2009年1月25日日曜日

[説教要旨]2009/1/11「天を裂く愛」

顕現節第2主日 主の洗礼日

初めの日課    イザヤ 42:1-7      【旧約・ 1128頁】
第二の日課    使徒 10:34-38      【新約・ 233頁】
福音の日課    マルコ 1:9-11       【新約・ 61頁】

 主イエスが洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けたという出来事は、古代より大きな疑問を教会に提示してきた。というのは、ヨハネは罪の赦しを得させるために、人々に洗礼を施していたのであり、そうであるならばなぜ「罪なき神の子」である主イエスが、この「罪の赦し」のための洗礼を受ける必要があったのか、ということを論理的に説明することが難しいからである。確かに、罪なき神の子が罪の赦しの洗礼を受けるということは、論理的には矛盾であり、いわば無駄・不要な事柄である。グループの存続と安定を第一として、不安要素を取り除くことを、キリスト教会が最も重要なものとするのだとするならば、この出来事については、残すべき価値など無い、排除すべきものと断じて良いようにすら思われる。にもかかわらず、マタイ・マルコ・ルカのいずれの福音書も、この主イエスの洗礼の出来事を伝えている。それはむしろ、主イエスがこの地上に与えられたという出来事そのものが既に、人間の論理では全く図り知ることの出来ないような、限りの無い神の愛によって引き起こされたものであることを、私たちに示している。主イエスの洗礼とは罪なき神の子が罪ある人と共におられるということに他ならない。それは、人間の道理によっては、無意味・無駄であり、むしろ神の崇高さと権威を低めるものとみなされるような事柄かもしれない。しかしそうだからこそ、それはこの地上において姿を現す、神の愛と救いの業に他ならないのである。
 主イエスの洗礼の時、「あなた(これ)は私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた様子を、マタイ・マルコ・ルカのそれぞれの福音書が記している。しかし、その時の様子を、マタイとルカが「天が開く」という表現を用いるのに対して、マルコでは「天が裂けて」という表現を用いている。「裂く」という表現からは、まるで、本来であれば通ることのないものが、無理やりその道理を突き破ってこの地上へと届けられたかのような、いささか乱暴な印象を受ける。実にそれは、罪なき神の子が罪の赦しの洗礼を受けるという、道理を突き破り、無理矢理に神の愛と救いがこの地上へと与えられる出来事であった。
天を裂いてこの地上へと注がれた愛は、主イエスの十字架の時に、再び、神殿の垂れ幕を真っ二つに裂く。それはまさに主イエスを通してこの地上へと注がれた神の愛と救いの業は、私たちから隔てられたところではなく、私たちの罪と苦悩のまさにそのただ中で働かれるということを示すものであった。


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