2009年9月15日火曜日

[説教要旨]2009/9/13「この方のなさったことは全て」

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    イザヤ 35:4-10       【旧約・1116頁】
第二の日課    ヤコブ 1:19-27       【新約・422頁】
福音の日課    マルコ 7:31-37       【新約・75頁】

 ティルスというフェニキアの街から、同じくフェニキアの大都市であるシドンを経て、デカポリス(ギリシア語で10の都市の意)というかつてのギリシアの植民都市群を抜けて、主イエスは再びガリラヤへと戻ってこられた、と聖書は告げる。実際には旅行不可能なこの記述は、ガリラヤの周辺のいわゆる「異邦人」の地の全てを挙げているようなものである。これら「異邦人」の地と、「イスラエル」の地を行き来する主イエスの動きは、神の福音の働きは、人の引いた境界線にはとらわれないことを、私たち読者に物語る。それは、直前の段落に描かれた、シリア・フェニキアの女性との出会いと相まって、主イエスと、自分たちを「清く」保とうとした者たちとの間に、鋭いコントラストを描き出している。
 そもそもガリラヤという土地そのものが、エルサレムから見たときに、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる程に辺境に位置する地域であり、むしろ「純粋さ」「純血性」を失っている地域であった。だからこそ、エルサレムから来た、「清さ」にこだわる人々は、ガリラヤ出身であった主イエスを非難せずにはいられなかったのである。彼らから見れば、このイエスという存在は、「清さ」と「汚れ」とのグレーゾーン、別の言い方をするならば、「我々」と「奴ら」との間のグレーゾーンに属する存在であった。その人物が神について語るということは、彼らには耐えられなかったのである。
 その一方で、境界線を踏み越え、そしてまた戻られた主イエスは、耳が聞こえず、舌のまわらない人を癒す。それは、イザヤ書35章に預言された救いの実現の出来事に他ならなかった。神の救いの出来事、つまり神の国の実現は、何者かが純血であることや中心にあることによるのではない。むしろ、私たちが周辺に追いやり、見向きもしないところにこそ起こるのである、ということを福音書は私たちに告げている。
 ご自身の奇跡の働きを誰にも言ってはならないと主イエスは命じられる。それは、十字架と復活の出来事に至って初めてその奇跡の業の真意が明かされるからであった。主イエスの十字架の死とは、主イエスの命が、人間の考えるあらゆる価値のうちから捨て置かれ、もっとも周縁に追いやられた出来事であり、復活とは、まさにそこにおいて、神の救いが実現した出来事であった。
 主イエスの命令にも関わらず、人々は「この方のなさったことはすべて、すばらしい」とほめたたえ、言い広める。それは、中心であるエルサレムから来た人々の態度と好対照をなしている。人々が、主イエスに近づくとき、それはいわば、もっとも「周縁との境界線」に近づいている。それは同時に「十字架に近づく」ということでもある。しかし、その時人はもっとも鮮やかに、神の救いの出来事を知ることができるのである。


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