2009年10月14日水曜日

[説教要旨]2009/10/11「子どものように神の国を受け入れる」

聖霊降臨後第19主日

初めの日課    創世記 2:18-24       【旧約・3頁】
第二の日課    ヘブライ 2:5-9        【新約・402頁】
福音の日課    マルコ 10:1-16       【新約・80頁】

  主イエスは、エルサレムへの十字架の道の途上で、弟子であるということは、どういうことなのかについて語られる。道の途上で、主イエスはまず論争を挑まれる。論敵たちは、「適法であること」「許されていること」が何かを問題にする。それはいわば、イエスが正解を有しているかどうかを試すための質問であった。しかし、主イエスは「正解」を答えることを拒否し、何が適法で正解であるかを求めようとする姿勢そのものを、鋭く批判される。十字架において犯罪者として処刑される主イエスにとって、「適法に生きる」ことは、決して神の愛を伝えることではない。主イエスにとって重要なことは、人が神の恵みを生きるようになることであり、ご自身の十字架の死はそのため以外のなにものでもなかったからである。離婚は適法か、を問う論敵たちに、主イエスは、神の創造の業について答えられる。それはまさに、神が作られた命の恵みのその根本を主イエスが問いかけられているのである。
  ついで、弟子たちが、子どもたちを主イエスに近づけようとした人々のことを叱る。未熟で分別の無い子どもが、尊敬する師を煩わせること、その教えを語るのを邪魔させることは、弟子たちにとっては許されないと考えたからであろう。そして、それは私たち自身にとっても「正解」であり「適法」であるように見える。しかし、主イエスが憤られたのは、むしろそうした「正解」と「適法性」を主張した弟子たちに対してであった。神の与えられた命において、分別と正解を有する大人と、そうでない子どもの間には、何ら差異はありえない。無分別な存在、足らざる存在、意に沿わない存在を煩わしく思うのは、分別を持ち、十分な能力を持ち、人を思いのままに動かすことのできる(と自分では考えている)人間地震が、そのように思うのであって、命を造り与えられた神ご自身なのではない。
  私たち人間は、いつも「唯一の正解」を得ようと欲してしまう。そして、自分が正解を得た時には、それ以外の答を「誤り」としてしまう。しかし、私たちの命の資質に「唯一の正解」などない。それぞれが、それぞれの命の答として、固有の価値を持つものなのである。しかしそれは、自らの正解を主張するような、自分自身の力を誇るものの目からは隠されている。むしろ、子ども様な、弱く足らざる存在のように、与えられた命を見る時に初めて、神が作られたこの世界の価値に気付くことができるのである。
  主イエスが十字架の死と復活を通して私たちに与えられた「神の国」もまた、自らの正解を主張するものの目からは隠されている。ただ、主イエスの十字架に頼るしかないもの、子どものように、自らの弱さと不足を受け入れるものにこそ、その神の国は開かれているのである。

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