2009年5月13日水曜日

[説教要旨]2009/5/10「わたしにつながっていなさい」

復活後第4主日

 初めの日課    使徒言行録 8:26-40    【新約・228頁】
 第二の日課    1ヨハネ 3:18-24     【新約・444頁】
 福音の日課    ヨハネ福 15:1-10     【新約・198頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第4主日には、詩編98編1節「新しい歌を主に向かって歌え」からとられた“Kantate”(カンターテ「歌え」)という名前が付けられている。詩篇98は次のように続いている。「主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。(2)主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に表わし(3)イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。/地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。」主の復活を告げられたキリスト者には、この世に「わたしたちの神の救いの御業を見た」と宣べ伝えることが使命として与えられていることを、この主日の名は思い起こさせる。私たちは主なる神の救いの御業が成し遂げられた中を生きているのである。
 本日の福音書の中の言葉「わたしはまことのぶどうの木。わたしにつながっていなさい」は教会の中で大変大切にされてきた。「つながる」と訳された言葉は、原語では「とどまる」という意味も有している。このことは、私たちが信仰者として生きるにあたって、「キリストにつながる」もしく「キリストにとどまる」ということが、いかに大事なことであるか、ということを物語っている。キリストにつながって生きるということは、私たちが神の国につながって生きるということに他ならない。実のところ、神の国につながって初めて、私たちはこの世において、信仰者として生きることができるのである。この世に属するのものは全て必ず、古び、そして滅びてゆく。しかし、神の国に属する者は、決して滅びることなく、必ず新しくされる。 たとえこの世に属する肉体が死を迎えようとも、神の国属する永遠の命は終わることがないのですからである。その意味で主イエスの十字架と復活は、まさに、限りあるこの世の中において、永遠の神の国の支配が始まったことを私たちに告げている。したがって、私たちがキリストの十字架と復活を信じて生きると言うこと、それはこの世にあってもこの世の力に支配されるのではなく、神の国の内で生きるということを意味しているのである。
 16:33で主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語る。十字架の死というこの世の最も苦しみの深いところから復活するによって、この世の絶望に打ち勝たれた主イエスが語られたこの言葉によって、私たちが希望を与えられて生きるということ、それこそまさに、キリストにつながり、その愛のうちにとどまっていることに他ならない。そのキリストの言葉を生きることこそまさに、私たちは絶望を超える永遠の命を与えられていることのしるしなのである。


[説教要旨]2009/5/3「わたしに従いなさい」

復活後第3主日

 初めの日課    使徒言行録 4:23-33    【新約・220頁】
 第二の日課    1ヨハネ 3:1-2       【新約・443頁】
 福音の日課    ヨハネ福 21:15-19    【新約・211頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第3主日には、詩編66編1節「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」からとられた“Jubilate”(ユビラーテ「喜び祝え」)という名前が付けられている。この名は、主イエスの復活を憶えるこの季節、古いものは過ぎ去り、今やすべては新しいものとされた、ということ、つまり、主なる神の新しい創造の働きの中に、私達が生きていることを思い起こさせる。私たちのこの日比は、喜び祝うべき時なのである。
 現代人である私たちを常に悩ますものの一つに、「本当の自分はこんなものではないはず」という思いがある。さまざまな束縛と制約の中で、自分は、本当に自由な自分ではなくなってしまっている。あらゆるものから自由で、自分の思うままに振舞うことの出来る本当の自分はどこにいるのか。どこに行けば、その本当の自分を見つけだすことができるのか。そうした問いを、年齢性別を問わず多くの人々が抱えている。しかし、それは逆に言うならば「本当の自分」という名の制約を自分自身に課しているのである。その「本当の自分」というものによって、自分自身を束縛し、今生きている場で出会う人々・出来事に向かい合うことを妨げることも少なくない。実のところ、自分の思うままに振舞うということ、「自分らしさ」を徹底的に追及することは、決して本当の「自分の生きる道」を獲得することにはならない。なぜならば、人間とは、つながりと絆の中でのみ、人として生きることのできる存在だからである。「私」という存在は、他者との関わりと絆を欠いては存在しえない。その意味で「本当の自分」とは、「自分のものではない意志」に応えてこそ、そこに存在意義を見出すことの出来るものなのである。
 甦られた主イエスは、ご自身のもとから逃げ出した弟子たちを故郷ガリラヤに訪ね、一番弟子と言えるペトロに、3度「わたしを愛しているか」と問いかけられる。どれほどペトロが真摯に答えたとしても、3度にわたってイエスの弟子であることを否認したという事実は、客観的には彼のその言葉に信頼をおくことは困難であると言わざるを得ない。彼自身の意思と能力だけでは、つまり「本当のペトロ自身」だけでは、彼は主イエスを再び否認することにしかならないのである。しかし、主イエスの言葉に従い、その命じられたとおり、他者のためにその命を紡ぎだそうとする時、彼は真の「自分の生きる道」を与えられる。
 主イエスに従うということ、そしてその命を他者のために紡ぎだすこと、それは主イエスの復活を通して私たちに示された、神の新しい創造の業が、私たちのうちに働くことなのである。