2011年11月26日土曜日

[説教要旨]2011/11/20「神さまはどこに」マタイ25:31-46

聖霊降臨後最終主日・成長感謝礼拝

初めの日課 エゼキエル 34:11-16、23-24 【旧約・1353頁】
福音の日課 マタイ 25:31-46 【新約・50頁】

 教会暦の終わりにあたって、教会の伝統では永遠の神について思いを寄せてきた。自分の目で神を見たことのある人はいない。しかし、私たちは神がいることは知っている。なぜならば、私たちに「命」が与えられ、私たちが生きているからである。私たちは自分で自分の命を創ることはできない。私たちが粘土をこねて人の形を作っても、その粘土が生きて動き出したりすることはない。ただ神だけが、命を私たちに与えて下さるのである。だから、私たちが今生きているということそのものが神がいる証なのである。しかし、その神はどこにいるのか?永遠に続くと考えていた日常に悲劇が襲うとき、私たちはそう問わずにはいられない時がある。
 私たちは神を見る事はできなとも、神が与えて下さった命があることはわかる。同様に、神がどこで働かれるのかを私たち自身は既に知っているのである。私たちが、誰かに優しくしたり、親切にしたり、困っている人を助けたりする時、神が私たちの心に働きかけて、私たちを動かして下さっているのである。そのような時、私たちは果たして憎悪と憤怒で、あるいは孤独と悲嘆に満たされることはない。自分に与えられたものを他者と分かち合うとき、皆が喜ぶことができる。分かち合うことによって、自分一人が手にするものは、たしかに少なくなるかもしれない。しかし驚くべき事に、自分だけで独占するよりも、誰かのために分かち合う時の方が、私たちは何倍もの喜びを得ることが出来るのである。それは、その時神が私たちの心に働いてくださっているからに他ならない。神が私たちの心に働いて下さる時、私たちは独占や憎悪、対立から解放され、もっと大事な事が何なのか、永遠の価値を持つものが何なのかを知るのである。
 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 誰かのために私たちが自分のもっているものを分かち合おうとする時、そこには神がおられる。聖書は私たちにそう教えている。
 来週から、クリスマスの準備を教会は始める。クリスマスは、神さまが私たちのために、イエス様を与えて下さったことを憶えて祝う時である。この世に降られた神・主イエスは、私たち一人一人の心の中をも訪れ、誰かのために、自分の持っているものを分かちあい、共に喜ぶ心で、私たちの心を満たして下さるのである。それは神の永遠の愛で、私たち自身が満たされることなのである。

2011年11月15日火曜日

成長感謝礼拝こども祝福式[11/20]

11/20(日)は成長感謝礼拝として、こどもと大人の合同礼拝(10:30)となります。
礼拝の中で子ども祝福式を行います。

教会から子ども達にプレゼントもあります。
祝福はどなたでも受ける事ができます。
是非ご家族で礼拝にお越し下さい。

[説教要旨]2011/11/13「天の国に生きる」マタイ5:1-12

召天者記念礼拝

初めの日課 イザヤ 26:1-13 【旧約・1099頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・ 479頁】
福音の日課 マタイ 5:1-12 【新約・6頁】

この秋の日、私たちは召天者記念礼拝として、ここに集っている。季節が秋から冬へと向かう中、私たちは様々なものが自分のまわりから失われていく事に気付かされる。冬が訪れた後には、命の枯れ果てた景色だけが私たちの目に映る。しかし、たとえ私たちの目にはそうは見えなかったとしても、私たちの目からは隠されたところで、新しい命は芽生え、やがて来る春の時を待っている。むしろ、命は私たちの目に見えるところからやってくることはない。
キリスト教の復活信仰は、私たちの命がそこから与えられるところの、私たちの目からは隠されている世界に、希望を確信することである。そもそも私たちは、自分自身の命ですらそれがどこからやってきたのかを我が目で確かめる事はできない。いわば私たちの命そのものは、目に見えないものによって創り出されている。
本日の福音書で主イエスは、弟子たちに向かって語る長い「山上の説教」の端緒として「神の民とはどのようなものであるか」を語る。そこでは語られるのは、神の民の「至福」であった。しかしそれらは実は皆、神の民が現に今この地上においては様々な悲しみ・痛み・窮乏・困惑のうちに置かれていることを前提としていることに気付く。痛みや苦しみ、悲しみや絶望、そうしたものの中に、現に今、神の民は生きなければならない。しかし、主イエスはそのような、苦境の中にある者に向かって「幸いである」「その人たちは慰められる」「満たされる」と断言される。論理的にはそんなことが起こるはずがない、希望の芽などどこに見出せない。この地上に生きる私たちは、自分の知りうる領域のみを見て、そのように語らずにはいられない。
しかし、主イエスは「天の国はその人たちのものである」と断言される。たしかに、私たちの見える領域においては、ただ全てが失われた、死の支配する冬の時だけしか見出せないかも知れない。しかし、私たちに隠されたところ、私たちの命がそこから与えられたところ、私たちの命の造り主である神がおられるところ、そこには新しい永遠の命がある。そこにこそ、神の民の希望がある。主イエスは、そう語られるのである。
そして、その言葉が真実である事を、主イエスはご自身の十字架からの復活によって私たちに示された。十字架の磔刑とは、まさに痛みと、悲しみ、絶望と困惑のその極みの中で、人として持てるその全てを失うということに他ならない。しかし全てを失われた主イエスは、新しい永遠の命において復活された。それは、私たちが現に今置かれている、あらゆる困窮・悲痛も、この主イエスの復活によって示された、新しい永遠の命に勝つ事ができないことを告げる。私たちの命を削り取っていく、悲しみ・絶望・困窮を圧倒する真の希望、それは、私たちの目には隠された、けれども私たちに約束されている、神の国、天の国から与えられる。
先に天に召された方々は、たしかに私たちの目からは隠されているかも知れない。しかし、命の源である神の国において、私たちは共に永遠の命に結びあわされている。今なお地上に残された私たちも、主イエスが語られる「幸いである」の言葉を受けつつ、地上での命を生き抜いてゆきたい。

2011年11月1日火曜日

[説教要旨]2011/10/30「神の言葉に立つ」ヨハネ2:13-22

宗教改革主日

初めの日課 列王記下 22:8-20 【旧約・617頁】
第二の日課 ガラテヤ 5:1-6 【新約・ 349頁】
福音の日課 ヨハネ 2:13-22 【新約・166頁】

 宗教改革主日である本日の福音書では、主イエスがエルサレムの神殿の境内で商いをしている者たちの屋台をひっくり返して回る衝撃的な場面が描かれている。主イエスのこの振る舞いは、やがて十字架刑を決定づける。その姿を単なる乱入者・破壊者として見るならば、主イエスの処刑は自業自得ということになる。けれども、主イエスがその命をかけて対決し、挑まねばならなかったものは何であったのかに思いを向ける時、この振る舞いはまた異なる姿を私たちに示すことになる。
 主イエスがその命をかけて挑み、対決されたもの。それは私たちを蝕む罪の力、私たちの心を虚ろなものとしてしまう死の力であった。罪と死によって私たちの命が蝕まれるとは、全ての造り主である神が私たちに命を与えられたことを私たちが忘れ、まるで自分自身が命の造り主であるかのうように振る舞い、そして多くの他者の命を、自分の欲望のための道具にしてしまうことである。そしてそうであるがゆえに、自分自身もまた常に、誰かによってその命が道具のように使い捨てにされてしまうことをただ怯えるしかなくなる。それこそが、私たちの命を蝕む罪と死の力である。しかしその力はあまりにも私たちの日常生活の中に深く根付いてしまっていて、私たちは一見平穏に見える自分の日常が、その背後で罪と死の力によって支配されていることに気付く事が出来ない。私たちは、自分にとって快適で心地良く、安心な世界を造り上げるために、他者の命をその道具として利用し、使い捨ててしまうことを正しいことと思いこみ、その罪に気付く事が出来ないでいる。しかし主イエスは、かつてエルサレムの神殿の境内において行われたように、私たちの日常の中に乱入し、そのような見かけだけの平穏を徹底的に破壊される。その主イエスの言葉が私たちのもとに届く時、私たちは自分が安全であるために他者に押しつけてきた多くの痛みを受け止めなければならない。けれども、痛みを分かち合うところ、悲しみを分かち合うところにこそ、希望が、そして永遠の命が分かち合われるということを、十字架の死から甦られた主イエスは私たちに示されたのである。
 ヘロデ大王がその威信をかけて改修した壮麗な神殿は、その後のローマとの戦争によって瞬く間に徹底的に破壊されてしまった。一方主イエスの福音は、私たちの生きる日常を根底から変える力となって今に伝えられている。私たちが主イエスの言葉を聞くとき、罪と死の力に支配された私たちの日常は砕かれる。そして同時に、永遠の命に生きる希望が私たちに与えられるのである。宗教改革者ルターがその命をかけて伝えなければならなかったものとは、この主イエスの福音の力に他ならなかった。この世のいかなる力も、神の言葉、主イエスの福音に打ち勝つ事はできないのである。