2013年9月29日日曜日

[説教要旨]2013/09/22「本当に価値あるもの」ルカ 16:1-13

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 アモス 8:4-7 【旧約・ 1439頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 2:1-7 【新約・ 385頁】
福音の日課 ルカ 16:1-13 【新約・ 140頁】

 この譬えの登場人物である「不正な管理人」の何が「不正」であったのか、ということを巡っては、古くから議論がある。いずれにしても、このたとえ話だけからでは、私たちは、この管理人の行為と、主人が誉めたという行為との間には、論理的なつながりを見出すことは非常に難しい。そこでこのルカ16章全体に目を向けると、ここでは特に「富」の扱いについての注意を喚起させていることに気付く。ルカが福音書を編纂した時代、富をどのように扱うかということは難しい問題であった。ローマ化された都市では、名声と名誉を求めて、より上の高い階層を目指すことは人生の価値そのものであり、そのためには多くの財産が必要であった。より良き生を求めて、エリート階層は蓄財に励んだ。その結果として、農村は税金や借金を通してその全てを搾り取られ、多くの人々が土地を失い、奴隷へと身を落としたが、それは大変不名誉なことであり、何としても避けたい危機であった。本日の3節の管理人の不安の言葉は、そうした現実を映し出す。そこでは富とは、自分自身を高みに引き上げ、より良き人生を守るためには、欠かすことの出来ない頼るべき唯一のものであった。しかし、本日のたとえ話では、「不正な」とされている管理人は、その人生の危機にあたって、富ではなく、友をつくることに、すなわち助け合い、補うあう仲間に、自分自身の命の根拠を見出すこととなる。それは大いなる皮肉と言わざるを得ない。富が支配する世界から転落することを恐れた結果、富ではないものによって支えられる世界を、この不正な男は見出すこととなるからである。
 さらにこの物語の皮肉な要素は、私たちが生きている価値観や秩序にも向けられる。私たちは、自分の知っているこの生のあり方こそが、「正しい」価値であり、それを主張すれば、誰もがそれを受け入れるべきと思い込んでいる。だから「不正な」管理人が賞賛されるというこの物語は、私たちの価値観からすれば、あり得ないことなのである。したがって、この物語は私たちの価値観と生の在り様を問い直すこととなる。
 私たちの将来にとって、本当に価値あるもの、わたしたちにとって決定的であること、それは神の国における救いに他ならない。それは富によって決して手に入らないものなのである。むしろただ、私たちは、その神の国に向かって、主イエスの後を共に歩む、信仰の友、信仰の共同体だけが、私たちに備えられた地上の財産であることを、この極めて皮肉なたとえを通して、私たちは気付かされることとなる。この地上において、価値の無いものとしてあざ笑われる時、私たちは嘆く必要な無い。それは神の国において決定的な事柄ではない。本当に価値あるものは、ただ神によって私たちに与えられる。主イエスが十字架において処刑されたということは、この世において最も価値無き者となったということであった。しかし、その主イエスを神は甦らされた。この十字架の元に私たちが呼び集められる言うこと、それは、この地上における価値観では、自らにとっては価値無き者、無意味な者と見なされたとしても、神は共に主イエスの後に従う群れに必ず救いを与えて下さるのである。地上の言葉によって傷つく私たちは、その十字架の主イエスの言葉によって招かれ、そして共に歩む力を与えられる。

2013年9月21日土曜日

[説教要旨]2013/09/15「一緒に喜んでください」ルカ15:1-10

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 出エジプト 32:7-14 【旧約・ 147頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 1:12-17 【新約・ 384頁】
福音の日課 ルカ 15:1-10 【新約・ 138頁】

 私たちは、自らの利益を見込むとき、期待に胸をふくらませて喜ぶ。しかしそれは、同時にその影で、奪い取られ、与えられずに捨て置かれる声があることを忘れさせる。ならば私たちが、本当の意味で、喜びを分かち合うことは、どのようにして可能なのだろうか。
本日の箇所では、「徴税人や罪人が皆」、主イエスのもとにやってきたことが報告されている。ます。1世紀の時代、徴税人は異教徒であるローマ帝国の手先として厭われた職業であった。徴税人は金持ちであったというイメージがあるが、福音書ではザアカイの他には、そのことは明示されてはいない。むしろ道端で異教徒、外国人の手先として金を集め、時として、規定以上にとりたてようとすることもあり、人々からは「こずるい奴ら」というような扱いをうけていたようである。その一方で、取り立てた税は、元締めに吸い取られてしまい、何かトラブルがあれば、まっさきに首をきられる。そのような不安定な立ち場にあった者が圧倒的に多数であった。またここで、徴税人と並んで登場する「罪人」は、いわゆる道徳的な意味で悪いことをしたとか、現代的な意味での犯罪者ということだけを意味していたのではなかった。むしろ、ユダヤの民としてふさわしい基準、律法を守ることができないような職業についている人々をも意味していた。たとえばそれは安息日にも働かなくてはならない人であった。彼らはいわば、当時のユダヤの社会の基準でいうならば、ふさわしくない、つまはじきにされた存在でありました。
 そうした人々と共に、主イエスが交わり、食卓を共にされることを、ユダヤの民としてふさわしく、敬虔で信心深い者として尊敬と信頼を集めていた者たちが非難する。これに対して、主イエスはたとえを用いて応えられる。羊の放牧、家の中での探し物、それらはいずれも民衆の生活そのものであった。しかし、その日常生活の中で繰り広げられる出来事は、私たちの考える価値観からあまりにもかけ離れたものであった。99よりも1の方に、大きな喜びがあり、それは(この後につづく譬えから類推するに)近所の人を招いて宴席を催すほどだというのである。あるいは1枚の銀貨が、友達を招いて(やはりここも何らかの宴席を設けて)祝うほどの価値があるというのである。一匹の家畜の値段がどれぐらいであったかについては、その種類や大きさによって諸説あるが、およそ100日分の日当に相当したと思われる。銀貨はおよそ一日の日当に相当した。したがって、祝宴の規模にもよるが、それらはいずれも、決して経済効率としては良いものとは言えなかったと思われる。つまり、当時の物価を考えるならば、これらは、およそふさわしくない振る舞いであるとしか言いようがないのである。しかし、そのふさわしくない振る舞いは、天をも巻き込む大いなる喜びを分かち合うことをもたらすというのである。
 十字架へと向かう主イエスは、罪人と共に歩まれ、そして、その十字架によって、贖うにふわさしくないはずの私たちのために、その命を分かち合われた。この主イエスの十字架によって、私たちは大いなる喜びへと招かれているのである。主イエスによって招かれている、この喜びを憶えつつ私に達に備えられた日々を歩んでゆきたい。

2013年9月10日火曜日

[説教要旨]2013/09/08「十字架を負って」ルカ14:25-33

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 申命記 30:15-20【旧約・ 329頁】
第二の日課 フィレモン 1-21 【新約・ 399頁】
福音の日課 ルカ 14:25-33 【新約・ 137頁】
説   教 「 十字架を負って 」

 本日の福音書箇所は、主イエスがガリラヤからエルサレムへと向かうその旅の途中で、ご自分の後を一緒についてきた者たちに「振り向いて言われた」とある。それは、旅の終着点であるエルサレムでの十字架を主イエスが見据えていることを思い起こさせる。本日の箇所の前半では、主イエスに従う者は、あらゆるもの、家族の絆、また私たちの命にすら優先して主イエスに従わなくてはならないことが語られる。それは、私たちと主イエスとの関係は全てに先立つものであり、むしろその主イエスとの結びつきが成り立つ時、私たちの既存の信頼関係また私たちの命すらも、全く新たなものにされることを示している。
 そして本日の福音書の後半では、いわば主イエスの弟子として、主イエスに従おうとする者の心構えとは、慎重に検討し、勇気を持って思い切った決断を下さなくてはならないものであることが語られる。この後半に語られる二つのたとえを読み返すならば、そこには「腰をすえて」という表現が共通していることに気付かされる。腰をすえる、ということは、何か別のこと意図しながらではなく、そのことに専心するということでもある。一度に押し寄せる数多くの準備から離れ、腰をすえて考えるのだ、と語るのである。つまりこれらの譬えは、終着点に辿り着くという一点以外の、全てから離れ去ることを語っている。家族と命を捨て、自分の十字架を負って主イエスに従う前半の教えと、後半の譬えがこの点で結びつく。
 古代の社会と文化において、家族とは一族郎党を含む大家族であり、その集団によって積み上げられてきた伝統、名声、財産をも示唆していた。そうした意味で、家族はこの世での力の根拠であり、自分の生の価値でもあった。したがって、家族また命すらも失うという教えは、自らの力を過信し、思い通りに他者と世界を動かそうとする者にとって、厳しい警告となる。しかしその一方で、全てを失い、挫折と苦しみのなかに投げ出される者にとって、それは大いなる救いの言葉となる。
 弟子達は、ガリラヤからエルサレムへと向かう主イエスの後を、自分自身の決断と意志によってついていっていると考えていた。しかし十字架へと向かう主イエスの後をついてゆくことはできなかった。しかし、まさに彼らがそういう存在であるからこそ、主イエスはその死を超えて彼らの元へと戻られたのであった。十字架の死に打ち勝たれる主イエスがその傍らで共に歩まれることによって初めて、人はあらゆることに優って主イエスに従うことができるのである。まさにその意味で、ガリラヤからエルサレムの旅は、実は、弟子たちが主イエスについていく旅なのではなく、主イエスが弟子たちと共に歩まれる旅であった。
 主イエスと共にその人生の旅路を歩むためには、出自も、家柄も、財産も関係がない。ただ一人一人が、何も持たざる者であり、苦悩する弱い人間であることそのものが問題なのである。そして、その苦悩の先には新しい命があることを、主イエスはご自身の十字架の死からの復活によって示された。その意味で、私たちが自らの十字架、つまり自らの苦悩を負う時、主イエスは私たちと共に歩んでくださっているのである。主イエスが私たちの人生の旅路を共に歩まれるからこそ、私たちは全てに優って主イエスに従うものとして、喜びと希望に満ちた新しい命への道を歩むことが出来るのである。

2013年9月4日水曜日

[説教要旨]2013/09/01「キリストの祝宴においては」ルカ14:1、7-14

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 箴言 25:6-7a 【旧約・ 1024頁】
第二の日課 ヘブライ 13:1-8、15-16 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 14:1、7-14 【新約・ 136頁】

 十字架の待ち受けるエルサレムへの旅の途中、14:1で主イエスは安息日にファリサイ派の議員の家に食事に招かれ、そこで病気の者を癒し、続いて宴席の譬えが語られる。主イエスの癒しの出来事は神の国の先触れであった。したがってここでは、主イエスが共にいる食卓が神の国の宴席に譬えられていることが示唆され、十字架の死に至るまで自らを低くされた、主イエスの生き様に私たちが倣うということこそが、神の国の宴席で欠かすことのできない振る舞いとして示されている。主イエスは十字架へと向かう途上で、抑圧され排除された人々へ関わり、食卓を共にされた。この世の価値観によって差別され、排除され、抑圧されてきた者たちにとって、イエスと出会い、招かれ、食卓を共にするという出来事は、自らを苦しめるこの世の力からの解放の出来事に他ならなかった。まさにその意味で、主イエスとの食卓は、救いと解放の出来事であった。そして本日の福音書では、この主イエスの言葉を聞く私たちもまた、主イエスの謙虚さに倣い、低みへと向かいつつ、この世において招かれざる者を招くことを教えられる。
 ここに、主イエスの捉え方についてのルカによる福音書の特徴が現れている。すなわち、無条件に私たちに出会い、招き、私たちを苦しみから解放し、救われる方としての主イエスの姿が示される一方で、同時に、私たちがそのみ後に続くことによって初めて出会うことができる、目指すべき模範としての主イエスの姿が重ね合わせられている。それゆえに、この同じ主イエスの言葉は、それを聞く者の立場によって、その受け取り方が異なってくることとなる。つまり、「お返しができない」「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」たちにとって、主イエスの言葉は無条件の救いの言葉であり、招きの言葉である。しかし同時に、人を招く余裕のある者、あるいは、盛大な宴会に招かれるような地位と名誉を持っている者にとっては、それは警告と戒めの言葉となり、主イエスとの出会いを求めて、主イエスに倣い、そのみ後に従い、低みへと下って行くことが促されることとなる。
 そのことは福音書をまとめたルカの教会の背景と、私たちの教会がおかれた状況が似ていることを思い起こさせる。おそらくルカの教会は、弱小集団にすぎないことを嘆きつつも、既に、決して困窮しているわけでも、特別に抑圧されているわけでもない、そのような集団となっていたのであろう。しかしそのような中で、主イエスの言葉から救いのメッセージを受け取り、それを伝える教会の使命は何かを見いだそうと模索していたのであろう。
 もし教会が現に今持っているものだけに目を向けるならば、ただその小ささと弱さを嘆き、孤立の内に取り残されるだけである。しかし教会が、抑圧され、言葉を奪われた人々に解放をもたらされた主イエスのみ後に続くならば、あの神の国の祝宴の喜びと希望に満たされることができるのだと福音書は語る。主イエスに倣い、他者のために自らを用いる時、私たち自身もまた大いなる尽きることのない喜びに満たされる。そのことを、この世の価値観・処世術では説明することはできない。しかし、十字架の死から甦られた主イエスは、決して消えることの無い希望として信仰者の群れを導くのである。主イエスの呼びかけに応える群れとして歩みたい。

[説教要旨]2013/08/25「癒しと解放の時」ルカ13:10-17

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 イザヤ 58:9b-14 【旧約・ 1157頁】
第二の日課 ヘブライ 12:18-29 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 13:10-17 【新約・ 134頁】

 私たちが、自分の経験や知識、秩序の外側にあるものに触れ、受け入れることは、決して簡単なことではない。それは私たちの築き上げてきたもの否定しかねない脅威だからである。しかし、私たちが自らの内側の論理だけに依拠するとき、私たちは致命的な誤りを繰り返さざるを得ないことを、私たちは過去の戦争の歴史から学ぶ。ならば、私たちはどこから、自分達の外側にあるものから聞く勇気を得ることができるのだろうか。
 本日の福音書は、世の終わりについて語られてきた直前までの箇所から一転して、「癒し」と「安息日についての論争」が語られる。しかし「世の終わり」もまた、この地上に「神の国」が実現することの教えであり、また本日の日課に続く13:18以下においても、「神の国」についてのたとえ話である。そして、なによりも「癒し」の出来事は、そこに神の国の先触れが現れていることの徴に他ならなかった。十字架の待ち受けるエルサレムへと向かう途上で主イエスは様々な角度から神の国について語られる。
 前半では18年間腰の曲がった女性の癒しが語られる。この女性が敢えてここで「病の霊にとりつかれている」という表現がなされている。それは、この女性の癒しを告げる主イエスの言葉「婦人よ、病気は治った」という言葉が、直訳するならば「病は離れ去った」と語っておられることに対応する。主イエスの言葉こそ、命を脅かす力に打ち勝つものであることを、福音書記者は特に強調する。
 後半ではこの癒しの出来事が安息日に起こったことを巡っての論争が巻き起こされる。緊急性がないにもかかわらず、なぜ安息日でなければならなかったのかを問題にする宗教的指導者たちの言い分は、ある意味で妥当である。安息日が創造の完成であることを憶えるために労働が制限されることは、少なくとも、ユダヤ・イスラエルの地で生きてきた人々にとって、誰もが知り経験している秩序であった。しかし主イエスは「偽善者達よ」という厳しい言葉で応えられる。
 この女性について主イエスは18年間サタンにしばられていたと語る。その背後には、「18年間もの間、サタンの支配にあるということは、それ相応の罪をおかしているに違いない」という世間の目にこの女性がさらされ続けてきたことが暗示される。主イエスを非難する宗教的指導者達は、いわばそうした「世間の目」を代表する立場であった。彼らが自らの秩序の枠組からのみこの女性に向かう時、痛みを分かち合うことは阻まれ、むしろ増し加えられることとなった。主イエスの言葉は、自分達の秩序に留まろうとすることが、むしろ他者への愛の欠如を招いていることを明らかにする。実に主イエスは、その十字架によって無限の神の愛をこの世界に分かち合われたのであった。
 主イエスは安息日であっても癒しはなされるべきであると語る。なぜならば、安息日は神の創造の業が完成されることであり、それは神の国が立ち現れることに他ならなかった。主イエスの言葉によって癒しと解放がなされる時こそが真の創造の完成であり、それは十字架に向かう主イエスの言葉によって私たちに示される。たしかに、私たちが、自分達の経験の外側から学ぶことは困難である。しかし、主イエスの言葉は、そのような私たちを、私たちの外側にある、真の創造の完成・キリスト者がめざす真の平和へと招いている。

[説教要旨]2013/08/18「分裂と対立を超えて」ルカ12:49-56

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 エレミヤ 23:23-29 【旧約・ 1221頁】
第二の日課 ヘブライ 11:29-12:2 【新約・ 416頁】
福音の日課 ルカ 12:49-56 【新約・ 133頁】

 本日の福音書の日課で語られる「火」という表現を聴くと私たちはおそらくまず破壊的な裁きの炎を連想する。しかしルカ福音書の続巻である使徒言行録の冒頭では聖霊降臨の出来事として天から下る炎が語られている。聖なる神の霊の炎によって浄められた弟子たちは、福音を世に伝える者として新たな命を与えられた。火は恐るべき裁きの炎であるのと同時に、聖なる力によって浄められ、新たな命が燃え立つ様子をも表す。火がもつこの二つの性質は、聖書が語る「世の終わり」の持つ両義性と重なる。確かに世の終わりは一面では裁きと滅びを語るが、それは命を傷つけ抑圧する古い時代の力が裁かれ滅び去ることを告げる。そして他面では、全ての涙と悲しみが報いられ、神の愛と正義が満ちる場が実現することをも示す。その意味で、主イエスが地上に投じられる火とは、古い世を新しい世へと造り替えるものなのである。
 さらに本日の日課では、世を新たにする主イエスの炎は、主イエスが受けねばならない「洗礼」と結びついている。エルサレムへと向かう旅の途上で主イエスが語られる「受けねばならない洗礼」とは、主イエスを待ち受ける十字架の出来事に他ならない。世を新たにする主イエスの炎は、十字架の出来事として私達が生きるこの地上にもたらされる。主イエスはその十字架の死によって私たちにご自身の命を分かち合われ、しかしその死に留まらず永遠の命への道を私たちに開かれた。主イエスの十字架こそが、私たちの生きるこの地上の世界を、新たなにしうる唯一のものなのである。そうであるならばこそ、なぜ主イエスは十字架が分断と対立とをもたらすと語られるのだろうか。
 実に、主イエスのもたらす平和は根本的かつ決定的なものであり、一時的な、いずれ変わりゆくものではない。主イエスのもたらす平和とは、生きる術と力を奪われ抑圧され差別された者達のその涙と呻き・嘆きの声に報いられるものなのである。この主イエスの真の平和が私たちのもとにもたらされる時、そこで問われるのは、主イエスの平和が私たちにとって居心地が良いかどうかなのではなく、全く逆に、私たちの方が主イエスの平和にふさわしいものであるかどうかが問われる。
 私たちが生きているこの地上の世界においては、人は自分の既得権益が脅かされることを恐れ、悪がどこから生じているのかを明かにすることを好まない。私たちが生きているこの地上の世界は既にその内側に決定的な歪みと断絶を抱えていながら、私たちはそれに向き合うことを恐れている。むしろ、歪みも断絶もあたかも存在しないかのように隠し、それによって生み出される負債と矛盾を他者に、あるいは未来に押しつけようとしている。それこそが私たち人間の姿に他ならない。しかし主イエスはその言葉によってこの分裂と対立をその根底まで明らかにし、ご自身の十字架によってその命を与え、全く新たなものとされる。私たちに主イエスがご自身の命を分かち合われたことによって、私たちは自らの内にある分断と対立に、恐れることなく向き合い、乗り超え、新たな世界・新たな分かち合い支え合う命を生きることが出来るのである。真の平和とは何かを主イエスの言葉から聞きつつ、主イエスの十字架と復活によって新たな命を生きることを求めつつ、この残された8月の時を歩みたい。