2009年4月15日水曜日

[説教要旨]2009/3/22「永遠の命を得る」

初めの日課    民数記 21:4-9 【旧約・249頁】
第二の日課    エフェソ 2:4-10 【新約・353頁】
福音の日課    ヨハネ 3:13-21 【新約・167頁】

 現代の日本社会に生きる私たちは、人間もまた商品としての価値を持つことが当然であり、その能力や付加価値によってランク付けされることが当たり前であるかのような日常に直面させられている。しかし、私たち一人一人の命の意味が、そうした能力や付加価値によって決められてしまう時、人は終わることのない競争と落伍することへの不安に脅かされることになる。
 ニコデモは、ユダヤの議員であり、律法の教師であった。それはニコデモが、傍目から見るならば、羨む人もいたであろうような、ある程度の社会的地位を有していたことを物語っている。しかし、そのニコデモは、人眼を避けるかのように夜に独り主イエスを訪ねる。
 ニコデモは彼がこれまで得てきた知識に基づいて、主イエスの言葉を理解しようとするが、「新しく生まれる」ということをどうしても理解できない。私たちもまた、自分達が生きているこの世界の論理にのっとって考えるならば、このニコデモの立場はむしろ極めて「常識的に」物事を理解しているように思われる。しかしむしろ、主イエスが語るのは、そうした私たちの生を成り立たしめているその基盤そのものを問うものである。確かに私たちは、自分が生きていることを知っている。しかし、その命がどこから来たものなのか、そしてどこへと向かうのか、なんのための命なのか、そうした事柄について私たち自身の生活の中から答えを見出すことはできない。しかし、主イエスが天の国と新しい永遠の命について語る時、それは私たちに命の意味を示す。イエスがこの世に来たのは、世を救い、永遠の命を与えるためであった。すなわち、私たちの命とは、主イエスの言葉に出会い、主イエスによって救われ、新しい永遠の命を生きるべき命なのである。
 ニコデモと主イエスとの対話はいつのまにか、主イエスの説教であるかのように語られる。それはまるで、物語の中での会話であったものが、途中からは今聖書を読む私たちに向けて、主イエスが語り始められているかのような印象を与える。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」教師・議員として、世の中の常識的な価値観を背負っているニコデモへ主イエスが語られたこの言葉は、それはこの地上の価値観の中でがんじがらめに捉えられている私たちのところにも、まるでそうしたしがらみなど存在しないかのように、まるで風が吹くかのごとくに届けられる。


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