2009年6月25日木曜日

[説教要旨]2009/6/14「新しい革袋に」

聖霊降臨後第2主日

初めの日課    ホセア 2:16-22       【新約・1405頁】
第二の日課    2コリント 3:1-6       【新約・327頁】
福音の日課    マルコ 2:18-22       【新約・64頁】

 本日から聖壇布が緑へと変わり、「教会の半年」が始まる。いわばそれは、雨と陽光を受けて、木々の緑が成長していくように、教会もまたみ言葉を受けて成長していく時である。そして、雨も日の光もいつでも優しくはないように、み言葉もいつも口に甘いわけではなく、時として厳しい問いを私たちに問いかける。
 本日の福音書は、「断食」の実践を巡っての論争から始まっている。当時のユダヤ社会における一般的な宗教的価値観では、「断食」とは「敬虔さ」を現す指標であった。そして「敬虔である」ということは、いわば「信仰深い」ということと同義であった。したがって、主イエスの弟子たちが断食をしないのは何故かという問いがなされたのは、言うならば「彼は敬虔ではないのではないか」=「彼らは信仰深くなどないのではないか」という疑義をぶつけられたということであった。
 主イエスはこれに対して、「断食をする・しない」が敬虔さを表す本質なのではないことを、婚宴の例えを用いて応える。すなわち、「断食」という行為そのものに、「信仰」の本質があるのではない。そうではなく、主イエスとのつながりのあり方こそが「信仰の本質」であり、まさに福音に他ならない。主イエスがともにいるとき、断食は信仰深さ意味しない。むしろその非日常的な祝祭の時を共に喜ぶことが重要だからである。しかし、十字架・復活そして昇天を経て、主イエスが地上に共におられなくなった日常生活の中では、それらの出来事を憶えて断食をすることは一つの意味を持つ。実のところ、断食という振る舞いが信仰の本質としての福音を形作るのではない。あくまでも主イエスとの関係の在り方が、人をして、時に断食をしたり、しなかったりさせるに過ぎないのである。
 敬虔そうな振る舞いによって信仰を捉えようとする時、信仰の在り方は、ある枠組みを守れるか守れないかという、きわめて画一的なものとなってしまう。そして、そうした振る舞いに対する評価は、ある時代のある場所のある人々には当てはまったとしても、必ずしも異なる時代の異なる場所の異なる人々には適合するとは限らない。むしろ真の意味で信仰を伝えるのは、自分が置かれた日常の中で、「主イエスと共にあるあり方とは何か」という問いに、日々「新たな答」を返していくことが不可欠なのである。
この「新しい答」は、「古い」枠組みを引き裂き、あふれ出すほどの大きな力を有している、だから新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ、と聖書は語る。木々が成長するに伴って、あふれ出すその生命力は元の形を壊し、姿を変えてゆく。木がそこに存在し続けるためには、むしろ木は生き続け、その姿を変え続けなければならないのである。同じように、私たちの信仰を成長させる神の恵みは、生きている私たちに日々「新たな答」を見出させるのである。

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