2008年12月26日金曜日

2009年元旦礼拝のご案内

ルーテル三鷹教会の2009年元旦礼拝1/1(木) 11:00よりチャペルにて行われます。
どなたでもお気軽にお越し下さい。お待ちしています。

[説教要旨]2008/12/21「暗闇にさす光」

待降節第4主日

初めの日課 ゼファニヤ 3:14-17 【旧約・ 1474頁】
第二の日課 フィリピ 4:2-7【新約・ 365頁】
福音の日課 ルカ 1:67-79 【新約・102頁】

 洗礼者ヨハネの誕生に際して、口を閉ざしていた父親ザカリヤは聖霊に満たされて預言する。「これらは神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道へと導く」。それは、来るべきキリストの誕生を示していた。
 17世紀の画家、レンブラントが描く主イエスの誕生の絵がある。そこでは、暗闇の中で家畜小屋だけが明るく描かれている。その光の差す元を辿ってゆくと、闇に閉ざされた家畜小屋の中から光が差していることがわかる。しかし、さらによく見るならば、それは小屋の中のランプやたき火から光が放たれているのではなく、生まれたばかりの主イエスが光の源として描かれていることがわかる。闇の中にさす光、それは主イエスご自身なのである。主イエスは、闇のそのただ中に光をもたらされたのである。
 誰しもが、心の中に闇を抱えている。そしてそれはただ個人の持つ闇なのではなく、その社会そのものが抱えている闇の一部でもある。不安定な状況の中で働く労働者が解雇されることを嘆く私達は、それが我が身に起こることに怯え、また少なくともまだ自分がそうでないことに安堵する。社会に渦巻く不安と恐れの中で、弱い者がさらに弱い者を苦しめ、互いに憎み合い、対立する。私の心の中の闇と、私を取り巻く世界の闇は、その根底においてつながっているものなのである。その闇の中で、私達は孤独と不安に震えながらも、他者を恐れ、一人で留まることが出来るだけである。
 しかし、その闇のただ中に、主イエスはやって来られる。その出来事が起こる時、私達を隔てている闇は打ち砕かれる。そこにはもはや、もっともらしい理屈など不要である。主イエスが、この世に来られたという出来事だけで、既に十分なのである。闇に閉ざされたこの世に、そして闇に閉ざされた私達の内に主イエスは光をもたらされる。その光は、十字架の死と復活によって、この世の闇を打ち砕かれた方がもたらされた光である。その光は私達を孤独の闇から解き放つ。

2008年12月6日土曜日

2008年 0422市民クリスマス

恒例の武蔵野・三鷹地域のキリスト教会・諸団体によるエキュメニカルな市民クリスマスです。
どなたでもお気軽にご参加下さい(入場無料)。点訳プログラム・手話通訳もあります。

12/13(土) 18:30-20:00 カトリック吉祥寺教会にて
メッセージ「すべての人に光を」マリップ・センブさん(カチン民族機構日本事務局長)

クリスマスグッズマーケットが同日16-18:15、同会場で開かれます。こちらもどうぞお立ち寄り下さい。

0422市民クリスマス(東京YMCAのサイトからPDFをダウンロード出来ます。)

2008年クリスマスの諸行事のご案内

2008年のルーテル三鷹教会でのクリスマスの諸行事は以下のように予定されています。
皆様のお越しをお待ちしております。(※なお礼拝では自由献金が行われます。ご意志のある方はお捧げ下さい)

12/21(日)10:30 クリスマス主日礼拝
リラ・プレカリア講師キャロル・サックさんによるハープ演奏と三鷹教会聖歌隊による讃美)
       13:00 クリスマス祝会(食事会)

12/23(火・祝) 14:00-16:00 こどもクリスマス
(子ども向けクリスマス礼拝とゲームなど)

12/24(水) 19:00 クリスマス・イヴ・キャンドルサービス
(ろうそくの光のもとでの讃美歌・メッセージと、ソプラニスト高橋絵里さんによる独唱)


2008年11月19日水曜日

[説教要旨]2008/11/16「一緒に喜んで」

マタイ 25:1-30 【新約・ 49頁】

 1タラントンとは、一般の労働者の20年分以上に相当する金額であり、いわば生涯賃金に相当するような価値を持っていた。つまり、ここでそれは、人の生涯に渡って与えられている一人一人に固有な、特別な賜物を意味している。そして、物語の中でそれは3人の僕一人一人に対して「それぞれの力に応じて」与えられる。一人は、5タラントン、つまり普通の人の生涯の5倍分にも相当するものが与えられ、別の者は2タラントン、そして3人目は1タラントンを受け取る。最高額を与えられた者はもちろんのことながら、最も少ない1タラントンですら、普通の人の生涯の働きに相当するのであるから、そこで与えられた責任は決して小さいものではない。むしろその賜物を与えられた責任に対して真摯に向き合わなければ、決して簡単にそれを応えることはできないものである。

 1番目と2番目の僕は、それぞれに与えられた賜物を自分なりのやりかたによって生かして用いる。利益の大きさは、全く異なるにも関わらず、主人は、この二人に対して同じように「一緒に喜んでくれ」と呼びかける。それは、主従関係、雇用者と被雇用者との関係において、利益を増やしたことを主人が褒めているという状況を超えた、「友」として喜びを分かち合う姿を見ることができる。それに対して、「最も少ない賜物」を与えられた僕は、主人の強欲さと残酷さを非難することで、自分が与えられたタラントンを生かすことができなかったことを正当化する。結果、この僕にとって賜物は喜びではなく、恐怖をもたらすものでしかなく、主人は罰を下す恐ろしい存在であっても、喜びを分かち合う友となりえなかった。それは賜物を与えてくださった方よりも、賜物を受け取る自分の方を愛した結果であった。

 主なる神は、私たちの命の救いのために、主イエスとその十字架と復活の出来事を与えられた。それはその私たちを恐怖におののかせるためではなく、私たちが主イエスを通して、神と共に喜びを分かち合うためであった。救いの出来事の実感、そしてそれに応えていくことは、その量的な多寡が問題なのではない。なぜならば、命の賜物を私たちに与えられた神と私たちの間には、主イエスという喜びの絆が既にあるからである。

2008年10月30日木曜日

みどりのセミナー「礼拝式文の学び」1のご案内

ルーテル三鷹教会では、例年「みどりのセミナー」と題して、春から夏の時期に聖書やキリスト教についての連続セミナーを行っています。

今年度は、ルーテル教会で用いられている「礼拝式文」について、4回シリーズで学びます。

講師は石居基夫先生(ルーテル学院大学准教授)です。

第1回は6/22(日)の礼拝終了後(12時ごろ)、そのままチャペルにて行われます。

たくさんのみなさんのご参加をお待ちしております。

[説教要旨]2008/6/15「思い悩むな」

(聖霊降臨後第5主日)

初めの日課 イザヤ 49:13-18
第二の日課 1コリント 4:1-13
福音の日課 マタイ 6:24-34

 本日の短い福音書箇所の中で、「思い悩む」という言葉が6回も用いられている。それは私達人間にとって「思い悩む」ということが、どれほど大きな問題であるか、ということを物語っている。私達人間は思い悩まずに生きることが出来ない。

 思い悩みの原因として、食べ物、衣服がここでは触れられている。たしかに衣食とは、人間生活にとっては不可欠な要素である。しかし命と食べ物、体と衣服が、主イエスの言葉の中で比べられる。食べ物、衣服、それは、もともとの原料は自然のものではあるが、それが「食べ物」「衣服」となるのは、いわば人の手によってである。その意味では、思い悩みの原因は人の手によって作られたものである。それに対して、命と体を作ることは人間の手によっては不可能である。命を作られ、私達に体を与えられるのは、創り主である神だからである。

 空の鳥、野の花、それらは神の作り出したままの姿で生きている。ソロモンの栄華は、人間の目から見るならば豪華なものであったが、その栄華は一時のものに過ぎなかった。むしろその栄華こそ、思い悩みを生み出す源であった。ソロモンを連想させる、エルサレムの王、ダビデの子の口を借りた旧約聖書のコヘレトの言葉は、「しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」と語る。私達の心を思い悩ませるものは、実に、いずれ過ぎ去ってゆくものでしかない。しかし、その過ぎ去ってゆくものによって、私達の日常生活は支配されてしまっており、それらのために思い悩まずにいられないのである。それに対して、野の花の美しさはソロモンの栄華が失われた後も、変わることなく人々の心を慰める。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と主イエスは語られる。神の国も神の義も、人間の手によらないもの、創り主である神の手によるものである。そして、そうであるからこそ永遠のものである。それらは、私達の思い悩みを生み出している私達の日常の生活の外側にある。無限の神の愛の前では、限られた世界・限られた時間の中でしか物事を測ることの出来ない、人間の尺度はもはや意味を持ち得ない。そして、この無限の神の愛、それはこれらの言葉を語られる主イエスその方に他ならないのである。

[説教要旨]2008/6/8「背を向けてはならない」

(聖霊降臨後第4主日)

初めの日課 レビ記 19:17-18
第二の日課 1コリント 3:10-23
福音の日課 マタイ福音書 5:38-48

 「目には目を、歯には歯を」それは人間的な理性からすれば極めて妥当な論理である。しかし、主イエスは「しかし」と語られる。

  主イエスが語る言葉は、理性的な論理基準を大きく逸脱するものであり、それはいわば人の目には馬鹿げたことのようにすら映る。実に、私たちがこれらの言葉を全て文字通りに守ることは極めて困難であるように思われる。

  「下着をとろうとするものには、上着をも取らせなさい」という言葉は、いわば無一文になることを薦めるものであるとすら言える。「悪人に手向かってはならない」という言葉は、命をも含む全てを失う危険すら予感させる。こうした危機的な状況を背景としつつ、この人間の論理を大きく逸脱した言葉の土台となっているもの、それは神への深い信頼であるということが出来る。神の信頼性・信用は揺るぎない。したがって、その信頼性の上に立つ限り、財産も、あるいは自分の命ですら失うことに、何の不安を持つ必要も無い。主イエスの言葉は、そうした神への深い信頼に私たちが立つことを求めている。

 この神への信頼において、主イエスはさらなる教えを語られる。「求めるものには与えなさい。あなたから借りようとするものに背を向けてはならない」。そして「敵を愛しなさい」。これらの言葉は、私たちの人生における視線の向きを、自分自身の生活の中だけへと向かう内向きの方向から、自分たちの生活の外側の世界へと向けさせる。私たちは、自らの生活を守るため、敵を追い払い、あるいは自分たちのものを奪った敵を追いかけ奪い返す。あるいは、自分の持てるものを守るため、時として私たちは、私たちに求める者に背を向ける。けれども、主イエスの語る言葉は、敵を「追いかけ」そして「与える」生き方である。それは敵あるいは他者と自分との区別を無意味にしてしまう。それは神の恵みは敵・他者と自分と区別を超えて与えられているということ、それは一つところに留まるものではなく、溢れ出てゆくものであるということ、それを留めることは人間には出来ないということを今一度強く思い起こさせる。それは与えることによってはじめて実を結ぶ恵みである。私たちが、他者に背を向けるとき、それは私たち自身が神の恵みに背を向けているのである。

 神の恵みは、私たち人間の理性を超えて溢れ出てゆく。そのことに関する信頼性は、たとえ財産を失う危機にあっても、あるいは命を失うような危機にあっても揺るがないことを主イエスは語られる。

第2回JELA-JELCカンボジア・ワークキャンプ

2008/9/4(木)~12(金)に第2回のカンボジア・ワークキャンプが予定されています。

対象は18歳以上(ただし高校生は付加)です。

詳細は、日本福音ルーテル教会海外連帯ブログをご覧ください。

[説教要旨]2008/6/1「争いのあるところに和解を」

(聖霊降臨後第3主日)

初めの日課 申命記 30:15-20
第二の日課 1コリント 2:6-13
福音の日課 マタイ福音書 5:21-37

 山上の説教と呼ばれるマタイ5-7章は、物語の中では直接にはイエスの弟子たちを前にして語られている。その意味で山上の説教とは、主イエスを信じる群れに対する教えである。しかし山上の説教で語られている教えを日常生活の中で全て守ることは極めて難しい。古代よりこのことは多くの論争を生んできた。

 しかし山上の説教で最も重要なことは、私たちがこれらの教えを守って、正しいものとなれるかどうかではない。もしそれを欲するならば、私たちはそれを実現することの出来ない自らの限界を思い知るだけである。むしろ主体の転換が必要である。これらの教えを聴く弟子たち、ひいては今聖書を読む私たちがこの場の主体なのではなく、ここで語られている主イエスこそが主体なのである。主イエスが、主イエスを信じ従う群れの中心で語りかけられるからこそ、これらの教えは現実のものとなりうるのである。

 ここでは争いの相手は、兄弟あるいは同行者として示されている。それらの言葉は、争いの相手とは、いわば日常の中で自分自身に最も近い存在であることを示唆する。最も近い相手に私たちは自分と同じように感じ、同じように行動することを求めてしまう。しかし、実際には不可能であることを私たちは知っている。私たちは自分の望みが決して実現することなどないと知りながら、最も近い相手にそれを求めてしまう。そしてそうであるからこそ、私たちは互いに衝突し、対立しあうことを避けることが出来ない。そしてさらに、私たちが自分の意志の力によってそれを解決しようとする限り、そうした衝突と対立を乗り越えることが出来ない。それはいわば溺れる自分を自分で引き上げようとする事と同じだからである。

 だからこそ、もしそこに宥和と和解が生じるのだとするならば、それは主イエスが私たちの間で語られているからに他ならない。私たちは、人の言葉ではなく、主イエスの言葉が私たちの間で語ることを求めなければならない。主イエスは十字架と復活によって、人の思いと理解を超えた、神の和解の業を示された。キリストはわたしたちの平和であり、その肉によって敵意という隔ての壁を取り壊された(エフェソ2:14)。争いのあるところに和解を求めるということ、それは主イエスが私たちの間に立ち、私たちの対立と衝突をとりなされることを求めることなのである。

タイ・ミャンマー難民キャンプへの古着支援

世界のルーテル教会のネットワークを通じて活動している海外支援NGO「わかちあいプロジェクト」で、今年度も難民キャンプへの古着支援の受付が、2008/6/2-14の間に行われます。

今年度はタイにあるミャンマー難民キャンプが支援先となります。

ご協力いただける際には、必ず送付先・受付期間・受付できる衣料の種類などの説明についてよくお読みください。
(衣料の送付は、当教会やわかちあいプロジェクト事務局宛てではなく必ず受付期間内輸送コンテナ倉庫に直接に送っていただくことになります。)

なおわかちあいプロジェクトでは併せて支援先への古着の輸送費のための募金(ダンボール一箱あたり1,500円)を必要としています。

ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

2008三鷹教会バザーのお知らせ

日時:2008年6月15日(日)正午~午後2時

場所:ルーテル学院大学構内 食堂
主催:日本福音ルーテル三鷹教会


皆様恒例の教会バザーがやってきました。
三鷹教会のバザーでお買い物をしながら、午後のひと時を楽しみましょう。

□ 日用品 ・雑貨 ・衣類などなど各種取り揃えて皆様をお待ちしています。
□ 今年は子供達の遊び場・ゲームコーナーを設けました。
□ 焼きそばや赤飯など昼食も用意しています。 コーヒーやケーキの喫茶コーナーもあります。

会場の案内は三鷹教会HPからご確認ください

[説教要旨]2008/5/25「すべてを照らす光」

(聖霊降臨後第二主日)

初めの日課 イザヤ 58:1-10
第二の日課 1コリント 2:1-5
福音の日課 マタイ福音書 5:13-16

 「あなたがたは地の塩・世の光である」と主イエスは語る。主イエスは「地の塩・世の光になれ」と語るのではなく、既に「そうである」ものとして直接的には弟子たちに対して、語っている。そのことは、「主イエスに従う群れたるものはそのようであらねばならない」ということではなく、主イエスを救い主として信じるということそのものが、既に「地の塩・世の光である」ということを本質として内に含んでいるということを意味している。

 主イエスを救い主キリストとして信じること、それは人を苦しめ、悩ませる「闇」の力は決して永遠に続くものではないということを確信することである。主イエスは十字架で殺されたにもかかわらず、3日目に墓の中からよみがえられた。たとえ全てが空しく無駄に終わったように見えたとしても、神が備えられる希望の力は、決してそこで終わることはないということを、主イエスの死と復活は示している。

 私たちの生活の中では、どこにも希望を見出すことの出来ない時がある。そのような時、あらゆる闇が周りを取り囲み、無味乾燥な、無為な絶望の日々がただ過ぎてゆくだけに思えてしまい、その絶望の時が永遠に続くかのように思える時がある。しかし、私たちが主イエスを救い主として信じるならば、私たちは既に「地の塩・世の光」である。それは決して味の無い、暗闇につつまれただけの生で終わることはない、ということを主イエスは語られている。

 また塩も明かりも、それ単独では、人間の生活の中では用いられることは無い。塩だけを食べるものはおらず、他の食品とともにあって初めて塩として意味を持つ。また明かりを直接眺めることはなく、他のものを光によって照らすことで、光はその意味を持つ。塩も明かりも、他者と共にあることで初めて、その意味を持つ。地の塩・世の光であるキリスト者もまた、この世にあって他者との関わりの中で始めて、その塩・光としての本質を発揮することができる。「山の上にある町は、隠れることができない」。つまりこの世界に起こるさまざまな苦難に身をさらし、その中で希望を捨てることなく生き抜くことが、キリストを信じることに他ならない。

 すべてを照らす光、それは主イエスの十字架と復活への確信である。それは私たち自身の意志の力ではなく、私たちに恵みとして与えられた信仰なのである。

[説教要旨]2008/5/18「世の終わりまで共に」

(三位一体主日)

初めの日課 イザヤ6:1-8

第二の日課 2コリント13:11-13

福音の日課 マタイ福音書28:16-20



 教会の暦では、前半(アドベントとクリスマスからイースターを経て、ペンテコステまで)ではイエスの地上の歩みについての、そして後半、次のアドベントの直前まででは、イエスが語られた教えについての聖書箇所が伝統的に選ばれている。そしてその境目にあたる本日は三位一体主日と伝統的に呼ばれている。この主日には聖書の物語の中の具体的な出来事は割り当てられていない。しかし、教会暦の前半と後半を結ぶ日という位置付けは、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)が集約したものとしてそれは理解されてきた、ということができる。聖書はその全体を通して、神・聖霊・キリストについてが語っているからである。三位一体とは単なる理論なのではなく、私たちに恵みとして与えられた救いの歴史とそこで起こる救いの出来事の全体なのである。



 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい」。この言葉は、イエスの大宣教命令とも呼ばれ、今日の私たちの教会に対しても向けられている言葉である。「救いの歴史」とは、ある特定の>国に限定され、あらかじめ全ての出来事が宿命として定められているような「静的」な歴史年表なのではない。むしろそれは、多くの人がそこに加わえられていくことが望まれており、定められた枠組みからあふれ出していくような、「動的」なネットワークである。救いの歴史は、私たち一人ひとりがその一部を担ってゆくことを待っているのである。



 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスは語られた。世の終わり、それは日常の生活空間の外側にある世界である。聖書に記された救いの出来事のネットワークは、時間と空間を超え、今ここに生きる私たちへと到っている。私たちが主イエスの大宣教命令に従うとき、私たちはそのネットワークの一部となる。それはまさに主イエスが私たちと繋がり、共にいることに他ならない。

[説教要旨]2008/5/11「神の息吹が降る」

(聖霊降臨祭)



初めの日課 ヨエル3:1-5

第二の日課 使徒2:1-21

福音の日課 ヨハネ福音書7:37-39



 風そのものを人は見ることが出来ない。人は、風によって動かされているものを見ることができるだけである。時としてそれは、大木を揺り動かし、海を波立たせ、地を揺るがす力を振るうことすらある。そして人はまた、風そのものを見ることは出来ないが、その音を聞き、感じることが出来る。たとえ見ることが出来なくても、人はそこに風の力が働いていることを分かることができる。



 風、息、霊、これらは、新約聖書ではしばしば「プネウマpneuma」という語で表される。神の霊の力とは、風のように、目には見えないが、何かを動かすことのできる力である。そしてそれはまた神の息でもある。旧約聖書では、神は土くれに息を吹き込み、生ける人とされた。その意味で、神の霊とは私たちに命を与える力であり、私たちを動かしめる力である。



 神の息吹である神の霊が弟子たちに降った際の出来事を、使徒言行録2章は伝えている。それは、旧約の預言者の時を経て、イエスがこの地上で過ごされた時の後に、そのイエスが地上を去り、残された者たちがこの地上でイエスについて語り伝え始めることになる、教会の時の始まりでもあった。このため、弟子たちが聖霊を受けて、雄弁に語り始めたことを憶えるペンテコステ、聖霊降臨祭は、教会のはじまりの時と呼ぶこともある。



 霊、すなわち神の息吹を受けて、弟子たちは世界へと送り出される。確かにその道は決して平坦なものではなかった。しかし、彼らには、今の苦境の先にあるものが感じられていた。なぜならば、彼らは神の息吹によって、未来における主イエスの再臨の時と結び付けられていたからである。教会の時とは聖霊の時でもある。この教会の時は、世の終わり、主イエスの再臨の時へとつながっている。風、神の息吹である聖霊は、私たちが生きている今という時の枠組みを揺るがし、私たちをその外へと押し出す。主イエスが約束された聖霊の力によって、私たちは未来へと送り出されるのである。まさにこの意味で、聖霊は過去と未来と現在を、一つに結びつけている。聖霊を通して、私たちは、私たちから既に失われてしまった愛する者たちと、そして私たちがまだ見ぬ私たちの後裔たちと結び付けられている。

[説教要旨]2008/5/4「平和の証人となる」

(昇天主日)



初めの日課 使徒1:1-11

第二の日課 エフェソ1:15-23

福音の日課 ルカ福音書24:44-53



 聖書には、復活された主イエスは、弟子たちの前で天に昇られたと書かれている。事の次第はどうであれ、それはいわば、地上における主イエスの不在の時である。それは、主イエスご自身がこの地上で活動された時が終わったことを意味している。



 しかし主イエスが天に昇られたということは、単に主イエスの不在を意味してはいない。天は全ての人の上に、いつでも存在している。むしろ、限られた瞬間・限られた場所にとどまらず、天にある主イエスは、いつ・どこででも、全ての人と共におられる。それはペンテコステ(聖霊降臨)を経て始まる、聖霊の時・教会の時の徴である。天に昇られた主イエスは、「祝福しながら」天に上げられたと、ルカ福音書は語る。教会の時において、主イエスの祝福は今もそして常に私たちに注がれている。教会はこの主イエスの祝福のもとで、主イエスの証人になる。



 本日はアジア・サンデーでもあり、今年は特に「アジアの平和と憲法九条」が主題として与えられている。主イエスの祝福は世界の全ての人に与えられた。キリストは隔ての壁を取り壊し、平和の福音を告げ知らせられた。そこでは私たちはもはや外国人でも寄留者でもなく、一つの霊に結ばれた神の家族である。聖書の語る真の平和とは、自分だけが満たされ、平穏な状態となっていることを意味しない。そうではなく、互いの絆が固く結び合わされることである。その絆は、十字架と復活そして天に昇られた主イエスによって結び付けられている。



 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と弟子たちは復活された主イエスに尋ねる。いわば力によって、自分たちの国を再興することを夢見ている弟子たちに、主イエスはむしろ「あなたがたは、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」と語る。それは、国境の内側に留まる思考から、境界の外側に立つ思考へと、弟子たちを押し出し、隔ての壁を取り壊す言葉である。



 地の果てにおいて、主イエスの平和の福音の証人になるということ、それは「内」に留まる私たちのあり方に不安をもたらす。しかし私たちが「外」の視点に立つ時、私たちは主イエスの平和の福音にもっとも近づくことが出来るのである。力によらない平和、それは私たちが主イエスによって取り壊された隔ての壁の外側に立ち、主イエスの祝福を分かち合う出来事に他ならない。

Biglobeから移転しました

諸般の事情により、ルーテル三鷹教会のブログは、Biglobe(Webry)からBloggerに移転いたしました。