2012年4月24日火曜日

[説教要旨]2012/04/22「あなたがたに平和があるように」ルカ24:36-48

復活節第3主日

初めの日課 使徒 3:12-19 【新約・ 218頁】
第二の日課 1ヨハネ 3:1-7 【新約・ 443頁】
福音の日課 ルカ 24:36-48 【新約・ 161頁】

主イエスの弟子たちが世に告げた復活信仰はキリスト教の中心的事柄であるが、それは「復活」という事柄のプロセス・過程についての単なる時系列的記述ではなかった。それは、主イエスは十字架に磔になって殺され、私たちのもとから失われたという決定的な喪失の体験と、主イエスは生ける者として私たちに現れ、私たちと共にいる、という、全く矛盾する二つの事柄を彼らがその生の中で体験し、その体験は彼らの生のあり方に決定的な変化をもたらしたことの証言であった。その体験によって、逃げ出そうとした者達は立ち戻り、隠れていた者達は人々の前に出て、黙していた者達は語り始めた。復活の主イエスとの出会いによって、彼らの人生は逆転を始めることとなったのである。
本日の福音書において、この復活の主イエスと弟子たちとの出会いが語られる。十字架で磔となって処刑された後、女性たちは空の墓を見出し、天の使いから主イエスの復活を知らされる。そして処刑の場となったエルサレムから立ち去ろうとした二人の弟子はその途上で一人の男と出会い、食卓の席でそれが主イエスであること知る。残りの弟子たちはこれらの証言を聞くが、それを受け入れることはおよそ出来なかった。指導者である主イエスを失い、また十字架へと連れて行かれる主イエスのもとから逃げ出してしまった彼らは全ての望みを失った挫折者であり人生の敗北者であった。そのような自分達が、再び世に出ることなどとても考えられない。おそらくそのようなことを話しているさなかに、主イエスが彼らのまん中に立って「あなたがたに平和があるように」と語られる。この出来事を前に弟子たちは「恐れおののき」「うろたえ」「心に疑いを起こす」。彼らが見捨てて逃げ出した主イエスが再び現れるとするならば、それは自分達にその報復をしに来た亡霊ではないか。そう考えても不思議ではない。しかし食卓の交わりを通して、彼らは「主イエスは生きている」ことを体験する。この復活の主イエスは、彼らが弟子としてふさわしい振る舞いを出来なかったことを咎め訴えるために彼らと出会われたのではなかった。むしろ逆に、挫折者・敗北者として倒れ伏す彼らを慰め、力づけ、立ち上がらせるためにこそ、彼らと出会い、平和を告げられるのである。この出会いによって彼らは、主と共にあることの意味、平和を分かち合うことの意味、赦しのメッセージを知る。そして彼らはやがて、「あらゆる国の人々」に主の平和すなわち赦しのメッセージを証言する者へと変えられる。
主イエスの復活によって示された新しい命は、それに「ふさわしい」と見なされうるような、「できる」者達だけに与えられたのではなかった。キリストは、この世に生きる全ての者に新しい命を与えるために、その命を差し出され、「ふさわしくない」「できない」者達に「平和があるように」と呼び掛けられた。だからこそ弟子たちは再び立ち上がって、主の復活を伝えることが出来たのだった。復活の主イエスは、今を生きる私たちにもまた、喪失と挫折、絶望と敗北の中に、新しい命、平和と赦しを与えてくださるのである。

2012年4月16日月曜日

[説教要旨]2012/4/8「わたしは主を見ました」ヨハネ20:1−18

復活祭

初めの日課 イザヤ 25:6−9 【旧約・ 1098頁】
第二の日課 1コリント 15:1−11 【新約・ 320頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1−18 【新約・ 209頁】

 主イエスの十字架の死の後の日曜の朝、マグダラのマリアは主イエスの墓を訪れるが、墓穴の中に主イエスの亡骸を見つけ出すことは出来なかった。マリヤは悲嘆に暮れ、空の墓について残りの弟子達に訴える。空の墓とは本来主イエスが死を打ち破り、復活されたことの徴であったが、初めにそれを見た時、彼女にとってそれは喪失に追い打ちをかける出来事でしかなかった。彼女が求めていたものは、彼女の元から失われてしまった主イエスの存在であった。そのような中で主イエスに呼びかけられた時、マリヤには復活の主イエスがその傍らにおられることに気付くことが出来ない。そのマリヤの姿は、聖書の語る復活とは、永遠の命とは何かを、逆説的に私たちに示している。復活・永遠の命とは、喪失したものが元通りに復元することや、今あるものが無制限に存続することではない。
 主イエスの復活・新しい永遠の命は主が十字架への道を逸れることなく歩まれたことによって実現した。仲間からも見捨てられ、無数の傷を受け、全てを失い、全く何もないところから、新しい命の出来事は始まった。それは無の闇からこの世を作られた、私たちの命の造り主である主なる神の創造の働きに他ならない。
 本日の箇所で、マリアは2回振り返る。1度目に単に体の向きを変えただけであった時、マリアは復活の主がそこにおられることを認めることは出来ない。しかし主イエスによってその名を呼ばれたマリヤは、2度目には主イエスに向き直り、そこに復活の主がおられることを知る。それは、ただ体の向きを変えたというではない。闇の中に光を生み出された神の創造の働きが、マリアの内にもまた新しい命を創り出し、そのことがマリアをして、その生の歩みの方向を変えさせたのである。その出来事は、マリアの歩みを180度変える。マリヤはもはや失われたものを嘆き訴えるためではなく、「わたしは主を見ました」と、その新しい命を始まりを告げるために仲間のところへ戻ってゆく。
 「わたしは主を見ました」という言葉は、ただの第三者が語るニュースではない。主イエスに呼びかけられ、主イエスに向き直り、復活の主イエスと出会ったものの言葉である。いわばそれは、失われたことの悲しみから、呼び出され、向き直り、新しい命の道を歩み出した者の言葉なのである。
 私たちは毎年、受難と復活を憶える時を繰り返す。それは、私たち自身が主イエスの死と共に、復活の命、新しい命に与ることを憶えるためである。嘆きのただ中にあるマリアは、主に呼びかけられて、復活の主へと向き直る。そして復活の主イエスに出会った喜びを他者に告げるために、押し出されてゆくのである。20世紀のドイツの神学者、D.ボンヘッファーは「イエス・キリストの復活は、被造物に対する神の肯定である」と語った。主イエスの復活、それは神によって創られた全ての命に対する祝福の出来事なのである。だからこそ、復活の主からの呼びかけは、失われたもの、不足していることを嘆くのではなく、今与えられている命への感謝と喜びを、他者と分かち合う生への招きなのである。

[説教要旨]2012/4/1「イエスは大声で叫ばれた」マルコ15:1−47

四旬節第6主日

初めの日課 イザヤ 50:4−9a 【旧約・ 1145頁】
第二の日課 フィリピ 2:5−11 【新約・ 363頁】
福音の日課 マルコ 15:1−47 【新約・ 94頁】

 本日の福音書の日課では、罪無きはずの主イエスが犯罪者として扱われ、見せしめ刑である十字架につけられる様子が延々と語られる。十字架は反逆者に対する見せしめの刑罰であった。十字架に磔になるということ、それはこのイエスという人物の歩みを全て否定し、そのすべての努力が潰えてしまったということを世に知らしめるための行為であった。この十字架を見上げて、「救い主」である筈の者がなぜここで磔になどなるのかと嘲る。この嘲りと罵りのなかで、主イエスは大声で悲痛な叫びを上げられる。
 主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ。たしかに誰の目から見ても、十字架に磔にされたその悲惨な姿は、神に見捨てられた状態としか映らない。しかしその叫びは私たちには奇妙な出来事であるように思える。救い主と言われる者が、なぜ苦痛に耐えられないのか。なぜ、そんな惨めな姿をさらすのか。もっと雄々しく、気高く、その最後を迎えられないのか。そのようにすら思うかも知れない。しかし、主イエスが大声を出して息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。この垂れ幕は、年に一度だけ神殿の最高権威であった大祭司だけが足を踏み入れることの出来た至聖所、つまり最も聖なる場所を人々から覆い隠すためにかけられたものであった。この幕を悲嘆の叫びを大声で挙げられた主イエスの死が引き裂いたのである。主イエスのその悲惨な十字架の死は、人々から隔てられ覆い隠されていた最も聖なるものをこの世に対して明らかとし、すべての人に主なる神との親しき交わりを可能とする出来事であった。それはまさに新しい契約、つまり全ての人に聖なる救いが、新しい命に生きる道が開かれたしるしであった。
 私たちは、主イエスの叫びは私たち自身の叫びであるということに気付く。救い主とは、遠いどこかから突然やってきて困ったことを片付けてくれるスーパーマンなのではない。私たちと同じ地平を生き、同じ苦しみを味わい、私たちと同じ嘆きの声を上げる、その方こそが私たちに最も近い存在であること、そして私たちをこの世の嘆きと悲しみ、恐れと絶望から救い出されるのは、私たちの苦しみに最も近づき、自らの命を私たちのために与えられた方であることを知る。
 主イエスは、ご自身を見捨てたとしてか思えない神に向かって「わが神、わが神」と呼びかけられる。それは、苦難と絶望を前に沈黙しているように見える神の背後に、神の聖なる救いの働きが隠されていることを確信する姿であった。その確信の中で神に向けられた「なぜ」という問いかけは、もはや悲嘆と絶望の表現なのではなく、むしろ神の救いの業を待ち望む祈りであり、希望の言葉である。主なる神はこの主イエスの叫びに応えて、聖なるものを覆い隠してた神殿の垂れ幕を引き裂かれたのだった。大声で叫び息を引き取られた主イエスは、その十字架の死に留まられず、やがてその死から甦り、聖なる救いの道、新しい命の道を私たちに示された。だからこそ主イエスの死は私たちを救う聖なる出来事なのである。

[説教要旨]2012/3/25「一粒の麦が…」ヨハネ12:20-33

四旬節第5主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ヘブライ 5:5-10 【新約・ 406頁】
福音の日課 ヨハネ 12:20-33 【新約・ 192頁】

私たちがどれほど願おうとも春の訪れを早めることも遅くすることもできず、ただその時が来るのを待つことしか出来ない。時を待つということは、私たちがこの世界を自分の思うままに操ることは出来ないということを受け入れることに他ならない。近代文明はそのような時の過ごし方を否定し、時間を区切り整理し効率的で生産的な時間を求め続けてきた。しかしその結果引き起こされたのは、利益を奪い合うことで起こる世界戦争であり、人間を生産性・効率性で判別し不要とされた者、意見・立場の異なる者を抹殺することであり、あるいは今の利益のために地球環境を傷つけ未来の世代への大きな負債を残すこと、いわば人間の闇を生み出すことであった。この闇の中で私たちはどこに光を見出すのか。その光はいつ私たちのもとへとやってくるのか。
本日の福音書には、過越祭にあたって主イエスが都エルサレムに迎え入れられた直後に、ギリシア人達が主イエスのもとを訪ねる場面が描かれている。各地で奇跡をなした男を見てみたいと訪ねてきたギリシア人達に、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られる。「栄光を受ける時が来た」というからには、どれほど偉大な影響力を発揮して、世の中を自分達の都合の良いように変えてくれるのかと期待しただろう。しかし主イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」と続ける。「地に落ちて死ぬ」ことがなぜ「栄光の時」なのか。栄光の時というならば、人々の期待を着実に実現し強く大きくなっていく時を思い描いていたのではないだろうか。しかし、主イエスが語られる時は人間が期待する栄光の時とはおよそかけ離れたものであった。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが十字架へとかかるためにエルサレムを訪れる時が来たことを語られたのだった。それは失うことを受け入れる時、挫折と絶望を受け入れる時であった。
しかしさらに主イエスは「だが死ねば多くの実を結ぶ」と語る。失うことを超えてこそ、多くの実が結ばれる、人間の期待と思いを越えたその様な時がまさに今やってくると主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということは、麦がそのもともとの形を失ってしまうということである。たしかに、麦は土に落ちると、もとの形を失ってしまう。しかしそれによって初めて、季節が巡り麦は実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば損失・無価値なことである。しかしその先に豊かな実りをもたらす時が来るということを主イエスは語られる。そしてその時は、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやって来るのである。
偉大な力を見たいと願ったギリシア人達は、エルサレムで主イエスの十字架を見上げることとなった。私たちも今、主イエスの十字架を見上げて復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの計画や思い、そうしたものをすべて超えた希望の光に満ちたその時が私たちのもとにやってくるとき、その光は私たちを取り囲む闇を打ち負かされる。

[説教要旨]2012/3/18「一人も滅びることなく」ヨハネ3:14−21

四旬節第4主日

初めの日課 民数記 21:4−9 【旧約・ 249頁】
第二の日課 エフェソ 2:1−10 【新約・ 353頁】
福音の日課 ヨハネ 3:14−21 【新約・ 167頁】

 私たちの生きるこの世界において、正しさとは「私の主張する正しさ」でしかない。そのような「正しさ」を求めつづける時、私たちは、分断と対立を生み出すだけの孤独で決して満たされることのない、ただ暗い夜の闇の中にひとりぽつんと取り残された存在であることを思い知ることとなる。
 本日の福音書の日課は直前の箇所には、夜の闇の中でユダヤの律法の教師であるニコデモという人物が主イエスのもとを訪ねる場面が描かれている。彼が主イエスを訪ねたのは、単に好奇心からだけではなく、自分に欠けている何かをこのイエスという人物に求めたからであった。しかしながら、この二人の会話はまるでかみあわない。敢えて言うならば、ニコデモは自分の価値観、自分のがこれまで生きてきた世の常識、優先順位の延長上に、自分の救いと解放を見ようとしているのである。
 本日の福音書では、このニコデモとの対話に続く、主イエスの言葉が語られる。新約聖書では、この私たちの生きる地上の世界を指して「世」という言葉が度々用いられている。この語は新約全体で180回以上用いられているが、その半数近い80回近くがヨハネ福音書の中で語られている。その多くは非常に否定的な意味で用いられている。つまり、主イエスによって示された救い、永遠の命と対局にあるものとして、この地上の世界とその価値観の中で生きる私たち自身が語られている。しかしそれにもかかわらず、本日の福音書の中で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と主イエスは語られる。神の国と対立するものとして、相容れないものとして「この世」が語られているにもかかわらず、それは神の愛の対象であり、神のみ旨はこの「世」を裁くことではなく救うことであると、主イエスは語られる。主イエスは、人の価値基準において正しい者だけのために十字架でその命を与えられたのではなかった。主イエスの十字架は、この世の闇の中でうめくあらゆる者に対して、新しい命を、光を与えるためのものであった。ここにまさに、私たち、地上の価値観、自分と同じ意見・立場のものを正しいとして、そうでないものを誤った正しくないものとして排斥する、そのような私たちの限界を超えた、神の愛の姿がある。私たちの正しさいかんに関わらず、主イエスの十字架を通して私たちを神はその結びつき、親しき交わりの中に呼び返して下さっている。この交わりは、主イエスがその十字架で私たちのために与えられた新しい命の故に実現する、憐れみ豊かな神との親しき交わりである。それはまた私たち一人一人が、互いに赦し合い、慰め励まし合う、信頼の交わりのなかに招き入れられることをもたらす。その交わりは、私たちをして、むしろこの世の現実に目を向け、私たちを必要とする兄弟姉妹を見出し、赦しと慰めの交わりを造り上げることへと私たちを促していくのである。