2015年10月2日金曜日

鈴木浩先生特別礼拝「宗教改革の今日的意義ー福音の再発見ー」のご案内[10/11]

2017年の宗教改革500年に向けて、ルーテル三鷹教会では、宗教改革の今日的意義-福音の再発見-」を主題に鈴木浩先生の特別礼拝を行います。
どなたでもご参加頂けます。
皆様のお越しをお待ちしております。

特別礼拝 「宗教改革の今日的意義ー福音の再発見ー」
説教者 鈴木浩牧師(ルーテル学院大学教授・ルター研究所所長)
2015年10月11日(日)10:30より
ルーテル学院大学チャペルにて
入場無料(礼拝の中で自由献金があります。)

 1517年10月31日、修道士だったマルティン・ルターは、一枚の「壁新聞」のようなビラをヴィッテンベルクという町の「城教会」と呼ばれる教会のドアに貼り出した。いわゆる『九五箇条の提題』と呼ばれる文書である。 取り上げられていたのはいわゆる「免罪符」の問題であった。ルターはそれを「民衆からの搾取」であると激しく攻撃していた。この文書はまたたく間にドイツ国内に広まった。これが16世紀のヨーロッパを揺るがせた「宗教改革」の発端になった。 しかし、いったい何が問題だったのか、そしてそれは今日のわたしたちとどのような関わりがあるのか、そうした事柄を考えてみたい。

 

[説教要旨]2015/09/20「すべての人に仕える者に」マルコ9:30-37

聖霊降臨後第17主日 初めの日課 エレミヤ書 11:18-20 第二の日課 ヤコブの手紙 3:13-4:3、7-8a 福音の日課 マルコによる福音書 9:30-37 今、社会は暴力であれ、財力であれ、権力であれ、強さを持ったものが正義であるという風潮が蔓延しつつあるように思われる。力で他者を圧倒することの先に、自分達の安全と繁栄があるという思いが支配的になっているように思う。しかし、聖書が語る主イエスの姿は、今私たちをとりまく力とは全く異なるものを示すこととなる。 本日の福音書では主イエスが、エルサレムでのご自身の十字架の死とそこからの復活について、2度目の予告をされている。二度目である今回もまた、弟子たちにはこの言葉が一体何を意味しているのか理解出来ず、その言葉の恐ろしさに怯えるだけであった。 そして、主イエスの言葉を理解できない弟子たちは「誰が一番偉いか」という議論をする。「誰が一番偉いか」ということ、それはこの世の中での幸せを得るために、より高い地位、より強い権力、より多くの財産を求めようとする人間の姿である。しかし、主イエスは「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する。」と弟子たちに教えておられたのだった。 主イエスが「人の子は…」という言葉で始まる教えを語られるとき、その教えは十字架の出来事を予告している。それは、「この世」から裏切られ、「引き渡され」、「苦しみを受ける」存在であり、弟子達が期待したような「高い地位に就く」存在とはおよそ正反対のものであった。誰が一番偉いかを議論する弟子達に、主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と語り、一人の子どもを弟子達の間に立たせ「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と語られるのだった。 「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣言し、神の国を宣べ伝え、人々を教え、癒されたた主イエスは、まさに全ての人々に仕える者として、ガリラヤの地を歩まれ、そしてさらに、エルサレムへの十字架の道へと進んでゆかれる。そしてその命を用いて、私たちに新しい命、新しい世界、真の神の国を開かれたのだった。その主イエスが「全ての人に仕える者になりなさい」と語られる時、それは主イエスが歩む、その十字架への道を共に歩むことが呼び掛けられているのである。 たしかに、十字架の道を歩むことはは決して容易なことではない。それは私たちにとって、安全と繁栄とは真逆へと向かう、恐ろしい道であるようにしか思われない。けれども、その道は、絶望と敗北に行き詰まる道なのでは無いことを、聖書は語る。主イエスの十字架の道は、私たちの思いと考えでは、絶望としか見えない先に、私たちの目には行き詰まりとしか思えないその先に、新しい命が、神の国が待っていることを聖書は語るのである。 旅の途上では、主イエスの言葉を理解することができなかった弟子たちは、主イエスの十字架と復活の出来事を通して、その意味を悟り、根底から生き方を変えられてゆく。現代に生きる私たちもまた、主イエスの十字架と復活の出来事に触れる時、絶望の先にある平和への道、新しい命への道を生きることができるのである。

[説教要旨]2015/09/13「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38

聖霊降臨後第16主日 初めの日課 イザヤ書 50:4-9a 第二の日課 ヤコブの手紙 3:1-12 福音の日課 マルコによる福音書 8:27-38 本日の日課の最初では主イエスはフィリポ・カイサリアにいたとある。「皇帝の町」を意味するカイサリアはローマ皇帝アウグストゥスがヘロデ大王に与えた領地であり、皇帝崇拝のための神殿が建てられていた。またその他に様々な神々の神殿があった。言い換えるならば、この世で、頼りになると思われるようなもの、利益が得られそうなもの、そのようなものが立ち並ぶ街で会ったと言えるだろう。つまり、様々なこの世の力と、真の生ける神の子キリストとがこの町で対峙したとも言える。そうした事柄を背景としつつ、主イエスは弟子達に向かって、人々は自分を何者だと思っているかと問いかけえう。弟子達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答える。主イエスの問いかけはあらに続く。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これまで私と共に歩んできた「あなたがた」は、いや「あなた」はどうなのかを、主イエスは問いかける。この問いかけに対してペトロは、「あなたはメシアです」と応える。口語訳では「あなたこそキリストです」と訳されていた。メシアとはヘブライ語の「油注がれた者」を意味し、神から特別な任務を与えられた者ということであった。このメシアをギリシア語に翻訳したものが、「キリスト」である。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていた人物であることを、確かに言い表している。しかし、それでもなお、その答えは充分ではなかった。なぜならば、このペトロの応えに対して、主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」とさらに続けられているからである。 ここで語られるものは、「この世」から裏切られ、「引き渡され」、「苦しみを受ける」存在であった。それは当時の人々が、「メシア(キリスト)」という言葉に対して持っていたイメージとは正反対のものであっただろう。主イエスは「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、自らの低さ、十字架の苦難を示されたのだった。しかし、それはむしろ力強いメシアを期待する世間の人々の期待を裏切るような発言でもあった。それゆえに主イエスをたしなめようとするペトロを、しかし主イエスは厳しく叱責される。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」十字架の出来事、それは人間の理解と常識を超えた出来事であり、人間の計画と予想を超えた出来事であった。そして、主イエスによって示された福音とは、この低さの極みである十字架の出来事に他ならない。苦しみと低さの極限である十字架こそが、私たちの救いと解放の出来事なのである。 十字架を担うこととは、恐ろしく忌まわしいことである。しかし、私たちは、決して1人で十字架を担うのでは無いということを知っている。その十字架は主イエスが今も担ってくださったものなのである。まさにそうであるがゆえに、私たちが自らの苦しみと低さの極限である十字架を担う時、私たちに主イエスはもっとも近くおられるのである。

[説教要旨]2015/09/06「イエスが訪れるところでは」マルコ7:24-37

聖霊降臨後第15主日 初めの日課 イザヤ書 35:4-7a 第二の日課 ヤコブの手紙 2:1-10、14-17 福音の日課 マルコによる福音書 7:24-37 本日の福音書では主イエスが、ガリラヤから外へと国境を超え出てゆく。ティルスという地方は、ギリシア的な文化が支配的な地域であった。そのような地に主イエスが行かれたのは宣教のためではなく、「誰にも知られたくないと思っておられた」とあることから、むしろ休息のためにガリラヤを離れたのかもしれない。しかし、その主イエスのもとを、悪霊に悩む娘を連れた一人の女性が訪れる。 この母親の強い願いによって、主イエスは娘を癒される。しかし娘については、ただ「悪霊」が出てしまっていた、とだけ書かれるだけで、この物語の中では何も積極的な役割を果たしていない。娘自身が、主イエスを求めてやってきたわけでも、主イエスを信じたわけでもない。続く31節以下の箇所で登場する「耳が聞こえず舌のまわらない人」もまた、主イエスのもとにくるにあたって、自分から全く何も積極的な行動をしてはいない。しかし、主イエスはその人を癒される。これらの2人の共通点は、弱い自らの存在をただ主イエスの前にさらけ出したということでしかなかった。 この人を癒すにあたって、主イエスは「天を仰いで、深く息をつ」いたとあるが、この言葉は、「呻く」という意味で用いられることもある。この意味で受け取るならば、天を仰いで主イエスは、地上で生きる人々の悩みを、苦しみを、痛みを、主イエスご自身が受け止められ、その人々の呻きを、主イエスご自身が、天に向かってあげられたと言えるであろう。つまり、主イエスはご自身の前にさらけ出される、この地上に生きる者達の弱さを、またその弱さゆえの呻きを受け止められることを、この物語は伝えている。主イエスが訪れられるところ、あらゆる嘆きは、あらゆる呻きは、主イエスが共におられることによって、主イエスが引き取ってくださるのである。 主イエスはこの後、まさに,全ての人のうめきを身に受けるために、十字架への道を歩まれる。しかし、世界と命を造られた神はその死で終わらせることなく、新しい復活の命を造り出された。 マルコ福音書において主イエスがガリラヤでの宣教の始まりにあたって、最初に語られたのは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。主イエスの訪れられるところ、そこは新しい命が始まる、あの神の国が訪れるところなのである。そして、その訪れに触れる時、わたしたちは、本当の意味での悔い改めへと導かれる。「悔い改め」はギリシア語では「方向を変える」という意味の言葉が用いられている。私たちが、この世の諸力、暴力や権力、あるいは自分の能力や名声、そうしたものを信頼し、自らを守ろうとするとき、そこではたださらなる争い、さらなる不信、さらなる対立が生まれるだけであることを、私たちは歴史から、あるいは自分自身の人生の歩みから知っている。それゆえに、そうでは無く、ただ私たちは自らの弱さを知り、そうであるからこそ、私たちとともにおられる主イエスを信頼するしかないことを知る。そしてそれこそが、まさに真の悔い改めなのである。私たちにとっての希望、私たちにとっての慰め、それはただ、あらゆるところで、キリストは共にいてくださる、ということに他ならない。

[説教要旨]2015/08/30「人の心から出るものは」マルコ7:1−8、14-15、21-23

聖霊降臨後第14主日 初めの日課 申命記 4:1-2,6-9 第二の日課 ヤコブの手紙 1:17-27 福音の日課 マルコによる福音書 7:1-8,14-15,21-23 悪はどこから来るのか。それは、神学的には長い議論がある。しかしいずれにしても、私たちの命は、大小を問わず悪に翻弄されていることを実感する。ところが悪の恐ろしさとは、単に私たちが外側から悪の力の被害者として痛みと苦しみを与えられるだけでなく、私たち自身の誰もが悪をなすものとなり、痛みと苦しみを誰かに与えうる。それが悪の最も恐ろしい力である。悪の力にさらされているのは、私たちの外面だけではなく、内なる私たちもまた悪の力にさらされている。この悪に対抗する力を私たちはどこから得ることが出来るのか。 本日の福音書マルコ7章の冒頭では、ガリラヤ湖畔で活動する主イエスを、エルサレムから来た者たちが、正しく清い生活を守るための形式について問い詰める。その形式としてここでは「手を洗う」ということが問題となっている。食事の前に手を洗うことは衛生的理由だけではなく、宗教的・儀礼的な「汚れ」を清め、悪が自らの内に入り込むことを防ぐ意味がそこには込められていた。しかし、それに対して、主イエスは、どれだけ表面的には、素直にそして清さを保っていたとしても、その内面から奥底からの悔い改めがなければ意味が無いのだ、と根本的な反論をする。自らの外なる悪を恐れるだけでなく、内なる悪について主イエスは問題とする。 神が望まれることは、心からの悔い改めであって、表面上の形式ではない。神は形式的なものを要求していない。主イエスの問いかけは現代を生きる私たち一人一人の魂に突き刺さる。手を洗わないことが汚れているのでは無い。そうではなく、他者を傷つけ、奪い、そしてそのことを無かったかのように振る舞い、自分を正当化する。そのようなことこそが、まさに悪の力によって蝕まれた姿であることを、聖書を通して主イエスは私たちに問いかける。 5世紀の神学者アウグスティヌスは、神は世界を善でもって創造したのであって、「悪そのもの」が存在しているのではない。悪とは、善が欠如している状態である、語った。これをさらに言い換えるならば、善とは、この世界に命をあたえられた神の愛の働きであると言える。つまり、悪とは神の愛が届いていないということだと、受け取ることもできるだろう。そう受け取るならば、神の愛なしに、私たちは、外からもまた内からも、悪に翻弄されるしかないと言える。私たちに神の愛が与えられることなしには、私たち人間の心から出るものは、ただ他者を傷つけ奪いながら、それを忘れ、自らの正しさを誇り、他者の痛みと傷をさらに深くすることしかできない。ならば、神の愛は、私たちにどのように届くのだろうか。 その私たち一人一人の心と魂に、神の愛を届けるために、主イエスが与えられたことを聖書は告げる。主イエスの言葉と十字架の出来事は、私たちに神の愛を届けるためのものに他ならない。私たちは、ただ主イエスの言葉に聞き、そして主イエスの十字架の出来事をこの自分自身の身に引き受けるとき、悪に対抗し、自らの過ちを振り返り、その過ちによって生み出された痛みと悲しみを悔い、そして,新しい命へと向かう未来へと共に向かうことが出来るのである。主イエスがその教えと業、そしてなによりもその十字架によって示されたもの、それこそが私たちに与えられる神の愛、悪に対抗する力なのである。

[説教要旨]2015/08/16「世を生かすための命」ヨハネ6:51−58

聖霊降臨後第12主日 初めの日課 箴言 9:1-6 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 5:15-20 福音の日課 ヨハネによる福音書 6:51-58 去る8/15には、多くの犠牲者を生み出した悲惨な戦争に日本が敗北してから70年目という節目の時を迎えた。その前日8/14には、この70年目にあたっての首相談話が発表された。全体に反省と謝罪を想起させるキーワードがちりばめられたこの談話は、現在の日本国内では、概ね妥当なものと見なされているようである。しかし海外メディアからの評価は、過去への反省は過去の引用だけに留まり、首相自身は謝罪の言葉を述べなかった、という評価の方が目についた。私自身はこの談話に、家庭内暴力の加害者が、暴力にもそれなりの理由や原因があると言って過去の自らを正当化しようとする者の姿が重なった。多くの家庭内暴力の加害者は、自分が一方的に悪くて暴力を振るっているのではない、という言い訳をするという。家庭内暴力の加害者は、自分と相手との間にお互いに尊敬し合い、いたわり合う対等な関係をつくることがイメージしにくいという特徴がある。自分こそが正しいと思い込み、相手の正当な主張に対して、自分の権威に対して挑戦されているのだと考え、あまつさえ復讐心さえ抱き、さらに相手を圧倒しようと考える。そしてそのためには自分は何をしても許されると思い込み、暴力がさらに激しくなることになってゆく。私には、今日本社会がおかれている状況が、まさにこの暴力の加害者のあり方に刻一刻と近づいているように思えて、薄ら寒くなってくる。このような暗澹たる現実、この悪く愚かな時を乗り越える力を私たちはどこに求めて行けばよいのだろうか。 本日の旧約の箴言、そして使徒書であるエフェソ書では、分別をもって悪い愚かな時を見分けること、そして真の喜びの宴席を見出すべきであることを語られている。一時の陶酔への誘惑から離れることをすすめるこの言葉はまさに、暴力への誘惑に晒されている現代の私たちへの警句とすら言えるであろう。そして福音書においては、真の喜びである主イエスの食卓への招きが語られている。 主イエスは「わたしが命のパン」であり、そしてさらに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得」ると語られる。それは、一人の人としてこの地上に生きた主イエスを受け入れるということであった。主イエスを受け入れるということは、自分達の期待する強さと正しさを兼ね備えた理想的存在ではなく、この地上を生きた主イエスに結びつくことが問題となる。この後、物語が進む中で、福音書は弱さと苦しみの全てをさらけ出す方こそが、世に命を与えるパンであることを明らかにする。弱さと苦難の中を生きた主イエス・キリストの命が、その十字架によって私たちに分かち合われたからこそ、私たちは、憎悪と暴力の連鎖から解放され、苦しみと弱さの渦巻くこの世にあってなお歩むことができるのである。 私たちはそれは、嘲り、苦痛、人の弱さをことごとく担われたキリストの命を受けて、今この世を生きることが出来る。だからこそ、私たちは、人間としての弱さが受け止められる世界、喜びも悲しみも分かち合われる世界。一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界。そのような世界を目指すことが出来るのである。命のパンである主イエスは、私たちの世界に、新たな命を与えられた。その命は私たちを、真の平和へと導くのである。

[説教要旨]2015/08/09「キリストの愛にとどまって」ヨハネ15:9-12 エフェソ2:13-18

平和を求める礼拝 初めの日課 ミカ書 4:1-5 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:13-18 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:9-12  本日は先週に引き続き、私たちは平和に思いを寄せ、平和を求める主日として礼拝に集っている。8/15には敗戦から70年目を迎える。悲惨なあのすさまじい暴力の嵐をもう二度と繰り返したくないという強い思いが、この70年を支えて来た。しかし今日、その思いはむしろ逆風の中にあるように見える。その背後にあるのは、失うことを恐れ、敵意と憎悪を剥き出しにして、祝福の全てを奪い取り独占するための力を持たなければ安心出来ないという、現代の日本社会が抱えている深い闇であると言える。私たちはこの闇をどのように乗り越えてゆくことができるのだろうか。  本日の第2の日課であるエフェソ書では「(14)実にキリストは私たちの平和であります」と語られている。この「平和」という言葉は、ここでは特に2つの意味をもって私たちに語りかけている。第一に、それはキリストによってもたらされた人間と神との間の平和・和解である。それは私たちが、神の祝福をそれそのものとして受け止めることができるようになる、言い換えるならば、私たちが神の祝福を受けるにふさわしいものへと変えられる、ということであった。第二に、その神の祝福は私たちを、私たちの間の分断を超えて結びつける。エフェソ書では、ユダヤ人と異邦人という2つのグループが挙げられている。これらのグループは文化的なプライドや宗教的な習慣等によって、互いに排除しあうものであったが、今や「キリストという平和」によって、一つに結びつけられているのだと聖書は語る。おそらく、2つのグループは「キリストの平和」など望んではいなかったのではないだろうか。むしろ、自らが積み上げてきた文化的な伝統や理念が崩されることがないように、神の守りと祝福を願い、自分たちのポリシーを貫こうと、互いに強硬な姿勢を取ったのではないだろうか。しかし、そこに与えられた真の神の祝福は思いもかけないようなものであった。その祝福は、今あるものには向かわなかった。むしろ今ある彼らが積み上げたものを「隔ての壁」として取り壊し、その彼方に目に見えない希望を約束するものであった。  対立と不安の渦巻くこの現代の状況の中で平和を私たちが本当に求めるならば、私たち自身の中にある隔ての壁が取り壊されなければならない。見えるものは私たちを引き裂き争わせるが、見えないものは私たちに祝福と平和をもたらす。けれどもその壁を壊すことができるのは、私たちを祝福を受けるにふさわしいものへと変えられるのは、主イエスご自身に他ならない。主イエスはその十字架によって私たちの中の隔ての壁を取り壊し、私たちのただ中に永遠の祝福と平和をもたらされたのだった。  本日の福音書の日課では、主イエスの愛のうちに生きる私たちのあり方の問題について、私たちの歩み方の問題について語る。私たち自身の中から出て来る愛といえば、それはいわば独占する欲望であり、暴力を求め憎しみをもたらすものでしかない。それに対して主イエスの語られる愛とは「与える愛」であった。主イエスは、そのような愛によって私たちを満たし、憎悪と暴力から私たちを解放される。主イエスの愛の戒めは、私たちが、愛と和解への道、対話への道を歩むための力の源に他ならない。  このキリストの愛の中に生きる私たちは、今や新しい人として造り替えられている。たとえ私たちの力が小さく弱いものであり、私たちの前にある闇がどれほど深いものであるとしても、私たちの希望の光は消えることはない。なぜならば、私たちの希望の光は、十字架の絶望の死を超えて輝くからである。主イエスの愛、神の祝福こそが、私たちを力づけ、愛と和解の道を歩ませるのである。

[説教要旨]2015/07/19「村でも町でも里でも」マルコ6:30-34,53-36

聖霊降臨後第8主日 初めの日課 エレミヤ書 23:1-6 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:11-22 福音の日課 マルコによる福音書 6:30-34、53-56 私たちを分断し、対立させ、そして憎しみ合わせようとする、様々な力が、私たちの生きる地上を引き裂いている。主イエス・キリストを救い主として信じる者達はそのような力にどのように立ち向かってゆけば良いのだろうか。 本日の福音書では、派遣から戻った弟子たちと共に主イエスは食事と休息をとろうとされるが、人々は先回りして彼らを待ち構える。人々は教えと癒しを求めないではいられない。主イエス達に休息を許さない群衆に、主イエスは怒りをぶつけることはなかった。主イエスはこの大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められ」る。群衆は主イエスにとって、対決するべき存在では無かったのである。一行が再び湖を渡った後も、次から次へと繰り出される要求に、主イエスは応え続ける。主イエスが訪ねる所には常に、人々が押しかける。それは「村でも町でも里でも」そうであった、と福音書は語る。村とは人の住む集落、町とは都市を指している。里というのは、むしろ農地、畑、という意味の言葉が使われている。1世紀の後半のパレスチナでは、農地で働く者達は、厳しい税の取り立てにあえぎ、負債を抱え、土地を手放し、奴隷に身を落とすことが少なくなかった。その結果、多くの農地は、都市に住む不在地主によって独占管理されるようになっていった。そうした光景を、村に住む者達は、苦々しく思っていたようである。蓄積されたそうした思いは、やがてローマ帝国とユダヤとの戦争へと人々を駆り立ててゆくこととなった。村と町と農地、いうならばそれは互いに引き裂かれ、対立しあう関係のものであった。しかし福音書では、主イエスが共におられるところでは、村でも町でも農地でも、主イエスを求めるその思いにおいて一つであることが語られる。主イエスを求める全ての人は癒されたのだった。私たち人の目から見て分断された場所であったとしても、主イエスが訪れる所では、その隔ての壁を越えて、人々を一つに結びつけられる。主イエスがこの地上の世界でのべつたえられた、「神の国」は近づいたということは、まさにそのようなものであった。まさにその意味で、主イエスが訪れる所に、神の国は近づいてくる。そして主イエスは、無限の寛容さをもって、求めるもの、必要とするものを、それぞれに満たし、癒されるのである。 福音書の物語は、主イエスはご自身を求めていた群衆に裏切られ、十字架に付けられる。しかし、主イエスはその死に留まることはなかった。神は主イエスを甦らせ、憎悪と対立、なによりも不寛容さの支配するこの地上の世界の中で対立する私たちを、主イエスの命によって結びつけられた。それまさに、限りの無い神の国の恵みの義にほかならない。 互いに引き裂かれ、対立と憎悪が支配する時代を、私たちは今生きている。しかし、村でも町でも里でも、主イエスが私たちの元を訪れられる時、私たちは、嫉妬、憎悪、怒りを越えて、恵みを分かち合えることを聖書は私たちに語りかける。この地上で、主イエスは私たちと共におられ、飼い主のいない羊のような有様を見つめて、私たちを一つに結び合わせてくださることを憶えて、私たちの日々を歩みたい。

[説教要旨]2015/07/12「死から甦ったのは」マルコ6:14-29

聖霊降臨後第7主日 初めの日課 アモス書 7:7-15 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 1:3-14 福音の日課 マルコによる福音書 6:14-29 7月に入り、1年の半分が過ぎた。教会の暦では6/24は「洗礼者ヨハネの日」となっている。ヨハネ3:30で洗礼者ヨハネは主イエスについて、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と語る。この言葉は、この地上の命が短くはかないものであることを私たちに思い出させる。しかしこの言葉は、衰え失われてゆく自ら命だけを見つめて語られたのではなく、むしろ洗礼者ヨハネの目は主イエス・キリストに向けられていることに私たちは気付かなければならない。洗礼者ヨハネは、自らが向かうその深い闇の支配の先に、命の勝利の光が輝いていることを告げている。その意味では、この言葉はむしろ、衰え失われる命への嘆きではなく、むしろ、絶望の中に希望を見出した者の言葉として私たちのもとに響いている。 本日の福音書では洗礼者ヨハネの最期の様子が描き出される。そこでは、人間の権力欲、ねたみ、怒り、憎しみが渦巻く様子が描かれる。それはまさに洗礼者ヨハネが向かった、この地上の闇の深さを物語っている。主イエスの先駆者である、洗礼者ヨハネの最期についての報告は、ヘロデ大王の息子の一人であったヘロデ・アンティパスが、主イエスについて聞き及び、洗礼者ヨハネを思い起こした、という文脈で語られている。それはまさに、洗礼者ヨハネの辿った道が、主イエスの道の先触れであることを、今聖書を読む私たちに思い起こさせる。洗礼者ヨハネが、この世の闇のただ中に踏み込み、その中で命を落としたように、主イエスもまた、闇の中に切り込んでゆくその道を歩んでいかれることを、福音書の物語は示唆している。しかし福音書は非常に巧みに、さらに別の事柄に注意を向けるようにしむけている。主イエスについて聞き及んだ人々は、主イエスを「エリヤ」だとか「預言者だ」と語り、そしてその評判を聞いたヘロデ・アンティパスは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と語る。しかしながら、人々が語るそのいずれもが、主イエスとは何者かという問いに対する答えとはならなかった。その答えは物語がさらに十字架の出来事まで進むことを待たなければならなかった。 しかし、その十字架の死から、主イエスは甦られた。この十字架の出来事によって、闇がより深く濃くなってゆく道を歩みながらも、その闇から抜け出る道、命と救いの道を主イエスは私たちに開かれたことを、聖書は語る。この世の不安と恐れの闇のただ中に誰よりも深く踏み入った主イエスは、誰も見出すことの出来なかった、さらにその先に続く道、命と救いの道を私たちに開かれたのだった。そうであるからこそ、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」というヘロデの叫びに対して、今や私たちは「いや、そうではない、それは、死から蘇られた方、命への道を開かれた方、私たちの救い主キリストなのだ」と答えることが出来るのである。 現代の私たちはまさに恐れと不安の闇にまた包まれようとしている、と言える。しかし、主イエスはその闇の中へと歩み入り、その闇の向こうへと続く、命への道を私たちに開かれた。この地上における恐れの中で、主イエスは既に私たちに命と救いの道を備えて下さっていることを憶えて、日々を歩んでゆきたい。

2015年10月1日木曜日

[説教要旨]2015/07/5「この人はどこから」マルコ6:1-13

聖霊降臨後第6主日 初めの日課 エゼキエル書 2:1-5 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 12:2-10 福音の日課 マルコによる福音書 6:1-13 本日の福音書では、主イエスは故郷であるナザレへ弟子たちと共にと向かう。ガリラヤの各地で神の国の到来を宣べ伝え、力ある業をなしてきた主イエスは、故郷の地では理解されなかった。故郷の人々が主イエスを理解出来なかった、受け入れることが出来なかったのは、主イエスが教えられた神の国、そして力ある業は、彼らが直接的に知っている、イエスという人物の個人史と結びつかなかったのでした。彼らはあくまでも自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとしていた。しかし、神の国の福音を告げる主イエスは、故郷に留まる人々が知る、彼らが留まるに心地良い世界には留まってはおられなかったのでした。そうであるならば、主イエスはどこにおられたのであろうか。どこから、主イエスはこられ、どこへと向かおうとされているのだろうか。 続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちを派遣されことが報告されている。彼らに、主イエスに並ぶ働きを任命する。その際に彼らに命じることは何も持たない放浪の生活であった。弟子達が良く見知った快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。しかし弟子達が、主イエスに派遣され、放浪を続ける時、彼らは主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病の人を癒すことを実現するのであった。 主イエスは、全てが整えられ、全てが準備された、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかった。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされる。それこそがまさに神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。なによりも主イエスこそが、この地上に現れた神の国そのものに他ならなかった。すなわち、主イエスこそが、人々が帰るべき新しい故郷であった。 故郷の人々は、そのような主イエスの姿を理解することが出来なかった。主イエスの示された、神の国、新しい永遠の命は、故郷の人々が望むような、自分の日常が整えられ、満たされ、全てが自分のコントロールの元にあることの延長線上にはなかった。 先週私たちは、ルター小教理問答を通して「十戒」について学んだ。信仰の基としての十戒は、イスラエルの民が、帰る場所を失った荒れ野の中において与えられたのだった。帰る場所はない。けれども、進むべき道はある。神への信仰は、新しい道を民へと示すこととなった。 そして主イエスは、聖書を通して私たちをもまた新しい道へと呼び掛けられる。それはご自身がその十字架によって開かれた、新しい命への道に他ならない。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれた。十字架の死、それは人の目には悲嘆と挫折の行き詰まりの道である。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。主イエスはこの地上における悲嘆と挫折の中にある私たちを訪ね、慰め、癒される。そのことを知る時、私たちもまた、帰る場所を失い悲嘆の中にある人々と共に、新しい場所を造りあげてゆくことができるのである。それこそが、新しい故郷、キリストの教会に他ならない。この世の嘆きと挫折の中で私たちと共にいて下さる、私たちの新しい故郷、主イエスを憶えて日々を歩みたい。

2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/6/21「いったい、この方は」マルコ4:35-41

聖霊降臨後第4主日 初めの日課 ヨブ記 38:1-11 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 6:1-13 福音の日課 マルコによる福音書 4:35-41 本日の日課である4:35以下では、1-3章までと同じく主イエスの奇跡の業が続いて語られる。しかしここからは主イエスの奇跡に対する人々・群衆の「この人は、いったい何者なのか」という反応がより鮮明に描き出される。それは、主イエスの存在が、人間にとって全く知らないもの、全く新しいものであることを描き出す。 本日の福音書では、湖に船で漕ぎ出し、突風に悩まされる弟子達の様子が描き出される。前半では慌てふためく弟子達と、静かに眠っておられる主イエスとの対比が印象的に語られる。弟子達は「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、怒りとも嘆きともつかない叫びをあげる。弟子達のこの訴えは、客観的にはきわめて真っ当なものである。私たちが同じ体験をしたならば、たしかに、同じように訴えるであろう。しかし物語は、彼らがある重要な事柄を理解していないことを描き出す。すなわち、彼らが荒れ狂う波の中に居るとき、主イエスが共におられた、ということの意味である。主イエスは嵐が静まるように神に祈るのではなく、直接に波風に命じられるが、それは主イエスご自身が神の力をふるっていることを示している。嵐を沈めた主イエスは弟子達に向かって語られる。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」そして弟子たちは非常に恐れ「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いあうのだった。 この後に続く物語において、主イエスの奇跡を目の当たりにした者達は皆激しく驚き、主イエスについて噂し始める。やがてそれは8章での「あなたは、メシアです」というペトロの応答へとつながってゆく。しかし、そこではまだ物語は半分にしかいたっていない。つまり、ペトロが「あなたは、メシアです」と応えたとき、ペトロはそのことの真の意味をわかっていなかった。主イエスが、神の子キリストであることが明らかになるには、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ出す、十字架の出来事を待たなければならなかった。しかし、主イエスの十字架の死は、それによって全てが終わってしまう、挫折してしまうものではなかった。むしろ、そこから全てが始まることとなった。それはまさに命の終わり、計画の中断と挫折が全ての始まりになるという、全く新しい出来事であった。 新しいものは私たちを脅かすがゆえに、私たちは新しいものを警戒し、命に満ちた新しいメッセージをむしろ、古いものによって覆い隠そうとする。しかし、キリストに結ばれるということは、私たちが全く新しい命に結ばれるということに他ならない。そしてキリストに結ばれた命とは、自分の生活だけでなく、世で困難に直面している人々、様々な嵐に翻弄されている人々に思いを向け、その人々への愛を生み出すことのできる命なのである。 私たちは今聖書を通して、キリストに呼び出され、キリストに出会い、聖書の言葉と共にキリストは私たちと共にいる。そうであるがゆえに、キリストに従い、キリストに結び付けられた私たちは、私たちが未だ出会っていないものへと関わり、愛する力を、共におられるキリストから与えられているのである。見えない力に翻弄されたこの世界の荒波は、私たちは脅かす。けれども私たちが結ばれているキリストによって与えられる愛の力は、世の荒波を鎮める力となるのである。

[説教要旨]2015/06/14「どうしてそうなるのか」マルコ4:26-34

聖霊降臨後第3主日 初めの日課 エゼキエル書 17:22-24 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 5:6−10、14−17 福音の日課 マルコによる福音書 4:26-34 本日の福音書箇所を含むマルコ福音書4章では「神の国」に関するたとえ話が語られている。しかし、これらの神の国についての教えは、わたしたちの日常の延長で想像できるような、天国の姿を伝えてはいない。むしろそれらは、私たちが思いもよらなかったような全く新しい生き方を示している。 本日の箇所の前半「成長する種のたとえ」で「ある人」として登場する人間は、穀物の成長に対して何も関与してないことが注目される。人間の努力とは無関係に「ひとりでに」実を結ぶように、神の国は「ひとりでに」成長し実を結ぶことが強調される。種の成長について、どうしてそうなるのかはわからないにも関わらず私たちはその収穫に与ることを、このたとえは語る。後半「『からし種』のたとえ」は、はじまりの小ささと結末の大きさとが印象的に対比される。その大きな結末は、はじまりの「蒔かれる時」には、全く予測がつかないものであることが強調される。旧約では度々、空の鳥は地上を移っていく移住者・寄留者を象徴するものとして語られている。小さな種は、地上に住み、収獲を期待して種を蒔く者にとってだけでなく、空を旅する鳥すらも身を寄せることができるほどのものとなる。聖書が語る「神の国」とは「神の力の及び支配領域」とも言い換えることが出来る。この世界と、そして私たち自身の命をも作られた、神の創造の力は、何もないところから、命を生み出す力である。その力がいつどのように働くかは、私たちの目から隠されているが、私たちは神が働かれたその結果を、ただ恵みとして受け取るのである。 私たちが人間として成し遂げることの出来る働きは、ごく限られた不完全なものに過ぎずない。私たちがなすことのできることは、それらを完成してくださる神の力を信頼し、また希望として、失敗や不完全・不十分であることを恐れずに歩むことでしかない。新約聖書が形づくられた時代のキリスト者達は、さまざまな困難に遭遇したであろう。しかし、彼らに伝えられた、主イエスの業と教えを通して、目に見える現実のその奥に、神の国の現実はたしかにはじまっていることを彼らは確信したのだった。 主イエスの地上での働きは、十字架の死によって中断させられることになる。それは目に見える成果として見るならば、不完全なままで挫折したということになる。しかしキリストは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、見えない神の力は働くということ、そして希望が必ず訪れることを私たちに示された。そして、この十字架と復活を希望とし、信頼して歩むこと、それこそが信仰に他ならない。 私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし、その私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられている。この聖書が伝える出来事を通して、私たちは、自分の思いと力と知恵を超えて、神は全てを良しとされるのだということを確信するとき、私たちは全く新しい生き方へ、主イエスの御後に従う道へとその歩みを進めることが出来るのである。

[説教要旨]2015/06/07「神の御心を行う人」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日 初めの日課 創世記 3:8-15 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 4:13-5:1 福音の日課 マルコによる福音書 3:20-35 本日の福音書の冒頭では「群衆がまた集まってきて、一同は食事をするヒマもないほどであった」とあり、主イエスの癒しを目の当たりにした人々が、主イエスの廻りに押し寄せる様子が描かれる。そこに主イエスの身内の者が、主イエスを取り押さえにやってくる。癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内のもの」は、この男は「気が変になっている」として、取り押さえるためにやってくる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「(自分の)外側に立つ」という意味である。つまり、この言葉の中には、社会の外側に追いやられた者へと向かわれた、主イエスの姿とも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都からやってきた宗教的権威を持つ指導者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と主イエスを非難する。たしかに権力者達にとって、主イエスが行っていることは、自分達の権威と権力の外側へと人々を連れ出し、それによって自分達が命じることの無意味さを明らかにし、自分達の権威と権力を否定するものであった。したがって、彼らにとってみれば、そのような主イエスの教えも行いも、「悪」でしかなかった。 しかし主イエスは、その非難が、実は、権力を持った者の欺瞞でしかないことを譬えを用いて指摘し、続いて誰が主本当の意味での「身内」であるかを語られる。主イエスが語られる、本当の身内とは、時代の空気や趨勢に敏感に飛び乗り、権力を守り、利益を得ようとする者達のことではなかった。むしろそれらに反することがあったとしても、神のみ心を行う者こそが、本当の身内であると語られる。それは、イエスに従う者たちが、社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。 そのように神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、十字架の死に至るまで、神のみ心に従って歩まれ、そしてその歩みはその死で終わることはなかった。それは、神のみ心を生きる者に「命の道」を備えるために他ならなかった。 日本カトリック司教協議会発行の戦後70年司教団メッセージ「平和を実現する人は幸いー今こそ武力によらない平和を」の結部には、1981年にヨハネ・パウロ2世が広島で行った平和アピールが引用されている。そこでは「目標は、つねに平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。」に続いて、次のように書かれている。「険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命をまっとうさせるものであります。平和の道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢では泣く、現実のものとする道なのです。」私たちは今、様々な不安と危機の中で、この地上での生を歩んでいる。しかし、その私たちの日々の中に、主イエスの十字架と復活によってもたらされた、神の御心に生きる道、命への道が備えられている。主イエスの後に従い、この命の道を歩んでゆきたい。

[説教要旨]2015/05/24「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21

「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21 聖霊降臨日 初めの日課 使徒言行録 2:1-21 第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:22-27 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:26−27、16:4b-15 イースター・主の復活の朝から50日目である本日、私たちは聖霊降臨日の礼拝に預かっている。使徒言行録では、過越際から50日目にあたる五旬祭の時、都エルサレムに残された弟子達が、とある家の階上の部屋で集まっていたところに、天から炎の舌のような聖霊が降り、弟子達があらゆる国の言葉で語り始めたとされている。それは教会の宣教が始まった時であるとも言われる。 順序としては逆だが、本日の福音書の日課は、ヨハネ福音書における十字架の直前に、主イエスが弟子達に向かって語る告別説教の一部が取り上げられている。この告別説教の中で、主イエスは、残される弟子達には彼らを助ける力として「真理の霊」が与えられることを約束された。霊=プネウマという語は、風、息、命、魂などなど非常に広い意味を持つ言葉であるが、その共通する要素を取り出すならば、目には見えないが、何かを動かす力であるといえるだろう。そしてここでそれは特に、神の見えない、しかし命を与える力を指し、しかもそれは「真理」の霊である、と語られている。聖書の語る真理、それは、主イエスの十字架によって救いがこの世界において明らかになること、主イエスの命が私たち達とともにあることに他ならない。主イエスの十字架の元から逃げ出してしまった弟子達は、主イエスの新しい復活の命に出会い、彼ら自身が新しい命に生かされる。それはまさに救いの真理を、彼らが体験する出来事であった。 使徒言行録は、その出来事を別の物語として描き出す。聖霊を受けた弟子達は、様々な言語で語り始めたとある。これは、ただ突然に外国語で話し始めたということがというだけではなく、大変奇妙なことであった。使徒言行録の1章では、復活された主イエスに弟子達は、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と問いかける。つまり彼らの関心は、いわばイスラエル民族の内側にもっぱら向いていたことが記されている。辺境の地であるガリラヤ出身者が多かったからこそ、この都において、異国人を放逐し民族的な純粋性を実現し、強い国を打ち立て、人々から賞賛を得たい、という思いが彼らのうちに強く働いたのかもしれない。しかし、真理の霊が降った時、彼らはエルサレムから見るならばいわば「辺境の言語」である「外国語」を話し始める。それはまさに大きな大きな転換点であった。都という中心に向かって内へ内へと閉塞していた弟子達は、真理の霊を受けた時、辺境を自らの中に取り入れることとなった。そしてそのことによって、彼らは外なる世界へと開かれたのだった。辺境出身の鬱屈を解消するべく、異国人を放逐し、民族的な純粋性を実現しようとする、その凝り固まった妄執から、彼らは解放される。そしてむしろ、弱い者、貧しい者へと向かい、分かち合うことに喜びを見出すこと、救いの出来事をまだ見ぬ人々と分かち合うこと、和解の福音を伝えることへと、彼らは押し出されてゆく。真理の霊を受けた弟子達は、隠れていた部屋から踏み出してゆくのだった。 かつて弟子達を解放した命与える真理の霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たす力である。それは、空しい過去への妄執から解き放ち、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。

[説教要旨]2015/05/17「よろこびでみちあふれるように」ヨハネ17:20−26

復活節第7主日 福音の日課 ヨハネによる福音書 17:6−19 本日の日課である17章の祈りでは、1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」とあるように、父なる神に向き直り、地上に生きる人間の立場から、わたしたち人間を背負って、執り成しの祈りを神に向かって祈られている。主イエスはその祈りの中で「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)と祈られる。この17章では繰り返し「一つになる」ことが祈られていることに気づく。そして「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と語る。 ヨハネ福音書の告別説教の全体では「一つになること」が繰り返し語られる。しかし全ての人の顔も色も有無を言わさず同じ色で塗りつぶし、一人一人の区別がなくしてしまう時、個々の人格はもはや尊重されず、交換可能な部品となってしまう。聖書が語る、「一つであること」の本来の意味とは何なのか。 ここでいう一つになるということは、力による抑圧的な同化を意味してはいない。わたしたち人間を背負って主なる神へと向かう祈られる、主イエスのその祈りの中では、「わたし」「あなた」「彼ら」という立場の違いは残されているからである。主イエスが語られる「一つになること」とは、暴力的な同質化ではない。確かに、ある集団が皆同じように考え、同じことを語り、同じように行動することが強制される時、一時的には力を増し、豊かになるかもしれない。その理想型とはまさにかつてのローマ帝国の軍隊であり、近代の戦争をの背景となった軍産構造そのものでもある。しかしその行き着く先は荒廃でしか無いことを、わたしたちは人類の歴史の中で見い出すことが出来る。主イエスが祈られたのは、そのような「一つになること」ではなかった。それぞれに異なる有り様を残しつつも、互いに愛し合い、互いに認め合うことを通じて、一つの命へと結ばれる、そのようなあり方に他ならなかった。それこそがわたしたちが喜びに満ちあふれるためのあり方であった。 しかしながら、わたしたちの現実に目を向けるならば、地上に生きるわたしたちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争い合うことを避けることが出来ないでいる。わたしたちの生のあり方はあまりにも喜びからかけ離れている。けれども、わたしたちはそのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ないのである。むしろ、そのような分裂と対立の現実の中で生きるしか無いわたしたちのために,主イエスはこの世のただ中にやって来られたからなのである。わたしたちがこの地上で互いに愛し合い、認め合う、一つの命へと結ばれて生きることを実現することを、あきらめることなく求め続けることが出来るために、主イエスは、この地上に生きる弟子達に、そしてその後に続く者達を背に負って、神に祈られるのである。たとえわたしたちの目の前にある現実が、どれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、そしてわたしたちを背負って、神に祈り求めて下さるのです。そしてこの主イエスの祈りは、今を生きるわたしたちのために続く祈りなのである。

[説教要旨]2015/05/10「キリストの愛に留まる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日 初めの日課  使徒言行録 10:44-48 第二の日課  ヨハネの手紙一 5:1-6 福音の日課  ヨハネによる福音書 15:9-17 本日の日課9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」つまり、父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、この二つの事柄は決して等価値を持つということに私たちは違和感を持つ。父なる神が御子イエス・キリストを愛するとうことと、その主イエスが私たちを愛されるということは、同じ次元の事柄ではない。実に、私たちがそのような主イエスの愛の中にいるということは、決してあたりまえのことでも当然のことでもない。そうであるからこそ、それは恵みに満ちた言葉なのである。そして、それに続いて「わたしの愛にとどまりなさい」というキリストの掟を聞く。ここで「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とあるからと言って、キリストの掟を守ることが、決して主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら主イエスの愛は条件付などではなく、無条件の、無制限の愛だからである。したがって、むしろここで「わたしの掟を守るなら、」とあることは、わたしたちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。 ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエスが、弟子達に向かって、長い別れの言葉を述べる。その中で主イエスが「互いに愛し合いなさい」と語り、そして「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」語られる。その愛とはまさに主イエスがその十字架において示された愛、無条件で無制限の愛に他ならない。しかし私たちは自己中心的な愛から離れることの出来ない存在でしかない。けれども、同時に、私たちはそのような私たちのためにすら、主イエスはその命を献げて下さった。そのような愛が私たちに注がれていることを、この箇所は語る。 主イエスは弟子達に対して、ひいては私たちに対して、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と語られる。主イエスの友となるということは私たちがなにか人間以上の存在になるということではない。それは、わたしたちが喜びに満たされて日々を歩むことができるということに他なりません。それは、たとえどんなに小さく弱い者であったとしても、私たちが愛されるに値するかどうか、そのように強く大きい者であるかどうかに関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛を、私たちが受け入れることなのである。 キリストの言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の力とは、ヨハネが闇と呼んだ、奪い取り、支配することを望む、欲望の誘惑である。この闇の力に抗い、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし主イエスが歩まれたその道は今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

[説教要旨]2015/05/03「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8 復活節第5主日 初めの日課 使徒言行録 8:26-40 第二の日課 ヨハネの手紙一 4:7-21 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:1-8 本日から復活節の終わりまでは、復活節に新入信者を迎えた信仰者の群れがあらためてイエスの教えを受けとめるため、ヨハネ福音書のいわゆる「告別説教」が福音書の日課として続く。それはまた、神の霊が与えられ、教会が生み出されることとなる、聖霊降臨の出来事へと思いを向けることを私たちに呼び掛けている。 ヨハネ福音書全体のおよそ1/4にあたる分量が、最後の晩餐に関しての報告となっており、その大部分は主イエスのいわゆる告別説教が占めている。この告別説教では、まず前半で、主イエスがまもなく弟子達の前を去り、「父」のもとへと向かうこと、しかしそこで弟子達のための場所を備えられること、弟子達が主イエスの「いましめ」を守ること、主イエスが去った後、真理の霊・弁護者が使わされること、主イエスが残される平和は「世」が与えることのない平安であることが繰り返し語られる。それらは、弟子達を襲うこの世での苦難を予告しつつ、また一方では、その弟子達に与えられる、「この世ならぬ」喜びの約束となっている。そして本日の日課を含む、後半では、同じ主題が繰り返されながら、とりわけ、弟子達が主イエスにつながること、そして互いに愛し合うこと、これが主イエスのいましめであることが、特に印象的に語られることとなる。 本日の箇所では、信じる者一人一人が枝であり、それがすべて幹である主イエスにつながっている(共にいる)、ということが語られている。そしてまた、「(3)わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」これは、聖霊が与えられることを通して、信仰の共同体の中に主イエスは共におられる、ということと深く結びついている。その意味で本日の箇所は、主イエスと共に同じ時、同じ空間を生きた弟子達に対してのみ意味があるのではなく、時と場所を隔ててなお、主イエスの語られた言葉によって、私たちは主イエスと結びつけられて、今生かされているということを伝えている。ヨハネ福音書では、主イエスは「わたしは〜である」という仕方で、繰り返しご自身について語られる。それは、今を生きる私たちが聖書を通して救い主である主イエスを知るということでもある。だから今聖書を通して、この「わたし」は、「わたしはまことのぶどうの木である」と語られる主イエスに出会う。そして、その主イエスは「わたしにつながっていなさい」と呼び掛けられる。この「わたし」は今や、主イエスにつながり、の命を生きるものとなる。それは「わたしただ一人」ではなく、共に主イエスにつらなる「わたしたち」へと変えられてゆく。まさにその意味で、主イエスの命を生きる私は、今や孤独な存在では無く、主イエスと共に新しい命を生きるわたしたちなのである。主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会うのである。 自分が何のために生きているのか、何をしたいのかわからない。この世に生きる私たちは皆、そのような出口の見えない苦悩にぶつかることがある。しかし、キリストの言葉をわたしへと呼び掛けられたものとして、キリストにつながって生きる時、このわたしは、孤独のまま立ち枯れてゆくだけの存在なのではないこと、わたしはわたしたちとなり、そのわたしたちには主イエスの古びることの無い命が与えられていることに気付くのである。

2015年8月1日土曜日

週日の集会は8/5-9/24までお休みいたします[08/05-09/24]

週日の集会(聖書の学び 水曜11-12時、キリスト教入門・小教理問答の学び 木曜11-12時)は、8/5(水)-9/24(木)はお休みいたします。
9/30(水)より再開いたします。

2015年7月14日火曜日

2015年ルーテル三鷹教会平和の主日[08/02]

ルーテル三鷹教会では8月には平和を主題とした礼拝を行います。
日本福音ルーテル教会平和の主日である8/2には関田寛雄先生を説教者にお迎えして共に礼拝に与ります。関田先生ご自身の戦争体験を踏まえつつ、聖書から平和への希望を聴いてゆきたいと思います。ご関心のある方は、教会員以外の方、クリスチャンではない方でも、どなたでもご参加頂けます。皆様のお越しをお待ちしております。

2015年8月2日(日)10時半より
ルーテル平和の主日
説教「平和を創る人の幸い」
説教者 関田寛雄牧師(日本基督教団牧師・青山学院大学名誉教授)


ルター小教理問答による講解説教と学び第2回「使徒信条」[07/26]

ルター「小教理問答」による講解説教

2015年7月26日(日)
「使徒信条」江藤直純先生(ルーテル学院大学学長)
[テキスト]
マルティン・ルター著「エンキリディオン小教理問答」
(ルター研究所訳、リトン2014)

 2017年はルターの始めた宗教改革から500年、そしてルーテル三鷹教会創立30周年となる節目の年です。この機会に向けて、3回にわたって小教理問答による「講解説教」を行います(通常の礼拝よりも式文を簡素化して、説教を中心とした礼拝とします)。また午後は軽食をとりつつ、質問やディスカッションの時間を1時間ほど予定しています。

 第2回は「使徒信条」が主題となります。ルターと宗教改革について学びたい方であれば、教会員以外の方、クリスチャンではない方、どなたでもご参加頂けます。皆様お気軽にご参加ください

2015年6月18日木曜日

ルター「小教理問答」による 講解説教シリーズ[06/28, 07/26, 09/27]

2017年宗教改革500年・ルーテル三鷹教会創立30周年に向けて

ルター「小教理問答」による講解説教

2015年
6月28日(日)

「十戒」石居基夫先生(日本ルーテル神学校校長)

7月26日(日)
「使徒信条」江藤直純先生(ルーテル学院大学学長)

9月27日(日)

「主の祈り」李明生先生(日本福音ルーテル三鷹教会牧師)


[テキスト]
マルティン・ルター著「エンキリディオン小教理問答」
(ルター研究所訳、リトン2014)

 2017年はルターの始めた宗教改革から500年、そしてルーテル三鷹教会創立30周年となる節目の年です。この機会に、ルターの信仰に学び、これからのわたしたちのキリスト者としての使命について思いを向けて行きたいと思います。
 今回は、3回にわたって小教理問答による「講解説教」を行います(通常の礼拝よりも式文を簡素化して、説教を中心とした礼拝とします)。また午後は軽食をとりつつ、質問やディスカッションの時間を1時間ほど予定しています。
 皆様是非ご予定ください!

<予告>
10月11日(日)  宗教改革500年を憶えての特別礼拝・講演

 講師:鈴木浩先生(ルター研究所所長)

2015年4月28日火曜日

4/29,5/6は聖書の学びはお休みいたします[04/29-05/06]

2015/4/29(水)および5/6(水)は、「聖書の学び」(ローマ書の学び)はお休みとなります。
次回は5/13(水)となります。

2015年4月22日水曜日

2015年ルーテル三鷹教会バザーのご案内[05/17]

今年もルーテル三鷹教会では教会バザーを開催いたします。

2015年5月17日(日)12:00~14:00
ルーテル学院大学 学生食堂にて

収益の一部は、福祉関連団体等に寄付させていただきます。
日本福音ルーテル三鷹教会 牧師 李明生(り あきお)・バザー委員会一同

[説教要旨]2015/04/12「信じない者ではなく」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日

初めの日課    使徒言行録 4:32-35
第二の日課    ヨハネの手紙一 1:1-2:2
福音の日課    ヨハネによる福音書 20:19-31

先週、私達は主の復活を祝った。そして本日の福音書では、いわばヨハネ福音書における聖霊降臨の出来事が、家の中に集まっていた弟子たちの復活の主イエスと出会いの中で語られている。主イエスの十字架での死によって、弟子達は失意と恐れの中に突き落とされていた。彼らは自分達もまた主イエスと同様に逮捕されることを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。ヨハネ福音書の物語の筋に従えば、彼らは既に、墓は空であった知らせを聞いていた。しかし、どこまでも従うという約束を裏切ってしまった彼らは、主イエスと再び出会うことをむしろ恐れていたのかもしれない。さらに彼らは、仲間と共に部屋の中で隠れている時も、裏切りと密告を疑い、互いを信頼出来なくなっていたのではないか。彼らの心の扉は固く閉ざされ、共に歩んできた仲間からの「主イエスの墓は空であった」という知らせを喜びの報告として受け入れるなど出来なかった。
その彼らの真ん中に主イエスは突然立ち現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは、恐れと不安との中で心を閉ざす弟子達に対する赦しと和解の言葉であった。そしてその手と脇腹の傷は、まさしく十字架に架けられた方がここにおられるということを示すものであった。十字架の主が共におられるということは、変わるはずのない彼らの閉塞した現実を変える、新しい命が造り出され、与えられることを示す出来事であった。主イエスは、弟子達に息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られる。創世記で神は土に息を吹き込み、命ある生きる者とされた。弟子達もまた、復活の主イエスに出会い、息を吹きかけられる。それは、彼らが新たに創造された命を与えられたことを意味していた。人々を恐れ、部屋に、また自分の心に閉じこもっていた弟子達は、「聖霊」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活を宣べ伝えるものへと変えられたのだった。
最初の出来事の際に居合わせなかったトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と主張する。その言葉は、今の自分の状況が変わることなどありえないのだと訴えているようにも響く。ところが8日目の日、そのトマスの前に主が現れ、語りかけられる。主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。「見た」かどうかよりもむしろ、主の言葉を「聞く」ことが、私たちのうちに「信仰」と「信頼」を生み出すものであることを、私たちは知る。
復活の主イエスが弟子たちと共におられたのは、いずれもが週の初めの日、つまり日曜日であった。この週の初めの日が、教会において「主の日」としての礼拝の日となってゆく。その意味で本日の日課は、私たちが礼拝のために集められる時、その真中には主イエスが立ち、「平和」を与えられ、神の息をもって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけられていることを伝えている。
主の復活を祝うこの季節がめぐってくる時、私たちは、復活の命は十字架の死を乗り越える力であることに、常に立ち返ります。そしてこの復活祭に続く季節、主イエスの十字架と復活の命を受け取った私たちは、自分たちもまた新しい命を与えられていることに、今一度立ち返るのである。

2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/04/05「あの方はここにはおられない」マルコ16:1-8

主の復活

初めの日課 イザヤ書 25:6-9
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 15:1-11
福音の日課 マルコによる福音書 16:1―8

主イエスの復活の喜びを分かち合うために今日ここに集っている。本日の福音書であるマルコ福音書では、他の福音書に比して極めて短い、やや乱暴とも言えるような復活の出来事が報告されている。そこではただ、「墓は空であった」ということが告げられる。単純でありながら、この物語は非常に重大な矛盾を含んでいる。なぜならば、空の墓を発見した女性たちは「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という報告をもって、福音書は結ばれているからである。もし彼女達が本当に誰にも何も言わなかったのだとすれば、この福音書は書かれるはずがないことになる。したがって、結果としては、この出来事は彼女たちだけの秘密には留まらず、多くの者によって共有されたことが、大前提となっているのである。そのことはつまり、「キリストは共におられる」という体験をした者達がいたことを意味している。自分達に先立ち、導き、自分達を閉じられた部屋から押しだしてゆかれるキリストが自分達と共におられる、という経験があったがゆえに、女性たちが恐ろしさゆえに黙っていたとしても、それを彼女達は自分達の秘密に止めておくことはできなかったのである。
女性たちは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていた通り、そこでお目にかかれる。」という言葉を聞く。「先にガリラヤへ行かれる。」というのは、時間的に早くという意味で訳されているが、実際には、「先だち導いて」という空間的な意味でも解釈できる。そう受け取るならば、「かねて言われていた通り、あの方は、あなたがたを先立ち導いてガリラヤへ行かれる。」という意味に受け取ることも出来る。
最初の教会は都エルサレムで始まったとされているが、マルコ福音書は、敢えてガリラヤへ向かうことを伝えている。ガリラヤとは、都によって収奪される土地、貧しく弱い者達が、あえぎながら生きなければならない地であった。そしてそここそが主イエスの地上において神の国の到来を宣べ伝え、癒し、与え、祈った地であった。その意味でガリラヤへ向かうということは、神の国の福音の宣教へと向かうことそのものに他ならなかった。そして弟子達は、かつて主イエスがなされたと同じように、自分達が神の国の福音を伝え、苦しむものと共に苦しみ、喜ぶものと共に喜び、分かち合い、支え合う時、そこに主イエス・キリストが共におられる、という決定的な体験をすることとなったのであった。墓は空であり、「あの方はここにはおられない」という喪失の体験を超えて、あの方は「わたしたちを先立ち導いてガラヤへ行かれる」という体験が自分のうちに起こった時、その二つの体験を結びつけるものが「復活」という出来事であることを、彼らは見出したのだった。
主の復活の出来事はこの後、教会を形作る。その教会は、この地上のさまざまな帝国が栄え滅び去る間も姿を変えつつ今、私たちのもとへと続いている。それはまさに、ここにはおられないはずの主が、私たちと共におられ、私たちを先立ち導き、ガリラヤへと押し出して続けているからなのである。
何も無いところから出発する時に、私たちは、十字架の死から甦られたキリストが、私たちと共にいつもおられることを知る。イースターの喜びとは、私たちを先立ち導かれるキリストが、何もないところか出発する私たちと共におられるという喜びに他ならない。

[説教要旨]2015/03/29「本当に、この人は」マルコ15:1-47

四旬節第6主日

初めの日課 イザヤ 50:4-9a
第二の日課 フィリピ 2:5-11
福音の日課 マルコ 15:1―47

今週私たちは受難週を迎える。本日は礼拝の始めに枝の典礼として11章のエルサレム入城の箇所を読んだ。主イエスのエルサレム入城は歓呼をもって迎えられるが、それは人々が待ち望んでいた新しい王メシヤの姿を指し示している。しかしその真の姿は、人々の目にはまだ隠されている。主イエスが真の救い主であることが明らかになるのは、エルサレムでの十字架の出来事を通してであった。
本日の礼拝では枝の典礼に引き続いて、15章全体を読み、主イエスの受難と死の出来事を憶える。この物語では主イエスの称号が様々に言い表されている。判決を下す権威を持つローマ総督ピラトが尋問する時、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれる。ピラトが群衆に対して、主イエスの釈放について問いかける際も、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれているが、問いかけられた人々は、その「王」を拒否し続ける。その後、兵士達に引き渡され、暴力に蹂躙される間も主イエスは「王」と呼ばれ続ける。そして何よりも、十字架につけられるその罪状書きはまさに「ユダヤ人の王」というものであった。ピラトやローマ兵から見るならば、ユダヤはローマ帝国の属州に過ぎず、自分達こそが支配者であり、したがって自分達以外には真の意味での支配者=王など存在しない。ましてや、本来であれば「王」は政治権力を持つ存在であるはずなのに、彼らの前に立たされた男は、弟子達にすら見捨てられた哀れな力無き存在でしかない。受難物語の中で、「王」という称号と、主イエスのその外見は益々乖離していくばかりである。政治的・軍事的な力を持つ者達に加えて、さらにユダヤの宗教的権威者達もまた十字架につけられた主イエスを「メシア、イスラエルの王」と言ってあざ笑う。権威を持つ者達にとって、十字架の上から降りることの出来ない無力な存在など、神の遣わされたメシアとして認めることことは出来なかった。
一方の主イエスは、ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問に、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた後は、十字架の上で叫ばれるまで沈黙を通され、その苦しみに身を晒し続けられる。それこそ、主イエスが著そうとされる王・メシヤの姿であった。主イエスが王であるのは、人々が期待し思い描いたような姿で力を発揮するからなのではなかった。むしろそれは、イザヤ書が描く「苦難の僕」の姿に他ならなかった。
15章の終わりで主イエスが大声をあげて息を引き取られると、神殿の最も聖なる場所を人の目から覆っていた垂れ幕が引き裂かれる。それは隠されていた最も聖なるものがその姿を人々の目に現したことを意味した。その出来事と共に、十字架の傍らに立っていた百人隊長はは、「本当に、この人は神の子だった」と語る。それがはたして、信仰告白だったのか、それとも嘲笑の言葉だったのか、それはこの言葉を受け取る人によって変わるであろう。それはピラトの言葉に「それはあなたが言っていることです」と主イエスが応えられたのと同じである。しかし、私たちは今や、最も聖なるものが、私たちの目に明らかとなったことを知っている。私たちにとって、十字架から降りることなく、死の苦しみを受けた方こそが、真の救い主メシヤ、真の平和の王キリストであることを知っているからである。本日から始まる聖週間を、主の受難を、そしてまたやがて来る復活の時を憶えて歩みたい。

[説教要旨]2015/03/22「一粒の麦が地に落ちて」ヨハネ12:20-33

四旬節第5主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34
第二の日課 ヘブライ人への手紙 5:5-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 12:20-33

本日の物語は、過ぎ越の祭りの時に合わせて主イエスが都エルサレムに上り、都に迎え入れられた直後の出来事として語られている。さまざまな奇跡をなしたこのイエスという男を、ギリシア人達もが関心を持ち「イエスを見たい」と思う。その期待に対して主イエスが語ったのは「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉であった。しかし「栄光を受ける時が来た」という言葉に続いて主イエスが語るのは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」であった。「栄光の時」というならば、人々の期待通りの道筋を通り、その期待を着実に実現し、強く大きくなっていく、そのような「時」を思い描いていたことだろう。しかし、主イエスが語られる「時」は、人々が期待する「栄光の時」とはおよそかけ離れた「地に落ちて死ぬ」ということであった。
続いて主イエスは語られる。「だが死ねば多くの実を結ぶ」。失うことによってこそ、多くの実が結ばれる。その様な時がまさに今やってくる、そのように主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということ。それは、農村文化の中では、一粒の麦がそのもともとの形を失ってしまうということを意味していた。たしかに、麦は土に落ちて、もとの形を失うこととなる。しかし、季節が巡ると形を失った麦は成長し、実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば、損失であり、価値無きことである。しかしそうであるからこそ、豊かな実りをもたらす時が来るということを、主イエスは語られる。
そしてまさにその「時」が、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやってくることとなる。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが、十字架へとかかるその時が来たことを主イエスは語る。それは、私たち人間が期待し、考えるような「栄光の時」ではなく、むしろ失うことを受け入れる時であった。失われることが、多くの実を結ぶこととなる。それは、私たち人間が思い描くような、過ぎゆく時の内には起こりえないことである。しかし、主イエスの出来事は、私たちの思いを超えたところで、新しい命を創り出す時となった。そして、新しい命出来事は、決して過ぎゆくことのない時として、今も、私たちのところにおいて起こる、そのような時なのである。たしかに、主イエスの十字架とは、人の目から見るならば、期待外れでありお粗末な結果でしかない。それはやがて、人々の記憶の彼方へと追いやられ、忘れ去られてしまうような出来事であるようにしか見えないであろう。けれども、その十字架の出来事は、まさに、私たちの思いを遥かに超え、時代をこえ、場所をこえ、全ての人の一人一人のその人生へと働きかけることの出来るような、そのような時となったのである。
私たちも今、主イエスの十字架を憶えて、復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの思いを遥かに超えて、希望の光に満ちた「時」が私たちのもとにやってくる。その光は、私たちを取り囲む闇を打ち負かされ、私たちに真の命の実りをもたらされる。

[説教要旨]2015/03/15「神は世を愛された」ヨハネ3:14-21

四旬節第4主日

初めの日課 民数記 21:4-9
第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:1-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 3:14-21

人間の欲望の根本にあるもの、それは「死を遠ざける欲求」である。私たちは自分たちの領域から死を締め出そうと努力する。ところが、少しでも死から遠ざかろうとすることは、他人を利用し、また蹴落としていかなければならない。その結果、人間同士の間に避けることのできない争いを生み、やがて私たちは神さえも、他者の命を支配するための手段・道具としてしまうことになる。自分だけの命が豊かになろうとする時、自分だけが正しくあろうとする時、私たちの間には、争いと神への裏切りが生まれる。そうした意味では、人間が自分自身の力で自分自身を正しいものにしようとすること、命を強めようとすることの中に、人間の深い罪が潜んでいると言える。ですから、より豊かに、より正しく生きようと求める神に対する重大な背信となり、自分自身を滅びと死に至る道へと追いやってしまうのである。
本日の福音書では、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」とある。「信じない者」にとって、終わりと限界のある人間の生は、呪われたものでしかない。それゆえに「信じない者」は、他者の命と、さらには神までも利用しようとしてしまう。しかし他者の命の否定の行き着く先は自らの命の否定でしかない。一方、「信じる者は裁かれない」と聖書が語る時、「信じる者」にとっては、他人を死に追いやってまで自分自身を生かすことはもはや無意味なものである。なぜならば、私たちがキリスト・イエスと共に生きるということは、命とは捨ててこそ与えられるものであるということを確信して生きるということに他ならないからである。それゆえに「信じる者」にとっては、限界のある自分の生はもはや、忌まわしい、呪われたものではなく、感謝と喜びに溢れたものなのである。
3:17には「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とある。永遠・全能の神は、命の限界のある一人の人、主イエス・キリストとなった。主イエスは、人としての生の限界に向かってひたすら生き、そして死を超えて再び新しく生きた。主イエスは、徹底して弱さの中に生き、その結果、十字架につけられたが、その十字架は決して全ての終わりではなく、新しい命の始まりであった。神は、世を愛されたがゆえに、一人子主イエスの死と復活を通じて、新しい命の約束を私たちに与えられたのである。
私たちは、自らの限界、不完全さ、弱さといったものを、恥ずべきもの、忌まわしいものとして、捉える。しかし主イエスによって示された、新しい命の約束は、私たちの弱さを通してこそ、より強く示される、と聖書は語る。なぜならば、この世を愛された主なる神は、私たちの弱さを愛されているからである。この私たちの弱さのために、神はそのひとり子を、私たちのために与えられたのだった。主イエスが、この地上における命の限界、弱さの極みである、十字架へと向かうのは、ご自身の十字架の出来事を通して、私たちの弱さを担うためであった。そして、その弱さこそが、主なる神から新しいの命約束に他ならない。まさにその意味で、私たちは自らの弱さ、苦しみ、哀しみに近づくとき、最も主イエスに近づいているのあり、同時に希望と喜びにも最も近づいているのである。

[説教要旨]2015/03/01「十字架の主イエスに従って」マルコ8:31-38

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 17:1-7、15-16
第二の日課 ローマの信徒への手紙 4:13-25
福音の日課 マルコによる福音書 8:31-38

本日の日課は、マルコによる福音書において、最初の、主イエスが、ご自身の受難について弟子達に語られた箇所となっている。そしてその直前には、弟子の筆頭であったペトロが、主イエスを「メシア」と言い表す場面が描かれている。主イエスは弟子達に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、すなわち、イエスに従う者としてあなたはどうこたえるのかが問われている。これに対してペトロは、「あなたはメシアです」と答える。メシアとは「油注がれた者」という意味で、神から特別な任務を与えられた者のことである。「油を注がれた者」すなわち「メシア」は、この世に神の国をうち立て、イスラエルの民を異邦人の支配から解放する「解放者」・「救い主」という意味で用いられることが、主イエスの時代には多くなっていた。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていたその人物であることを、言い表すものであり、それは、地上での新しい支配者として君臨する存在、かつて王国を繁栄させたダビデ王の再来のような存在としてのメシヤが前提としていた。しかしこのペトロの答えに対して主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。神の愛する子である「人の子」、すなわちわたしは、待ち望まれた「メシア」である。しかし、それは権力の中枢へと向かい、暴力や武力、金の力や権力によって、この地上の世界を支配する存在ではないことを、主イエスは語る。この世の王の支配とは、この世のあらゆる力を駆使して、他者から奪い取り、外の世界の荒廃と困窮と引き替えに、自分達の内側を満たし、安定と充足を確保することであった。それに対して、主イエスの福音、すなわち十字架と復活の出来事は、力の高みへと向かうのではなく、低さの極みへと向かい、奪うのではなく、与えることを通して、滅びから命へと向かう道筋を私たちに示されたのだった。
暴力・武力・金の力・権力によって、押さえつけ、奪い取り、栄華を思うがままにする。けれども、聖書が描き出すイスラエルの歴史は、そうした様々な力を手にした者は、やがて必ず全てを失うことを、そしてそれは人の力によってはどうすることもできない真理であることを物語る。それに対して主イエスは、力によって欲望を満足させ、滅びへとかならず突き進むしか無い道ではなく、与え、失うことによって初めて得ることの出来る命の道、救いと和解と解放への道筋を示される。それは十字架の受難へと向かう主イエスの歩まれた道に他ならない。
主イエスはご自身の命を、十字架の死によって、この世の苦難と痛みの中で生きる私たちの新しい命として与えられた。十字架によって私たちに与えられた新しい命とは、奪い合い憎しみ合うことから私たちを解き放つ命なのである。抑圧し、奪う者の後には、傷つけ合い、憎み合う命しか残されていない。しかし十字架に向かう主イエスの後には、救いと和解と解放へと向かう命の道が備えられている。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主イエスの言葉は、救いと和解と解放へ向かう命の道を歩むことを私たちに呼び掛けている。

[説教要旨]2015/02/22「荒れ野の時を超えて」マルコ1:9-15

四旬節第1主日

初めの日課 創世記 9:8-17
第二の日課 ペトロの手紙一 3:18-22
福音の日課 マルコによる福音書 1:9-15

教会は「灰の水曜日」を迎え、四旬節に入った。私達は復活祭までの日曜を除いた40日間を、主イエスの受難を憶える時として過ごす。この四旬節を過ごす私たちは、自らの信仰の中心、すなわち主イエスの十字架の死と、その死からの復活ににあるものへと思いを向ける。そのことを通して、この地上に生きる私たち自身に与えられた、新しい復活の命を思い起こす時を過ごして行くこととなる。
本日の福音書では、主イエスの洗礼の出来事が再び取り上げられる。そして、この主イエスの洗礼の出来事に続いて、直ちに主イエスは霊によって荒れ野へと導かれ、そこで40日間を過ごされることとなる。そして荒れ野で野獣と過ごし、悪魔の誘惑を斥けられた主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、神の国の福音の宣教を始められる。これらは、十字架へと向かう主イエスのその歩みの始まりにおいて、いずれもが欠けても成り立たないものとして描き出される。したがって、荒れ野での40日間もまた、決してただ不毛な時を過ごしたということではなく、神の国の到来が宣べ伝えられ、その言葉が実現するためには、荒れ野での時が無ければならなかったと言える。
そのような視点でこのマルコ福音書の1章を最初から振り返るならば、荒れ野というものが二つの視点で取り上げられていること気付かされる。3-4節では、荒れ野という場所は、洗礼者ヨハネの働きと関係づけられ、いわばそこは神へと立ち帰り、新しい命の始まりを告げる場所、つまり希望の始まる場所として描かれている。荒れ野が希望の始まる場所となるために、主イエスの荒野での試練は、神の救いの業において不可欠なものであった。「神の愛する子」である主イエスが、地上での救いの宣教を始めるにあたって、この40日間の荒れ野を超えてゆかなければならなかったのだということを、聖書は私たちに告げているのです。
現代を生きる私たちもまた、神無き不毛の地としての荒れ野の時を生きていると言える。しかし、その荒野は、主イエスが既に、野獣と共に過ごし、サタンを斥けた場所でもある。そして、試練の時を終え、救いの宣教を開始された主イエスは、その救いの業の完成として十字架へと向かわれた。救い主イエスは、ご自身の十字架へ向かう中で、私達の荒て野を共に歩んで下さっている。そして、その復活によって、死の恐怖と孤独に怯える私たちに、消えること無い希望の光を与えられた。共におられる主イエスによって、私たちの荒れ野もまた、復活の命へと続く時となったのである。
現代の荒れ野で彷徨う私達の叫びと祈りを、神は必ず聞き届けられる。なぜならば、そのためにこそ、荒れ野において既に主イエスは闇の力に打ち勝たれ、その十字架の死と復活によって、私達に救いを与えられたからである。実に、神の国を宣教する働きの全ては、荒れ野において備えられる。荒れ野での孤独と欠乏とを通して、人ははじめて真実の命を見出すことが出来るのである。
この四旬節の間、私達もまた、私達自身への荒れ野へと向かい、主イエスの十字架と復活への道を思いながら、死から命の希望への道を歩んでゆきたい。

2015年3月3日火曜日

イースターヴィジルのご案内[04/04]

日本ルーテル神学校とルーテル三鷹教会・保谷教会の共催により、イースターヴィジルを下記の要領で行います。
皆様のご参加をお待ちしております。
日時   2015年4月4日(土)18:00-20:00
会場   ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校 チャペル
イースターヴィジルは復活徹夜祭とも呼ばれ、古代の教会では元来の復活祭礼拝として年間を通して最も重要な礼拝でしたが、時代と共に限られた聖職者のみで執行されるようになってゆきました。しかし1950年代に入り、カトリック典礼改革運動の盛り上がりとともに見直され、1960年代にはルーテル教会の式文にも採用されることとなりました。いわば、現代の礼拝刷新運動の原点とも言える礼拝です。
現在、神学校・三鷹教会で行われているイースターヴィジルの内容は、1.光の祝祭 2.み言葉 3.洗礼を憶えて 4.聖餐 5.派遣から構成されており、暗闇から光へと復活する主の御業を追想しながら、洗礼の恵みに感謝し、共に聖餐に与ります。
主の復活を迎えるイースターヴィジルに是非お越しください。

2015年2月11日水曜日

四旬節〜イースター(復活祭)のご案内[02/18-04/05]

ルーテル三鷹教会では四旬節から復活祭までの期間に以下の礼拝・祈りの時を持ちます。

灰の水曜日の祈り
2月18日(水)19:00 チャペルにて
額に灰で十字をつけ、四旬節の始まりを憶えます。

受苦日礼拝
4月3日(金)19:00 チャペルにて
キリストの十字架を憶えて祈りの時を持ちます。

イースターエッグづくり
4月4日(土)14:00 集会所にて

イースターヴィジル~復活徹夜祭
4月4日(土)18:00 チャペルにて

イースター(主の復活)主日礼拝
4月5日(日)午前10時半からチャペルにて
礼拝後、持ち寄りによる昼食会が行われます。