2013年8月16日金曜日

[説教要旨]2013/08/11「小さな群れよ、恐れるな」ルカ12:32-40

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 創世記 15:1-6 【旧約・ 19頁】
第二の日課 ヘブライ 11:1-3、8-16 【新約・ 414頁】
福音の日課 ルカ 12:32-40 【新約・ 132頁】

 8月は日本社会においては、平和について思いを寄せなければならない季節である。しかし、私達が思い浮かべる平和とは、より大きな力を自分が有することによって、周囲の者を圧倒し、押さえつけることでしか成り立たない。過去の戦争の歴史を振り返るならば、より強い力を得ることで、自らの平和と繁栄を確保しようとしては、それが破綻し、大量の破壊と殺戮が繰り返されてきたことに気づく。したがって、私達が歴史に学び、真の平和を求めるのであれば、自らが強くなり、他の者を圧倒し押さえつけるのではない方法で、平和を構築していくしかない。けれども一方で、そのようなものは誰も見たことも体験したこともないような夢想・理想論でしかないではないか、それよりも今、強くなり、豊かになることの方が現実的ではないかとも非難される。ならば私達はどこに、真の平和のあり方を見出すことができるのか。
 十字架において、そのご自身の命すらも、私達の救いのために分かち合われた主イエスは、この十字架の待ち受けるエルサレムへの旅の途上で、弟子たちに対して、分かち合うこと、支え合うことを繰り返し語られる。そうした文脈の中で、本日の福音書では、「恐れるな」「富を天に積みなさい」という教えと、「終末に備えて目を覚ましているように」という教えとが語られる。一見無関係のように見えるこの二つの教えで、「盗人」=「泥棒」という同じ語が、敢えてそれぞれの教えの結論のところで用いられている背後には、財産に対する教えと、終末についての教えとの間に、強いつながりがあったことを示唆している。この二つを結びつけるものとは一体何なのだろうか。
 聖書が語る、終末・世の終わりとは、単に世界の破滅的な終わりの恐怖を煽るものではなく、神の国の完成と、主イエスとの再開への希望を意味していた。それは同時に、この地上で、人の命を傷つけ脅かすいかなる力、暴力も貧困も差別も抑圧でさえも、いずれ滅び去るものであることを意味した。それこそが古い世の終わり、そして新しい、まだ誰も見たことも体験したこともない世界が創り出される出来事であった。その時が一体いつなのかは誰にも分からない。けれども、そのまだ誰も見たことも体験したこともない神の国は、必ず、しかし人知れず、まるで盗人のようにやってくる。だから、主イエスの弟子であろうとするもの、主イエスに従おうとする者は、そのまだ見たことも体験したこともない神の国を思い描き続け、備え続けることが求められるのである。
 ならば、どのように備えることができるのか。その一つの示唆が、本日の前半の部分で語られている。それは「神の前に豊かになる」ことの内実でもある。「神の前に豊かになる」こととは、力と富を独占することではなく、分かち合うことに他ならない。そしてさらに、これは「思い悩むな」という教えの結論でもある。主イエスが語られる「思い悩むな」とは、単に消極的な制限・否定の戒めではなく、むしろ積極的に神の国を求める姿なのである。「小さな群れよ、恐れるな」とは決して困難なことから目を背け、見ないようにするという道なのではない。むしろそれは、私達が恐れることなく、まだ見ぬものへ向かって歩むための根拠なのである。平和について思いを寄せるこの8月、恐れることなくまだ見ぬ真の平和を求め続けたい。

2013年8月7日水曜日

[説教要旨]2013/08/04「平和―神の前の豊かさ」ルカ12:13-21

聖霊降臨後第11主日・平和の主日

初めの日課 コヘレト 1:2、12-14、2:18-23 【旧約・ 1034頁】
第二の日課 コロサイ 3:1-11 【新約・ 371頁】
福音の日課 ルカ 12:13-21 【新約・ 131頁】

 本日、8月第1日曜はルーテル平和主日である。68年前に多くの犠牲者を生み出した戦争、とくにヒロシマとナガサキの二つの原子爆弾の出来事は、日々風化しつつあるようにすら思える。しかし2011年3月11日の東日本大震災以来、真の平和とは何なのかということが問われている。解決されない放射能の問題、復興の名の下に切り捨てられて行く社会的弱者、そうした現実を前に、多くの人が、深い失望と絶望に、そして不安と危機感とにとらわれている。平和について考える時、私たちを本当の意味で満たすものは何なのかを問わなければならない。ルカによる福音書では、「財産」「富」に関する教えが度々取り上げられる。それは、奪い合いではない、真の豊かさとは何かを示す。この主イエスの言葉から「真の平和とは何か」を聞き取ってゆきたい。
 15節で、主イエスの「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉に続いて、一人の金持ちのたとえが語られる。17節以下の金持ちの独白は、新共同訳では気付きにくいが、これをギリシア語もしくはその他の言語で読むと、そのほとんどが「私」が主語となっていることに気付く。しかもそこでは「私の」作物、「私の」倉、「私の」穀物と財産、と何度も「私の」ということが強調されている。そしてついには「自分(=「私の」魂)に言ってやるのだ」と語る。いわばこの男はあらゆるものを「私」が独占することを追求している。客観的に見るならば、この人物は決して愚かな人物ではない。むしろ有能な優れた人物であり、彼はその自分の持てる能力によって、あらゆるものを独占し、幸福を追い求めようとしていると言える。しかし、この金持ちのそうした試みに対して、「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる」と神は語られる。この有能な人物が、どれほどその能力を駆使して地上の富の独占を実現したとしても、彼は自分の命を自分のものとすることは出来なかった。実のところ、ただ命の創造主である神から命を与えられ、生かされている存在に過ぎない全ての人間は、誰一人自分自身の命をしまい込み、独占することなど出来ないのである。
 この譬えを語られる主イエスご自身は、十字架を通して、そのご自身の命すらも私たちの救いのために分かち合われた。その十字架の主イエスに従う弟子として、神の前に豊かであること、それは私たちが、奪い合い、独占するのではない生のあり方、すなわち真の平和を求めることに他ならない。
 平和の実現を求め、自らの持てるものを分かち合っていくことは、時として、全く愚かな振る舞いであるかのように語られる。なぜそのような損を引き受ける必要があるのか。そのようなことは自分達の知ったことではない。それは後の時代の人間にまかればよい。むしろ今はなぜ強く、豊かになることを求めないのか。そのように非難されることがある。しかし、主イエスに従う私達は、そうではない神の前の豊かさとしての「真の平和」があることを知っているのである。それは奪い取り、独占することで、自らを満たそうとする姿の対局にある。喜びも痛みも分かち合うことの中にこそ、真の神の前の豊かさがあることを私達は思い起こすのである。私たちを神の慈しみが満たし、神の平和によって今日が守られることを憶えつつ、この平和を考える8月の日々を共に歩んでゆきたい。

2013年8月1日木曜日

[説教要旨]2013/07/28「祈るときには」ルカ11:1-13

聖霊降臨後第10主日

初めの日課 創世記 18:20-32 【旧約・ 24頁】
第二の日課 コロサイ 2:6-15 【新約・ 370頁】
福音の日課 ルカ 11:1-13 【新約・ 127頁】

 「祈り」そのものは、おそらくあらゆる時代の宗教の中で普遍的に行われる宗教行為であろう。自分ではどうにもならないこと、どうにもならない願いを、人は、人ならざるものに託す。そうした表面的な形だけを見るならば、キリスト教でなされる祈りも同じ行為であると言える。ならば教会で行われる「祈り」と、「呪術」「魔術」との違いは無いのだろうか。私達のなす「祈り」とは、自分ではどうにもならないことを、人ならざるものの力を利用して実現しようとすることでしかないのだろうか。
 本日の福音書では、まず最初に「主の祈り」として私たちが毎週の礼拝の中で唱えている祈りについて描かれ、それに続いて、求め続けることと、神はそれに応えられることについての主イエスの教えが語られる。他の福音書と異なり、ルカではこの2つが続いて述べられている。この主の祈りと、求め続けることの教えとは、ルカにおいてどのような意味で結びついているのだろうか。
 マタイ福音書と異なりルカの「主の祈り」においては、まずはじめに主イエスご自身が祈っておられる点が特徴的である。いわば弟子が祈りの言葉を得るよりも前に、まず主イエスの祈りがあることが示されている。私達の祈りは、まずなによりも主イエスご自身の祈りによって導き出されていることを、本日の福音書は語る。そして主イエスが弟子たちに与えられた祈りの言葉は、摩訶不思議な意味不明の呪文の言葉ではなく、むしろ、私達の日常に深く根付いた言語であった。祈りの言葉は、決して、人に理解出来ないような、特殊な言語ではなく、私達が生きるこの地上の命の中に根付いた言語なのである。しかし私達人間の言語が神を思い通りに動かすことなど出来はしない。主イエスが教えられる祈りは、命の造り主である神を、私達の思い通りに動かすためのもの呪文なのではない。むしろ全く逆に、私達が、神の愛と恵みによって満たされ、神の力のもとで動かされることを、祈り求めるものなのである。
 主の祈りはさらに、私達の地上での生活に結びつく事柄を祈り願う。しかし、それはただ私だけが満たされ、私だけが正しい者とされ、ただ私だけが救われるのではなく、「私達」の間に、神の愛と恵みが満ちあふれ、神の支配が働くこと、そしてそのことによって、私達が、私達の生きるこの地上が変えられて行くことを祈り願う。そのように読んで行くとき、後半の「求め続けること」は決して「私」一人のために求めるのではなく、「私達」の間に、神の愛による支配が実現することを祈り求め続けることを示しているとも言えるのである。そしてそれは、求め「続ける」こと、つまり、神の愛が満ちあふれること、それによって、私達のそのあり様が帰られて行くことを祈り続けることが決して無為・無駄で終わることはないことを約束されているのである。
 聖書が語る神の国とは、神の愛が支配する領域であり、その神の愛は、生と死との境目を超えてあらゆる領域へと及ぶ力であり、永遠の命への希望をもたらす力である。主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちを満たし、変えて行く、神の愛の力の証しに他ならない。十字架によって示される神の愛は、争いと憎しみを生み出そうとするあらゆるこの世の力をはねのけ、平和と公正、赦しと和解をつくり出すものとして、私たちと私達の世界を新たに創り変えてゆく力なのである。