2009年11月24日火曜日

[説教要旨]2009/11/22「滅びない言葉」

聖霊降臨後最終主日

初めの日課 ダニエル 7:9-10 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 ヘブライ 13:20-21 【新約・419頁】
福音の日課 マルコ 13:24-31 【新約・ 89頁】

 教会の暦の最後の主日として、世の終わりについて、聖書から聞くこととなる。しかし、それは同時に、終わることのない「永遠のことがら」についてもまた、私たちは目を向けることとなる。
 12章で、主イエスは神殿において敵対者たちとの論争をした後、貧しいやもめのわずかな捧げ物を称賛し、神殿を立ち去る。その時主イエスは壮麗な神殿に魅せられた弟子に対して、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られ、神殿の崩壊を予告される。主イエスのまなざしは、この地上において、大きいもの、力あるものとされるものに対して、厳しく向けられることとなる。
 さらに、本日の箇所の直前では、主イエスは、弟子たちと、そして国々を襲う様々な苦難について語られる。敵対と憎悪、混乱と破壊がこの地上を襲うという、その言葉を耳にする時、私たちは、なぜ聖書は、そして主イエスは、このような恐ろしい言葉を語るのか、という疑問を抱かずにはいられない。さらに本日の日課である24節からは、天変地異までが起こり、いわば、天地までが滅びるかの様相を呈し、混乱と破壊が最も激しくなり、苦難の闇が最も深くなることが語られる。
 しかし、その苦難の闇の最も深いところに、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る」と続く。それはダニエル7:13-14において語られているように、暗闇と混乱に光をもたらす出来事に他ならない。それは、マルコ福音書において「人の子」とは、主イエスがご自身を指して語る時の表現であった。つまり、私達人間の混乱と苦難の最も深まる時、主イエスは私達と共におられ、その苦しみと混乱から私たちを解放されるのである。まさにその意味で、「人の子の到来」はたしかに、「世の終わり」の出来事である。しかし同時に、それは私達の苦難と憎悪の終わりの出来事であることを聖書は語る。
 たくさんの捧げものや壮麗な神殿といった、人の目に映る大きな業が、滅びることなく残るということはありえない。つまりそれは、私達を苦難の最も深いところで救うことの出来る、決定的なものにはなりえない。しかし「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主イエスは語られる。「人の子」、主イエスの言葉、それは十字架の死と、その死からの復活を告げる言葉に他ならない。雲に乗って到来する栄光の人の子は、同時に、十字架において最も深い苦難をその身に受け、そしてその死から甦られた「人の子」なのである。人の目にはむなしいものや、挫折としか映らないようなことの中に、「人の子」主イエスは救いの光をもたらされる。それはただ未来のことではなく、私達が日々直面する苦難の中においても、主イエスの言葉は私達を支え、そして導くのである。


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