが知ることの出来る安らぎの意味なのである。そして、そのような者だけが、主イエスに学び、主イエスに従うことが出来るのである。
 主イエスに従い、主イエスに学ぶということ。それは自らの考える正しさを人に課し、その重荷を背負いきれないことを責め、断ずる事なのではない。そうではなく、主イエスが示されたその柔和と謙遜を学び、私たちもまた、誰かと共にその重荷を分かち合うことに他ならない。そしてその時まさに、主イエスは私たちと共におられるのであり、その時まさに私達自身救いと安らぎを得るのである。

ルーテルとなりびと: 支援活動報告会を7月30日(三鷹)と7月31日(千葉)で行います![7/30]

7/30(土)14時より、ルーテル学院大学ブラウンホール152教室を会場に、ルーテルとなびとスタッフ遠藤さんをお迎えして震災支援活動の報告会を行います。
是非ご参加下さい!

詳細は下記サイトをご覧下さい。

ルーテルとなりびと: 支援活動報告会を7月30日(三鷹)と7月31日(千葉)で行います!: "急遽、首都圏にて、現地スタッフの遠藤による報告会を開催することになりました。 ぜひ、お集まりください。"

2011年7月26日火曜日

8-9月の週日の集会について[8/1-9/8]

水曜11時からの聖書の学び、木曜15時からのキリスト教入門は、8/1から9/8までお休みとさせていただきます。
9/14(水)11時の聖書の学びから再開いたします。

2011年7月22日金曜日

[説教要旨]2011/07/17「命を得る」マタイ10:34−42

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 エレミヤ 28:5−9 【旧約・1229頁】
第二の日課 ローマ 6:15−23 【新約・281頁】
福音の日課 マタイ 10:34−42 【新約・19頁】

 本日の福音書において、主イエスは派遣される弟子達に向かって語られるその文脈の中で、ご自身について「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と語られる。その言葉は、限られた12人にのみ向けられたのではなく、聖書を通して、私たちに対しても向けられた言葉である。そして、主イエスはまさに厳しく私たちの心を貫く言葉「わたしは敵対させるために来たからである」「こうして、自分の家族の者が敵となる」を語られる。
 「家族が敵となる」ということに、私たちは大きな戸惑いを憶え、それはむしろ、私たちが信仰を通して願うことと逆なのではないか、家族が信頼の絆で結ばれることこそ、私たちが信仰に望むことなのではないか、と考えるそのように考えると、たしかにこの主イエスの言葉は、私たちにとっての大きな躓きとなる。しかし一方では古代社会において、家族は単に親子の情愛のつながりだけを意味するのではなく、社会における経済活動・生産活動の拠点であり、資産の保有の主体であった。そしてそれは、当然のように最も重視され、守られるべきものであることは、あたりまえのことであった。そしてそれゆえに、経済・生産活動を保全し、資産の保有を脅かすことを避けるためには、持てる者への持たざる者の隷属、役に立たない者の排除、他者を利用し奪い取ること、そうしたもの全ては「当然」で「あたりまえ」のこととして、見えないままとなるのであった。
 主イエスは、「預言者」、「正しい者」、そして「この小さな者」を同じ価値あるものとして、弟子達に、そして私たちに語られる。預言者・正しい者が、その働きと資質に応じて評価されることは私たちの価値基準に照らしても、決して理解に苦しむものではない。しかし「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉は、私たちの価値を揺るがす。ここで語られていることは、私たちの基準によって誰かの働きと資質をその大きさ・功績によって評価することなしに、それらを全て超えて、「受け入れる」ことの重要さを物語っているのである。
 主イエスを愛するということは、疑いもせずに私たちが「当然」「あたりまえ」と思って押し隠しているものを切り裂き、明らかにする。隷属、抑圧、排除、他者を利用し奪い取ること。それらはまさにこの地上を蝕む闇であり、主イエスに従うことが真っ向から敵対するものである。まさにその意味で、私たちが自分の十字架を担うということ、それは私たちが、この地上においては「当然」「あたりまえ」として隠され見えなくされているものに対して、私たちが主なる神への信仰に支えられて対決していくことなのである。それはまさに、十字架を通して、私たちが真の命を得ることに他ならないのである。
 自らの十字架を担うということ、それは私たちが、私たち自身の「当然」「あたりまえ」を超え出て、この地上において価値無きものと見なされるものをこそ受け入れることであり、それによってはじめて私たちはい、真の命を得るのである。

2011年7月13日水曜日

[説教要旨]2011/07/10「だから、恐れるな」マタイ10:16-33

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 エレミヤ 20:7-13 【旧約・1214頁】
第二の日課 ローマ 6:1-11 【新約・280頁】
福音の日課 マタイ 10:16-33 【新約・18頁】

 本日の福音書では、主イエスは、宣教のためにご自身の代理として派遣する弟子たちに向かって励ましの言葉を語る。その主イエスの言葉は直接には弟子たちに向けられているが、同時に、今聖書を読む私たち一人一人にもまた向けられている。けれども、私たちは自分自身のなせる事の小ささに嘆くしかない存在でしかない。主イエスの代理である使徒たちへの励ましは、そのような私たちにふさわしいものと言えるのだろうか。
 この世界に生きる私たちは、好む好まざるに関わらず、様々な対立・憎悪によって取り囲まれることがある。無理矢理にせき立てられ、問い詰められ、非難される。そのような中では私たちは自分が何を語ればよいのか、言葉を失ってしまう。そして自分自身など価値無きものであると思うしかなくなってしまう。それは、主イエスの弟子たちと変わることのない、私たちがおかれた現実である。まさにその意味では、狼の群れに取り残された羊のように罵られ追い詰められる全ての者に対して、主イエスはこの言葉を語られている。
 主イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語る。しかし、それはかならずしも非難と対立の攻撃の中で留まり続けるだけなのではない。なぜならば、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」という言葉が続けられているからである。したがって「耐え忍ぶ」とはむしろ、自分に向けられた憎しみに対して、自分達がされた通りに仕返しすることを拒むことなのである。そのためには、時にその憎悪から逃げ出してしまうことがあったとしても、そのことで、私たちは自らの尊厳を失う必要はない。なぜならば、それがむしろ主イエスの言葉に従うことであると、この箇所は私たちに告げているからなのである。
 自分に非難を向ける相手が、たとえどれほど権威と権力を持っていたとしても、どれほど自分自身の弱さに嘆いたとしても、「恐れてはならない」と主イエスは語られる。なぜならば、魂を滅ぼすことが出来るのはただ主なる神だけだからである。二羽で1アサリオンの雀の一羽でさえ、神の許し無しに命を落とすことはない。一羽の雀の市場価値は、現代的に言えば数百円というところであろうか。たとえ私たちが、いかに自分に価値が無いように思えたとしても、その私たちを神は見守って下さることを主イエスは語られる。
 主イエスの励ましの言葉、それは罵られ傷つけられるばかりで、弱く価値無き者と自分を思うしかない私たちに対して向けられた言葉である。そしてその言葉が真実であることが、主イエスご自身が、傷つけられ、罵られ、十字架においてその命を失ったにも関わらず、その死から甦られたことによって明らかにされたのであった。私たちが傷つき、弱り果てる時、主イエスは私たちの最も近くにおられる。だから、弱く小さい私たちは、恐れることはないのである。

2011年7月8日金曜日

ボランティアバス第3弾!宮戸島応援障子貼りとバーベキュー大会 まだ空席あります[7/10-12]

震災支援センター・ルーテルとなりびとでは「ボランティアバスツアー」第3弾を7/10-12に企画しています。
これは海苔加工場の清掃をさせていただいた東松島市宮戸島の西部漁業組合さんからの、震災からまだ一度もしていないバーベキュー大会を開いてみんなで楽しみたいとの声を受け、企画されました。障子貼りや津波が襲来した浜辺の清掃も行います。
まだバスには数名分の空席があります。是非奮ってご参加下さい!


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