2009年10月27日火曜日

[説教要旨]2009/10/25「希望の実現を待ち望む」

宗教改革主日

初めの日課 列王記下 22:8-20 【旧約・ 617頁】
第二の日課 ガラテヤ 5:1-6 【新約・ 349頁】
福音の日課 ヨハネ 2:13-22 【新約・ 166頁】

使徒パウロにとって律法とはどのような意味をもっていたか、ということについては、昨今様々な研究がなされている。ユダヤ人としての明確なアイデンティティを有していたパウロは、おそらく、律法そのものを否定していたわけではなかった。それは、パウロにとっては、自分がユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として歩んできた歴史そのものであったからである。しかし、福音宣教者としてのパウロにとって、律法すなわち自分の歩みは、救いの出来事の実現のために不可欠とされるものではなかった。なぜならば、パウロにとって欠かすことのできない、最も重要であったことは、キリストの十字架の出来事であったからである。パウロは、ガラテヤの教会の信徒に対して、彼らが「割礼」に象徴される律法に固執することのむなしさを語る。キリストの十字架による救いの恵みは、あらゆる人に対して等しく与えられる。したがって、ユダヤ人ではない彼らが、ユダヤ人になろうと努力したとしても、それは救いの出来事になんら関係がないのである。仮に、そうした努力をしたとしても、それが実ることはない。むしろ「そんな希望は実現不可能である」ということをただ思い知るだけである。パウロはむしろ、人間としての努力を超えたところにこそ、「希望が実現する」ことを語る。
人は、様々な「~でなければならない」「~してはならない」という規範を作りだしている。それは確かに、人間の生活を実り多くするために、必要なことであり、重要な事柄である。しかし、それは救いの出来事にとって、決定的で不可欠なものではない。パウロから大きな神学的影響を受けた宗教改革者ルターは、「律法によっては罪の自覚が生じるのみである」と語った。数多の「~ねばならない」によって私たちは、結局のところ、それをあますところなく実現し、理想とする生を確立することなど不可能であるという絶望に辿り着くしかないのである。
しかし、キリストの十字架と復活は、そうして人間の力の及ばない領域においてこそ、神の力が働くことを私たちに示している。人間が、自らの業を不完全で未完成のまま終えなければならないところ、それは神の業が働き、その欠けを満たされるところなのである。ヨハネ福音書では、46年をかけて完成したエルサレムの神殿で、主イエスはその年月に優るものがあることを示される。それは、ご自身の十字架と復活の出来事に他ならなった。多くの資力と労力、そして年月をつぎこんで完成した神殿は、その後の戦争によって廃墟と化し、古びた姿を晒すこととなった。しかし、人間の絶望の先に働く神の恵みは、どれほどの年月を経たとしても、その輝きを失うことはない。この恵みを通して、私たちは常に新しくされるのである。



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