2009年7月2日木曜日

[説教要旨]2009/6/28「命を救う神の子」

聖霊降臨後第4主日

初めの日課    イザヤ58:11-14       【旧約・1157頁】
第二の日課    2コリント 5:1-10      【新約・330頁】
福音の日課    マルコ3:1-12         【新約・65頁】

 先週につづいて、安息日を巡る論争が展開される。そこでは同時に、主イエスをめぐって二つの立場の人間が描き出されている。一方の人間は、安息日の規定ゆえに、主イエスの業に敵対する。そして、もう一方の人間は、主イエスによって癒される。
敵対者たちにとって、このイエスという男は、たとえどのような力ある業を行おうとも、赦しがたい存在であった。主イエスを受け入れることができない者は、たとえその癒しの業を目の前にしたとしても、その考えを変えることはなく、むしろ、主イエスの命を狙おうとするだけであった。すなわち、敵対者たちにとって、主イエスの存在よりも、自分たちの生活を秩序付ける安息日の規定の方が重要であった。そして、主イエスの存在は、その秩序を乱すものでしかなかった。安息日規定のような、自分達の生活を支える秩序を破るということは、自分達自身の存在を無意味なものとするということでもあったそうであるからこそ、。敵対者たちにとっては、そのような秩序を乱す存在は、何が何でも、たとえ暴力に訴えてでも排しなければならないような、決定的なものであった。片手の不自由な人にとっても、主イエスとの出会いは、決定的な意味をもっていた。しかし、それは敵対者たちのような、主イエスを排除しなければならない、というものではなかった。むしろ、その出会いを通して、この人の生き方はおそらく大きく変化することとなった。この人は名もなき一人でしかなかったが、主イエスによって、人々の真ん中へと立たせられ、そして、主イエスの命令のとおり、手を動かすことができたのであった。この人にとって、主イエスとの出会いは、癒しと救いの出来事にほかならなかった。そして、この人は、ただ主イエスに命じられるままに動いたにすぎなかった。
 神の創造の業を人が憶えるために、安息日規定は作られた。しかし、主イエスの業は、この世界に救いを造り出す、神の国における創造の業そのものであった。まさにその意味で、主イエスの存在は、安息日の規定を凌駕している。だからこそ、主イエスがおられるということ、それはそこに、神の国が立ち現われるということに他ならない。そして、神の国を見、そしてその力に触れることができたのは、自分たちの秩序を守りぬこうとした人々なのではなく、ただ主イエスの命令に従った人であった。
 主イエスを通して現れる、神の国の救いの業、それは私たちが守ろうとする、私たち自身の価値を遥かに優るものである。だから時として、それは私達自身の価値観を打ち砕くことすらある。ただ主イエスの言葉に聞くものだけが、その神の国の救いを受け入れることができるのである。

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