2010年7月5日月曜日

LAOS講座の学びのご案内(第3回) [7/25]

7/25(日)礼拝後、LAOS講座の学びの第3回を行います。
テキストは第7号「宣教と奉仕の理論の実際」を用います。
今回は、本テキストの著者である江藤先生にご担当いただきます。
テキストをお持ちでない方はこの機会に是非お求め下さい。(1冊200円、全9巻セット1500円)


ルーテル・キャンパス・ミニストリ月間のご案内 [7/4,11,18,25]

7月、ルーテル三鷹教会では「ルーテル・キャンパス・ミニストリ月間」として、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教員の先生方に、主日礼拝のメッセージをご担当いただきます。
各日曜の担当者とメッセージタイトルは下記の通りです。
礼拝は、毎週日曜午前10時半より、ルーテル学院大学チャペルにて行われています。

この機会に是非礼拝に足をお運び下さい。

7月4日(日)説教「いのちの歩みに」石居基夫師
7月11日(日)説教「キリスト者の自由」鈴木浩師
7月18日(日)説教「隣人として生きる」河田優師
7月25日(日)説教「もてなすことと聴き入ること」江藤直純師


ポスター(PDF)はこちらから 

[説教要旨]2010/6/20「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【旧約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町へと赴かれる。ナインは、主イエスの故郷ナザレから10km弱離れた、ガリラヤ地方の町の一つであった。主イエスは、「ナザレのイエス」という呼び方とともに、「ガリラヤのイエス」とも呼ばれた(マタイ26:69)。ガリラヤという名前は、ヘブライ語では「輪」「周辺」「地域」という意味をもつ言葉に由来している。この地域は、豊富な水を備えた肥沃な土地であり、古代から入植が進んでいた。このためにガリラヤ住民は外部世界との交流から刺激を受けていたため、南部の「厳格なユダヤ人」からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、あるいは「(ガリラヤの)ナザレから何か良いものが出るだろうか」また「ガリラヤからは預言者はでない」と言われていた。しかし、この周辺の地であるガリラヤ地方こそが、主イエスの地上での宣教の業の原点というべき場所であった。主イエスはこのガリラヤで様々な「壁」をその言葉を持って打ち破られたのである。
百人隊長の僕を癒しの出来事は、主イエスの言葉は、ユダヤ人以外にその救いの出来事をもたらした。そして、このナインにおいて、主イエスの言葉は、人の命を脅かす死の力をも打ち破られることになる。これらの壁を打ち破る働きこそが、「来るべき方はあなたでしょうか」と問う、洗礼者ヨハネの弟子達に対して、「言って、見聞きしたことをヨハネに告げなさい」と語られていたことの証しであった。
ナインの町で、主イエスは嘆きと悲しみの深淵にあるひとりの「やもめ」に出会う。古代社会において「やもめ」とは極めて虐げられやすい立場であった。当時の社会では、夫を失い、一人息子を失うということは社会的な死であり、一切の主体的な働きを奪われてしまった存在となっていた。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれている。「主」という言葉は、ギリシア語の第一の意味としては「雇用主」「主人」、もしくは一般的な敬語でもあった。しかし、このやもめに向かうイエスは、「憐れむ主」であり、「もう泣かなくともよい」という言葉を告げる「救い主」としての主である。そして、救い主の言葉は、棺に横たわる息子である若者へと向けられる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。この主イエスの言葉を中心にして、死の運命が逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗う力なのである。
この出来事は、ガリラヤだけでなくユダヤの全土に広まることとなる。しかし、それはただユダヤの地だけではない。民族を超え、時代を超え、今私たち自身に対しても、聖書を通して、主イエスを証する出来事となっているのである。その出来事の発端は、一人のやもめという「弱い存在」が救い主としてのイエスの業、すなわち十字架の出来事の先取りを導き出す。それはまさに「神はその民を心にかけてくださった」(16節)瞬間であった。主イエスを証しするということは、その人の強さや能力の高さを示すものではない。むしろその人の弱さを通して、主イエスを指し示すことなのである。

[説教要旨]2010/6/13「ことばのちから」ルカ7:1-10

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 列王記上 8:41-43 【旧約・ 543頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:1-10 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:1-10 【新約・ 114頁】

イエスさまは、神さまに祈りをささげるために山へと向かわれた、そこで弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名づけられた(6:12-16)。後に十二使徒と呼ばれる弟子たちである。弟子たちと共に山から下りられたイエスさまは、平らな所に立たれて話しをする(平地での説教、マタイでは山上の説教と呼ばれる場面)(6:20-49)。そこでイエスさまは人々の耳を、語られた説教すべて(イエスさまのことば)で満たし後、カファルナウムに入っていかれた。カファルナウムは福音書に度々登場し、イエスさまが宣教の拠点とされた場所である。ここで、ある百人隊長の部下が病気で死にかかっていた。同じ記事が書かれているマタイによる福音書で百人隊長は、イエスさまの前に進み出て直接、部下である僕を癒してくださるように懇願している。それに対して、ルカによる福音書では第三者を通してその癒しを願っている。最初は「ユダヤ人の長老たち」にその役目を託し、役目を託された長老たちは〔7:4〕に記されているように、イエスさまに熱心に願い「あの方は、そうしていただくのにふさわし人です。」と懇願する。それに応えてイエスさまは百人隊長の僕のもとへ出かけられる〔7:6〕。ここから、百人隊長とユダヤ人の長老たち関係、また百人隊長の人物像を窺うことができる。ユダヤ人の長老たちが百人隊長へ向けた信頼を通して、百人隊長がイエスさまへ向けた信頼を、イエスさまは受け取った。そして、百人隊長のもとへ歩み始めた。しかし、イエスさまが百人隊長の家に近づくと、百人隊長は友人たちを使いに出して「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と伝える。部下の癒しを願いながら、自分はイエスさまの前に出るのは相応しくないと語る百人隊長は、「遠くに立って、目を上げようともせず、赦しを願う徴税人の姿」〔18:13〕を思い起こさせる。イエスさまは6章に記されている平地での説教で「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたのものである」と教えている。そのイエスさまのことばが出来事となって、いま百人隊長の前に現れる。イエスさまの言う「貧しい人々」とは、百人隊長や徴税人のように「自分は救いに相応しくない」と思いながら、ただ神の憐れみを待ち続ける人々のことである。百人隊長は友人を通して「ひと言おっしゃってください」と願う。百人隊長は、イエスさまのことばがあれば部下は癒されると信じている。イエスさまが群集の方を振り向いて「これほどの信仰を見たことが無い」とたたえた信仰とは、受けるに値しない自分にもことばが与えられると信じて待つ信仰である。

[説教要旨]2010/6/6「深く掘り下げて」ルカ6:37-49

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 エレミヤ 7:1-7 【旧約・ 1188頁】
第二の日課 1コリント 15:12-20 【新約・ 320頁】
福音の日課 ルカ 6:37-49 【新約・ 113頁】

マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれている主イエスの教えは、ルカ福音書では、主イエスは弟子たちと共に山を下りた後に、「平らな所にお立ちにな」り、「大勢の弟子とおびただしい民衆」を前に語られる。主イエスは、選び出された12人と、また多くの民衆とに向かって、貧しい人々への幸いを語り、敵を愛することを教えられたことに続いて、「人を裁くこと」について「人の語ること」について、そして「聞くことと行うこと」について語られる。そこでは、これらの言葉を聞き、これに従うものは「いと高き方の子となる」と語られるが、主イエスの教えと業は、人々とは一線を画した隠遁生活の中で秘密裏に伝えられ、限られた選ばれた者たちのみが体験できる、というものなのではない。それはむしろ、人々が生きる地平において主イエスは同じように生き、まさにその地平においてこそ働く神の力を示されたのである。したがって、12人と多くの民衆ともまた、主イエスと同じ平らな地平に立っている。12人が民衆から一段高いものとしてと選ばれたのではない。12人と民衆の間にはなんら段差は付けられていない。それどころか、主イエスは「目を上げて」弟子たちを見て語られる(20節)。主イエスは、この輪の中で最も低いところにご自身を位置付けているのである。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という言葉は、マタイ福音書では、主イエスに敵対する都の宗教的権威者たちに向かって語られている。それがここでは12弟子たちと民衆とを前にして語られる。主イエスに敵対する権威者たちと同じ態度を、主イエスの弟子たちも取り得るのである。知らず知らずのうちに、人は自らを他者よりも一段高いものとして、自らの正義を振りかざして他者を裁きうるのである。それは主イエスの教えられる「いと高き方の子」「憐れみ深い者」であることと対照的な姿であった。
むしろいと高き方の子主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられた」のであった。しかも「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順で」あった。しかしそうであるからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とパウロは語る。(フィリピ2:6-9)。だからこそ、主イエスは最も低いところから、弟子たちにその眼差しを向けられ、語られるのである。主イエスの言葉を聞くということは、主イエス立たれている場所へ、自らをまた低くすることに他ならない。そうであってはじめて「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」(フィリピ2:11)ことができるのである。主イエスの言葉が、本当に生きた神の力として働かれ、私たちを福音(良いメッセージ)によって満たされるのは、私たちが主イエスと同じ低みへと向かうことによってなのである。
「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」と主イエスは語られる。私たちが自らの立つ基を深く、低く掘り下げる時、主イエスの言葉は私たちを固く支えるのである。

[説教要旨]2010/5/30「命と平和の真理」 ヨハネ16:12-15

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:1-13 【新約・ 283頁】
福音の日課 ヨハネ 16:12-15 【新約・ 200頁】

待降節・アドベントから聖霊降臨祭・ペンテコステまでの間、教会の暦は主イエスの地上での歩みを振り返ってきた。そして一年の後半では、主イエスの教えられた事柄についての聖書箇所が読まれることになる。その境界である本日は、「三位一体主日」と呼ばれている。この主日には主イエスの地上の歩み、すなわち実現する救済史の中の具体的な出来事は特に割り当てられていない。しかし、教会暦の前半と後半を結ぶ日という位置付けは、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)の総まとめとして理解し、そして、主イエスの教えに聞くいわゆる「教会の半年」に向けて、聖書がその全体を通して語り伝えている真理を私たちに今一度思い起こさせる。
ヨハネ福音書の告別の説教の中で、主イエスは弟子たちに向かって「真理の霊」について語られる。全段落ではそれは「弁護者」とも呼ばれている。主イエスと地上での別れを体験した後、弟子たちはこの世においてつらく厳しい道を歩まねばならない。闇の世は主イエスを受け入れることが出来ないからである。しかし、来るべき弁護者はその世に対して働きかける力であることを主イエスは語られる。弁護者の力が無ければ、世は主イエスを知り、信ずることができないのである。
続いてさらに、今度は弟子たちに対して、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語られる。彼らもまた、この告別説教が語られているとき、すなわち弁護者・真理の霊なしには、主イエスが地上で為された事、語られた事のその真の意味について、まだ分からないでいる。
主イエスと共に旅をしてきた弟子たちは、主イエスの働きと教えを間近で見聞きしていた。その意味では、誰よりも精確に理解することができたはずであった。しかし、「イエスが何を語り、何をしたか」ということをどれほど精確に描写しても、それは「分かる」ということには結びつかなかった。それは、弟子たち自身の個人的な体験に過ぎなかった。自分たちが体験した主イエスの業と教えを本当の意味で「救いの出来事」として彼らが理解することができたのは、十字架と復活、主イエスとの再会と別離を経て、「真理の霊が来る」のを待たなければならなかった。
ここで注目すべきは、主イエスは一度も「真理を与える」とは言っていないという点である。真理の霊は、主イエスが父から受けたものを、弟子たちに、そして私たちに「告げる」のである。実に、私たちは「真理」を自分ものとすることなどは出来ない。もし私たちが、あたかもこの私が真理を手にしていると誤解するならば、私たちはあまりに容易に、自分自身を正義として他者を裁き、他者の上に君臨しようとしてしまう。しかし、真理の霊・弁護者は、私たちを真理へと「導く」。それは、この地上で憎悪と敵対との中で悩み傷つく私たちを、命と平和、和解と解放へと導く真理である。パウロは語る。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:6)。主イエスの真理は私たち人間の義を打ち破り、私たちを救いと解放と命へと導かれる。

[説教要旨]2010/5/23「風が吹いて」使徒言行録2:1-21

聖霊降臨祭

初めの日課 創世記 11:1-9 【旧約・ 13頁】
第二の日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 16:4b-11 【新約・ 200頁】

本日は聖霊降臨祭、ペンテコステである。ペンテコステとは、50日目(五旬祭)という意味を現すギリシア語であり、ユダヤでは過越祭の2日目から数えて7週目の日に守られた祝祭であった。これは旧約では刈り入れの祭り(出23:16)、七週祭(出34:22)とも呼ばれ、春の除酵祭(過越祭)、秋の取り入れの祭り(仮庵祭)と共に三大祝祭日の一つであった。元来は小麦の収穫を祝う祝祭であったが、後の時代に、この日にシナイ山で十戒が授与されたされたという意義を加えて、律法記念日として守られることとなった。
復活の主イエスが弟子たちの前で天に昇られた後、この五旬祭の弟子たちが一つに集まっている時に、激しい風が吹き、弟子たちの上に聖霊が降る。風、霊、あるいは魂、息、それはギリシア語では同じ言葉で表されるものであり、目には見えないが、何かを動かす力を意味している。そして、この聖霊の風を受けた時から弟子たちによるこの地上での宣教の働きが始まったと、聖書は告げる。それゆえに、キリスト教ではこの日を聖霊降臨の出来事を憶える日とし、またその聖霊の働きによって、「教会」が始まった時であるとした。
聖霊の風を受けた弟子たちは、突然に様々な国の言葉で語り始める。その様子はまるで「新しいぶどう酒に酔っている」ようであると人々は語る。つまり、あまりに多様な言語で語る集団は人々の目には、およそ非常識で、社会規範から逸脱したものとしか移らなかったのである。さらに言うならば、弟子たちが様々な国の言葉で語っていたこと、それは主イエスの十字架と復活についてであった。それは、酔ったような弟子たちの外見以上に、非常識で逸脱したものであった。主イエスは、十字架に死に、そして甦ったということ、それは言うならば、常識的な範疇の中で、人の考える妥当で順当な筋道の中では、決して得ることの出来ない希望と喜びの出来事なのである。無から命を作られる、命の創造主である神のその見えない力は、主イエスとの別れを経験した弟子たちをして、希望と喜びと力とで満たされたのである。
また様々な国の言葉で語りつつも、弟子たちは「一つ」であった。これは、旧約のバベルの塔の出来事とまさに正反対の状況を形作っている。異なる言葉を語る時、一方では混乱と崩壊がもたらされ、他方では一致と喜びと希望がもたらされる。その違いはどこにあるであろうか。バベルの塔の出来事、それは人々が自らの威光と権力を地上に示し、自らの力で天にまで届くことを求めた結果であった。人が己の正しさと理想、そして栄光と威光とを目指すとき、それは必ず不信と争いを招くことになる。そこでは多様性は不要のものであり、排除・抑圧されるべきものである。しかし唯一の理想と権威を目指したその結果もたらされるもの、それは混乱と崩壊でしかなかった。他方、聖霊降臨の出来事において、非常識とも言えるその多様性は喜びの源泉であり、福音を伝える力そのものであった。死から命を創り出される神は、排除と抑圧、不信と争いの中に、喜びと希望とを分かち合い、一致する力を与えられる。聖霊降臨の出来事は、主イエスの十字架と復活を信じる私たちの教会にもまた、喜びと希望を分かち合い、一致する力が与えられていることを伝えている。

2010年7月4日日曜日

[説教要旨] 2010/5/16「約束されたもの」ルカ24:44-53

昇天主日

初めの日課 使徒言行録 1:1-11 【新約・ 213頁】
第二の日課 エフェソ 1:15-23 【新約・ 352頁】
福音の日課 ルカ 24:44-53 【新約・ 161頁】

イエスさまは、私たちの罪の贖いのために、「私たちが受くべき死と苦しみを負い、十字架に渡され、神さまのみ旨を全うし、三日目に死から復活し、救いを成し遂げてくださいました。」〔式文:罪の告白の勧め〕そして、使徒言行録1章3節に記されているように、イエスさまは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って弟子たちに示し、四十日にわたって現れ、神の国について話されました。この四十日間は、弟子たちにとって喜びに満ちた素晴らしい日々であったに違いありません。それはイエスさまの赦しと、慰めと、励ましを受ける日々だったからです。寄り頼むべき方を失い、飼い主を失った羊のように途方にくれ、意気消沈していた弟子たち。イエスさまの復活は、弟子たちにとっても、沈んでいた自分たちの心を蘇らせる復活の出来事だったのです。
 今週の福音書の日課で、イエスさまが天に上げられる前、弟子たちに使命を与え「あなたがたはこれらのことの証人となる」と告げています。「これらのこと」には、受難と復活だけではなく、「罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる」ということも含まれています。イザヤ書に記された神さまの呼びかけは、立ち帰ってもいないイスラエルの罪を神さまが一方的に赦し、立ち帰れと呼びかけています〔イザヤ44:22〕。この呼びかけを証しすることが弟子の使命なのです。弟子たちは単独で証しするわけではありません。イエスさまが送られる「父が約束されたもの・・・高い所からの力」、つまり聖霊が共に働いています。それを身に帯びるとき、人は変えられ、神さまに動かされることになります。
 イエスさまが弟子たちを祝福しながら、天へと上げられて行くのを目撃した弟子たちは、その姿を「伏し拝み」「大喜びで」エルサレムへと帰ります。天の祝福を受けたことが、真の礼拝と心を満たす喜びを起こさせます。喜びの大きさは天にある方の偉大さを反映しています。それは罪が赦され、救いと祝福が与えられた喜びです。この喜びに包まれた弟子たちは、神さまをほめたたえながら、エルサレムの神殿で父なる神さまの約束を待ち望みます。イエスさまの昇天によって天と地が結び合わされ、天からの祝福と地からの賛美が交差します。イエスさまの昇天は、単純にイエスさまと弟子たちの別れとなった出来事なのではありません、いっそう強く結びつくための出来事なのです。

[説教要旨] 2010/5/9「平和を与える」ヨハネ14:23-29

復活後第5主日

初めの日課 使徒言行録 14:8-18 【新約・241頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・479頁】
福音の日課 ヨハネ 14:23-29 【新約・197頁】

主イエスはご自身に従ってきた弟子たちが、使命を与えられ、世に遣わされていかなくてはならない集団となるために、長い告別のメッセージの中で、主イエスは弟子たちに向かって繰り返し、信仰の奥義としての「父なる神とご自身が一つであること」を語られる。それは、まもなく主イエスが弟子たちと別れ、十字架における死への道を歩むことを見据えたものであった。たとえ、弟子たちの前から、自分がいなくなったとしても、父なる神と、主イエスと、そして弟子たちは一つであるということ。そして、地上に残された弟子たちはその主イエスについて、宣べ伝える使命を与えられているということを、主イエスは弟子たちに伝えようとする。しかし、弟子の一人は、主イエスに向かって、なぜご自身が神と一つであることを世に明らかにしないのか、と問いかける。この弟子の理解においては、父なる神と主イエスが一つであるならば、このことを世に公けにすれば、世はたちどころに主イエスのもとに屈服し、主イエスはこの地上に君臨することもできるはずなのではないのか。そうすれば、自分たちもいともたやすく、地上を思うがままに支配することが出来る、自分たちの考える理想をたやすく実現できる、そのような思いがあったのであろう。
しかし、その問いに対する主イエスの答えは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」というものであった。そして主イエスはさらにこう語られる。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」主イエスが弟子たちに命じられ、約束されたこと、それは地上に君臨し支配することではなく、平和を残すということであった。主イエスの言葉を守り、主イエスを愛するということ、それは自らの理想のために、他者を支配し、君臨することではなく、主イエスの残された平和を受けとめ、その平和の内に生きることなのである。
主イエスの平和、それは私たちの理想が満たされることなのではない。あくまでも自分たちの理解できる形で、主イエスの示されるものを捉えようとする弟子たちに、主イエスはそうではない領域を示される。主イエスが約束されるもの、それは私たち地上に生きる人間の理想や考えの延長線の上では、見いだすことの出来ないものなのである。そもそも、私たち自身の思いと力では、どれほど高邁な理想を掲げたとしても、そこには争いと断絶が必ず生まれ、失望と悲嘆とが私たちを襲うこととなる。しかし、主イエスが私たちに約束されるもの、それは父なる神、天から与えられる平和なのである。そうであるからこそ、わたしたちの不完全で不十分な現実は、満たされ完成されるのである。「わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」私たちを取り巻く状況が、その目にはたとえ理想からほど遠いものであったとしても、私たちは心を騒がせ、おびえる必要はない。私たちには主イエスの約束された平和が与えられているのである。

[説教要旨] 2010/5/2「新しい掟を与える」 ヨハネ13:31-35

復活後第4主日

初めの日課 使徒言行録 13:44-52 【新約・ 240頁】
第二の日課 黙示録 21:1-5 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 13:31-35 【新約・ 195頁】

本日の福音書では、主イエスが弟子の足を洗い、ユダが夜の闇へと去った後、主イエスの「告別説教」と呼ばれる長い一人語りが始まっている。主イエスを十字架へと引き渡すためにユダが消えて行った闇から、主イエスは弟子たちに向き直り、「今や、人の子は栄光を受けた」と語る。それは十字架と復活の出来事の幕が切って落とされたことを私たちに告げている。夜の闇の最も深い時こそ、福音の光が輝く時なのである。
人の子、つまり主イエスの「栄光」は、弟子たちの足を洗うことから始まっていた。ここで主イエスが語る弟子たることの奥義は、弟子の足を洗うという行為、そして「互いに愛し合いなさい」という教えと結びついている。それらはいずれも、私たちの日常的な領域に根ざすものでしかない。私たちが、永遠の命の世界を知るために主イエスの弟子でありつづける、そのために必要なこととは、私たちが私たちの日常のなかでなされるべき事柄であると主イエスは語られるのである。
足を洗うというのは、具体的な目に見える行為である。しかし主イエスにおいてその行為は同時に、見えない世界すなわち主イエスが父なる神と共にある世界を示している。主イエスは、甦り、父なる神とともにおられる神の子救い主である。しかし同時に、私たちの生きるこの地上を共に生きた人であった。それゆえに、その働きは私たちの生きる日常の中での具体的なものであった。しかし、それは単に過ぎ去った過去の出来事では終わらない、永遠の領域を指し示している。過ぎ去る事柄が永遠のものとなるということ、別離と受難が栄光の出来事となるということ、二つの対立する領域が、主イエスにおいて結びつけられているのである。
私たちは、この地上において、自分の為す事また成せる事の小ささ、空しさに打ちのめされ、そこでの営みに倦み疲れ、その魂は飢え乾いている。そうであるからこそ、永遠の価値を持つものによって、その空しさを満たされることを求めて、信仰により頼むのである。
私たちがその日常の中で成し遂げられることが、どれほど小さく空しいものであったとしても、それが主イエスの言葉によって押し出される時、そこには既に永遠の命の領域が開かれているのである。主イエスの言葉は、私たちの日常を支配する様々なこの地上の掟を凌駕する。それが主イエスの言葉に押し出されてなされる時、私たちの小さく空しい業は、永遠の愛の業として用いられるのである。私たちの魂の飢えと乾きが満たされる時、それは、私たちの日常の中に差し込む光、すなわち主イエスの言葉、新しい愛の掟によって動かされる時なのである。

[説教要旨] 2010/4/25「キリストに従う」ヨハネ10:22-30

復活後第3主日

初めの日課 使徒言行録 13:26-39 【新約・239頁】
第二の日課 黙示録 7:9-17 【新約・460頁】
福音の日課 ヨハネ 10:22-30 【新約・187頁】

本日のヨハネ福音書では、神殿において主イエスがエルサレムの人々から「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問い糾される。ここで主イエスを問い詰める人々の口調は、マルコ・ルカ福音書などで十字架の直前に最高法院で行われた尋問を彷彿とさせる。その質問は、主イエスを受け入れようとするためのものではなく、主イエスを否定することを前提になされるものであった。エルサレムの人々、最高法院の議員らは、主イエスの言動に気をもみ、そして主イエスを否定せずにはいられないのである。その人々にとって、主イエスがメシアすなわち油注がれた救い主であることはあってはならないことであった。いわばその人たちは、主イエスを否定するために、主イエスがメシア(=キリスト)であることを明らかにさせようとするのである。
既に4章では、主イエスはご自身がキリストであることをサマリアの村の井戸で一人の女性には語られ、さらに多くの人々が主イエスの言葉を信じた、と書かれている。人々は「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と語る。その様子は、本日の箇所のエルサレムの神殿での出来事と鋭い対照をなしている。どちらの場合も、メシアを待ち望み、主イエスご自身に出会いながら、その結末としての振る舞いは180度異なっているのである。サマリアの人々は主イエスを受け入れ、エルサレムの人々は主イエスを石で打ち殺そうとした。果たして何が、その二つを分けたのであろうか。
結論から言うならば、それはキリストに従うか否か、ということであった。そして、キリストに従うと言うこと、それはキリストの正義が私たちの正義を圧倒し、打ち倒されるということに他ならない。エルサレムの神殿の人々は、自らの正しさは何者にも打ち倒されることはないと確信していた。だからこそ、主イエスに出会いながら、主イエスをキリストとして受け入れることができず、彼らはキリストに従うことが出来なかった。
では誰がキリストに従うことができるのかと問うならば、それは神の正義の前に自らの不十分さを恐れおののき、しかしそうでありながら、主イエスの十字架と復活によって和解と赦しを与えられた者に他ならない。主イエスに従う群れ、すなわち「聖徒の教会は、罪のない者や完全な者の『理想的な』教会ではない。罪人に悔い改めの余地を全く与えないような、純潔の者の教会ではないのである。聖徒の教会とはむしろ、自分で自分を許すこととは全く何の関係もない神の赦しが、ここで真実に宣べ伝えられることによって、みずからが罪の赦しの福音に値するものであることを示す教会」(D.ボンヘッファー)なのである。