2012年6月29日金曜日

[説教要旨]2012/06/24「風や湖さえも」マルコ4:35-41

聖霊降臨後第4主日・子どもと大人の合同礼拝

初めの日課 ヨブ 38:1-11 【新約826頁】
福音の日課 マルコ 4:35-41 【新約・ 68頁】

台風というだけで、私たちは右往左往して大騒ぎする。予想していなかった事態にうろたえ、自分の計画通りにことがはこばなくなることを心配し、苛つき、怒りを感じる。そう思い起こす時、私たちを襲う風雨は単に自然現象だけではないことに気付く。計画された毎日の中で襲いかかる突然の予想もしない出来事、私たちの毎日の生活の中で突然起こる「嵐」に遭遇した時、私たちはうろたえはてて、ついには周囲に怒りをぶつけずにはいられなくない。私たちは、自分の計画や段取りが邪魔されることを、恐れ、嫌う。なぜならば、自分の計画通りにならない時、人間は自分がいかに弱く頼りない存在かを思い知らされることとなるからである。しかし私たちの生きる世界は、大自然をはじめとして、人間の思い通りにならないものばかりなのである。古代の人々にとっては、それはより明かなことであった。旧約のヨブ記38章では、人間には思い通りにならないこの世界を造り、治めるのは誰かが問われている。自分を襲う悲劇に怒り訴えるヨブに、主なる神は嵐の中から、この世界を造り、命を与えるのは神である私だけだと応えられる。
本日の日課であるマルコ福音書では湖の岸辺に集まった群衆を前に舟の上から主イエスは教えられていた。その日の夕方、その舟に乗って「向こう岸へ渡ろう」と主イエスに命じられて、弟子たちは湖に漕ぎ出す。しかし激しい風に翻弄され、弟子たち慌てふためくこととなる。慌てふためく弟子たちとは対照的に主イエスご自身はまるで何事も起こっていないかのように舟の中で眠っておられる。弟子たちは、おそらく怒りいらつきながら「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と主イエスに訴えたであろう。その姿は、日々の中で予期せぬ嵐に出会って、うろたえてしまう私たちそのものであると言ってもよい。
しかし主イエスが起き上がり風と湖を叱られるとそれらは直ちに静まった。それは、まさに神の力が主イエスにおいて現れたということに他ならなかった。主イエスがおられるところで、人々は病から癒され、苦しみから解放されたことを福音書は語る。実に主イエスがおられるところこそ、世界の全てを造りこれを治める神の力が働く場所なのである。弟子たちは、自分達と一緒におられる主イエスが、そのような方であることを、まだ気付くことができなかった。弟子たちは、今自分達が思うままに進むことが出来ないこと、自分たちが嵐に翻弄されていることだけに心が向いてしまっていた。しかし実は、人間の力と思いを超えて、全ての命を造られた神は、嵐のただ中で弟子たちと共におられたのである。
私たちはこの世界を自分の思い通りに動かすことも出来なければ、自分自身の命ですらどうすることも出来ない。私たちはただ襲い来る嵐に翻弄されるばかりである。けれども主イエスは、その十字架からの復活によって、この世におけるあらゆる挫折と苦しみを超えて神の力は働くということ、そして命は新たに造られることを私たちに示された。私たちは日々の生活の中で、突然の嵐に襲われ恐れ慌てふためき、怒り、嘆き、失望することしか出来ない。けれども十字架の死から甦られた主イエスが私たちと共にいてくださるのである。私たちがこの世の嵐の中にある時、まさにその時、主なる神は私たちと共にいてくださるのである。

2012年6月19日火曜日

[説教要旨]2012/06/17「神の国は種のように」マルコ4:26-34

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 エゼキエル 17:22-24 【旧約・ 1320頁】
第二の日課 2コリント 5:6-17 【新約・ 330頁】
福音の日課 マルコ 4:26-34 【新約・ 68頁】

 本日の福音書では神の国について語られているが、主イエスは「たとえ」を用いてしか語られない。これらのたとえの意味が分かる・分からないは、知識や知的能力の高さによらず、ただその言葉に従って自らを変えて行くことのできるような生のあり方によって、初めて意味あるものとなる。その意味で、これらの神の国のたとえ話は、私たちが期待するような知識を伝えようとしているのではなく、むしろ聞き手が新しい生き方を歩むようになることを求めている。それは、私たちが今現に手にしているもの・今現に見えているものだけではなく、今はまだ見えないもの・今はまだその手元にはないものに、希望と信頼を寄せていくことのできるような、新しい生き方・新しい命への招きに他ならない。
 前半の「ひとりでに成長する種のたとえ」は、神の見えない力のもつ神秘について私たちに語る。種が芽を出し成長する時、人間ができることはただ待つことだけである。あるいはせいぜいその成長に併せて、植木鉢を変えたり、水が絶えないように留意するなど、神の力が働くことを妨げることがないようにするだけである。
 私たちが人間であるかぎり、その働きは常に未完成であり、不足のあるものでしかない。それを完成し全てを良しとされるのは神の見えない働きだけなのである。神の力はこの世界を作られた創造の力に他ならない。それは何も無いところから命を生み出す力であり、その力がいつどのように働くかは私たちの目から隠されている。この見えない神の力は過去のものではなく、今を生きる私たちに対しても注がれている。無から命を生み出し、種をひとりでに成長させる神の創造の働きは、絶望の淵であえぐ私たちを救い出す力でもある。
 後半の「からし種」のたとえは、たとえその発端においては、どんなに小さく目立たないものであっても、神の業が働くとき、結末においては、何よりも大きくなるという、神の働きの神秘と偉大さについて私たちに語る。大きな結末は私たちに既に約束されている。だからは私たちは現在の小ささに失望する必要はないという、視点と生き方の転換をこの譬えは私たちに投げかける。
 無理解と拒絶の中でひたすらに神の国の福音を語られた主イエスの地上での歩みは、見えないものをひたすらに目指すものに他ならなかった。その歩みは十字架の死によって中断させられる。目に見える成果としては、それは挫折であり、不完全なまま終わってしまうことであった。しかし主イエスは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、神の創造の業は働き、希望が必ず創り出されることを私たちに伝えられた。私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられているのである。聖書を通して私たちの思いと力と知恵を超えて、神の業は希望を創り出し、全てを良しとされるのだということを私たちは知るのである。

2012年6月13日水曜日

6/24の主日礼拝の開始時間について[6/24]

6/24(日)は「子どもと大人の合同礼拝」として朝10時から礼拝を開始します。
通常の主日礼拝よりも30分早い開始となります。

[説教要旨]2012/06/10「神の御心を行う人こそ」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 創世記 3:8-15 【新約・ 4頁】
第二の日課 2コリント 4:13-5:1 【新約・ 329頁】
福音の日課 マルコ 3:20-35 【新約・ 66頁】

 本日の福音書の冒頭で群衆が主イエスを追い求めてやってくる。おそらく、主イエスが共におられた人々とは2章で既に触れられているように「徴税人や罪人」であった。当時の社会における常識や敬虔さからするならば、そうした人々と食卓を囲むことは恥ずべき非常識な事であった。それゆえに、癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内の者」は主イエスを「気が変になっている」と考え取り押さえるためにやってくる。「取り押さえる」という言葉は、主イエスが十字架にかかる際に「逮捕する」という言葉と同じである。つまり「身内の者たち」の態度は、主イエスを理解出来ず敵対した者たちと同じであったと言うことができる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「外側に立つ」という意味である。したがって、この表現には、社会の常識や父祖伝来の仕事や土地を棄て、その外側に立つ者として生きる主イエスへの非難が込められているとも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都=中央からやってきた宗教的権威者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難する。
 これらの非難に対して主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と応える。そこでは確かに兄弟・姉妹・母という、私たちのよく知る家族関係を表す言葉が用いられているが、それとは全く異なる次元の絆を意味するものとして語られる。さらにこの言葉の中には当時の社会の伝統的価値観の中では決定的に重要な役割を果たすはずの「父」が欠落している。それはただ神だけが「父」である、そのような関係が私たちの間に新たに造られることを示している。それは、主イエスに従う者たちが地上を支配する権威から離れ、伝統的な価値観と社会制度の中では社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。いわば、私たちの知っているこの地上における絆は、主イエスにおいて表された神のみ心を私たちが生きることによって、私たちの理解と想像を超えたものとして新しくされるのである。
 そのような新しい絆を私たちの間に造り上げるために、つまり神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、神のみ心に従って歩まれた。その行き着く先で主イエスは都エルサレムの外の刑場で、十字架において処刑された。まさに、主イエスは、ひたすら「外側」に向かって歩まれた。しかし、その歩みはその死で終わることはなかった。主イエスは死の支配の外側へ、すなわち「新しい永遠の命」へと歩まれた。神のみ心を行う主イエスはその死から甦り、私たちに神のみ心を生きる道筋を備えられたのである。私たちは聖書が語る主イエスの十字架と復活の歩みを通して、この地上の現実がどれほど悲嘆と苦悩で満ちているとしても、そこには必ずその外側へと通ずる「命の道」が備えられていることを知るのである。

2012年6月5日火曜日

[説教要旨]2012/6/3「風は思いのままに吹く」ヨハネ3:1-17

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:12-17 【新約・ 284頁】
福音の日課 ヨハネ 3:1-17 【新約・ 167頁】

 本日は教会の暦の「三位一体主日」であるが、三位一体の教理について聖書の中に体系的に記されている箇所は存在しない。生まれたばかりの教会は三位一体という言葉を知らなかった。教会はその歴史の中で葛藤と問いかけを繰り返して、キリスト者達は自らの信仰を振り返り、一つの神は、創り主である神として、救い主キリストとして、慰め主聖霊として、この三つの仕方で私たちに関わられるという新しい信仰の表現を発見したのである。それはいわば聖書がその全体を通じて語っているものを指し示す表現であった。
 三位一体主日は教会の暦の前半の終わりに位置し、父なる神がこの世に御子を降されたクリスマス、御子主イエスが墓から甦られたイースター、そして聖霊が弟子達へと降ったペンテコステという、救いの歴史を総括し、暦の後半に私達の地上での生の中での信仰の成長にその視線を向けさせる役割を担う。それは私たちが現に生きているこの地上での生活もまた、主イエスの誕生・十字架と復活・聖霊の降臨という神の救いの歴史の中の一部であることを、私たちに思い起こさせる。
 本日のヨハネ福音書第3章での主イエスの言葉には、今日に至るまで伝えられている教会とその宣教の本質が詰め込まれている。主イエスに従うものとなるために「新たに生まれる」つまり新しい命に生きることが語られ、この新しい命を与えるためにこそ救い主は来られたことが語られる。そして、その救い主キリストの宣教の働きの源泉は、父なる神の限りのない愛であることが語られる。新生を巡る対話は、やがて風についての話しへと移る。霊と風は、どちらもギリシア語では同じ言葉で、目に見えないが何かを動かす力を指している。そしてまたその力は人間が定めた形によって捉えることは出来ず、その風の行き着く先はどこなのかを知ることは誰にも出来ない。「風は思いのままに吹く」。すなわち神の見えない力である聖霊の風もまた神のみ旨のままに吹く。私たちはただ、今立っているその場で風を受け止め、その風に動かされるだけである。しかし、神の見えない力、聖霊の風に動かされ、まだ見ぬ新しい道へと踏み出すときにこそ、私たちは救い主キリストに出会い、救いの出来事、すなわち新しい命の創造へと向かうのである。
 今日私たちは、あらゆることが自己責任として問い糾され、自分よりも楽をしているように見える者を非難せずにはいられない時代を生きている。そこでは弱さ・低さ・誰かに頼ることを嫌悪し、非難することが賞賛すらされる。そのような世にあって、聖書は私たちのこの日常の中の、その徹底した低みの中に、神の栄光の出来事、すなわち救いの出来事が隠されていることを語る。三位一体という信仰の表現は、いわば聖書の全体が示す、私たちに与えられた救いの在り方を表すものである。この救いの出来事に私達触れることができるために、神は人間となって、不安と悲しみと嘆きの中を生きる私達の低みのただ中へと降られた。そして十字架と復活によって、そこに新しい永遠の命への道を開かれた。さらに聖霊の力によって、私たちを絶えず支え、押し出し、新しい永遠の命へと導かれる。それこそが、主イエスがニコデモに語られた新生に他ならない。神は私達の嘆きと悲しみの中に新しい命の息吹を吹き込み、私達を慰めと希望とで満たされる。

2012年6月1日金曜日

[説教要旨]2012/5/27「悲しみは喜びに」ヨハネ15:26-27、16:4b-15

聖霊降臨祭

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 使徒 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 15:26-27、16:4b-15 【新約・ 199頁】

 聖霊降臨祭は使徒言行録2章に報告されるように、集まっていた弟子達に聖霊が降り、あらゆる国の言葉で福音を語り始めたとされる。また聖霊の働きによって宣教の働きが始まったことをもって「教会の誕生日」とも呼ばれている。復活節後半はヨハネ福音書の告別説教を中心に福音書が選ばれ、教会は復活の主イエスが共におられることを憶えて過ごしてきた。しかし、それはかつて主イエスがこの地上で弟子たちと共におられた時とは全く異なる、新しいあり方によってであることをも語る。その意味で本日の福音書は、今なお信仰の旅の途上にある私たちに、古い段階への決別の時をも示している。かつて弟子たちが聖霊を受けて新たな命の道を踏み出したように、私たちも今また古いあり方に別れを告げ、新たな一歩を踏み出すことを促されている。
 主イエスの逮捕・処刑に際して主要な弟子達は散り散りに逃げ去ってしまう。その後復活の主イエスとの再会を通して、彼らはまた一つとされるが、主イエスの昇天を経て再び彼らの元からいなくなったとき、彼らは世を恐れ、再び分裂の危機に直面する。そのような彼らのもとに、弁護者・慰め主なる聖霊が与えられたのであった。告別説教の中で主イエスが予告されていること、それは古今東西を問わずに、常にその信仰者の前に立ちはだかる困難の存在であった。そしてそれらの困難を乗り越える唯一の方法は、キリストにつながり続けること、そしてそれによって信仰者は一つになることを主イエスは語られる。その意味で聖霊降臨の出来事は信仰者を一つに結びつける神の働きが主イエスに従う者たちの間に起こったということであった。そしてそうであるからこそ、この時を「教会が生まれたとき」と呼ぶことが出来るのである。
 しかし聖霊を受けた弟子たちはたしかに「一つ」になるが、そこでは全く同じ文言を皆が斉一に語ったわけではなかった。それは様々な言葉、様々な表現で語られ、それらは外見上は異なるにも関わらず、しかしながら一つの事柄を語ることとなったのであった。新しい命の道とはまさにそのようなものであった。一人が支配し、一糸乱れず皆がそれにただ従うという、地上の支配者ローマ帝国の支配制度・軍隊制度ととは全く異なるあり方であった。「一つ」になると言っても、そこでは均一さが強要されるのではない。そうではなく、多様なあり方が受け入れられ、またその多様性が、慰めと励ましの言葉として用いられてゆくようなあり方なのである。それこそがまさに聖霊による交わりである教会の姿なのである。この交わりにおいては一人一人それぞれが、それぞれのあり方で役割と使命を負い、そうであるからこそ、一人一人がみなかけがえのない重要な存在となるのである。
 かつて弟子たちに注がれた聖霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たし、一つとならしめる力である。それは、死の闇を打ち破る、復活の光の力であり、過去に固執することから私たちを解放し、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。