2012年12月26日水曜日

[1/1]2013年元旦礼拝のご案内

来る2013年の元旦は11:00よりチャペルにて元旦礼拝を行います。
新しい年を主の祝福のうちに共に歩み出しましょう。

[説教要旨]2012/12/23「幸いな者」ルカ1:39-55

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 ミカ 5:1-4a 【旧約・ 1454頁】
第二の日課 ヘブライ 10:5-10 【新約・ 412頁】
福音の日課 ルカ 1:39-55 【新約・ 105頁】

 クリスマスが祝日ではない日本では、多くの教会がクリスマスの直前の日曜にクリスマスを憶えて祝う。私たちもまた、まもなく来るクリスマスの時を待ち望みつつ、また同時に、私たちのもとに主イエス・キリストが与えられた出来事を喜び祝いつつ、この礼拝に集っている。
 いわゆるクリスマス物語と呼ばれるルカによる福音書の冒頭部分では、ザカリア、エリサベト、マリア、シメオンといった、「待ち望む人々」について語られている。彼らはそれぞれの場所で神の約束が実現することを確信しつつ、今は隠されていることがやがて必ず明らかとなるという信念に満たされて、それぞれの状況を生き抜く。さらに彼らの誰一人として、自分達の行く末について確定した結論を持ってはいない。いわば、自分達の行く末の全てを神に委ねつつ、しかし約束の実現への確信を持ちつつ、待ち続ける。
 現代に生きる私たちは皆自分の願望に絡み取られ、その願望を実現させるために未来を思い通りにコントロールし、限られた方向にだけ進むことを願う。しかしそれが実現しない時、私たちを待ち受けているのは失望でしかない。それに対して、ルカ福音書のクリスマス物語が伝える人々は、あらゆる未来に対して開かれた態度で、神の約束の実現を確信し続ける。まさにそうであるからこそ、彼らは待ち望み続けることが出来るのである。
 ならばどのようにすれば、私たちは、未来に対して開かれつつ約束の実現を待ち望むことができるのだろうか。本日の福音書では、神の約束を告げられたマリヤの訪問とその挨拶を受け入れた時、エリサベトは自らのうちに、神の約束が実現しつつあることを確信する。彼女たちが出会い、神の約束の言葉を告げ合ったことによって、二人は喜びに満たされ、その喜びを分かち合う場が創り出される。そこには信仰の共同体の一つのひな形を見ることができる。私たちは、自分達に未来が拓かれることを願いつつも、自分達の空虚さに嘆いている。けれどもそのような私たちが互いに出会い、神の約束を告げ合う時、私たちは自らのうちに既に何かが始まっていることを知ることができる。神の約束のもとで共に過ごし、互いの間に起こっていることを分かち合い、受け入れ合うこと。それこそまさにキリスト者が集うことの意味に他ならない。
 この後にエリザベトとマリヤの息子達が辿る運命を人間的な価値観から見るならば、それは悲惨なものであり、彼女たちの喜びは空虚なものでしかない。しかし私たちは、その喜びの言葉がただ彼女たちだけのものではないことを知っている。主イエスが私たちのもとに与えられるその道筋をヨハネは整えた。その主イエスはその十字架によって私たちにその命を与えられた。そして主イエスの命を私たちは生き、主イエスの復活によって与えられた神の救いの約束の内に私たちは今歩んでいる。だからこそ今私たちは、神の約束の下に集い、その喜びを分かち合っている。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」。それは今ここに集う私たち自身の言葉でもある。今日、待降節最後の主日を迎えた私たちは、主イエスを待ち望みつつ、同時にまた、私たちのうちに既に始まっている出来事、私たちが主イエスの命を生きている「幸いな者」であることを互いに告げ合い、喜び祝うのである。

2012年12月18日火曜日

[説教要旨]2012/12/16「メシアを待ち望む」ルカ3:7-18

待降節第3主日

初めの日課 ゼファニア 3:14-20 【旧約・ 1474頁】
第二の日課 フィリピ 4:4-7 【新約・ 366頁】
福音の日課 ルカ 3:7-18 【新約・ 105頁】

 待降節の間、アドベントクランツに火が点る度に救い主イエス・キリストがこの世界へと近づいていることを私たちは思い起こす。それはいわば、聖書の民が救い主を待ち望んだその長い歴史の歩みを追体験することでもある。時代の荒波の中で々争乱と困窮に翻弄されつつ、救いと解放を待ち望むことは私たち人間全ての願いでもある。
 本日の福音書は、先週の日課に引き続いて洗礼者ヨハネの言葉が語られる。ヨハネの大変厳しい言葉を受けて、人々は全く新しい生き方へと歩み出そうと「では、わたしたちはどうすればよいのですか」とヨハネに問いかける。あれほどまでに厳しい言葉によって呼びかけるのだから、これまでの生活とは全く異なるような生活ができるような何かを、ヨハネは示すだろうと人々は期待したのではないだろうか。しかしヨハネの答えは、新しい生き方を瞬く間に実現するような、誰も知らないような秘密の教えではなかった。それはただ、それぞれの日常の中で自らが満ち足りることよりも分かち合うことに、得ることよりも与えることにより大きな意義を見出すように、厳しく徹底して求めるものでしかなかった。それはいわば、どのようにして人は待ち望む民として自らを形作るのか、そのためにどのような努力が必要なのか、を徹底して語るものであった。そして人々は、待ち望むあの存在はこのヨハネではないかと期待する。しかし、ヨハネは人々のそうした期待を否定し、自らが救いと解放をもたらす存在ではないことを人々に伝える。それは実に、真の救いと解放とは、人が自らの努力によって到達し獲得出来るものではないことを物語る。
 ヨハネが語ったように、それぞれの日常の中で分かち合うこと・与え合うことが真に意味あるものであることを、確かに私たちもまた知っている。しかしまた、その実践がいかに困難であるか、またそのためにどれほどの痛みに耐えなければならないかもよく知っている。だからこそ、厳しく徹底してその呼びかけが為されれば為されるほど、それを十分に為すことの出来ない自分に絶望し、救いと解放とが遠ざかることを悲しむしかないのである。
 しかし聖書の語る真の救い主は、その救いを携えて自ら私たちのもとへとやって来られる。たとえ私たちが、自分自身に絶望し悲しむしかないような弱く足らざる存在であったとしても、その私たちのところに救い主は与えられるのである。そのような私たちのところに主イエスは与えられ、その十字架によってその命を私たちに与えられたのである。だから私たちはもはや主イエスの命を生きるものなのである。
 私たちが、救い主を待ち望む民となることができるのは、私たちが、自分のなしたことを自信満々に正しいこととして誇ることができるからなのではない。弱く足らざる者でしかない私たちのところに、救いと解放が与えられることが約束されているからこそ、なおかつ、私たちに主イエスの命が与えられているからこそ、私たちは待ち望む民として歩み続けることができるのである。そうであるからこそ、たとえそれが不十分であったとしても、私たちは自らの日常の中で、分かち合うこと・与え合うことを真に意味あるものとして生きることができるのである。このアドベントの時、主イエスの命を生きるものとして、救い主を待ち望みつつ歩みたい。

2012年12月11日火曜日

[説教要旨]2012/12/9「救いを仰ぎ見る」ルカ3:1-6

待降節第2主日

初めの日課 マラキ 3:1-4 【旧約・ 1499頁】
第二の日課 フィリピ 1:3-11 【新約・ 361頁】
福音の日課 ルカ 3:1-6 【新約・ 105頁】

 本日の福音書には、主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネが登場する。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において人々に悔い改めの洗礼を呼び掛け、これまでの生き方を刷新することを求めた人物であった。本日の箇所の冒頭に登場する最初の7人は、政治・宗教の中心である都や大都市をその本拠地として、支配する側にあって権謀術数を駆使する者達であった。紀元1世紀、ローマ帝国の軍隊と都市部への食料の供給のために農地の大土地所有化が急速に進み、借金のかたに多くの農民が土地を取り上げられ次々と貧困層へと転落してゆく一方で、権力者達は自分達の自らのひたすら自らの権力と利益の維持・拡大だけに目を向ける、そのような時代であった。
 しかしそれに続く二人ザカリヤとその子ヨハネは、先行する7人とは大きく異なっていた。ザカリヤもヨハネも、この二人はいわば歴史の表舞台で利益と権力の維持拡大に躍起になる者達とは全く逆の、周縁に立つ者として福音書に登場する。さらに権力の中心にではなく荒れ野のヨハネのもとに「神の言葉が降った」と福音書は続ける。「降った」と翻訳されている表現は直訳するならば「生じた」とか「起こった」という表現ともなる。いわば、政治権力の跳梁跋扈する中央から離れたこの荒れ野で、神の言葉が洗礼者ヨハネの働きを起こすのである。神の言葉によって起こされた洗礼者ヨハネの働きを、福音書はイザヤ書からの引用をもって説明する。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」洗礼者ヨハネは、腐敗した権力を厳しく批判し、世の人々に悔い改めを呼びかける。それは、権力の高みを目指し自らの縄張りを守ろうと壁を張り巡らす者たちの企みを削り取り、曲がりくねった道をまっすぐに、平らにする働きであった。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身は、その働きを全うすることは出来なかった。その呼びかけのあまりの厳しさゆえに、彼は捕らえられて処刑されることとなる。ならばヨハネの働きは無意味なものでしかなかったのだろうか。イザヤの預言は語る。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」。これらの働きが受け身形で語られているということ、その働きはただ洗礼者ヨハネのみの力によってではなく、神ご自身によって成し遂げられることを物語る。洗礼者ヨハネが呼びかけた悔い改め、それはやがて到来する主イエスによって「救い」の実現へとつながってゆく。救いの実現、それはまさに神が成し遂げられる事柄であった。
 聖書が語る希望とは何かが実現することを信頼することである。しかし、それは神の約束に従って実現するのであって、私たちの願望にそって実現するのではない。だからこそ真の意味で希望を持つ者は、たとえ自分の思う通りに事がが成し遂げられなかったとしても待ち望み続けることができる。自分の願いを手放そうとする時のみ、私たちの期待を超えた全く新しいものが起こされることを聖書は語る。洗礼者ヨハネと同じく、このアドベントの季節に私たちもまた救いを仰ぎ見る。自らの思いを越えて私たちの間に神の意志が実現することを待ち望みたい。

2012年12月6日木曜日

2012年クリスマス礼拝のお知らせ[12/16-12/24]

12/16(日)14:00-15:30
やかまし村のクリスマス(子どもクリスマス) チャペルにて
人形劇・うた・クリスマスのメッセージなど、楽しいプログラムがいっぱいです。ご家族でぜひどうぞ!

12/23(日)10:30より クリスマス 主日礼拝  チャペルにて
メッセージ「幸いな者」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊による讃美
礼拝後、大学食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます

12/24(月・休)18:00より クリスマスイヴ・キャンドルサービス チャペルにて
メッセージ「ここにも」 伊藤早奈牧師
ラウス・アンジェリカ(ルーテル学院大学ハンドベル)による演奏

ともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。
みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

[説教要旨]2012/12/02「時は近い」ルカ21:25-36

待降節第1主日

初めの日課 エレミヤ 33:14-16 【旧約・ 1241頁】
第二の日課 1テサロニケ 3:9-13 【新約・ 376頁】
福音の日課 ルカ 21:25-36 【新約・ 152頁】

 教会の暦では、本日からクリスマスの準備に向かう待降節・アドベントの時を迎えて、新しい1年のサイクルが始まる。アドベントとは、「やってくる、到来する」という意味を表すラテン語を語源とするが、これは支配者や総督などが、その支配地に赴いて人々の前に姿を現すことに用いられた表現でもあった。その意味では本来アドベントとは「主がやって来る」ことに強調が置かれている。つまり、教会が古い年を終えて、新しい年へとその歩みを進めることが出来るのは、私たちの側からの働きかけによってではなく、主が来られることによって初めて実現されるのである。いわば主イエスの到来が、私たちを新しいものへと変えて行くのである。
 十字架の直前に位置する本日の箇所で主イエスが語られたことは、世の終わりの時に神の国の力を授けられた者として主イエスが再び到来される「再臨」についてであった。一見すると、そこで語られる言葉は私たちにとっては様々な恐れや不安を覚えさせるような表現が続くいている。しかし主イエスは、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と語られる。たとえこの地上を揺り動かすほどの大きな恐れと不安とが私たちを襲うとしても、主イエスがやってこられる時、それは「解放の時が近い」のだと語られるのである。十字架という恐れと不安の極みへと向かおうとするまさにその時に主イエスが解放の約束を語られたということは、私たちの恐れ・不安のただ中に救いと解放の光をもたらされるために、救い主はこの地上へと到来されたということを物語る。主イエスは語る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」それは私たちを支え、励ます、滅びる事のない約束の言葉である。
私たちは今、主イエスの到来を待ち望む、アドベントの時を歩んでいる。それは毎年繰り返されるクリスマスを待ち望む季節のことであると同時に、主イエスが再びこの地上にやってこられる、解放の時を待ち望む期間のことでもある。しかしながら、今日「待つ」ということはただ受け身のまま何も生み出すことのない不毛な時間であると考えられている。何かを成し遂げるためには、待っていては駄目であり、何か積極的で生産的な活動をしなければならない。私たちはそのように教育され、待つことを価値のないこととして厭う時代に生きている。しかし、実はそれは、私たちが「恐れ」にとりつかれているからに他ならないとヘンリー・ナウエンは語る。ナウエンによれば、現代において多くの人は、内なる感情に、他人に、そして将来に怖れを抱いている。恐れにとりつかれた者は、待つことに耐えられない。恐怖の世界に生きている人は、攻撃的で、敵対心をもちやすく、破壊的行動で応じようとする。私たちの持つ恐れが強ければ強いほど、待つことは難しくなるのである。
 まさに今、私たちは恐れの時代を生きている。怖れから逃れようとして、ますます他者と対立し憎悪を増し、心の闇を深めてしまう。しかし、そのような私たちの心の内のその闇のただ中に主イエスはやって来られ、「解放の時は近い」という滅びることのない約束の言葉を語られる。だからこそ、私たちがこの約束の言葉によって励まされ、待ち続けることこそ、主イエスの到来に備えることに他ならない。

2012年11月30日金曜日

やかまし村のクリスマス[12/16]

やかまし村のクリスマス
人形劇とうた♪
<<ゲスト>>
キラキラ人形劇団(リズム工房)
「赤鼻のトナカイ」「赤ずきん」など
2012年12月16日(日)14-15:30
ルーテル学院大学チャペルにて
入場無料
人形劇・クリスマスの歌を中心にした楽しいこどものためのクリスマスの集いです。お子様とご一緒に、お誘いあわせて是非ご参加下さい。

2012年11月25日日曜日

[説教要旨]2012/11/25「神の国はどこに」ヨハネ18:33-37

キリストの支配(聖霊降臨後第26主日)

初めの日課 ダニエル 7:9-10、13-14 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 黙示録 1:4b-8 【新約・ 452頁】
福音の日課 ヨハネ 18:33-37 【新約・ 205頁】

 本日は、教会の暦の最後の主日礼拝となる。現在三鷹教会で用いている「改訂共通日課」では、この教会の暦の最後の主日を「キリストの支配」を憶える日としている。この主日は1925年に教皇ピオ11世が「王であるキリスト」の日を定めたことに由来する。この年1月イタリアではムッソリーニが独裁を宣言し、11月にはドイツではヒトラーを保護する組織としてナチス親衛隊が設立された。さらにソビエトでは12月スターリンが党のトップに立ち独裁体制を固めることとなった。独裁と専制の思惑と欲望が交錯する時代、万物の王たるキリストを憶えて敢えてこの日は設けられた。キリストの支配を憶える時、力を巡って熾烈な争いを延々と繰り広げる私たちが、憎しみと報復の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのか、真の平和と友愛とを私たちはどこから得ることができるのかに思いを寄せることとなる。
 本日の聖書箇所では、十字架を目前にした主イエスとポンテオ・ピラトととの対話の場面となっている。ピラトは、ローマ帝国から派遣されたユダヤ地域の総督であった。主イエスは、「ユダヤ人の王」を名乗ったとして訴えられ、ピラトの元に連れてこられる。ピラトは、主イエスが「ユダヤ人の王」であることを認めさせようとする。それは主イエスが政治犯であることを意味し、そうであればピラトは総督としての権力と軍事力を行使して、反逆者を殲滅させれば良かった。しかし、主イエスはピラトが期待するような答えをしない。ピラトやローマ帝国とは全く違う仕方で、主イエスはこの世界を支配すると応えられる。主イエスは語る。「わたしの国は、この世には属していない」「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」主イエスが語る真理とははたして何なのか。
 主イエスの語った真理、それはいわば「愛の真理」とも言うべきものであった。「愛の真理」とは、人と人が、暴力と恐怖によって支配を争い合う、そのようなものを無意味なものにしてしまう、そのような真理である。力によって人々を支配するのではなく、主イエスはむしろ、人々のためにその命を用いるために、人々に仕えるために、この世界へと与えられた。それはなによりも、この地上に神の国をもたらすためであった。
 主イエスがもたらされる神の国は、地上の支配者が考えるような、恐怖と暴力によって専制支配し、特権を守ろうとする国ではなかった。イエスの神の国、それは愛と正義と奉仕による領域であった。平和と、兄弟・姉妹愛、正義と公正、尊敬と友愛、そのような世界を築くために、主イエスはこの世界に、私たちの只中に与えられたのである。
 イエス・キリストが、その愛の真理をもって私たちを支配するということ。それは、私たちもまた、キリストの愛によって、暴力と恐怖とによって、支配し支配される、そのような私たちの間の関係もまた、全く新しいものへと創り変えられることでもある。キリストがもたらされる真理、神の愛によって私たちの関係は変わることができる。聖書はそのような希望を私たちに語る。
 教会の暦はまもなく、クリスマスに備えるアドベントの季節を迎える。繰り返し繰り返し絶えることなく、私たちの只中に愛の真理が与えられることを憶えて、この時を過ごしてゆきたい。

2012年11月23日金曜日

[説教要旨]2012/11/18「どんな徴があるのですか」マルコ13:1-8

聖霊降臨後第25主日・成長感謝礼拝

初めの日課 ダニエル 12:1-3 【旧約・1401頁】
福音の日課 マルコ 13:1-8 【新約・ 88頁】

 本日の聖書の日課では、エルサレムの神殿が登場する。主イエスの時代のエルサレムには、立派な神殿が存在した。そもそも、エルサレムには、ソロモン王の建てた壮麗な神殿があったが、バビロニアとの戦争によって破壊されてしまい、バビロン捕囚から戻った者たちが神殿を再建しなければならなかった。エズラ記3章では神殿が再建される際には、その(おそらく粗末な)基礎を前にして、昔の荘厳な神殿を知る者は泣き出したとさえ伝えられている。しかし、そのおよそ五百年後、今度はヘロデ大王が何十年も歳月をかけて大改修を行い、荘厳な神殿を造り上げることとなった。おそらく、かつてのソロモン王に劣らぬ立派な神殿を見せつけることで、自らの王としての威信、そしてまた自らの敬虔さをを誇示しようとしたのであろう。
ヘロデ大王によって改修された神殿も、昔のものに負けないぐらい、壮麗なものであったと言われている。国中から人々が神殿を詣でる中、エルサレムの人々にとっても、この壮麗な神殿はやはり自慢となっていた。人々が誇る壮麗な神殿では、神殿を穢す者、祭儀を滞らせる者、女性や子ども、外国人は排除された。限られた者だけが、その中で、神に感謝の献げ物をし、執り成しの祈りを祈った。
本日の福音書では、主イエスとその弟子たちがこの神殿へとやってくる。弟子たちは、壮麗な神殿を目にして感嘆するが、主イエスは、そのようなな弟子たちに向かって「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られる。
 主イエスの言葉に弟子たちは驚愕し、不安を覚え、ひそかに主イエスにそのことはいつ起こるのかと尋ねる。しかし主イエスは、壮麗な神殿が崩壊したからと言って、何も心配することはないと教えられたのだった。事実、ヘロデ大王の神殿は、この後ローマ帝国との戦争によって壊滅し、今はもうその壮麗な姿を残すことはなかった。
 確かに、自分の大事にしている、立派で綺麗なものが壊れてしまうならば、私たちは悲しみ、不安を覚えずにはいられない。しかし主イエスは惑わされるなと言われる。それはなぜなのか。穢すものを排除していた、その神殿が無くなった時、私たちは世界中のどこであっても、中に入れられず、排除されていた者たちも共に聖書の言葉を聞き、神に感謝する礼拝ができるようになったのである。
 主イエスは既に弟子たちにこう語られていた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:14-15)主イエスは、私たち全てを神の国に招かれた。そうであるら、今や私たちには、誇示し自慢するべき壮麗な神殿はもはや必要ない。今日こうして集まっているように、神様の祝福と恵みを分け合うところ、一緒に神様に感謝するところ、そこには、いつも神様は一緒にいてくださるからである。私たちも、神様の祝福を分かちあって、いつも神様と一緒にいることを憶えてゆきたい。

2012年11月14日水曜日

成長感謝礼拝・こども祝福式[11/18]

11/18(日)の主日礼拝は、「成長感謝礼拝」として子どもと大人の合同礼拝となります。
礼拝の中では子ども祝福式が行われ、子ども達にはプレゼントも用意されています。
どなたでもご参加頂けます。是非ご家族でご出席下さい。

[説教要旨]2012/11/11「死を破ることば」ヨハネ11:32-44

召天者記念礼拝

初めの日課 イザヤ 25:6-9 【旧約・ 1098頁】
第二の日課 黙示録 21:1-6b 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 11:32-44 【新約・ 189頁】

 本日は三鷹教会では召天者記念礼拝として集っている。天に召された者たちについて思いを向けるということは、この地上に遺されている私たちが復活と永遠の命について思いを向ける時でもある。復活と永遠の命は現代人にとっては信じがたい事柄である。たしかに私たちは復活というものを科学的に説明も証明も出来ない。しかし、私たちのうちの誰一人として、自分のこの命がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、そのことを説明も証明出来ないことも事実なのである。私たちが説明し証明しうることは限られたものでしかない。そうした意味で、私たちが永遠の命と復活について知るということは知識として知ることなのではない。それは今私たちが自分は生きていること、自分が見えないつながりの中で生きていることを実感することと同じなのである。復活の命・永遠の命について知るということもまた、私たちの命が、この地上だけで終わるのではないこと、見えないつながりの内に留まりつづけることを、実感することなのである。しかしその永遠の命を私たちはこの地上で見出すことは出来ないこともまた事実である。ならば私たちは何によって私たちの命は肉体の死で終わるものではないことを実感するのだろうか。
 本日の福音書は「ラザロの復活」として知られている。ヨルダン川の向こう側で宣教活動をしておられた主イエスの元に、ラザロの兄妹であるマルタとマリアの使いの者がやってくる。使いに対して主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と応える。ヨハネ福音書で主イエスがご自身の「栄光」について語る時、それは主イエスご自身の十字架における処刑を指している。そうした意味で、このラザロの復活の奇跡は、主イエスの十字架への道行きへと続く出来事である。
 主イエスがラザロの元についたとき、すでにラザロは死んで墓に葬られており、マルタとマリアとは悲しみの内にあった。マルタに主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と呼びかけられる。マルタの目の前の男が、甦りそのものである。さらに主イエスは嘆きのうちにあるマリアに呼びかけ、そして死の闇の中にいるラザロへと呼びかける。主イエスの呼びかけは、あらゆる不可能性を超えて私たちを命へと呼び戻す。甦りとは単なる知識や理論ではなく、私たちに向かって呼びかけるイエス・キリストという存在であることを聖書は語る。甦りである主イエスを信頼する時、私たちにとっての肉体的な死は、私たちを脅かし、恐れさせる決定的な力を私たちにとってもはや失っている。甦りである主イエスの呼びかけは、私たちを不安と不信と恐れによって支配されていた古い命から、恵みと喜びに満ちた新しい命へと呼び戻す。
 主イエスの十字架と復活は、私たちの目に見えない存在、目に見えない世界、私たちの手の届かない世界にこそ永遠の命があることを呼びかける。地上から多くの方々が去ってゆくことによって、永遠の命はより一層私たちにとって身近なものとなる。先に召された多くの先達者達も主イエスによって呼びかけられていることを覚えつつ、地上に遺された私たちもまた私達自身の命を生き抜いてゆきたい。

2012年11月3日土曜日

[説教要旨]2011/10/28「『ことば』と自由」ヨハネ8:31-36

宗教改革主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日、10月31日の直前の日曜は、日本福音ルーテル教会では宗教改革記念主日礼拝となっている。1517年にルターがドイツ東北部で始めた宗教改革から、まもなく500年を迎えようとしており、世界でまた日本のルーテル教会でも様々な取り組みがなされている。ルターが、その葛藤の中で信仰の本質を見出したことは単に過去の出来事なのではなく、今も私たちを問いかけ続けている事柄である。
 ルターの生涯とはまさにことばと格闘し、ことばの中で神と出会うものであった。勤勉で厳格な父親の影響の元、法律の勉学にいそしむルターは、22才の夏、実家へ帰る途中落雷に会い、死の恐怖の中で「聖アンナ様、お助け下さい。私は修道士になります」という言葉を思わず口走ってしまう。自らの言葉に縛られてのその後の修道生活では、どこまで悔い改めは完全になされるのかという不安と疑念とのために、ほとんど妄想・錯乱状態になったと言われる。初めての聖餐式の司式で式文の言葉を口にする時、彼はその言葉を発する自らの不完全さ、罪の深さにただ恐れおののくしかなかった。いわば彼は自分の言葉に縛られ、苦悶の中から抜け出すことができないでいた。しかし、その苦悶の中で彼は聖書のことばと格闘を続け、人間の力によってではなく、ただ神の恵みとしてて、神のその正しさは私たちに与えられるという、信仰の本質を見出すこととなったた。ルターの語る神の恵み、それはルターが不安と疑念との葛藤の中でことばと格闘する中で見出した、自由をもたらす真理の光であった。
 そのような神のことばとの格闘は決してルターだけで終わるものではなかった。宗教改革から約400年後、ドイツのルター派神学者であり、20世紀最大の新約学者であるルドルフ・ブルトマンが登場する。新約聖書を徹底的に分析し、その文学的・宗教史的なルーツを探った人物であるが、とりわけ「新約聖書と神話論」という著作によって、キリスト教会に大論争を巻き起こした。この本でブルトマンは、新約聖書のさまざまな要素が古代の様々な宗教の神話を原型として持つことを明かにした。そして、それら神話的要素を取り除き、聖書を「非神話化」して、聖書のことばの中心的なメッセージとしての「キリストの十字架と復活」を教会は語らねばならないと主張した。既存の教会の聖書理解の伝統によらず、ただキリストの十字架と復活について語るのだというブルトマンのこの主張は、保守的な神学者から厳しい批判を受けることとなった。しかしブルトマン自身は、「徹底的な非神話化論は、律法の業によらず、信仰のみによって義とされるという、パウロ、ルター的な宣義論と並行しているのであり、むしろ、認識の領域におけるその徹底なのである」と語る。いわばそれは、宗教改革から400年隔ててルターの信仰を受け継いだブルトマンが、世俗化したこの現代社会において教会が神のことばを伝えるとは何かという厳しい問いかけの中で、ルター同様に神のことばと格闘した末にたどり着いた一つの結論であった。
 キリスト者は常に問いと試みの中に立たされ、常にキリスト者になろうと神のことばと格闘しつづける存在でしかない。しかし、それは同時に、それは神のことばを通して示される、十字架と復活の恵みの中を歩み続けることなのである。その意味で今なお私たちは宗教改革の歴史の中を歩んでいるのである。

[説教要旨]2012/10/21「仕えられるためではなく」マルコ10:35-45

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

本日の福音書の直前では、主イエスの立っている道がエルサレムそして十字架へと続く道であることが語られる。弟子たちもまたエルサレムへの到着を予感しはじめた時、弟子のヤコブとヨハネの兄弟が主イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願う。主イエスの左右に並ぶということはその苦難を彼らもまた耐えねばならないことを意味していた。この願いに主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と答えられるが、それに対して二人はきっぱりと「できます」と答える。彼らにしてみるならば、苦難を耐えてこその栄光であり、そのためには少々の苦難など耐えてみせるという意志を見せたつもりだったのではないだろうか。それに対して主イエスは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と語られるのだった。
ヤコブとヨハネの兄弟は,いわば応報の論理に立って、主イエスの左右の座に自分達が座ることを願い出た。すなわち、これだけ努力し苦難に耐えたから、それに見合う評価・報酬が与えられるはずという論理である。それは、私たちが生きるこの世界においては、極めて当たり前の論理である。しかしこの応報の論理の逆が成り立つ時、それは極めて冷酷なものともなる。つまり、苦難が報いられないとするならば、それはその人の努力・忍耐が十分ではなかった、ふさわしくなかったからだ、という結論を導くからである。一方主イエスは、それはただ神だけが決められることであると語られる。その意味で主イエスは応報の論理に立っていない。応報の論理によるならば、主イエスが十字架に向かい、命を落とすことは、挫折であり失敗でしかなかった。この男の計画と準備が不十分だったからその企みは失敗し、反逆者として逮捕・処刑された。あれは挫折者・失敗者であって無意味で無価値な存在であると理解されることとなる。しかし主イエスは、その十字架によって苦難と挫折とを無意味で無価値なものではなく、その先に永遠の命へと続く道を示されたのだった。
ヤコブとヨセフの願いを耳にして腹を立てた他の弟子たちをも呼び集めて、主イエスはこの地上の権力とは異なるあり方を語られる。地上の権威とは、より強い力、高い能力を持つ者、より多くのものを持つ者が人の上に立ち、思いのままに人を動かすものである。そして動かされる側ではなく、動かす側となるために、人は投資し、努力し、今の労苦を耐え忍ぶ。それが応報の論理である。しかし、主イエスはそのような力と論理によらず、その命を全ての人のために捧げられた。世の人々に仕えられるためでなく、この世に仕えるものとして、十字架への道を歩まれた。全てを失い、全てを捧げることこそ、主イエスが歩まれた道であり、それこそが主イエスが目指された栄光であった。
エルサレムで十字架において処刑されたこの主イエスを、あらゆる不可能を超えて、神は甦えらされ、永遠の命への道を、私たちに備えられた。地上の応報の論理を超えて、ただ神のみが私たちに永遠の命への道を備えられる。そうだからこそ、私たちの為し得ることがどれだけ不十分で、不満足なものでしかなかったとしても、主イエスの十字架によって永遠の命への道は備えられているのである。

2012年10月19日金曜日

[説教要旨]2012/10/14「神の国に入るのは」マルコ10:17-31

聖霊降臨後第20主日

初めの日課 アモス 5:6-7、10-15 【旧約・ 1434頁】
第二の日課 ヘブライ 4:12-16 【新約・ 405頁】
福音の日課 マルコ 10:17-31 【新約・ 81頁】

 聖書の中でも富は大きな問題である。モーセの十戒では盗みや他人を貪ることが禁じられた。一方で富は神の前に正しい者に与えられる報酬としても語られる。その意味では財産は、努力の成果であるとともに、その人が正しく生きていることの証でもあった。
 本日の福音書の冒頭では、主イエスが「旅に出ようとされると」と書かれているが、文字通りには「道に出ると」という意味となる。この道とはエルサレムそして十字架へと続く道である。この道の上で主イエスのもとに一人の男が走り寄り、ひざまずいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問う。旧約では人が土地を「受け継ぐ」のは神の祝福の具体的な現れであった。新約の時代には「受け継ぐ」という言葉はより広い意味を持つようになり、具体的な土地についてよりも、救い・永遠の命に与ることを象徴した。そうした意味で、この男は自らが神の国にふさわしく正しい者となるためにどうすればよいかを問いかけている。おそらくこの人には、他の誰もしらない奥義をこのイエスという人は知っているに違いないという確信があったのではないだろうか。
 しかし主イエスはただ「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と答える。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返答するこの男を、主イエスは「見つめ、慈しんで」さらに言葉をかけられる。「慈しんで」とは「愛して」とも訳すことの出来る言葉が用いられている。一心に神の国を求めるこの男を、主イエスは「愛して」言葉を続けられる。しかし、その主イエスの言葉、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」を聞いて男は去ってしまった。
 なぜ彼は主イエスの前を去ったのか。一義的には、自分の財産が何よりも大事であったと理解するべきであろう。しかし富を全て手放すということは自らの正しさをも放棄するということでもあった。自分が努力し正しく生きてきた証を手放し、得体の知れない者たちに与えてしまうということは、彼にとって「永遠の命を受け継ぐ」こととは正反対の方向にあるように感じられたのであろう。なぜならば彼にとって、永遠の命を受け継ぐということは、自らの正しい生き方の延長にある筈であった。しかし、主イエスが告げられたのは、永遠の命は自らの正しさの証しを求める道の延長ではなく、今まさに主イエスがその上に立っている、エルサレムへと続く道、犯罪者として十字架で処刑される運命へと向かう道の先にしかないものであった。
 主イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られる。金持ちとは単に富を有するだけでなく、自らの正しさの証を追求する者とも解釈できよう。そうであるからこそ、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚かずにはいられなかった。しかし主イエスは弟子らを「見つめて」言われる。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。エルサレムで十字架において処刑された主イエスを、あらゆる不可能を超えて、神は甦らされ、永遠の命への道をこの世に備えられた。自分の正しさの証を求める私たちの努力によってではなく、ただ神の愛のみが、私たちに永遠の命への道を備えられる。私たちが自分自身の正しさを手放し、ただ主イエスに従う時、神の国への道を私たちは歩むのである。

2012年10月3日水曜日

[説教要旨]2012/10/07「神の国を受け入れる人とは」マルコ10:2-16

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 創世記 2:18-24 【旧約・ 3頁】
第二の日課 ヘブライ 1:1-4,2:5-13 【新約・ 401頁】
福音の日課 マルコ 10:2-16 【新約・ 81頁】

 十字架へと向かうそのエルサレムへの道の途上で、主イエスは結婚と離縁について問いただされる。社会の倫理的価値観が大きく変化する中、伝統的なモーセの律法をどのように現実生活に適応あせるかを巡ってユダヤ社会では様々な派閥が生まれた。本日の箇所の質問者も、主イエスをいずれかの派閥に分類し、非難しようと企図していたかもしれない。しかし、主イエスはその質問に対して、謎のような、肯定か否定か、明確にならない応えを返される。果たして主イエスは何を語ろうとされているのだろうか。主イエスの答えは、この世界と人とを造られた、創り主である神の御心を最優先とすることで、質問に対して強く否定しているように思われる。しかしその否定はむしろ質問そのものに対して向けられており、その論点は既に最初の問いから離れ、別の問いを新たに提示している。すなわち、そもそも神が創られた命のあり様に対して正誤・合否を問うことが、果たして神の御心に適ったことなのか、モーセの律法つまり聖書の文言ですら、それは正誤と合否を自ら決めずにはいられない、人の心の頑なさによるものなのではないのか、という問いを主イエスは投げかけている。その問いが投げかけられた相手は、かつてのユダヤ人、ファリサイ派、律法学者らだけなのではない。それは現代において福音書に触れる私たちたち自身に対してもまた投げかけられた言葉なのである。
 この論争に続いて、今度は弟子たちが子どもたちを主イエスに近づけようとした人々のことを叱る、という出来事が報告される。礼儀を知らず、場をわきまえず、為すべきことを求められる水準で果たすことの出来ない存在、それが古代ユダヤ社会における子ども理解であった。弟子たちにとっては、そのような存在が師を煩わせ、教えを邪魔することは、聖なる場を汚すことであると考えたのであろう。その憤慨は妥当であるようにすら思われる。ところが、主イエスがその憤りを向けられたのは、無分別な子どもたちに対してではなく、むしろ分別ある主張をしたはずの弟子たちに対してであった。
 神の造られた命の間には、何ら差違も優劣もありえない。命に優劣と序列を付すのは、むしろ分別と十分な社会的能力を持つ人間であることを主イエスははっきりと語られる。神の国の価値観、神の創造の秩序においては、命のあり方に「唯一の正解」などは存在しない。それぞれのありようが、それぞれの命の答として、固有の価値を持つのである。それゆえに、子どもの様な弱く足らざる存在として、与えられた命をそのままに受け入れる時に初めて、人はこの神の国の価値観に触れるのである。まさに同じ意味で、主イエスが十字架の死と復活を通して私たちに与えられた「神の国」もまた、ただ主イエスの十字架に頼るしかないもの、自らの弱さと不足を受け入れるものにこそ開かれている。未熟さ、足らざる事、そして弱さと不完全さを受け入れるものこそが、まさに神の国にふさわしいものなのである。

2012年9月25日火曜日

[説教要旨]2012/09/23「すべての人に仕える者」マルコ9:30−37

聖霊降臨後第17主日

初めの日課 エレミヤ 11:18-20【旧約・ 1198頁】
第二の日課 ヤコブ 3:13-4:3、7-8a 【新約・ 424頁】
福音の日課 マルコ 9:30-37 【新約・ 79頁】

本日の福音書では、先週の日課に続いて2度目の受難予告がなされる。しかし、弟子たちにはこの言葉が一体何を意味しているのか、つまり十字架の意味をまだ理解することが出来なかった。
その弟子たちはまた、その旅の途中で「誰が一番偉いか」について議論する。おそらく、来るべき「神の国」誰がより高い地位に就くことができるかと議論して いたのではないだろうか。この世の中での幸せを得るために、より高い地位、より強い権力、より多くの財産を求めようとすることは、この世の論理と価値観に 従って考えるならば、なんら間違いであると言って批判することはできない。しかし、主イエスは、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、 三日の後に復活する。」と弟子たちに教えておられたのだった。福音書において「人の子」という呼称は、受難と復活の予告をする主イエスの一人称である。 「人の子」は弟子達が期待したような「高い地位に就く」存在とはおよそ正反対のものであった。
主イエスが宣べ伝えられた神の国は、人間を縛り、そして苦しめている、差別、抑圧、病、貧困、孤独などのあらゆるこの世の力が滅ぼされてしまう場所であっ た。そこは、この世の論理と価値観では、決して喜びや希望など見出されるはずなど無いところに、喜びと希望に満たされる世界なのである。そして「人の子」 主イエスは、何よりもその神の国を人々に与えるため、十字架に架けられ、殺される運命を受け入れられたのです。十字架刑による死という、人間の論理・価値 観で見るならば、最も暗く悲惨な運命から復活されたということ、それは人間にとっては絶望しか見いだせない場所に、神はキリストという希望の光を与えられ たということなのである。このキリストのおられるところこそが神の国の現れるところであり、キリストこそ人の形をとった生ける神の国であることを、福音書 は語るのである。
主イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れ るのである」と教えられる。古代のユダヤ社会では子どもとは、定められたことを実現出来ない未熟な存在、集団の成員としてはふさわしくない存在を表すもの でした。そのようなふさわしくない者をして、主イエスは「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と語られる。それはまさ に、この地上であたりまえとされる論理・価値観に属して私たちが生きるではなく、神の国に属する新しい命を生きることであった。実に、私たちがキリストと その教えを受け入れる時、同時に私たち自身が神の国に受け入れられているのである。たとえ私たちがこの世の力によって翻弄されていたとしても、キリストを 受け入れ、キリストの十字架に示された希望をめざし、その言葉に従って生きるならば、私たちは神の国に属して生きているのである。それは、私たちが、古い この世にありながら、全く新しい命を生きることなのである。

2012年9月22日土曜日

公開講演会「知的障がい者と関わって考えること-社会福祉法人おおぞら会の取り組みから-」[10/14]

10/14(日)13時半より
ルーテル学院大学チャペルにて
公開講演会「知的障がい者と関わって考えること-社会福祉法人おおぞら会の取り組みから-」
講演者:西原雄次郎先生
(ルーテル学院大学社会福祉学科教授、社会福祉法人おおぞら会理事長)
入場無料・どなたでもご参加頂けます。
皆様のお越しをおまちしております。


[説教要旨]2012/09/16「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 イザヤ 50:4-9a 【旧約・ 1145頁】
第二の日課 ヤコブ 3:1-12 【新約・ 424頁】
福音の日課 マルコ 8:27-38 【新約・ 77頁】

 次々に大国の支配を受けることとなったイスラエルは、大きな力をもつ「異邦人」によって自分達が汚されることがないように、その宗教的自由と政治的独立をねがうその思いを強めて行くこととなった。それはやがて、ダビデの家系から生まれ、ユダヤの民のためにエルサレムを異邦人から清め、ダビデの王国を以前にまさる栄光と繁栄をもって再興する、地上の支配者「メシア」を待望することとなった。
 本日の福音書は、主イエスが「メシア」つまり油注がれた者「キリスト」であることを巡って二つのエピソードが語られている。前半では、弟子たちの筆頭と見なされたペトロが主イエスに対して「あなたは、メシア」ですと宣言する、いわゆるペトロの信仰告白と呼ばれる出来事が語られる。主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問いかける。弟子たちは人々の評判をつたえると、主イエスはさらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問う。この問いに応えて、ペトロは「あなたは、メシアです」と語る。それは、地上の様々な支配者の中でも、今目の前におられるこのイエスこそが、私たちの「メシア」油注がれた者であることを言い表すものだった。しかし、そのようにまさに模範的な答えをしたペトロが、本日の福音書の後半では、主イエスによって「サタン、引き下がれ」と叱責されてしまう。
 主イエスからペトロは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責される。非の打ち所の無い、正しい告白をなしたはずのペトロに、何が欠けていたのだろうか。その答えは、この二つのエピソードを結ぶ、主イエスの教えに込められているということができる。それは、主イエスのご自身の、十字架における死と、その死からの復活であった。
 ペトロはたしかに、この世の支配者の全てに優るメシアとして、主イエスを選びとった。そうであるからこそ、主イエスが語ったことを、敗北宣言と理解不能な言説としてたしなめることとなった。それはいわば彼の自らの正しさを保証するものとして、主イエスという存在を、メシア=キリストというものを捉えていたのである。しかし、主イエスが、メシア=キリストであるのは、そのような人々が期待するような地上の支配者として君臨するためでも、聖なる場所を汚されないように、異邦人を駆逐するためでも無かった。むしろ、全ての人の苦悩、痛み、嘆きを自らの身に受けるために、そしてそれにもかかわらず、新しい命の道を示すために、十字架と復活への道を歩むこと、それこそが、メシア=キリストとしての使命だったのである。
道徳的な正しさというマントを着ているとき、人は「良い」と信じていることを無慈悲な手段で行うことに罪意識を感じることが無くなってしまう。しかし主イエスは、正しさによって人を支配するのではなく、人が生きるその苦しみ、悩み、嘆きを、ご自身の十字架において受け取るために、この地上へと与えられた。そしてさらに、その苦悩と嘆きは行き詰まりのうちにはおわらないこと、その先にはなお新しい命の道があることを、その十字架からの復活によって私たちに示された。そうであるならば、自らの正しさを捨て、自らの十字架を背負うということは、復活の命への希望を抱く事なのである。

2012年9月15日土曜日

[説教要旨]2012/09/09「この方のなさったことはすべて」マルコ7:24-37

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 イザヤ 35:4-7a 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 2:1-10、14-17 【新約・ 422頁】
福音の日課 マルコ 7:24-37 【新約・ 75頁】

本日の福音書の冒頭で主イエスはガリラヤから国境を超え出る。その地域の住人は、都から見れば、異邦人、ユダヤの掟と信仰を共有しない人々であると見なされていた。冒頭では主イエスは「誰にも知られたくないと思っておられた」と書かれているので、宣教のためではなくむしろ休息のためにガリラヤを離れられたのかもしれない。しかしその主イエスのもとを悪霊に悩む娘を連れた一人のギリシア人の女性が訪れる。今日「悪霊」と聞くとオカルト的な印象を受ける。しかし古代ユダヤでは病の原因となるものが何なのかはわかっておらず、病は人の目に見えない何らかの力によって引き起こされていると理解した。アレクサンダー大王、そしてさらにローマ帝国が広大な領土を支配したことによって、人々の知らない病が各地にもたらされたであろうことは想像に難くない。そうした自分達の知識では対処できない様々な病を前にして、人々は悪霊の力によると理解した。医学も未発達で信頼出来ない時代、この女性はもはやどうすることもできず、最後に主イエスを捜し当てる。
主イエスは娘を癒されるが、注意深く読み返すならば、娘自身が主イエスを求めてやってきたわけでも、主イエスを信じたと宣言したわけでもなく、ただ母の思いが主イエスの癒しの力を娘のところへと届けることとなったことに気付く。そこには「救いに与る条件はあるのか」という問いがある。続く31節からの箇所ではそのことがさらに明確となる。ここで登場する「耳が聞こえず舌のまわらない人」は主イエスのもとに連れてこられるだけであって、自分から全く何も積極的な行動をしてはいないにもかかわらず、主イエスはその人を癒されたのだった。自らは全く積極的には動いていないこの二人が癒され救われたのは一体なぜなのか。
この人を癒すにあたって、主イエスは「天を仰いで、深く息をつ」いたとある。深く息をつくというこの言葉は「呻く」という意味で用いられることもある。主イエスいわば、天を仰いで「呻き」を
あげられたのである。主イエスは、地上で生きる人々の苦悩と痛みを主イエスご自身が受け止められ、その人々の呻きを主イエスが天に向かってあげられたのだった。そして主イエスがあげるの呻きは、人が線引きをした国境を越えて、この地上に生きる全ての人の苦悩と痛みを受け止められるものだということを聖書は伝える。主イエスはこの後、まさに,全ての人の呻きを身に受けるために、十字架への道を歩まれることとなる。しかし、世界と命を造られた神はその死で終わらせることなく、新しい復活の命を造り出されたのだった。主イエスの癒しと救いの業を前にして、人々は口々に「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と語る。この言葉は、創世記1章で、創造された世界を神がご覧になった際の「見よ、それは極めて良かった」という言葉を思い起こさせる。主イエスの癒しと救いの業はまさに新しい命の創造の出来事であった。主イエスの十字架と復活の出来事は、この地上に生きる私たちに、神の福音は、新しい命の恵みは与えられていることを伝えるのである。

2012年9月4日火曜日

[説教要旨]2012/09/02「人間の戒め、神の掟」マルコ7:1-8、14-15、21-23

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 申命記 4:1-2、6-9 【旧約・ 285頁】
第二の日課 ヤコブ 1:17-27 【新約・ 421頁】
福音の日課 マルコ 7:1-8、14-15、21-23 【新約・ 74頁】

 主イエスの時代のユダヤは、それまではあたりまえであると思っていたものが次々と失われていく混迷の時代であり「正しさ」「清さ」の名の下に排外主義と暴力を正当化する空気に満ちていた。しかしその中で、主イエスは人々に「神の国」の福音を伝えたのだった。
 本日の福音書の冒頭では、ガリラヤで活動する主イエスを、政治と信仰の中心であるエルサレムからやってきた宗教的な権威を持つ者たちが問い詰める場面から始まる。彼らの権威は、神の掟である律法を守るための「垣根」として「昔の人の言い伝え」を守ってきたことであった。その一つとして、ここでは「手を洗う」ということが問題となる。そこには衛生的な理由だけではなく、宗教的・儀礼的な「汚れ」を清める意味が込められていた。この「汚れた」という言葉は「世俗の」という意味であり、もともとは「共有の」「分かち合う」「交わる」という意味の言葉である。手を洗うという行為は、自分達が異なる生活様式を持つ者との交わりを汚れとして避けることを意味していた。とりわけ、旧約と新約の間の時代に起こった民族主義的色彩の強い戦争の時に、この「交わり」を「世俗の汚れた」ものであるとする理解が強まることとなった。しかしながら、この「世俗の」あるいは「汚れた」という言葉は、使徒言行録の中で最初の教会の理想的な姿として語られている。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」(使2:44)の「共有にした」という言葉は、「世俗の」「汚れた」という言葉と同じなのである。
 たしかにそれは、「言い伝え」の遵守に誇りと尊厳をかけていた者たちにとっては、その垣根を超え出ることは、「世俗」にまみれ「汚れる」ことに他ならなかった。しかし主イエスは、神の国の福音は人の造った垣根の中に留まることは出来ないことを宣言される。神の掟において、神が造られたものは全てが良いものであり、全てが清い。人がそこに垣根を作り、人の思いがそれを「汚れた」ものとしてしまうにすぎない。それこそが主イエスの伝えたメッセージであった。この7章を読み進めていくならば、主イエスが垣根を超え出て、、いわゆる異邦人の土地で神の国の福音を告げられたことを知ることとなる。
 主イエスはやがて都エルサレムへと向かい、そこで、垣根を超え出たものとして、十字架に付けられて処刑されることとなる。都の政治と宗教の権威者達から見れば、それは垣根を超え出た者の辿る当然の末路であった。しかし、世界と命を造られた神は、主イエスをその十字架の死から甦らされた。この地上の人間の造ったあらゆる垣根は、主イエスの十字架によって乗り越えられ、神の国の福音は、あらゆる人のもとへ無条件に与えられた。主イエスの十字架は、私たちを互いに対立させ憎悪させるものではなく、私たちを和解させ、分かち合いへと導く救いのしるしなのである。
 自分に失われたものを取り戻すため、人の戒めを振りかざし、「『正義』の名の下に加罰感情を沸騰させる」時代を今私たちは生きている。しかし、主イエスの十字架は、私たちに和解と分かち合いの道を示す。和解と分かち合いをもたらす十字架こそ、私たち与えられた神の掟なのである。

2012年8月21日火曜日

[説教要旨]2012/08/19「キリストによって生きる」ヨハネ6:51-58

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 箴言 9:1-6 【旧約・ 1002頁】
第二の日課 エフェソ 5:15-20 【新約・ 358頁】
福音の日課 ヨハネ 6:51-58 【新約・ 176頁】

 先週8/15には67回目の終戦記念日を迎えた。戦争の恐ろしさとは、ただ戦闘と爆撃の恐怖にさらされることではない。思想統制や信仰弾圧など、権力による民衆の抑圧・弾圧こそ、戦争の恐怖の本質である。そこでは人間的な優しさや、情愛、喜びは正しくないものとして否定され、また病気、悲しみ、悩み、そうした人間にはあたりまえの「弱さ」は、無用な役に立たないものとして切り捨てられた。正しい答えが一つしか許されない時、それがどれほど魅力的で、理論的であったとしても、それはいとも簡単に暴力と結びつく。それが戦争の恐怖の本質である。そう考えるならば、その対局としての平和とは、多様な意見が認められ、人間としての「弱さ」が受け止められ、喜びも悲しみも分かち合われる世界、一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界であると言える。
 先週から引き続き主イエスが「命のパン」であるということを中心に福音書の日課が選ばれている。「イエス」という男が「パン」を与える、という事柄自体は、決して理解しがたいことではない。しかし、それだけでなく「わたしが命のパン」である、さらに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得」ると主イエスは語られる。たしかにその言葉を文字通り受け取るならば、なんと恐ろしいことか思うであろう。主イエスの言葉を聞いた者たちは、その言葉は誤りであり、とんでもないものだと、非難する。しかし、もちろんそのような意味で主イエスが語られたのではない。それは、自分達の頭の中にある理想的な正しい答えではなく、この地上を生きた主イエスの命に結びつくことを意味した。福音書はこの後、政治犯として捕らえられ、苦しみ呻きながら処刑される、十字架へと向かう主イエスを描き出す。そのような人としての挫折と弱さの全てをさらけ出す男のうちに、なぜ永遠の命があるのか。それはヨハネ福音書が書かれた時代の多くの人にとって大きな疑問であった。しかし福音書は、弱さと苦しみの全てをさらけ出すこの方こそが、命の糧であることを伝える。
 戦時中に陸軍幼年学校にいたある牧師は、当時を振り返って「あの頃はどうやって死ぬかしか考えていなかった」と語る。しかし敗戦後キリスト教主義の九州学院で学んだ時、自分の命は死ぬためにあるのではなく、生きるためにあることを知ることとなる。いかに死ぬかしか考えることを許されない世に生きた少年の心に、主イエスがその命を私たちのために与えられたというメッセージは、新しい命の福音として響いたのである。嘲り、痛み、人の弱さをことごとく担われたキリストの命を受けて、私たちは今この世を生きるのである。だからこそ私たちは、人間としての「弱さ」が受け止められる世界、喜びも悲しみも分かち合われる世界。一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界、そのような世界を目指すことが出来るのである。命の糧である主イエスは、私たちの世界に新たな命を与え、その命は私たちを真の平和へと導く。

2012年8月14日火曜日

[説教要旨]2012/08/12「世を生かす恵み」ヨハネ6:35、41-51

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 列王記上 19:4-8 【旧約・ 565頁】
第二の日課 エフェソ 4:25-5:2 【新約・ 357頁】
福音の日課 ヨハネ 6:35、41-51 【新約・ 175頁】

 今週は67回目の終戦記念日を迎える。戦争という出来事から遠く離れるとき、それが誤りであることを語ることは難しくない。しかしその渦中にあった多くの者は正しいことであると信じて支え協力したのだった。戦争はいつも「正しさ」が支配している。自分の生きている世界と自分自身の正しさを失わないでいようとする時、私たちは、悲しみと苦悩の中にある者、弱く虐げられている者に対して、裁きを下し、拒否しようとしてしまう。しかしそのような姿は、あまりにも硬直化した正しさでしかない。そのような正しさを追求し、自分は正しいことを為していると信じて疑わない時、私たちは戦争に突き進むことを避けられない。
 私たちは自分が経験したことの無い事柄、あるいは自分がその価値観を共有したことのないものについて、受け入れがたい思い、拒絶し、排除しようとする思いを抱く。そうした拒否感・排除の欲求そのものは、現代の私たちだけに留まらない。本日の福音書では、主イエスが語られた「わたしは命のパンである」という言葉を聞いた者たちは、その言葉を理解することは出来なかった。主イエスの出自を知っていた彼らにとっては、自分達の経験の中で知っているイエスという男と、今主イエスが語られた言葉を結びつけることが出来なかった。彼らが知っているイエスという男、それがモーセという偉大な指導者・預言者を超えるもの、天から与えられた「命のパン」そのものであるということは、その言葉を聞く者たちにとっては、彼らの世界においては認められない、あり得るはずのない、誤った事柄であった。
 しかし、この地上に生きたイエスという男こそが、十字架にかけられ、しかしその死から甦られた方であることを、福音書は語る。人々からそんなことはあり得るはずがないと、嘲られているイエスという男が、その十字架に掛けられたからこそ、私たちはその命を分け与えられ、その復活の命をもまた生きることが出来るのである。そしてそれこそが、主イエスが語られた「わたしは命のパン」である「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と語られたことの真の意味であった。しかし主イエスの語られた言葉の真の意味を、自分達が正しいと考える硬直した世界の中に留まっていた人々は理解することが出来なかった。歴史をひもとくならば、ユダヤ社会は、強烈なナショナリズムの高まりの中で、ローマ帝国との戦争に向かい、都エルサレムは徹底的に破壊され、国は滅びてしまうこととなる。それはまさに、硬直した正しさが最終的にどこに行き着くのかということを示唆している。そしてまた、それはこの日本社会をはじめ、戦争に突き進んだ多くの国がかつて歩んだ道をも暗示している。
 命のパンである主イエスはその十字架と復活によって、硬直した正しさが支配するこの世界に平和の福音・新しい命をもたらされた。主イエスの十字架によって私達に与えられた平和と命の福音を憶えてこの8月の時を歩みたい。

2012年8月6日月曜日

[説教要旨]2012/08/05「命の糧」ヨハネ6:24-35

聖霊降臨後第10主日・平和の主日

初めの日課 出エジプト 16:2-4,9-15 【旧約・ 119頁】
第二の日課 エフェソ 4:1-16 【新約・ 355頁】
福音の日課 ヨハネ 6:24-35 【新約・ 175頁】

 8月第1日曜はルーテル平和主日である。8月は67年前第二次世界大戦において日本が敗戦し、戦争が終わったことを憶える月である。しかし、多くの犠牲者を生み出した戦争の出来事は日々忘れられつつあるようにすら思われる。その一方で昨年3月11日の東日本大震災以来明らかとなってきたことは、この社会で常に優先されるのは、命ではなく利益であること、共有よりも独占であること、未来の世代を守ることよりも現在の既得権益を守ることだという事実であった。進まない震災からの復興と原子力発電所事故への対応、そして世界になお起こり続ける戦争。一見関係のないように見える、これらの事柄に共通することは、今手にしているものを独占し続けようとする思いが支配していること、それこそまさに真の平和が失われていることであることに気付かされる。私達は、真の平和を一体どこに捜せばよいのか。
 本日の日課は5000人の飢えを満たす奇跡と湖の上を歩かれた奇跡という二つの「しるし」に続いている。人々は主イエスを執拗に捜し求めて湖を渡るが、それは主イエスがパンで自分達の空腹を満たしてくれたたためであった。無論空腹を満たすことは命を守る上で最低限必要な事であり、主イエスもまた「わたしたちに日ごとの糧を与えて下さい」と祈るように教えられている。しかしながらヨハネ福音書が伝える主イエスは、単に空腹を満たすためのパンだけではない何かをここで語ろうとされる。5000人の供食が一過性の事件に終わらず、過ぎゆかない事柄を示すものとなるために、主イエスは「わたしが命のパンである」と語られる。しかしそれは、群衆達が求めているものを超えた、群衆達にとって未知の事柄であった。群衆はあくまでも、彼らが期待するような物で彼らが満たされることを望んでいた。群衆のその姿は、奇しくもかつて奴隷の地から解放されたイスラエルの民が、荒れ野での放浪に疲れ、欠乏を恐れ、奴隷として抑圧と虐待のもとで「安全」に「満たされて」暮らしていた古い生き方を懐かしむことと同じであった。
 しかしこの地上に生きる私たちに向かって、主イエスは「わたしはある。怖れるな。私が命の糧である。」と語られた。私たちが生きているこの世界は嵐に襲われ、足下が崩れ去り、戦乱によって全てが破壊されることがある。そのような世界は死の力が全てを支配し、悪が正義を押しつぶそうとしているように思い、絶望することがある。けれども主イエスはご自身こそが新しい命・永遠の命の源であると語られる。その分け与えられ主イエスの命こそが、この世界を押しつぶそうとする死の力に抗う、私たちに与えられた、真の命の糧なのである。
 永遠の命を望み、地上の真の平和を望むということは、私達が既に手にしているものをさらに増やし、利益を確実にすることなのではない。それは十字架においてその命を分け与えられた主イエスのみを信頼し、今自分が手にしているものを誰かに、あるいは今はまだ知らない誰かのために与えること、分かち合うことなのである。たとえそれが、人の目には挫折・敗北であり、無駄・無意味であるように映ったとしても、十字架は死で終わることがないことを、主イエスはその復活において示された。その命の糧である主イエスを分け与えられ、主イエスと共に生きる時、人の思いと力を越えて私たちは真の平和へと導かれる。

2012年8月4日土曜日

[説教要旨]2012/07/29「キリストのしるし」ヨハネ6:1-21

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記下 4:42-44 【新約・ 583頁】
第二の日課 エフェソ 3:14-21 【新約・ 355頁】
福音の日課 ヨハネ 6:1-21 【新約・ 174頁】

福音書に描かれた奇跡物語は、現代人にとっては聖書を理解することを難しくさせているとも言える。しかし聖書が伝える主イエスの驚くべき業の本質とは、それが私たちに対する神の憐れみ・慈しみの業であり、欠乏や悲嘆などの人間の苦難の中に働くことなのである。主イエスは地上に生きる私たちの苦難のただ中に神の愛の業を実現されるのである。本日の福音書ではまず五千人の供食の奇跡が語られる。この奇跡は4つの福音書の全てにおいて触れられているが、ヨハネによる福音書では特にこの出来事が過ぎ越しの祭りの近づく時であることが報告される。それは、神がかつてモーセを遣わしてイスラエルの民を奴隷の地から解放されたように、今や主イエスが、この世の諸力すなわち経済や軍事力、憎悪や差別の支配の奴隷になっている私たちを導き救い出される方であることを示唆している。また他の福音書では、大量の群衆を前に弟子たちがどうすればよいか主イエスに訴える。しかしヨハネ福音書では、主イエスから弟子に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかける。問いかけられた弟子達は現実的な分析をし、全く手の打ちようが無いことを訴える。彼らに備えられたものは僅かパン5つと魚2匹であった。しかし、いわばその問いはこの困難な状況において、どこに頼るべきなのかを問いかけていたのである。そして既に聖書を繰り返し読んでいる読者は、そのパンは天から与えられる他はなく、そのパンは主なる神が世の救いのため与えられた独り子、この問いを発しておられる、主イエスそのものであることに気付く。主イエスはそこに集まった人々一人一人を、一人の人間としての尊厳を持った客として招き、草の上に座らせる。そして今あるものを感謝の祈りと共に「分け与えた」時、そこにいた全ての人が満たされたのだった。
この奇跡に続いてさらに湖の上をあるく主イエスについてヨハネ福音者は語る。湖の上を歩く姿を見て恐れおののく弟子たちに、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられる。「わたしだ」という言葉、それは逐語的に翻訳するならば「私はある」という意味にもなる。弟子たちに対して主イエスはまたもや「私は誰か」ということを問いかけている。そしてまた、読者は「『私はある』と答えられる方、それは救い主イエス・キリストである」と思い起こすこととなるのである。
聖書が語る奇跡は、一過性の驚きではなく、過ぎ去ることのない事柄を指し示す。そして過ぎ去らない事柄とは、主イエスを通して表された救い、神の国に生きる新しい永遠の命に他ならない。この世の救いのために与えられた神の独り子、主イエス・キリストは、十字架の死において、その命を私たちに分け与えられた。そして、その死から甦り、永遠の命に生きる道を開かれた。それこそ、過ぎ去ることのない神の救いの出来事にほかならない。主イエスが示された奇跡を、ヨハネ福音書は「しるし」と呼ぶ。キリストのしるしとはこの地上の暗闇を歩む私たちを救いへと導く道標なのである。

2012年7月26日木曜日

[説教要旨]2012/07/22「全ての人が満たされる」マルコ 6:30-34、53-56

聖霊降臨後第8主日

初めの日課 エレミヤ 23:1-6 【新約・ 1218頁】
第二の日課 エフェソ 2:11-22 【新約・ 354頁】
福音の日課 マルコ 6:30-34、53-56 【新約・ 72頁】

 本日の箇所では6章の最初の部分で派遣された弟子たちが主イエスの元に戻ってくる様子が描かれる。弟子たちは、主イエスに自分達が為したこと残らず報告する様には弟子たちの意気揚々とした雰囲気を感じることもできるのではないだろうか。しかし、杖一本の他には何も持たずに遣わされたその道行きは決して平坦なものではなかったであろう。直面する困難の中で、自分達は主イエスによって派遣されたという誇り、自分達は正義を為しているという自信、その成果を認められたいという思い、そうしたものが彼らを突き動かしたのではないだろうか。しかしやがて、主イエスは彼らの元を離れなければならなくなる。そうであるからこそ、主イエスは、おそらくご自身もまた多くの悪霊と戦い、病を癒し、疲労困憊されていたであろうにもかかわらず、今この時、派遣先から戻り、今ご自身とともにある弟子たちを深く慈しみ、ねぎらい、食事と休息をとらせようとされる。
 しかし、疲れ切った彼らを、群衆はそっと静かにしておくことは出来ない。群衆は彼らをおいかけ、先回りして待ち構え、教えと癒しを求め続ける。群衆にしてみれば、主イエスとその弟子たちにも休むことが必要であるなど、考えもしなかったのであろう。静かに休む筈であった場所に舟から降り立った主イエスは、おびただしい群衆を見出す。私たちであるならば、怒りちらすか、泣きわめくか、無視して立ち去るかしても不思議ではない。しかし、主イエスは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」のだった。群衆達は、やがて主イエスを歓呼して都にむかえながら、主イエスを十字架につけることを求めることとなる。しかし今群衆と共にある時、主イエスは集まったその群衆の心も体も満たされ、さらに再び湖を渡って行た先でも次から次へと繰り出される要求に、主イエスは応え続ける。
 主イエスのもとで、「全て」の人が満腹し、「全て」の人が癒されたことを、聖書は語る。主イエスに任命され、困難な中で正義を実行してきた弟子たちが、あるいは、大勢の群衆の中からそうなるにふさわしい正しい人だけが、満たされ癒されたというのならば、私たちには理解しやすい。しかしそうではないと、福音書は語る。主イエスを求める全ての人は満たされ、全ての人は癒された。主イエスが、この地上の世界でのべつたえられた、「神の国」の到来とはまさにそのようなものであった。私たち地上の世界に生きる者の価値観を越えて、神の国は近づいてくる。無限の寛容さをもって、求めるもの、必要とするものを、それぞれに満たし、癒されるのである。
 群衆に裏切られ、十字架において処刑されてなお、神は主イエスを甦らせ、憎悪と対立、なによりも不寛容さの支配するこの地上の世界に、その限りのない恵みと慈しみとを示されたのでした。まさにそれこそが、主イエスにおいて表された神の正義、神の国の恵みの義に他ならない。不寛容な時代を、私たちは今生きている。嫉妬、憎悪、怒り、そうした不寛容さが、正義の衣を着るとき、私たちは互いに裁き合い、傷つけ合うことしか出来ない。しかし、この地上に実現した生ける神の国・主イエスが私たちと共におられるとき、私たちは、嫉妬、憎悪、怒りを越えて、恵みを分かち合えることを福音書は語るのである。

2012年7月21日土曜日

夏季の礼拝について[07/22-09/30]

熱中症対策のため夏季はチャペルではなく大学教室で礼拝を行う場合があります。
チャペル以外の場所で礼拝が行われる場合は、日曜の朝に礼チャペルにて掲示いたしますのでご確認下さい。
なお教会員の皆様への配布物は礼拝堂の週報ボックスをご確認ください。

2012年7月19日木曜日

[説教要旨]2012/07/15「恐れの中から」マルコ6:14-29

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 アモス 7:7-15 【旧約・ 1438頁】
第二の日課 エフェソ 1:3-14 【新約・ 352頁】
福音の日課 マルコ 6:14-29 【新約・ 71頁】

 洗礼者ヨハネが逮捕されたのは、このヘロデ大王の息子の一人でガリラヤ地方の領主であった、ヘロデ・アンティパスの結婚について批判したことがアンティパスの妻の恨みを買ったためであると本日の箇所では報告されている。またユダヤの歴史家ヨセフスによれば、民衆への洗礼者ヨハネの影響力が大きくなりすぎたため、騒乱につながることをヘロデ・アンティパスが恐れたためであると伝えている。いずれにしても、アンティパス自身は、政治的混乱による自分自身の失脚への恐れ、そして自分の妻の憎悪と怒りへの恐れ、いわば内外の双方からの恐れによって苛まれていたことが推察される。また本日の箇所にはアンティパスは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とあり、ヨハネを信頼し、殺すことが出来ずにいた。しかし結局のところ、権力を巡る陰謀の渦巻く宮廷で自らの利益と面目を守るため、アンティパスは洗礼者ヨハネを残酷な方法で処刑することとなる。このアンティパスの姿は、旧約に記された、預言者の語る神の言葉を前にして怖れつつも、その言葉に従うことのできない王・権力者たちの姿を思い起こさせる。それは今も昔も変わることなく人の世に巣くう闇、嫉妬、憎悪、怒り、恐れ、不安を描き出す。
 主イエスについて聞き及んだ人々は、主イエスを「エリヤ」だとか「預言者だ」と語ります。そしてその評判を聞き、アンティパスは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と語るのです。しかし、そのいずれもが、「イエスとは何者か」という問いに対する答えとして適切なものではなかった。恐れの中で、洗礼者ヨハネを処刑させたヘロデはたしかに、主イエスの中に洗礼者ヨハネとの共通点を見出した。様々に推測する世の人々も、不安定な政情と生活事情の中で、主イエスの教えと業の中に、かつて預言者が、そしてまた洗礼者ヨハネが示したものと同じものを見出していたのであろう。しかしながら、今現れた主イエスは、そのいずれをも凌駕するものであることを、福音書は語ることとなる。
 主イエス・キリストは、多くの預言者達が踏み込んできたのと同じこの世の闇の道を歩みながら、その闇から抜け出る道、命と救いの道を私たちに開かれた。洗礼者ヨハネに対するヘロデ・アンティパスの共感と同じく、やがてポンテオ・ピラトは、主イエスに同情するが、結局のところ自らの利益と面目のために、主イエスの処刑を行うこととなる。世の権力の利益と、人々の気まぐれな憎悪によって、主イエスもまた死の道を歩むこととなる。しかし、その十字架の死から主イエスは甦られた。この世の不安と恐れのただ中に誰よりも深く踏み入った主イエスは、誰も見出すことの出来なかった、さらにその先に続く道、命と救いの道を私たちに開かれたのである。
 嫉妬、憎悪、怒り、恐れ、不安。それらは私たちにとってあまりにもなじみ深い、私たちの日常を巣くう闇の力である。洗礼者ヨハネと同様に、その闇の中に踏み入る主イエスの姿を福音書は語る。そしてさらにその闇の中から甦り、福音の恵みを私たちに与えられた。この地上における恐れの中で、主イエスは既に私たちに命と救いの道を備えて下さっているのである。

2012年7月12日木曜日

[説教要旨]2012/07/08「巡り歩く主イエス」マルコ6:1-13

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 エゼキエル 2:1-5 【新約・ 1297頁】
第二の日課 2コリント 12:2-10 【新約・ 339頁】
福音の日課 マルコ 6:1-13 【新約・ 71頁】

 ガリラヤ湖畔で二つの癒しの奇跡を行われた主イエスは、主イエスの家族とその家族らを良く知るもの達がいる故郷の街へ弟子たちと共に向かう。マルコ福音書は3章で既に主イエスの家族に対する冷淡な態度を報告している。神への信頼と人との交わりを回復された主イエスの業と教えからすると、なぜ主イエスはそのような振る舞いをされたのか理解しがたく感じる。一方本日の箇所では、周辺のガリラヤの各地で神の国を宣教し力ある業をなした主イエスが、故郷の地では理解されないことが語られる。3章の報告とこれらの箇所を併せて読む時、それは単に主イエスが冷淡であったのではなく、周囲が主イエスを受け入れることが出来なかったことを浮き彫りにする。神の国の宣教とその力ある業は、故郷の人々が知っているイエスという人物とは結びつかなかった。彼らは自分達の理解出来る範囲の中で、自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとした。しかし神の国の福音を告げる主イエスは、彼らの知る世界には留まってはおられなかったのである。では主イエスはどこにおられたのか。
 続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちに、主イエスに並ぶ働きを任命し派遣されことが報告されている。ご自身と同様の働きを託すにあたって、弟子たちが安全で快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。主イエスと同じく放浪する弟子たちは、やはり主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病を癒すのであった。このことをもって主イエスと故郷との間の溝について振り返る時、主イエスは、全てが整えられた、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかったことに気付く。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされた。それこそまさに主イエスが告げられた神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。その主イエスは常に、悲しみと苦しみの中にある人々を訪ね、村々を巡り歩き続けた。主イエスの家族と故郷の人々は、そのような主イエスを理解することが出来なかった。おそらく彼らにとっては、自分の日常が整えられ、満たされ、全てを把握し、自分の支配の元に置くことこそが意味あることであったのであろう。しかし主イエスにおいて示された神の国・新しい永遠の命は、その延長線上にはなかった。
 あたりまえの日常が崩れ去り、今まで手にしていたものが失われる時、私たちは立ち直れない程の大きな衝撃を受ける。しかもそのような自分とは関係なく、世の日常は過ぎて行くことに気付く時、誰一人として、自分のその痛み・悲しみ・嘆きを理解することが出来ないことに気付き、私たちの悲しみはさらに深くなる。しかしたとえ世の全ての者が理解することが出来なかったとしても、ただ主イエスだけはその悲しみも痛みも苦しみも知っておられる。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれたからである。その十字架の死は人の目には、悲嘆と挫折の行き詰まりでしかない。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この地上に生きる私たちの悲嘆と挫折の中で、主イエスは私たちを訪ね、慰め、癒し、新しい命へと導かれる。

2012年7月5日木曜日

夏季の週日の集会について[07/19-09/20]

週日の諸集会は7/19(木)-9/13(木)の間お休みいたします。

聖書入門(水曜日11時より)は7/18(水)が夏前の最終となります。
9月は9/19(水)から再開いたします。

キリスト教入門講座(木曜日11時、15時)は7/12(木)が夏前の最終となります。
9月は9/20(木)から再開いたします。

[説教要旨]2012/07/01「人々はあざ笑った」マルコ5:21-43

聖霊降臨後第5主日

初めの日課 哀歌 3:22-33 【旧約・ 1290頁】
第二の日課 コリント 8:7-15 【新約・ 334頁】
福音の日課 マルコ 5:21-43 【新約・ 70頁】

 本日の福音書では主イエスによる二つの癒しの奇跡の物語が語られる。
冒頭で会堂長ヤイロが主イエスのもとを訪ねる。会堂長とはユダヤの民が礼拝のために集まる会堂の責任を持つ信徒代表であり、その地域のユダヤ人の伝統とその権威を守ることに責任を持つ立場であった。いわば主イエスの権威とは対立する立場にあった彼は、自分の知っている伝統やしきたりだけでは娘の命を救うことが出来ないことをまた知っている。自分の知っている世界の外側にある何かを求めて、ヤイロは主イエスの前にひれ伏し「娘に手をおいて欲しい」と願う。ヤイロの願いに応えて、主イエスは彼の家に向かう。
 その途中で12年出血が止まらない女性がいたことが報告される。出血中の女性は、ユダヤの伝統では「穢れ」とされ共同体の交わりから遠ざけられていた。この女性は、病気のゆえに12年もの間交わりから排除され、社会的に死んだものとされていた。世から見捨てられ交わりからも排除されたこの女性は、世においては得られることの無かった癒しを求めて主イエスの衣服に触れる。本来であれば、この女性は「穢れた」ものとして他者に触れることを禁じられていた。しかし、彼女は主イエスへの思いからその禁を破り、その衣服に触れる。常識的に考えれば、それは誰にも知られることなく、また何の効果もないまま過ぎ去ってゆくだけの出来事であった。しかしこの女性は癒され、主イエスは振り返って女性を捜される。大勢の群衆の中から無名の一人を捜し出すことの愚かさを弟子たちは諭す。彼らにとってはこの女性の姿は未だ見えない存在であった。見えないものを見出そうとする主イエスのその態度を、あるいは彼らは心の中で嘲笑していたかもしれない。しかし振り返った主イエスは、進み出た女性と言葉を交わす。それはまさに、存在しないものとされた命が、一人の生きた存在として再び取り戻された瞬間であった。それは単なる病気の治癒ではなく、この女性が再び「生きるもの」となった瞬間であった。主イエスがこの女性へと呼びかけられた言葉が、死に追いやられていた女性に命をもたらしたのである。
 その時、会堂長ヤイロの家から、娘の死の知らせが届く。常識で考えれば、ヤイロと主イエスは少女の死に間に合わず、彼らは死に対して何もなすことが出来なかったという失敗と無力さの物語として、それは終わることとなる。しかしながら、福音書は悲嘆の声の中をさらに先へと歩む主イエスの姿を伝える。人々には、主イエスがどこへ進もうとされているのか見ることが出来ない。悲嘆から一転し人々は主イエスをみてあざ笑う。人々の嘲笑を超えて、目には見えない領域へと主イエスは踏み込んで行かれる。当時のしきたりでは穢れた存在であるはずの亡骸に歩み寄り、手を取って言葉を掛けられる。「少女よ、起きなさい」という呼びかけ、それは一つに命に向かって呼びかけられた主イエスとの出会いへの招きの言葉であった。主イエスの言葉に命は応え、少女は起き上がる。
 現代人は奇跡物語を合理的に説明しようと試みる場合もある。しかし、そうした試みは主イエスのその教えと働きを理解する上では意味がない。重要なことは、主イエスは、この世の価値観では嫌悪され、排除されているそのただ中にこそ踏み込んで行かれたということ、そしてそのただ中で、主イエスはその言葉によって命を与えられたということなのである。挫折と悲嘆の中で、私たちもまた命を与える主イエスの言葉に出会うのである。

2012年6月29日金曜日

[説教要旨]2012/06/24「風や湖さえも」マルコ4:35-41

聖霊降臨後第4主日・子どもと大人の合同礼拝

初めの日課 ヨブ 38:1-11 【新約826頁】
福音の日課 マルコ 4:35-41 【新約・ 68頁】

台風というだけで、私たちは右往左往して大騒ぎする。予想していなかった事態にうろたえ、自分の計画通りにことがはこばなくなることを心配し、苛つき、怒りを感じる。そう思い起こす時、私たちを襲う風雨は単に自然現象だけではないことに気付く。計画された毎日の中で襲いかかる突然の予想もしない出来事、私たちの毎日の生活の中で突然起こる「嵐」に遭遇した時、私たちはうろたえはてて、ついには周囲に怒りをぶつけずにはいられなくない。私たちは、自分の計画や段取りが邪魔されることを、恐れ、嫌う。なぜならば、自分の計画通りにならない時、人間は自分がいかに弱く頼りない存在かを思い知らされることとなるからである。しかし私たちの生きる世界は、大自然をはじめとして、人間の思い通りにならないものばかりなのである。古代の人々にとっては、それはより明かなことであった。旧約のヨブ記38章では、人間には思い通りにならないこの世界を造り、治めるのは誰かが問われている。自分を襲う悲劇に怒り訴えるヨブに、主なる神は嵐の中から、この世界を造り、命を与えるのは神である私だけだと応えられる。
本日の日課であるマルコ福音書では湖の岸辺に集まった群衆を前に舟の上から主イエスは教えられていた。その日の夕方、その舟に乗って「向こう岸へ渡ろう」と主イエスに命じられて、弟子たちは湖に漕ぎ出す。しかし激しい風に翻弄され、弟子たち慌てふためくこととなる。慌てふためく弟子たちとは対照的に主イエスご自身はまるで何事も起こっていないかのように舟の中で眠っておられる。弟子たちは、おそらく怒りいらつきながら「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と主イエスに訴えたであろう。その姿は、日々の中で予期せぬ嵐に出会って、うろたえてしまう私たちそのものであると言ってもよい。
しかし主イエスが起き上がり風と湖を叱られるとそれらは直ちに静まった。それは、まさに神の力が主イエスにおいて現れたということに他ならなかった。主イエスがおられるところで、人々は病から癒され、苦しみから解放されたことを福音書は語る。実に主イエスがおられるところこそ、世界の全てを造りこれを治める神の力が働く場所なのである。弟子たちは、自分達と一緒におられる主イエスが、そのような方であることを、まだ気付くことができなかった。弟子たちは、今自分達が思うままに進むことが出来ないこと、自分たちが嵐に翻弄されていることだけに心が向いてしまっていた。しかし実は、人間の力と思いを超えて、全ての命を造られた神は、嵐のただ中で弟子たちと共におられたのである。
私たちはこの世界を自分の思い通りに動かすことも出来なければ、自分自身の命ですらどうすることも出来ない。私たちはただ襲い来る嵐に翻弄されるばかりである。けれども主イエスは、その十字架からの復活によって、この世におけるあらゆる挫折と苦しみを超えて神の力は働くということ、そして命は新たに造られることを私たちに示された。私たちは日々の生活の中で、突然の嵐に襲われ恐れ慌てふためき、怒り、嘆き、失望することしか出来ない。けれども十字架の死から甦られた主イエスが私たちと共にいてくださるのである。私たちがこの世の嵐の中にある時、まさにその時、主なる神は私たちと共にいてくださるのである。

2012年6月19日火曜日

[説教要旨]2012/06/17「神の国は種のように」マルコ4:26-34

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 エゼキエル 17:22-24 【旧約・ 1320頁】
第二の日課 2コリント 5:6-17 【新約・ 330頁】
福音の日課 マルコ 4:26-34 【新約・ 68頁】

 本日の福音書では神の国について語られているが、主イエスは「たとえ」を用いてしか語られない。これらのたとえの意味が分かる・分からないは、知識や知的能力の高さによらず、ただその言葉に従って自らを変えて行くことのできるような生のあり方によって、初めて意味あるものとなる。その意味で、これらの神の国のたとえ話は、私たちが期待するような知識を伝えようとしているのではなく、むしろ聞き手が新しい生き方を歩むようになることを求めている。それは、私たちが今現に手にしているもの・今現に見えているものだけではなく、今はまだ見えないもの・今はまだその手元にはないものに、希望と信頼を寄せていくことのできるような、新しい生き方・新しい命への招きに他ならない。
 前半の「ひとりでに成長する種のたとえ」は、神の見えない力のもつ神秘について私たちに語る。種が芽を出し成長する時、人間ができることはただ待つことだけである。あるいはせいぜいその成長に併せて、植木鉢を変えたり、水が絶えないように留意するなど、神の力が働くことを妨げることがないようにするだけである。
 私たちが人間であるかぎり、その働きは常に未完成であり、不足のあるものでしかない。それを完成し全てを良しとされるのは神の見えない働きだけなのである。神の力はこの世界を作られた創造の力に他ならない。それは何も無いところから命を生み出す力であり、その力がいつどのように働くかは私たちの目から隠されている。この見えない神の力は過去のものではなく、今を生きる私たちに対しても注がれている。無から命を生み出し、種をひとりでに成長させる神の創造の働きは、絶望の淵であえぐ私たちを救い出す力でもある。
 後半の「からし種」のたとえは、たとえその発端においては、どんなに小さく目立たないものであっても、神の業が働くとき、結末においては、何よりも大きくなるという、神の働きの神秘と偉大さについて私たちに語る。大きな結末は私たちに既に約束されている。だからは私たちは現在の小ささに失望する必要はないという、視点と生き方の転換をこの譬えは私たちに投げかける。
 無理解と拒絶の中でひたすらに神の国の福音を語られた主イエスの地上での歩みは、見えないものをひたすらに目指すものに他ならなかった。その歩みは十字架の死によって中断させられる。目に見える成果としては、それは挫折であり、不完全なまま終わってしまうことであった。しかし主イエスは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、神の創造の業は働き、希望が必ず創り出されることを私たちに伝えられた。私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられているのである。聖書を通して私たちの思いと力と知恵を超えて、神の業は希望を創り出し、全てを良しとされるのだということを私たちは知るのである。

2012年6月13日水曜日

6/24の主日礼拝の開始時間について[6/24]

6/24(日)は「子どもと大人の合同礼拝」として朝10時から礼拝を開始します。
通常の主日礼拝よりも30分早い開始となります。

[説教要旨]2012/06/10「神の御心を行う人こそ」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 創世記 3:8-15 【新約・ 4頁】
第二の日課 2コリント 4:13-5:1 【新約・ 329頁】
福音の日課 マルコ 3:20-35 【新約・ 66頁】

 本日の福音書の冒頭で群衆が主イエスを追い求めてやってくる。おそらく、主イエスが共におられた人々とは2章で既に触れられているように「徴税人や罪人」であった。当時の社会における常識や敬虔さからするならば、そうした人々と食卓を囲むことは恥ずべき非常識な事であった。それゆえに、癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内の者」は主イエスを「気が変になっている」と考え取り押さえるためにやってくる。「取り押さえる」という言葉は、主イエスが十字架にかかる際に「逮捕する」という言葉と同じである。つまり「身内の者たち」の態度は、主イエスを理解出来ず敵対した者たちと同じであったと言うことができる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「外側に立つ」という意味である。したがって、この表現には、社会の常識や父祖伝来の仕事や土地を棄て、その外側に立つ者として生きる主イエスへの非難が込められているとも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都=中央からやってきた宗教的権威者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難する。
 これらの非難に対して主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と応える。そこでは確かに兄弟・姉妹・母という、私たちのよく知る家族関係を表す言葉が用いられているが、それとは全く異なる次元の絆を意味するものとして語られる。さらにこの言葉の中には当時の社会の伝統的価値観の中では決定的に重要な役割を果たすはずの「父」が欠落している。それはただ神だけが「父」である、そのような関係が私たちの間に新たに造られることを示している。それは、主イエスに従う者たちが地上を支配する権威から離れ、伝統的な価値観と社会制度の中では社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。いわば、私たちの知っているこの地上における絆は、主イエスにおいて表された神のみ心を私たちが生きることによって、私たちの理解と想像を超えたものとして新しくされるのである。
 そのような新しい絆を私たちの間に造り上げるために、つまり神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、神のみ心に従って歩まれた。その行き着く先で主イエスは都エルサレムの外の刑場で、十字架において処刑された。まさに、主イエスは、ひたすら「外側」に向かって歩まれた。しかし、その歩みはその死で終わることはなかった。主イエスは死の支配の外側へ、すなわち「新しい永遠の命」へと歩まれた。神のみ心を行う主イエスはその死から甦り、私たちに神のみ心を生きる道筋を備えられたのである。私たちは聖書が語る主イエスの十字架と復活の歩みを通して、この地上の現実がどれほど悲嘆と苦悩で満ちているとしても、そこには必ずその外側へと通ずる「命の道」が備えられていることを知るのである。

2012年6月5日火曜日

[説教要旨]2012/6/3「風は思いのままに吹く」ヨハネ3:1-17

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:12-17 【新約・ 284頁】
福音の日課 ヨハネ 3:1-17 【新約・ 167頁】

 本日は教会の暦の「三位一体主日」であるが、三位一体の教理について聖書の中に体系的に記されている箇所は存在しない。生まれたばかりの教会は三位一体という言葉を知らなかった。教会はその歴史の中で葛藤と問いかけを繰り返して、キリスト者達は自らの信仰を振り返り、一つの神は、創り主である神として、救い主キリストとして、慰め主聖霊として、この三つの仕方で私たちに関わられるという新しい信仰の表現を発見したのである。それはいわば聖書がその全体を通じて語っているものを指し示す表現であった。
 三位一体主日は教会の暦の前半の終わりに位置し、父なる神がこの世に御子を降されたクリスマス、御子主イエスが墓から甦られたイースター、そして聖霊が弟子達へと降ったペンテコステという、救いの歴史を総括し、暦の後半に私達の地上での生の中での信仰の成長にその視線を向けさせる役割を担う。それは私たちが現に生きているこの地上での生活もまた、主イエスの誕生・十字架と復活・聖霊の降臨という神の救いの歴史の中の一部であることを、私たちに思い起こさせる。
 本日のヨハネ福音書第3章での主イエスの言葉には、今日に至るまで伝えられている教会とその宣教の本質が詰め込まれている。主イエスに従うものとなるために「新たに生まれる」つまり新しい命に生きることが語られ、この新しい命を与えるためにこそ救い主は来られたことが語られる。そして、その救い主キリストの宣教の働きの源泉は、父なる神の限りのない愛であることが語られる。新生を巡る対話は、やがて風についての話しへと移る。霊と風は、どちらもギリシア語では同じ言葉で、目に見えないが何かを動かす力を指している。そしてまたその力は人間が定めた形によって捉えることは出来ず、その風の行き着く先はどこなのかを知ることは誰にも出来ない。「風は思いのままに吹く」。すなわち神の見えない力である聖霊の風もまた神のみ旨のままに吹く。私たちはただ、今立っているその場で風を受け止め、その風に動かされるだけである。しかし、神の見えない力、聖霊の風に動かされ、まだ見ぬ新しい道へと踏み出すときにこそ、私たちは救い主キリストに出会い、救いの出来事、すなわち新しい命の創造へと向かうのである。
 今日私たちは、あらゆることが自己責任として問い糾され、自分よりも楽をしているように見える者を非難せずにはいられない時代を生きている。そこでは弱さ・低さ・誰かに頼ることを嫌悪し、非難することが賞賛すらされる。そのような世にあって、聖書は私たちのこの日常の中の、その徹底した低みの中に、神の栄光の出来事、すなわち救いの出来事が隠されていることを語る。三位一体という信仰の表現は、いわば聖書の全体が示す、私たちに与えられた救いの在り方を表すものである。この救いの出来事に私達触れることができるために、神は人間となって、不安と悲しみと嘆きの中を生きる私達の低みのただ中へと降られた。そして十字架と復活によって、そこに新しい永遠の命への道を開かれた。さらに聖霊の力によって、私たちを絶えず支え、押し出し、新しい永遠の命へと導かれる。それこそが、主イエスがニコデモに語られた新生に他ならない。神は私達の嘆きと悲しみの中に新しい命の息吹を吹き込み、私達を慰めと希望とで満たされる。

2012年6月1日金曜日

[説教要旨]2012/5/27「悲しみは喜びに」ヨハネ15:26-27、16:4b-15

聖霊降臨祭

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 使徒 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 15:26-27、16:4b-15 【新約・ 199頁】

 聖霊降臨祭は使徒言行録2章に報告されるように、集まっていた弟子達に聖霊が降り、あらゆる国の言葉で福音を語り始めたとされる。また聖霊の働きによって宣教の働きが始まったことをもって「教会の誕生日」とも呼ばれている。復活節後半はヨハネ福音書の告別説教を中心に福音書が選ばれ、教会は復活の主イエスが共におられることを憶えて過ごしてきた。しかし、それはかつて主イエスがこの地上で弟子たちと共におられた時とは全く異なる、新しいあり方によってであることをも語る。その意味で本日の福音書は、今なお信仰の旅の途上にある私たちに、古い段階への決別の時をも示している。かつて弟子たちが聖霊を受けて新たな命の道を踏み出したように、私たちも今また古いあり方に別れを告げ、新たな一歩を踏み出すことを促されている。
 主イエスの逮捕・処刑に際して主要な弟子達は散り散りに逃げ去ってしまう。その後復活の主イエスとの再会を通して、彼らはまた一つとされるが、主イエスの昇天を経て再び彼らの元からいなくなったとき、彼らは世を恐れ、再び分裂の危機に直面する。そのような彼らのもとに、弁護者・慰め主なる聖霊が与えられたのであった。告別説教の中で主イエスが予告されていること、それは古今東西を問わずに、常にその信仰者の前に立ちはだかる困難の存在であった。そしてそれらの困難を乗り越える唯一の方法は、キリストにつながり続けること、そしてそれによって信仰者は一つになることを主イエスは語られる。その意味で聖霊降臨の出来事は信仰者を一つに結びつける神の働きが主イエスに従う者たちの間に起こったということであった。そしてそうであるからこそ、この時を「教会が生まれたとき」と呼ぶことが出来るのである。
 しかし聖霊を受けた弟子たちはたしかに「一つ」になるが、そこでは全く同じ文言を皆が斉一に語ったわけではなかった。それは様々な言葉、様々な表現で語られ、それらは外見上は異なるにも関わらず、しかしながら一つの事柄を語ることとなったのであった。新しい命の道とはまさにそのようなものであった。一人が支配し、一糸乱れず皆がそれにただ従うという、地上の支配者ローマ帝国の支配制度・軍隊制度ととは全く異なるあり方であった。「一つ」になると言っても、そこでは均一さが強要されるのではない。そうではなく、多様なあり方が受け入れられ、またその多様性が、慰めと励ましの言葉として用いられてゆくようなあり方なのである。それこそがまさに聖霊による交わりである教会の姿なのである。この交わりにおいては一人一人それぞれが、それぞれのあり方で役割と使命を負い、そうであるからこそ、一人一人がみなかけがえのない重要な存在となるのである。
 かつて弟子たちに注がれた聖霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たし、一つとならしめる力である。それは、死の闇を打ち破る、復活の光の力であり、過去に固執することから私たちを解放し、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。

2012年5月24日木曜日

聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝のご案内

聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝
2012年5月27日(日)10:30より

礼拝の中で三鷹教会聖歌隊による賛美が行われます。

[説教要旨]2012/05/20「キリストの喜びに満たされて」ヨハネ17:6-19

復活節第7主日

初めの日課 使徒 1:15-17、21-26【新約・ 214頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:9-13【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 17:6-19【新約・ 202頁】

 先日の木曜日は、主イエスの復活後、40日目に天に昇られたと聖書にあることから、主の昇天日となっている。それは、主イエスの十字架と復活の出来事、つまりイースターから、その50日後に弟子たちが聖霊を受けて、この世に福音を告げるために遣わされるようになった、聖霊降臨・ペンテコステの出来事へと、私たちは確実に歩みを進めていることを思い起こさせる。
 また本日はアジア祈祷日でもある。これは現在のアジア・キリスト教協議会(CCA)の前身EACCが1959年のペンテコステの一週間前の日曜日に誕生したことに由来している。今年のアジア祈祷日の主題は「神さま、私たちを和解を実現する者にしてください」である。今私たちをとりまくこの世の現実は、対立と憎しみ、暴力で支配し、奪い取ることがひしめいている。特に私たちが生きているこのアジア地域の中には、富める者と貧しい者、暴力的に支配する者とされる者、奪い取る者と奪われる者とが、隣り合わせになって生きている。こうした私たちの現実の中で、キリスト教会が世に証し出来ることを願い、アジアの諸教会は祈りを合わせる。しかしながら私たちはどこに、和解を実現する、その方法を、その原動力を見出していくことができるのだろうか。
 本日の福音書では主イエスとの別れの後にこの世の力によって脅かされることになる弟子たちのため、主イエスが長い祈りを捧げられている。十字架を前にして、主イエスは、弟子たちが神によって守られることを祈る。十字架・復活・昇天を通して、主イエスはこの地上での姿から、天つまり神の領域へとその有り様を移されるが、この世は主イエスに従う者に対してその猛威をふるおうとしているからである。しかし弟子たちには、この世において福音を分かち合う使命を与えられている。神は、その愛の故に、神に背くこの世を捨て去ることができず、主イエスをこの世に遣わし、新しい命への道を示された。主イエスに従う弟子たちは、その主イエスによって示された神の愛を、その新しい命の道を、この世に伝えるために残らなければならないのである。
 神が愛されたこの世に、主イエスが愛された者たちが派遣され、主イエスの十字架と復活によって示された神の愛の偉大さ、その福音を伝える時、世はもはや神に背いたままではなくなる。この世の闇によって引き裂かれ、奪われ、絶望に突き落とされた者たちも、主イエスの祈りによって、喜びと希望に満たされ、そしてその喜びと希望をこの世に分かち合うことで、この世は変えられて行く。むろんそれは決して平坦な道のりではない。しかし主イエスは、「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と祈られる。主イエスによって示された神の限りのない愛の力は、その険しい道を、新しい命へと続く道とされるのである。
 たしかに私たちは、アジアの諸教会とその地域の直面している問題について、直接のつながりもなく、これまで全く知らなかったかもしれない。しかしたとえ私たちの間に大きな裂け目があったとしても、主イエスの喜びによって、その裂け目を満たされることを、そして引き裂かれたこの世において主イエスの証人として、和解を実現するものとして歩むことを祈り求めるのである。

2012年5月16日水曜日

[説教要旨]2012/5/13「キリストが友となられる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日

初めの日課 使徒 10:44-48 【新約・ 234頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:1-6 【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 15:9-17 【新約・ 198頁】

 本日の福音書は、主イエスとの密接な関係の中に置かれた私たちの生き方について語る。9節では「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」、つまり父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、たしかに父なる神は愛すべき方として御子イエス・キリストを愛されたが、その主イエスが私たちを愛されるということとは、同じ次元の事柄とは言えない。というのも、主イエスが私たちを愛されるのは、決して私たちが愛するに足る資格や力を持つからではないからである。その意味で、私たちが主イエスの愛の中にいるということは、決して当然のことではない。
 主イエスはさらに「わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」という命令を語られる。しかし、それは主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら、主イエスの愛は、愛するに足らない存在である私たちのために、十字架においてその命を捨てて下さった、そのような愛だからである。いうなれば、それは条件など無い、無条件・無制限の愛である。だからむしろここで「わたしの掟を守るなら」とあることは、わたしたちが、窓を開いて太陽の光を受け止めるように、私たちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。
 主イエスの友となるということ、それは私たちがなにか人間以上の存在になるということではなく、私たちがキリストというまことのぶどうの木につながることで、人の目から見たならばたとえどんなにそれが不足し不十分であったとしても、その実を結ぶことを抜きにしてはありえないことなのである。その成果がたとえどんなに不十分であったとしても、私たち一人一人がこの世に主イエスの愛を伝える時、その成果の如何に関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛は主イエスにつながる私たちへと注がれているのである。
 かつて弟子たちに語られた主イエスの愛の戒めは、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちは自己中心的な、満たされることのない欲望の誘惑としての、この闇の力に取り囲まれている。その中で新しい永遠の命に留まり、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるためには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし、その道は主イエスが歩まれた今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが互いに愛し合うということであり、神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

2012年5月8日火曜日

[説教要旨]2012/05/06 「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

復活節第5主日

初めの日課 8:26-40 【新約・ 228頁】
第二の日課 4:7-21 【新約・ 445頁】
福音の日課 ヨハネ 15:1-8 【新約・ 198頁】

 若葉が生い茂っていく様子を目の当たりにする時、自然の生命力というものの偉大さを思わずにはいられない。翻って自らを省みるならば、あふれ出る命の循環の一部であることを拒み、私たちは、自分だけを満たし保とうとしているのではないか。その結果として、つながりと絆を見失い、また希望をも見失ってしまう者が溢れているのではないか、と思わずにいられない。
 本日の福音書で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語る。ぶどうの木につながっていなければぶどうの枝は実を結ぶことは出来ない。各部分がつながっているところでしか、命は循環しない。従って、主イエスがぶどうの木であるならば、枝である弟子たちは、自己完結することは出来ない。主イエスに連帯してつながることによってのみ、主イエスに従う者は命を得る。
 一方で、十字架での死は目前に迫っている。まだ自覚していないが、弟子たちはやがて主イエスを失うこととなる。死によって、弟子たちと決定的に引き離されるというのに、主イエスはなぜ「わたしにつながっていなさい」などと語ることが出来るのだろうか。いやむしろ、十字架の死があるからこそ、主イエスは敢えて「わたしにつながっていなさい」と語るのである。それは、現に今目の前にあるものだけではなく、見えない部分で続いていく、そのようなつながり、信頼と連帯の関係を主イエスは弟子たちに伝えようとしている。この世の価値基準においては、主イエスの生涯とは、志半ばで倒れ、挫折し敗北したものである、そのような評価しか与えられない。この地上での結果と成果だけに目を向ける限り、足りないもの、失われてしまったもの、それらのものを人はただ嘆き、恨み、その満たされない思いを誰かを攻撃することでしかはらすことが出来ない。しかし、十字架の主イエスは、復活の主イエスでもあることを聖書は語る。人の目には失われたとしか見えないもの、不完全なままのものであったとしても、実はその先には新しい永遠の命が続いていること、神のもとでの完成があることを、主イエス・キリストの復活の出来事は私たちに語る。
 主イエスにつながるということ。それは私たちが、主イエスの愛のうちに留まるということである。聖書がかたる神の愛とは、現代人が考えるような、個人の好悪の感情ではない。それは、つながりであり、信頼関係のことであると言える。新しい命のうちへと他者を受け入れ、支え、生かす結びつき、それが主イエスの愛である。主イエスの愛によって結びつけられる時、わたしたちは命の意味を知る。すなわち、私たちの命とは、自分をただ満たすため、自分自身を守るためだけにあるのではない。他者を受け入れ、支え、生かす。それこそが、主イエスにつながる私たちに与えられた命の意味なのである。「わたしにつながっていなさい」。この主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会う。その新しい命は、古い、自分のために生きる自分が、他者のためにその命を紡ぎだすものとして変えられる力となる。

2012年 三鷹教会バザーのご案内

いつもルーテル三鷹教会バザーへのご支援をありがとうございます。
今年も教会バザーを開催することにいたしました。
2012年6月24日(日)12:00~14:00
また献品のご協力をお願い申し上げます。
ご家庭でご使用にならないものがありましたらバザーのためにお寄せください。
献品の受付 :6/10まで
☆会場の都合上、誠に勝手ながら家具・家電・書籍などはお受けできません。
☆衣類は、新品または新品同様・洗濯済みのお品をお願いいいたします。
JELC-MitakaBazar2012Postere
JELC三鷹教会バザーのお知らせ

2012年4月24日火曜日

[説教要旨]2012/04/22「あなたがたに平和があるように」ルカ24:36-48

復活節第3主日

初めの日課 使徒 3:12-19 【新約・ 218頁】
第二の日課 1ヨハネ 3:1-7 【新約・ 443頁】
福音の日課 ルカ 24:36-48 【新約・ 161頁】

主イエスの弟子たちが世に告げた復活信仰はキリスト教の中心的事柄であるが、それは「復活」という事柄のプロセス・過程についての単なる時系列的記述ではなかった。それは、主イエスは十字架に磔になって殺され、私たちのもとから失われたという決定的な喪失の体験と、主イエスは生ける者として私たちに現れ、私たちと共にいる、という、全く矛盾する二つの事柄を彼らがその生の中で体験し、その体験は彼らの生のあり方に決定的な変化をもたらしたことの証言であった。その体験によって、逃げ出そうとした者達は立ち戻り、隠れていた者達は人々の前に出て、黙していた者達は語り始めた。復活の主イエスとの出会いによって、彼らの人生は逆転を始めることとなったのである。
本日の福音書において、この復活の主イエスと弟子たちとの出会いが語られる。十字架で磔となって処刑された後、女性たちは空の墓を見出し、天の使いから主イエスの復活を知らされる。そして処刑の場となったエルサレムから立ち去ろうとした二人の弟子はその途上で一人の男と出会い、食卓の席でそれが主イエスであること知る。残りの弟子たちはこれらの証言を聞くが、それを受け入れることはおよそ出来なかった。指導者である主イエスを失い、また十字架へと連れて行かれる主イエスのもとから逃げ出してしまった彼らは全ての望みを失った挫折者であり人生の敗北者であった。そのような自分達が、再び世に出ることなどとても考えられない。おそらくそのようなことを話しているさなかに、主イエスが彼らのまん中に立って「あなたがたに平和があるように」と語られる。この出来事を前に弟子たちは「恐れおののき」「うろたえ」「心に疑いを起こす」。彼らが見捨てて逃げ出した主イエスが再び現れるとするならば、それは自分達にその報復をしに来た亡霊ではないか。そう考えても不思議ではない。しかし食卓の交わりを通して、彼らは「主イエスは生きている」ことを体験する。この復活の主イエスは、彼らが弟子としてふさわしい振る舞いを出来なかったことを咎め訴えるために彼らと出会われたのではなかった。むしろ逆に、挫折者・敗北者として倒れ伏す彼らを慰め、力づけ、立ち上がらせるためにこそ、彼らと出会い、平和を告げられるのである。この出会いによって彼らは、主と共にあることの意味、平和を分かち合うことの意味、赦しのメッセージを知る。そして彼らはやがて、「あらゆる国の人々」に主の平和すなわち赦しのメッセージを証言する者へと変えられる。
主イエスの復活によって示された新しい命は、それに「ふさわしい」と見なされうるような、「できる」者達だけに与えられたのではなかった。キリストは、この世に生きる全ての者に新しい命を与えるために、その命を差し出され、「ふさわしくない」「できない」者達に「平和があるように」と呼び掛けられた。だからこそ弟子たちは再び立ち上がって、主の復活を伝えることが出来たのだった。復活の主イエスは、今を生きる私たちにもまた、喪失と挫折、絶望と敗北の中に、新しい命、平和と赦しを与えてくださるのである。

2012年4月16日月曜日

[説教要旨]2012/4/8「わたしは主を見ました」ヨハネ20:1−18

復活祭

初めの日課 イザヤ 25:6−9 【旧約・ 1098頁】
第二の日課 1コリント 15:1−11 【新約・ 320頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1−18 【新約・ 209頁】

 主イエスの十字架の死の後の日曜の朝、マグダラのマリアは主イエスの墓を訪れるが、墓穴の中に主イエスの亡骸を見つけ出すことは出来なかった。マリヤは悲嘆に暮れ、空の墓について残りの弟子達に訴える。空の墓とは本来主イエスが死を打ち破り、復活されたことの徴であったが、初めにそれを見た時、彼女にとってそれは喪失に追い打ちをかける出来事でしかなかった。彼女が求めていたものは、彼女の元から失われてしまった主イエスの存在であった。そのような中で主イエスに呼びかけられた時、マリヤには復活の主イエスがその傍らにおられることに気付くことが出来ない。そのマリヤの姿は、聖書の語る復活とは、永遠の命とは何かを、逆説的に私たちに示している。復活・永遠の命とは、喪失したものが元通りに復元することや、今あるものが無制限に存続することではない。
 主イエスの復活・新しい永遠の命は主が十字架への道を逸れることなく歩まれたことによって実現した。仲間からも見捨てられ、無数の傷を受け、全てを失い、全く何もないところから、新しい命の出来事は始まった。それは無の闇からこの世を作られた、私たちの命の造り主である主なる神の創造の働きに他ならない。
 本日の箇所で、マリアは2回振り返る。1度目に単に体の向きを変えただけであった時、マリアは復活の主がそこにおられることを認めることは出来ない。しかし主イエスによってその名を呼ばれたマリヤは、2度目には主イエスに向き直り、そこに復活の主がおられることを知る。それは、ただ体の向きを変えたというではない。闇の中に光を生み出された神の創造の働きが、マリアの内にもまた新しい命を創り出し、そのことがマリアをして、その生の歩みの方向を変えさせたのである。その出来事は、マリアの歩みを180度変える。マリヤはもはや失われたものを嘆き訴えるためではなく、「わたしは主を見ました」と、その新しい命を始まりを告げるために仲間のところへ戻ってゆく。
 「わたしは主を見ました」という言葉は、ただの第三者が語るニュースではない。主イエスに呼びかけられ、主イエスに向き直り、復活の主イエスと出会ったものの言葉である。いわばそれは、失われたことの悲しみから、呼び出され、向き直り、新しい命の道を歩み出した者の言葉なのである。
 私たちは毎年、受難と復活を憶える時を繰り返す。それは、私たち自身が主イエスの死と共に、復活の命、新しい命に与ることを憶えるためである。嘆きのただ中にあるマリアは、主に呼びかけられて、復活の主へと向き直る。そして復活の主イエスに出会った喜びを他者に告げるために、押し出されてゆくのである。20世紀のドイツの神学者、D.ボンヘッファーは「イエス・キリストの復活は、被造物に対する神の肯定である」と語った。主イエスの復活、それは神によって創られた全ての命に対する祝福の出来事なのである。だからこそ、復活の主からの呼びかけは、失われたもの、不足していることを嘆くのではなく、今与えられている命への感謝と喜びを、他者と分かち合う生への招きなのである。

[説教要旨]2012/4/1「イエスは大声で叫ばれた」マルコ15:1−47

四旬節第6主日

初めの日課 イザヤ 50:4−9a 【旧約・ 1145頁】
第二の日課 フィリピ 2:5−11 【新約・ 363頁】
福音の日課 マルコ 15:1−47 【新約・ 94頁】

 本日の福音書の日課では、罪無きはずの主イエスが犯罪者として扱われ、見せしめ刑である十字架につけられる様子が延々と語られる。十字架は反逆者に対する見せしめの刑罰であった。十字架に磔になるということ、それはこのイエスという人物の歩みを全て否定し、そのすべての努力が潰えてしまったということを世に知らしめるための行為であった。この十字架を見上げて、「救い主」である筈の者がなぜここで磔になどなるのかと嘲る。この嘲りと罵りのなかで、主イエスは大声で悲痛な叫びを上げられる。
 主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ。たしかに誰の目から見ても、十字架に磔にされたその悲惨な姿は、神に見捨てられた状態としか映らない。しかしその叫びは私たちには奇妙な出来事であるように思える。救い主と言われる者が、なぜ苦痛に耐えられないのか。なぜ、そんな惨めな姿をさらすのか。もっと雄々しく、気高く、その最後を迎えられないのか。そのようにすら思うかも知れない。しかし、主イエスが大声を出して息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。この垂れ幕は、年に一度だけ神殿の最高権威であった大祭司だけが足を踏み入れることの出来た至聖所、つまり最も聖なる場所を人々から覆い隠すためにかけられたものであった。この幕を悲嘆の叫びを大声で挙げられた主イエスの死が引き裂いたのである。主イエスのその悲惨な十字架の死は、人々から隔てられ覆い隠されていた最も聖なるものをこの世に対して明らかとし、すべての人に主なる神との親しき交わりを可能とする出来事であった。それはまさに新しい契約、つまり全ての人に聖なる救いが、新しい命に生きる道が開かれたしるしであった。
 私たちは、主イエスの叫びは私たち自身の叫びであるということに気付く。救い主とは、遠いどこかから突然やってきて困ったことを片付けてくれるスーパーマンなのではない。私たちと同じ地平を生き、同じ苦しみを味わい、私たちと同じ嘆きの声を上げる、その方こそが私たちに最も近い存在であること、そして私たちをこの世の嘆きと悲しみ、恐れと絶望から救い出されるのは、私たちの苦しみに最も近づき、自らの命を私たちのために与えられた方であることを知る。
 主イエスは、ご自身を見捨てたとしてか思えない神に向かって「わが神、わが神」と呼びかけられる。それは、苦難と絶望を前に沈黙しているように見える神の背後に、神の聖なる救いの働きが隠されていることを確信する姿であった。その確信の中で神に向けられた「なぜ」という問いかけは、もはや悲嘆と絶望の表現なのではなく、むしろ神の救いの業を待ち望む祈りであり、希望の言葉である。主なる神はこの主イエスの叫びに応えて、聖なるものを覆い隠してた神殿の垂れ幕を引き裂かれたのだった。大声で叫び息を引き取られた主イエスは、その十字架の死に留まられず、やがてその死から甦り、聖なる救いの道、新しい命の道を私たちに示された。だからこそ主イエスの死は私たちを救う聖なる出来事なのである。

[説教要旨]2012/3/25「一粒の麦が…」ヨハネ12:20-33

四旬節第5主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ヘブライ 5:5-10 【新約・ 406頁】
福音の日課 ヨハネ 12:20-33 【新約・ 192頁】

私たちがどれほど願おうとも春の訪れを早めることも遅くすることもできず、ただその時が来るのを待つことしか出来ない。時を待つということは、私たちがこの世界を自分の思うままに操ることは出来ないということを受け入れることに他ならない。近代文明はそのような時の過ごし方を否定し、時間を区切り整理し効率的で生産的な時間を求め続けてきた。しかしその結果引き起こされたのは、利益を奪い合うことで起こる世界戦争であり、人間を生産性・効率性で判別し不要とされた者、意見・立場の異なる者を抹殺することであり、あるいは今の利益のために地球環境を傷つけ未来の世代への大きな負債を残すこと、いわば人間の闇を生み出すことであった。この闇の中で私たちはどこに光を見出すのか。その光はいつ私たちのもとへとやってくるのか。
本日の福音書には、過越祭にあたって主イエスが都エルサレムに迎え入れられた直後に、ギリシア人達が主イエスのもとを訪ねる場面が描かれている。各地で奇跡をなした男を見てみたいと訪ねてきたギリシア人達に、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られる。「栄光を受ける時が来た」というからには、どれほど偉大な影響力を発揮して、世の中を自分達の都合の良いように変えてくれるのかと期待しただろう。しかし主イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」と続ける。「地に落ちて死ぬ」ことがなぜ「栄光の時」なのか。栄光の時というならば、人々の期待を着実に実現し強く大きくなっていく時を思い描いていたのではないだろうか。しかし、主イエスが語られる時は人間が期待する栄光の時とはおよそかけ離れたものであった。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが十字架へとかかるためにエルサレムを訪れる時が来たことを語られたのだった。それは失うことを受け入れる時、挫折と絶望を受け入れる時であった。
しかしさらに主イエスは「だが死ねば多くの実を結ぶ」と語る。失うことを超えてこそ、多くの実が結ばれる、人間の期待と思いを越えたその様な時がまさに今やってくると主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということは、麦がそのもともとの形を失ってしまうということである。たしかに、麦は土に落ちると、もとの形を失ってしまう。しかしそれによって初めて、季節が巡り麦は実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば損失・無価値なことである。しかしその先に豊かな実りをもたらす時が来るということを主イエスは語られる。そしてその時は、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやって来るのである。
偉大な力を見たいと願ったギリシア人達は、エルサレムで主イエスの十字架を見上げることとなった。私たちも今、主イエスの十字架を見上げて復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの計画や思い、そうしたものをすべて超えた希望の光に満ちたその時が私たちのもとにやってくるとき、その光は私たちを取り囲む闇を打ち負かされる。

[説教要旨]2012/3/18「一人も滅びることなく」ヨハネ3:14−21

四旬節第4主日

初めの日課 民数記 21:4−9 【旧約・ 249頁】
第二の日課 エフェソ 2:1−10 【新約・ 353頁】
福音の日課 ヨハネ 3:14−21 【新約・ 167頁】

 私たちの生きるこの世界において、正しさとは「私の主張する正しさ」でしかない。そのような「正しさ」を求めつづける時、私たちは、分断と対立を生み出すだけの孤独で決して満たされることのない、ただ暗い夜の闇の中にひとりぽつんと取り残された存在であることを思い知ることとなる。
 本日の福音書の日課は直前の箇所には、夜の闇の中でユダヤの律法の教師であるニコデモという人物が主イエスのもとを訪ねる場面が描かれている。彼が主イエスを訪ねたのは、単に好奇心からだけではなく、自分に欠けている何かをこのイエスという人物に求めたからであった。しかしながら、この二人の会話はまるでかみあわない。敢えて言うならば、ニコデモは自分の価値観、自分のがこれまで生きてきた世の常識、優先順位の延長上に、自分の救いと解放を見ようとしているのである。
 本日の福音書では、このニコデモとの対話に続く、主イエスの言葉が語られる。新約聖書では、この私たちの生きる地上の世界を指して「世」という言葉が度々用いられている。この語は新約全体で180回以上用いられているが、その半数近い80回近くがヨハネ福音書の中で語られている。その多くは非常に否定的な意味で用いられている。つまり、主イエスによって示された救い、永遠の命と対局にあるものとして、この地上の世界とその価値観の中で生きる私たち自身が語られている。しかしそれにもかかわらず、本日の福音書の中で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と主イエスは語られる。神の国と対立するものとして、相容れないものとして「この世」が語られているにもかかわらず、それは神の愛の対象であり、神のみ旨はこの「世」を裁くことではなく救うことであると、主イエスは語られる。主イエスは、人の価値基準において正しい者だけのために十字架でその命を与えられたのではなかった。主イエスの十字架は、この世の闇の中でうめくあらゆる者に対して、新しい命を、光を与えるためのものであった。ここにまさに、私たち、地上の価値観、自分と同じ意見・立場のものを正しいとして、そうでないものを誤った正しくないものとして排斥する、そのような私たちの限界を超えた、神の愛の姿がある。私たちの正しさいかんに関わらず、主イエスの十字架を通して私たちを神はその結びつき、親しき交わりの中に呼び返して下さっている。この交わりは、主イエスがその十字架で私たちのために与えられた新しい命の故に実現する、憐れみ豊かな神との親しき交わりである。それはまた私たち一人一人が、互いに赦し合い、慰め励まし合う、信頼の交わりのなかに招き入れられることをもたらす。その交わりは、私たちをして、むしろこの世の現実に目を向け、私たちを必要とする兄弟姉妹を見出し、赦しと慰めの交わりを造り上げることへと私たちを促していくのである。

2012年2月29日水曜日

[説教要旨]2012/3/4 「たとえ全世界を手に入れても」マルコ8:31-38

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 17:1-7,15-16 【旧約・ 20頁】
第二の日課 ローマ 4:13-25 【新約・ 278頁】
福音の日課 マルコ 8:31-38 【新約・ 77頁】

 主イエスは、その十字架において何のために死なれたのか。それはキリスト教会の信仰の中心であり、福音の核心部分である。本日の福音書は、四旬節を過ごす私たちに、主イエスに従うことと、その十字架を受け入れることとが、切り離す出来ない事柄であるということを語る。
 本日の日課の直前の箇所には、弟子の筆頭であったペトロが、主イエスを「メシア」と言い表す場面が描かれている。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていた人物であることを、言い表しており、たしかにそれは主イエスの一つの側面をあらわしている。しかし、それだけではその答えは充分ではなかったからこそ、主イエスは人の子の苦しみ、排斥、そして復活について弟子たちに語られたのであった。マルコによる福音書で、主イエスが、ご自身のことを「人の子」と呼ばれる時、それはほとんどの場合、ご自身の十字架の死と、それに続く復活について語られている。それは武力や権力によってではなく、この世界における徹底した低み、あらゆる痛みと苦しみとを担うことで、救いをこの世界に実現する、そのような存在なのである。あなたこそメシヤです、強大な力で世界を支配する存在です、というペトロの言葉に対して、主イエスは、自らの低さ、十字架における死、この世における屈辱と敗北とを示された。その十字架と復活の出来事は、力の高みではなく低さの極みへと向かうこと、そして奪うのではなく与えることの中にこそ、滅びから命へと道筋があることを示されたのだった。
 主イエスは、この世の苦難と痛みの極みである十字架の死へと向かい、その十字架の死によって、ご自身の命を、この世の苦難と痛みの中で生きる私たちに新しい命を与えて下さった。その新しい命とは、この世界を我がものとするために互いに奪い合い憎しみ合わずにはいられない私たちを、与え合い赦し合う者へと変える命なのである。
 そのようなことなどありえるはずなどないと、人は語るかも知れない。しかし主イエスの十字架は、全ての人の予想を裏切って、その死でおわらることはなかったのである。主なる神がが与えられた命は、人の予想を裏切り、死を超えて続く。そのことを、主イエスは墓からの復活によって、私たちに示された。そしてその十字架を通して与えられる命こそが、まさに真の命であることを、主イエスは示された。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。そう主イエスは語る。私たちに与えられた真の命とは主イエスがその十字架を通して私たちに与えて下さった命である。これこそまさに、私たちの信仰中心であり、福音の核心に他ならない。その意味で、私たちが自分の十字架を背負うとは、私たち自身が主イエスの十字架の命を受け取り、その新しい真の命を生きるということなのである。

2012年2月18日土曜日

[2/22]灰の水曜日の祈り

今年は2/22(水)より主の受難を憶える四旬節に入り、4/8(日)に復活祭(イースター)を迎えます。
2/22(水)19時よりチャペルにて灰の水曜日の祈り(額に灰を塗る式)を行います。
どなたでもご参加頂けます。
是非お越しください。

[説教要旨]2012/2/12「イエスという出来事」マルコ1:40ー45

顕現後第6主日

初めの日課 列王記下 5:1ー14 【旧約・ 583頁】
第二の日課 1コリント 9:24ー27 【新約・ 311頁】
福音の日課 マルコ 1:40ー45 【新約・ 63頁】

今日、宣教は、それぞれの教会・信徒の置かれた状況によって、多様な姿を取らざるをえない。しかし、聖書が語る主イエスの姿、また主イエスと出会った人々の姿は、多様な宣教の形の、その根本にあるものを、私たちに物語る。結論から言うならば、それは、苦難を共にするために手を差し伸べること、そして主イエスとの出会いを通して、新たな命の出来事がそこで起こるということである。
本日の福音書では「重い皮膚病」を患う男が登場する。当時治癒が困難な「重い皮膚病」を患った者は、宗教的戒律においては、汚れた者、罪人として扱われ、共に生活することを許されないものとされた。病によって体が苦しめられるだけでなく、社会的にも追い詰められ、排除されることとなった人々の苦悩の深さは想像に難くない。しかし今この人物は、自分を押さえつけてきた、自分を苦しめてきた力に抗って、主イエスのもとへとやってきた。彼を動かしたのは、ただ主イエスに対する信頼であった。世の禁を破り、周囲からの監視と制裁の抑圧に抗って、自らのもとを訪れたこの人物に対して、主イエスは「深くあわれんで」手を差し伸べる。世のルールで言えば、排除されるべきこの人物に手を伸ばし、触れること自体がルール違反であり、主イエス自身が非難され、排除される原因となりうる行為であった。しかし、主イエスは、ご自身に寄せられた信頼へと答えるために、「深くあわれんで」手を伸ばされる。聖書の語る「深くあわれむ」ということ、それは「苦しみを共にする」という意味を含んでいる。主イエスが伸ばされたその手は、この二重の意味で病に苦しむこの人物の、その痛みと苦しみを、共に分かち合うため手であった。そして主イエスがその男に触れた時、病は癒された。
それは命を生み出された神の創造の業が、主イエスにおいて起こったということであった。それは、肉体的・社会的・霊的な、あらゆる命が、主イエスにおいて新たに与えられることを語る。主イエスとの出会いは命の出来事に他ならない。私たち人間の命を脅かす全ての力を圧倒し凌駕して、主イエスは私たちに新たな命を与えられる。その命の奇跡は、なによりもその十字架と復活の出来事によって、決定的な形で私たちの間に示された。
聖書は「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と述べる。いわば、このマルコによる福音書において、主イエスについて最初に語り始めた人物として、この名も無き一人の病に苦しんだ男が伝えられているのである。主イエスがその苦しみを共に担い、代わりにその怒りをすら担われた、この名も無き人物こそが、主イエスについて世に告げ知らせる最初の一人となったのだった。この男と同じく、苦悩の中で今を生きる私たちもまた主イエスと出会う。その主イエスは、まさに命の出来事として私たちに出会い、私たちを深くあわれまれ、私たちに手を伸ばしてくださるのである。

2012年2月13日月曜日

[説教要旨]2012/2/5「満ちあふれる慰め」2コリント1:3-7

顕現後第5主日・三鷹教会定期総会

初めの日課 イザヤ 40:21ー31 【旧約・1125頁】
第二の日課 1コリント 9:16ー23 【新約・311頁】
福音の日課 マルコ 1:29ー39 【新約・62頁】

本日は、2012年度の三鷹教会の主題聖句である2コリント1:3-7からみことばを聞きたい。
パウロはコリント教会を去った後も、数度にわたって教会内の諸問題を解決するために手紙を書き送っている。ある時には、別の宣教者らがパウロの使徒職の正統性について激しく非難したことによって、パウロは深く傷つくこととなる。パウロは、自分によせられた非難に対して涙ながらに弁明をしたため、テトスに託してコリントに派遣する。その後パウロはエフェソで投獄され、死刑さえ覚悟する中で、復活にのみ望みと信頼を置くことを改めて体験する。主に守られてパウロは釈放され、マケドニアでテトスに再会し、コリントの人々との間に和解が成り立ったことを知らされる。この喜びの内に、パウロは「和解の手紙」をコリント教会に再びしたためた。本日のテキストは、この和解の手紙の冒頭部分であると考えられている。
この箇所には、「慰め」という言葉が繰り返し語られている。「慰める」とは、試練のうちにある誰かが、その励ましと助けを得るために友が傍らに寄り添うことを意味している。パウロにとって、自らの苦難が主キリストの苦難と結びつくことによって、主イエス・キリスト自身が、彼の傍らで励まし助けを与られたのであった。キリストの励ましと助けによって、遠く離れ、互いに非難し、傷つけ合うしかないとすら思われた兄弟姉妹との交わりは、より深く・より豊かなものとなったのであった。パウロは語る。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」。この一連の苦難の出来事を通してパウロは「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」ということを確信したのだった。
コリント教会に向けて書き送った手紙は、彼の体験した苦難の中でも特に、この対立によって彼が深く傷ついていたことを物語る。しかし、パウロが負った傷、その苦しみは、ただパウロ一人の苦難でおわることはなく、それは満ちあふれる慰めへと続いていた。なぜならば、それは、私たちの救い主、主イエス・キリストが、その苦難を、復活の喜びへと、尽きることのない慰めへと変えて下さったからなのである。キリストと共に苦難が分かち合われる時、そこでは必ず尽きることのない、満ちあふれる慰めと希望もまた分かち合われる。
今、この日本社会は、大きく傷つき、そして心の底から助けを、慰めを求めている。その中で生きる私たちもまた、決してその痛みと苦しみから無縁ではない。けれども、キリスト者として私たちが、その苦しみを共に担う時、満ちあふれる慰め、揺るぎない希望もまた分かち合われる。

[説教要旨]2012/1/29「イエスとは何者か」マルコ1:21−28

初めの日課 申命記 18:15ー20 【旧約・ 309頁】
第二の日課 1コリント 8:1ー13 【新約・ 309頁】
福音の日課 マルコ 1:21ー28 【新約・  62頁】

「けがれ」という概念は、日本社会の中で、様々な理不尽な差別を生み出し、容認する温床となっている。山口昌男という文化人類学者は、この概念について、「われわれ」という集団の求心力を創り出すために、排除する対象を創り出すのではないかと分析している。つまり本来排除される側に、その根拠があるのではなく、逆に排除する側である「われわれ」の側によってその根拠は創り出されるものなのである。「われわれ」の秩序や価値観の中に収まらない、少数の弱い存在は、そのようなものとして、攻撃され、排除されてしまう危険に常にさらされている。実は、清さと秩序を共有すると思っている「われわれ」こそが、攻撃と排除とを他者を傷つけることを繰り返してしまう。
本日の福音書で、いよいよその宣教活動を開始した主イエスは、カファルナウムの町の会堂で聖書を教えられる。そのことばを聞いた人たちは、主イエスが「律法学者のようにではなく、権威あるものとして」教えたことに驚く。通常、律法学者たちは昔ながらのやり方や先人達の考え方に照らして人々に律法の実践方法を教え、自分達の秩序と伝統の保全をはかった。ところが主イエスが語った教えは、伝統的な律法の解釈の枠組みをはみ出していたのである。いわば、主イエスの語ることばの説得力は伝統やしきたりの力ではなく、主イエスご自身の存在から来ていたのだった。
その主イエスに対して、会堂にいた一人の「汚れた霊にとりつかれた男」が叫び声を上げる。この男が一体どういう状態であったのかは詳しく書かれていない。しかし「汚れた霊にとりつかれている」と聖書が表現しているのは、この人が、聖なる神を中心に集まっている「われわれ」という交わりから、敵視され排除されていたことを意味している。この人を「われわれ」から遠ざけ、排除してしまう力がそこには働いている。男は、自分が排除されているこの状態を滅ぼしにイエスは来たのだと叫ぶが、主イエスが霊に命令すると、霊は消え失せてしまうのであった。
ここではイエスの教えといやしが結びつけられているが、そこで癒されたのは、いわばこの一人の男だけではなかった。主イエスが全く新しい権威をもって教え癒されたのは、むしろ排除と攻撃を繰り返す「われわれ」のあり方そのものであった。
それはいわば、その瞬間に主イエスと共に、そこに神の国が現れ出ていたのである。私たち人間の考える、あらゆる不安や恐怖を全て超えて、主イエスの権威は私たちの生きるこのただ中に神の国を実現させる。それはやがて、主イエスの十字架と復活の出来事によって、決定的な形で私たちの間に示される。主イエスは罪人として、汚れたものとして、処刑される。しかし、そこで全ては終わることはなかった。その先に、神の国に生きる新しい命は、続いていることを、主イエスは十字架の死と復活によって示された。それはまさに、主イエスが、私たちの救い主であることを示すものであった。
私たちは、決してそれを願わないにもかかわらず、他者を傷つけ、攻撃し、排除せずにはいられない。しかし、そのような「われわれ」のところに、救い主はやってこられた。救い主は、私たちの弱さを全て受け入れて、私たちに癒しを、全く新しい世界、神の国に生きる道を与えて下さる。

[説教要旨]2012/1/22「時は満ちた」マルコ1:14-20

顕現後第3主日

初めの日課 ヨナ 3:1ー5,10 【旧約・1447頁】
第二の日課 1コリント 7:29ー31 【新約・ 308頁】
福音の日課 マルコ 1:14ー20 【新約・ 61頁】

主イエスの公の宣教活動の始まりについて本日の日課であるマルコ福音書は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え て、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」と、簡潔かつ要を得て報告する。ガリラヤで「福音」を宣べつたえ始められ た主イエスが、最初に行うのは、まずシモンら最初の弟子たちを召し出すということであった。主イエスが神の国の到来を、その教えと業とによって人々に示し ていくためにまず必要であったのは、弟子たちであり、彼らとと共に歩むことであった。しかしそれはガリラヤ湖畔で漁師をしていた男達に突然に声をかけたの であり、あまりにも唐突・無計画であるようにすら思われる。しかもこの弟子たちはこの後も、常に主イエスを誤解し、理解することが出来ず、ついには主イエ スが逮捕されるにあたって、弟子たちは恐怖の余り主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう。そのような者たちを、主イエスは弟子として選び出し、共に歩み始め るのである。
このことはむしろ、自分勝手で臆病な弟子たちと共に歩むということが、主イエスが福音を伝えることと切り離すことの出来ないことであることを私たちに伝 えている。すなわち、主イエスが伝える神の国の到来・福音は、私たち人間の価値観で図ることの出来るような、計画・効率とは無縁のものであり、むしろこの 世における無駄や遠回り、頓挫と挫折、失敗と裏切り、そうしたものを超えて、初めて示される神の力であった。それはなによりも、主イエスの十字架の死と、 その死からの復活という出来事によって示されることとなる。遠回り、挫折、失敗と裏切り、そうしたものを超えてなお、神の力は、命の光をこの地上に輝かせ るのだということを、主イエスは、その十字架の死からの復活によって示されたのである。そして主イエスのもとから逃げ去った弟子たちは、主イエスの復活の 出来事を通して、自分の失敗も挫折も裏切り、そうしたものを全て超えて、力足らざる弱い自分と、主イエスは今も生きて共に歩んで下さることを弟子たち自身 は体験する。そしてまさにそのことを、「良い知らせ」すなわち「福音」として、世界に伝える者となってゆくのであった。
主イエスは、この福音の宣教の開始にあたって「時は満ちた」と語る。「時が満ちる」とは、私たちの計画表の中に書き込めるような、そのような「時刻」が 来ることなのではない。それはむしろ神の力がこの世界に満ちるということである。主イエスは、「時は満ちた」と語られ、そして、力足らざるはずの弟子たち を召し出し、共に歩み始め、そして、良い知らせ、福音をこの世に伝えるのあった。弱く、あらゆることが整わない。そのような中で、私たちは確かに自分達の 時を過ごしている。しかし、神の時は既に満ちている。主イエスは、私たちの不足も弱さも全て受け入れて、既に私たちと共に歩んで下さっている。

2012年1月17日火曜日

[説教要旨]2012/1/15「キリストに出会う」ヨハネ1:43-51

顕現後第2主日

初めの日課 サムエル上 3:1-10 【旧約・ 432頁】
第二の日課 1コリント 6:12-20 【新約・ 306頁】
福音の日課 ヨハネ 1:43-51 【新約・ 165頁】

誰からも、自分は知られていない。誰も自分のことを思い出すことがない。それは、人としての存在の極めて大きな危機である。誰かが、自分のことを知っている。誰かが自分を憶えて祈っている。そのことは、私たちがまさに人と人との間で生きる存在としての人間であるために、欠かすことの出来ない事柄である。しかし自分の力ではどうにもならないような運命に翻弄され、自分を憶える人などいないと、絶望の淵に沈むことが時として起こる。その絶望の淵にはどこにも逃げ道・出口の光を見出すことは出来ないのだろうか。
本日の改定共通日課では、先週の主イエスの洗礼に続く出来事として、弟子たちが主イエスに出会うという出来事が、ヨハネ福音書から取り上げられている。ヨハネ福音書ではまずアンデレともう1人の弟子、そしてシモン・ペトロと主イエスの出会いが語られた後、フィリポとナタナエルという名前が登場する。ナタナエルは、その会話の内容から、大変に敬虔なユダヤの信仰者であったのだろうと推察されるが、彼はフィリポから主イエスについて聞き、おそらく不信と疑問を抱きつつ、その人物が本物であるかどうかを自分の目で見極めようとして、主イエスのもとを訪れる。しかしナタナエルが主イエスのもとを訪れたとき、ナタナエルが主イエスに問いを発するよりも先に、主イエスの方が彼を見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われる。ナタナエルがイエスとは何者かを知る前に既に、主イエスはナタナエルを理解しておられたのである。
この一連の弟子たちと主イエスとの出会いを振り返るとき、そこでは常に主イエスの方からの理解が弟子たちに先立っていることに気付かされる。イエスという男が何者かを知りたいと思い、イエスを見に来た者たちを、それよりも先に、既に主イエスは見つめておられる。不信と疑問を抱きつつやって来た者たちが、イエスという男が何者かを知る前に、既に主イエスは彼らが何者かを知っておられるのである。主イエスが、ご自身のもとを訪れる者たちのことを、見つめ、知り、憶え、思い起こすこと。それが、弟子たちが主イエスを求めるよりも先に、起こっているのである。それは、私たち自身のキリスト・救い主メシアとの出会いについてもあてはまる。主イエスとの出会いは、私たち自身が、キリストとは何か、誰なのか、ということを理解するよりも先に、主イエスの方が、私たちを見つめ、私たちのことを思い、私たちを憶えてくださっているのである。
救い主がこの世界に到来したということは単に遙か昔の、遙か彼方での出来事ではない。それは、まさに今という時を生きる私たちに関係のある出来事なのである。何よりも、この救い主は十字架を通して、人間のその全ての苦しみを担われた方なのです。私たちが体験する、全ての痛み、苦しみ、絶望を、全てご存じの方なのである。その救い主は、その絶望から甦り、今も生きて私たちのことを見つめ、私たちと出会い、私たちを憶えて下さっている。それこそがまさに、私たちに備えられた、絶望からの逃れのみち、救いへの光なのである。

[説教要旨]2012/1/8「心に適う者」マルコ1:4−11

顕現後第1主日

初めの日課 創世記 1:1−5 【旧約・ 1頁】
第二の日課 使徒言行録 19:1−7 【新約・ 251頁】
福音の日課 マルコ 1:4−11 【新約・ 61頁】

本日の聖書箇所は、日本のルーテル教会では「主の洗礼日」として1/15の日課となっているが、改訂共通日課では1週早く、1/8に取り上げられている。主イエス・キリストの洗礼とは、論理的に考えると矛盾をはらんだ表現である。罪なくして生まれた神の子が、なぜ、罪の赦しの洗礼を受けなければならないのか。それは、古代から大きな疑問であった。しかし、結論から言うならば、私たちの生きているこの世界は、決して全てが、私たちにとって納得のいく、合理的で、整えられた事ばかりなのではない。私たちの生きているこの世界は、まさに矛盾に充ち満ちている。なぜこのようなことが起こるのか。なぜ思う通りにならないのか。そのような思いにぶつかりながら生きるしかないのが私たちの現実である。主イエスが、罪の赦しの洗礼を受けなければならなかったという、この矛盾を引き受けられたということは、いわば、そんなことをする必要などどこにもない神の子が、私たちの生きるこの矛盾に満ちた地平に降り立ったということを私たちに物語る。救い主が、この地上に与えられ、その光は全世界に届いていることを憶える降誕から顕現への季節の中で、主の洗礼の出来事を通して、救い主はまさに私たちと同じ地平に立たれたことを私たちは思い起こす。
主イエスの洗礼の場面は、4つの福音書がそれぞれに収録しているが、他の福音書では「天が開く」という表現が使われているのに対して、「天が裂ける」という表現は、このマルコによる福音書に独特なものである。しかし終わりまで福音書を読むとき、主イエスが十字架の上で、息を引き取られた時に、人々の目から聖なる空間を隠していた神殿の垂れ幕が「裂けた」ということと、実は対になっていることに気付かされる。罪なき神の子が、この矛盾に満ちた地上の世界に立たれたということ。それはまさに天を裂くほどの痛みを伴う、無理矢理な出来事なのである。しかし、それによって、隠されていた聖なるものが明らかになり、この矛盾に満ちた地上でうめきをあげる全ての人々に、救いの光は届けられることをこの「裂ける」という表現は私たちに示している。
天が「裂けた」後に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が世界に響く。この「わたしの心に適う者」とは、直訳をするならば、「私はあなたを喜ぶ」という意味の表現である。天を裂き、神殿の垂れ幕を裂く。それは、いわば今ある秩序、整えられた状態を破壊し、まさに矛盾のただ中に突き進んでゆくことである。しかしそのような、このイエスという存在を、神は「喜ばれる」。それは、主イエスが、向かわれた先、私たちが生きるこの矛盾に満ちた世界そのものを、神はその限りのない愛を持って愛し、喜ぶのだということに他ならない。神が喜び、その心に適うもの、それは美しく矛盾無く整えられた神殿なのではない。むしろ悩みと葛藤と矛盾の中で、神を、そして救い主を求める、そのような私たちの生そのものなのである。その私たちのために、神の子イエス・キリストは、私たちの生きる、この地平に立たれたのである。私たちが、この矛盾に満ちた世界の中で、主イエスを救い主として信じ、そこに希望をみる時、「私の愛する子、私の心に適う者」という神の声は、私たちにもまた届けられる。主イエスによって、限りのない神の愛は私たちに注がれている。

[説教要旨]2012/1/1「救いの光に目を向けて」ルカ2:22-40

降誕後第1主日

初めの日課 イザヤ 61:10-62:3 【旧約・1162頁】
第二の日課 ガラテヤ 4:4-7 【新約・ 347頁】
福音の日課 ルカ 2:22-40 【新約・103頁】

振り返るならば、昨年はその始まりにおいては、このような1年を迎えることになるとは思いもよらない、まさにそのような1年であった。私たちがどれだけ計画し、備えていたとしても、私たちは自分の未来を確実に見据えることなど出来はしないということを、いやというほど思い知ることとなった1年であった。しかし、そうであるからこそ、自分の力ではどうすることもできないような、大きな破壊や喪失に、私たちはいつも脅かされているからこそ、私たちは、救いの光が与えられることを待ち望まずにはいられないのである。
本日の福音書の日課に登場する一人シメオンの長い人生がどのようなものであったかはここでは語られていない。しかし彼が生きてきた時代とは、ローマの植民地支配のもとにあった、当時のイスラエルの状況は、重税に圧迫され、貧富の差は拡大し、自作農から奴隷に転落することも多い、暗く、満たされた将来などおよそ望むべくもない、そのようなものであった。おそらくその時代の中で、シメオンもまた、その長い人生の中で多くのものを失ってきたのではないかと思われる。そして、そうであるからこそ、「イスラエルの慰められるのを待ち望」まずにはいられなかったのであろう。
そのシメオンは、神殿に詣でた幼子主イエスを見出し、歓喜に溢れて神を賛美する。慰めを待ち望んでいたシメオンは、力なき小さな幼子の中に、自分が待ち望んでいた救いの光を見出すのである。
聖書に書かれたシメオンの行動を振り返ると、それは「聖霊」、つまり神の見えない力によって導かれていることに気付かされる。シメオンが、小さく力弱い幼子に救いの光を見出したのは、彼の計画でも、人生経験によるものでもない。聖霊すなわち見えない神の力によって導かれ、そして、彼はその見えない神の力によって、喜びに満たされる。あらゆる人間の思い、計画、価値観、そうしたものを大きく踏み越えて、見えない神の力は、一人の年老いた人物を動かし、喜びに見たし、その喜びを人々に伝えさせるのである。シメオンを、そしてアンナを動かしたものとは、満たされた未来を確約するモノではありませんでした。彼の前には、ただ貧しい、弱く小さい幼子があるだけあった。しかし、この幼き主イエスと出会ったとき、神の見えない力は彼らを慰めと喜びとに満たされる。今、自分の前には無いもの見えないものによって、希望と喜びと慰めとを見出す。それは、神の見えない力が働くことによってはじめて、私たちに与えられる祝福であること。そのことを、聖書は私たちに語るのである。

[説教要旨]2011/12/25「命を照らす言葉」ヨハネ1:1-14

降誕祭

初めの日課        イザヤ 52:7-10                【旧約・1148頁】
第二の日課        ヘブライ 1:1-4                    【新約・ 401頁】
福音の日課        ヨハネ 1:1-14                    【新約・163頁】

今日、私たちは救い主イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に与えられた事を憶えて祝う、クリスマスの時を迎えた。この12/25の日中の礼拝では、伝統的にヨハネの福音書の冒頭が選ばれている。マタイ福音書・ルカ福音書にはそれぞれの視点から描かれた、主イエスの誕生の様子が伝えられているが、ヨハネ福音書にはそうした物語は収録されていない。それなのに、なぜこのヨハネ福音書がクリスマスの日の礼拝のために読み継がれているのだろうか。ヨハネ福音書は「初めに言があった」から始まる。その言とは、創世記が語る「天地の創造」の時に、混沌とした中に「光があるように」と告げ、そこに光を生み出し、大地をつくり、全ての生きとし生けるものを生み出したもの、それがヨハネ福音書において「言」とされているものなのである。それはいわば、世界を創り出し、命を創り出す神ご自身にほかならない。ヨハネ福音書は、この神=言が、光であることを語り、さらにこの光である言葉が「肉となった」と語る。「肉」となるとはその光である神・言・カシコイモノが、私たちの生きているこの世界の中に与えられた、ということである。古代より降誕祭の主題は、「光」がこの世に与えられたことを憶えるということであった。それゆえに命を創り出す光が私たちのこの世界に与えられたことをこの時に憶えてきたのである。
命の光は、いまや私たちを照らしている。その光は、私たちに与えられている。救い主がこの世に与えられたことを憶え、祝うその礼拝の中で、教会はそのことを伝えてきたのでした。たしかに、今なお私たちの周りには、闇がその力をふるっている。しかし、光は既に与えられた。闇は光に勝つ事が出来ない。そのことを、毎年このクリスマスの時に、信仰者たちは互いに伝えあい、その喜びを分かち合ってきたのであった。
しかし、私たちの生きるこの世界を振り返ると、未だに闇の力は強大である。私たちは絶望と孤独の闇の中を未だに歩まねばなりません。実のところ、私たち自身の中から、世界を照らす光は出てこないことを思い知るのである。しかし、その私たちのために、命を照らす言葉、救い主イエス・キリストは与えられた。そして私たちを照らし、私たちのその歩みを支えて下さるのである。命を言葉は、決して消えることなく、私たちを照らしている。神の命の言葉、それは闇の中に閉ざされた私たちをも照らす、命の光なのである。