2014年6月10日火曜日

[説教要旨]2014/06/01「神の命を待ち望む」ヨハネ17:1−11、ローマ8:18-25

復活節第7主日・アジア祈祷日

初めの日課 使徒言行録 1:6-14 【新約・ 217頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 4:12-14、5:6-11 【新約・ 433頁】
福音の日課 ヨハネ 17:1-11    【新約・ 202頁】

 先週の木曜日には「主の昇天日」を迎え、7週間にわたる復活の喜びを憶える期間が過ぎ、来週には聖霊降臨日を迎える。また本日はアジアキリスト教協議会(CCA)の呼びかけるアジア祈祷日でもある。本日の福音書を含むヨハネ福音書17章では「一つになること」が繰り返し主題となっている。この日課とアジア祈祷日とは直接の関係は無いが、多様なアジアの地域の中に教会があることを憶えて祈るこの時にふさわしいとも言えるだろう。
 13章から続く「告別説教」の締めくくりに当たって主イエスは、16:33で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と弟子達を励まし、そしてさらに17章での主イエスの祈りが続くことになる。この祈りの中で、主イエスは「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(17:11)と祈られ、この後には繰り返し「一つになる」ことが祈られている。しかし、ここでいう一つになるということは、単に外面的な合一だけを意味しているわけではない。それは、多様性を残しつつ、もっと根源において一つに結ばれる在り方であり、それは告別説教において語られているように、互いに愛し合うことを通じて主イエスの命において一つへと結ばれる在り方に他ならない。そして、その主イエスの命は十字架を通して、既に私たちに与えられている。つまり、私たちは、その根源において、既に一つとなる命を神から与えられているのである。
 アジア祈祷日の今年の主題は、「被造物の自由を希望のうちに待ち望む」というものである。これはとりわけ、このアジアで自然環境が破壊され、災害が起こっていること、そのために多くの人々がなお苦しんでいることを憶えて祈るものである。このアジア祈祷日にあたって、ローマ8:18-25が聖書テキストとして選ばれている。この8:24-25には次のようにある。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
 この手紙の送り主であるパウロは、現在の呻きと苦しみは決して無意味なものなのではなく、その後にはより大きな喜びが必ずやってくることを確信している。けれども、パウロがそうした確信を持ち続けることができたのは、決して何か目に見える具体的な将来展望があったからなのではない。たとえ個別の展望や見通しが得られなくても、自分は主イエスによって自分は新しい命を既に与えられているという確信があった。そしてこの確信はまさにパウロにとっては、彼の根元的な部分に働く、不滅の永遠の希望だったのである。
 私たちが生きている世界は、どうしようもなく引き裂かれ、そしてその苦悩の中で被造物はみな呻いている。けれども同時に、私たちは既に一つとなる主イエスの命を与えられているのである。だからたとえどのような困難が私たちを襲うとも、私たちの真の希望は決して失われることはない。主イエスの命に一つに結びあわされていることに励まされつつ、この引き裂かれ、呻きに満ちた世界の中をなお共に歩んでゆきたい。

[説教要旨]2014/05/25「キリストと共に生きる」ヨハネ14:15−21

復活節第6主日

初めの日課 使徒言行録 17:22-31 【新約・ 248頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 3:13-22 【新約・ 432頁】
福音の日課 ヨハネ 14:15-21 【新約・ 197頁】

 本日の福音書を含むヨハネ福音書の13-16章はイエスの告別説教と呼ばれている。ここで主イエスは、これからこの世にあって様々な苦難に直面する弟子たちに「弁護者」を送るという約束をされる。特にこの告別説教の中では、「弁護者」というのは「聖霊」のことを指している。聖霊は、私たちを動かす目に見えない神の息吹であると教会は理解してきた。ヨハネ福音書では特に、聖霊を人間により身近に、親しく交わる存在として描く。
 ご自身の十字架とともに、弟子たちを襲うであろう過酷な運命を前にして、主イエスはくりかえし、彼らを孤独のままにしておくことはない、必ず助け手・弁護者を送ることを約束された。それは、目に見える、今手にしているものだけが、人に与えられているつながりではなく、目に見えないものの中から、自らの希望とするものを彼らが見つけ出すことができるためであった。そのことはまた、弟子達が主イエスの十字架の意味を知る、ということでもあった。なぜならば、回復することなどないはずの、死によって切り離されたつながりを、主イエスはご自身の甦りによって新たに創り出されたからである。私達のもとから永久に失われてしまったかのように見えるつながりを、復活の主イエスは、新しいものとして結びつけられる。人間の力では再び取り戻すことなど不可能であるとしか思えない、失われた命のつながりを、主イエスはその十字架の死からの復活によって、新たに創り出された。
 私たちには見えなかったとしても、その復活の主が共におられるということを、聖霊の働きかけによって人は知るということを、本日の聖書は語る。新しい命のつながりは、たとえまだ私たちの目に見えなくとも、そこにあるということ、むしろ私たちには見えないものこそが新しい命の道であることを、聖霊の働きを通して私たちは知るのである。
 実に、主イエス・キリストと共に生きるということ、それは私たちが、失われたものを、もう一度、そのままの形で取り戻すことではない。それはむしろ、私たちにはまだ見えていない、新しい命を生きるということなのである。私たちを新しい命へと向かわせるこの神の力を、主イエスは「真理の霊」と語られる。それは、かつて自分が知っていたものが失われたものをただ嘆き、時間を逆戻りさせることを虚しく願う私たちを、新たな世界へと向かって踏み出させる力である。聖書が語る真理とは、私たちを押し出す力でもある。そして、この真理の霊こそが、主イエスに従うものを励まし、支えるのである。
 私たちは失われてしまったものの大きさに絶望し、力尽きてしまうことがある。その時私たちは、自分が嘆きの中で孤独に取り残されてしまっているかのように思う。しかし主イエスは語られる。「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」聖霊の働きによって、キリストはたとえ見なくとも、私たちと共におられることを知る時、私たちはまた、新しい世界が自分たちを待っていることを知る。そして、その新しい世界に踏み出すとき、私たちの苦しみも悲しみも、キリストによって必ず満たされ癒される、新しい時代が、私たちに開かれていることをまた知るのである。復活のキリストと共に生きること、それは私たちに与えられたつきることのない希望なのである。

[説教要旨]2014/05/18「心をさわがせるな」ヨハネ14:1-14

復活節第5主日

ヨハネによる福音書 14:1-14 【新約 196ページ】

 おそらく普通の生活を送っている人ならば、戦争がしたいと思う人はいないだろう。しかし第二次世界大戦に向うナチス時代のドイツ空軍司令官であり、ヒットラーの後継者ともされた、ヘルマン・ゲーリングという人物は戦後に、次のように語っている。「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政治を決めるのは国の指導者であって、(中略)国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張するだけでよい。この方法はどんな国においても機能する。」70年前のドイツだけではなく、今、世界中で、私たちが生きているこの場でも、それはいつおこるかもしれない状況にある。
 本日の日課、ヨハネによる福音書の物語の中で、主イエスが家の中で弟子達に向かって、17章にいたるまで長い説教と祈りをはじめる最初の部分である。本日の少し前の13:30には、「夜であった」と書かれており、さらに18章では、夜の暗闇の中、松明を持った兵士達が主イエスを捕らえに来る様子が描かれる。いわば、家の外の夜の暗闇は、主イエスと弟子達に襲いかかろうとする世の闇の力として描かれ、今まさに主イエス様と弟子達は危険に晒されているといえる。けれども、そのような中で、主イエスはまず「互いに愛し合いなさい」語り、さらに本日の箇所では「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と語られる。「心を騒がせるな」という呼びかけと「神を信じなさい」「わたしを信じなさい」という呼びかけが、一つになっているということは、すなわち、神とキリストを信頼し、その愛の絆に結ばれていることと、心を騒がせることなく生きることとは一つのことであると、主イエスは語りかけている。その意味で、神とキリストとの信頼の絆に結ばれることは、真の平静と平和へと向かうを生きる道を歩むことなのである。
 第二次世界大戦の前夜とも言うべき時代に、アメリカの牧師ラインホルト・ニーバーは「平和・平静の祈り」と呼ばれる祈りを用い始めた。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。いっときに、一日だけを生き、いっときに、一瞬だけを喜ぶ。苦しみも平和へ続く道として受け入れ、イエスの如く、この罪深い世界をあるがままに理解して後悔せず、主の意志に身をゆだねれば、すべてをあるべき姿にしてくれると信じて。そして、現世では適度の幸福を、来世では、主と共に至高の幸福を感じることができるように。アーメン」
 いつの時代であっても、私たちを争いと憎しみに駆り立てようとする世の闇の力は、私たちの周りに迫ってくる。けれども聖書を通して語られる、私たちを愛と命の絆へと招く主イエスの言葉を聞き、主イエスを信頼する時、私たちには、真の平和を生きる道を歩むことができるのである。

[説教要旨]2014/05/11「呼びかける声」ヨハネ10:1-10

復活節第4主日

初めの日課 使徒言行録 2:42-47 【新約・ 217頁】
第二の日課 ペトロの手紙1 2:19-25 【新約・ 431頁】
福音の日課 ヨハネ 10:1-10 【新約・ 186頁】

 本日の日課に先立つ9章では、目の見えない男の癒しの奇跡の後、宗教的な権威を持つ者達が癒された男とその両親を問い詰め、その男が神殿を追い出されたことが記されている。この男に主イエスが「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と語ったのに対して、宗教的な権威者達は「我々も見えないということか」と反論する。これに対する主イエスの応答として、本日の日課を含んだ、主イエスご自身の存在に関する「たとえ」が語られる。10:6で「たとえ」とされている語は、普通の本筋とは異なる仕方で語られる格言などを指している。宗教的な権威者達にしてみれば、神と信仰に関わることは、自分たちが見聞きし知っているものこそが唯一の神に至る本筋であることを疑っていなかった。したがって、主イエスの最初の「門」と「羊飼い」のたとえによって、自分たちの考え方の道筋から逸れたものを示された時、彼らはそれを理解することが出来なかった。なぜなら主イエスのたとえは人間としての彼らの権威の限界を問いかけるものであったからである。人間にとっては自明で疑ったこともないような権威に対して、本当にそうなのかと主イエスは問いかける。そのように問いかけられたことなどなかった彼らは、主イエスの「たとえ」を理解することができなかった。
その反応を受けてさらに「わたしは…である」という仕方で、主イエスがご自身の存在について「門」「羊飼い」として示される。それは、私たちにとってあたりまえで疑うことのないものとして見聞きしている権威は、決して私たちを導くものとして、究極でも永遠のものでもなく、むしろこの世の力によって生み出されたものでしかないことを問いかける。そして実は私たちには、真の和解と対話へと向かう道筋など見えてはいないこと、私たち自身で私たちの進むべき道を探し出すことなど出来はしないことを気付かせる。ならば私たちは道を見失い、迷い出ることしか出来ないのだろうか。
 だからこそ、主イエスは「門」として「羊飼い」としてご自身を語られる。私たちが道を見出すことが出来ない時、主イエスは私たちを呼びだし、私たちが帰り着く場所を示される。たしかにその道筋は、私たちに見えていた本筋とは異なるものかもしれない。それは、私たちが依っていた基盤と根拠を揺るがすこととなるかもしれない。けれども、それは私たちを真の平和へ、真の和解と対話への道へと呼び出す声なのである。
今、社会には偏狭な正義をで攻撃的に振りかざすことが空気のように浸透しつつある。他者を貶め非難し、自らの権威の正しさを疑わないことこそが、輝ける栄光の未来への道であり、その道は私たちの前に見えていると、私たちはいつのまにか思い込んでしまっているのではないか。そのような私たちに主イエスが呼びかけ、私たちがその声に聞く時、私たちは自分に見えている道ではなく、主イエスの声によって導かれる道へと歩みだすことが出来る。その道は私たちにとって、侮蔑の道、屈辱の道と映るかも知れない。なぜならば、私たちに呼びかけるのは十字架の低みへと下られた主イエスの声だからである。けれども、その十字架の先には新しい命があることを、主イエスはその復活によって示された。まさにその意味で、主イエスの呼び声は、私たちを主イエスの新しい復活の命へと呼び出す声に他ならない。

[説教要旨]2014/05/04「心は燃えていた」ルカ24:13−35

復活節第3主日

初めの日課 使徒言行録 2:14a、36-41 【新約・ 215頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 1:17-23 【新約・ 429頁】
福音の日課 ルカ 24:13-35 【新約・ 160頁】

 本日の福音書は、「キリストに出会うということを、大変印象深く物語っている。本日の福音書に登場する二人の弟子逃げ去るようにして、都エルサレムを後にしたのであろう。主イエスの十字架は、彼ら自身に危険が及ぶかも知れないという恐怖と不安の始まりでもあった。その途上は、一歩一歩が失意と絶望、恐怖と不安を深めるような、憂鬱で暗澹たる時間を過ごしたのであろう。そのいわば、この弟子たちにとっての人生最悪・最低の瞬間に、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」る。
 この時弟子たちは既に、主イエスが墓にはもう居られなかったということを知っていた。しかし、そのことはまだ彼らには、何の意味も持っていなかった。それゆえに、彼らは共に歩まれている方が主イエスであるということに気付くことができなかった。彼らの心の「目は遮られていて」彼らにとっての喜びであるはずの出来事を、空の墓に見つけだすことができなかったのである。その時の彼らは「暗い顔」をしていたと、聖書は告げている。キリストの復活を語る彼らはなお不安と絶望の中に留まったままであった。
 こうした弟子たちの姿を嘆いて、主イエス自ら聖書の説き明かしをされた時、彼らの中で決定的な変化が起こる。彼らが目指していたエマオの村に着いたとき、なおも先へ行こうとされる主イエスを二人は引き留め、共に食事の席に着き、パンを分かちあう。その時、彼らの「目が開け」、自分たちの目の前にいる方、共に歩んで来た方が主イエスであるということに気付くのだった。しかしその瞬間に、主イエスの姿は彼らの目からは再び見えなくなる。しかし、この時おそらく、再び部屋は空になってしまったにもかかわらず、彼らは最も近くに主イエスを感じたのではないだろうか。それは、主イエスの復活の知らせが単なる報告から、彼らの生き方を根本から変える力をもった出来事となった瞬間であり、まさに彼らが真の意味で主イエスに出会った瞬間であった。
 「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。二人はそう語り合い、時を移さず、ほんの少し前まで、最も逃げ出したい、恐ろしい場所であったはずのエルサレムへと向かう。客観的に見るならば、エルサレムからエマオへ逃げる時、逆にエマオからエルサレムへとへと向かおうとする時、この2つの場面において彼らが知っていた事実、「主イエスの死体は墓には無かった」という出来事に違いはない。しかし行きと帰りでは、その同じ出来事の持つ意味と力が全く異なったものとなっていた。「そこには何も無かった」という出来事は、復活の主イエスとの出会いを通して、絶望と不安の中で暗い顔をしていたはずの彼らに、燃える心、自分が逃げ出してきたはずのものへと立ち向かう力を与えたのだった。
 この物語がか語るものはまさにわたしたち一人一人の信仰生活そのものである。私たちが最も苦しく逃げ出したい時、私たち自身にはわからなくとも、主イエスは既に共に歩まれている。そして主イエスに出会う時、主の復活の出来事は、私たちに不安と絶望に立ち向かう力を与えるものとなる。
 私たちの生きる世界は、不安と絶望に満ち、希望も喜びも見出すことができないように見える。しかし、キリストはその私たちの不安と悲しみの道を共に歩んでいてくださっているのである。