2013年12月17日火曜日

[説教要旨]2013/12/15「来るべき方は」マタイ11:2-11

待降節第3主日

初めの日課 イザヤ 35:1-10 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 5:7-10 【新約・ 426頁】
福音の日課 マタイ 11:2-11 【新約・ 19頁】

 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において世の不正を明らかにし悔い改めを呼びかけ、人びとに洗礼を授ける活動を行っていた。彼の厳しい批判と断罪はユダヤの政治的な支配者であるヘロデにまで及んだ。権力に対して容赦なくその批判を向けたヨハネは逮捕され投獄される。獄中において彼は、自分が為し遂げることが出来なかった事の完成を「来るべき方」に期待する。しかし、彼が獄中で聞いた主イエスの教えと働きは、思い描いた来るべき方の姿ではなかった。ヨハネは弟子たちを遣わして、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と問う。洗礼者ヨハネが期待していたものとは、彼が始めた断罪と裁きの呼びかけを徹底する人物であったと思われる。けれども、断罪ではなく赦しを、裁きではなく解放を主イエスは伝え、そして病と貧困、人を苦しめる様々な力から人びとを解き放つ方であった。洗礼者ヨハネの問いに対して主イエスは期待するようには応えられなかった。その意味では、洗礼者ヨハネの期待は裏切られたと言える。
 おそらく洗礼者ヨハネが来るべき方に対して抱いていたイメージは、神の到来に備えてヨハネ自身の思い描く秩序を完成される方、つまり塵一つ無く静寂で厳格な地上を準備する働きを完成する方であったのではないだろうか。しかし主イエスが為されたことはむしろ、その歩まれた場所に溢れるような新たな命をもたらし、そこに喜びと感謝の声をもって満たされるかたであった。それはたしかに、むしろ混沌と騒がしさ、無秩序をもたらすかのようにすら思われたかもしれない。けれどもこの地上に命と喜びを生み出すことこそ、まさに天地を創られた神の愛の業であった。洗礼者ヨハネは確かに、この地上においては最も偉大な者であるとされる。けれども、天の国、神の国の出来事は、その最も偉大な者の計画と思惑すら遙かに凌駕するものであることを、主イエスは語られる。なによりも、その言葉を語られる主イエスご自身が、人間的な視点で見るならば、挫折と絶望としか見えない、十字架への道を歩まれた。しかしその道は挫折と絶望に終わることなく、私たちの思惑と期待を遙かに超えて、主イエスの復活の命は続いてゆくのである。そして、主イエスが備えられた道は、潰えることのない永遠の希望と喜びへ、私たちを導いている。その主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られる。洗礼者ヨハネの抱いていた期待は、いわば人の思いの延長線上にあったと言える。しかし、救いの出来事は、私たちの期待や思惑の延長線上で、計画通りに進展することはなく、むしろ、私たちのそうした思惑の延長を切断し、新しい道、救いと永遠の命への道を歩むことを余儀なくさせるのである。
 主の降誕に備えるアドベントの時を私たちは過ごしている。それは私たちが、自らが抱いてきた思惑や期待を振り返り、その延長線上に救い主はいないということを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いは、主イエスによって私たちに与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。天より与えられる私たちの救いを待ち望みたい。

2013年12月14日土曜日

[説教要旨]2013/12/8「荒れ野で叫ぶ者の声て」マタイ3:1-12

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 11:1-10 【旧約・ 1078頁】
第二の日課 ローマ 15:4-13 【新約・ 295頁】
福音の日課 マタイ 3:1-12 【新約・ 3頁】

 待降節第2主日を迎え、アドベントクランツの2つめの火が灯った。夜の闇が最も長くなる季節であるクリスマスが近づくと共に、アドベントクランツのロウソクの灯火は増え、明るさを増してゆく。それは、世の闇の最も深まる時、世の光・救い主キリストが私たちのもとへ到来されれることを告げる。本日の福音書に登場する洗礼者ヨハネもまた、イスラエルの地に現れた預言者の一人として、救い主キリストの到来を告げるものに他ならなかった。
 ヨハネは、ヨルダン川において悔い改めの洗礼を授ける活動を行っていた。当時のユダヤでは、自らの生活の宗教的清さを保つための儀式として度々沐浴が行われていた。ヨハネはこの「清め」の沐浴に、さらに「悔い改め」の意味を与えて人々に洗礼を施した。その違いを敢えて挙げるならば、清めはある枠内に留まることに強調点があるのに対して、悔い改めは自らを神の方へと向け直す、動的な意味があると言えるだろう。ヨハネは、人々に悔い改めを呼び掛け、地上の力に支配された自らの命を、今や近づきつつある神の国に委ねることを求めたのだった。
 そのヨハネが叫んでいた「荒れ野」とは、神から離れてしまう自らの心を覆い隠すことの出来るものが全て取り去られた場所である。あらゆる虚飾がはぎ取られ、剥き出しにされて、自らが神から離れてしまったことを告白し、悔い改めてその命を委ねよ、とヨハネは叫ぶ。ヨハネの立っている荒れ野では自らを「清い者」であると誇ることはもはや不可能なのである。
 本日の日課に登場するファリサイ派、サドカイ派と呼ばれる人々は、それぞれの仕方で律法・掟を守り、自らを清く保つことに努力し専心した者達であった。それゆえに自分たちこそが民族を代表する、中心的な存在であるという自負も小さくはなかったであろう。しかしその彼らに対してもヨハネは容赦なく「悔い改め」を迫る。自らを清く保つためにの自分達の努力に彼らがどれほど自信をもっていたとしても、それはこの荒れ野では役立たない。神の前にある一つの命として、神の国にその命を委ねるしかない。このヨハネの叫びは、時の権力者たちの耳には痛いものであり、結局彼は逮捕され処刑されてしまう。ならばその叫びは無駄に、未完成のまま終わってしまったのだろうか。
 本日の箇所でヨハネは語る。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」人としてのこの地上での歩みによっては完成することの出来ないものを、来るべき方は完成して下さる。ヨハネは全てを自らの手で完成させることを望んでいたのではなく、むしろ完成して下さる方は他におられること、私たちの悔い改めとは、この方に、全てを委ねることなのだということ、そしてなによりもヨハネ自身が全てをその方に委ねていることをこの荒れ野で叫ぶのである。まさにその意味で、ヨハネは主イエス・キリストの到来を示し、その主イエス・キリストにその全ての希望を託したのだった。アドベントの季節、私たちの思いを越えて、私たちの間に神の約束が実現する希望を持ち続けたい。

2013年12月10日火曜日

[説教要旨]2013/12/1「主の光の中を歩む」マタイ24:36−44

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 2:1-5 【旧約・ 1063頁】
第二の日課 ローマ 13:11-14 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイ 24:36-44 【新約・ 48頁】

教会の暦では、本日から待降節の時を迎えた。アドベントクランツのろうそくに毎週1本づつ火が点けられ、4本灯されたとき私たちは主の誕生を憶える降誕祭の時を迎える。「主の誕生」とは言うものの厳密には「イエス・キリストの誕生日」ではない。キリスト教会はこの日を「イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界へとやってこられたことを憶える」時とした。待降節は本来、「私たちが主の降誕を待つ」よりも「主が、私たちのもとに来られる」ということが本質である。主イエスが来られることによって初めて、古い時、古いものが新しくされて行くことが実現されるのである。
本日の日課は、十字架の直前に主イエスが語られた世の終わりについての言葉が選ばれているが、それは同時に、救い主の再臨についての教えであった。たしかにその言葉には、私たちの日常生活が突然に終わりを告げる不安を覚えさせるような表現がある。しかし、同時にそれは私たちを励まし力づける言葉でもある。将来に対して不安と恐れしか見出せず、日常の中に何の希望も見出すことが出来ないために、絶望のあまり自分より弱い者を傷つけ貶めることでしか鬱屈を発散できない、そのような時代の中を人は生きなければならない。絶望しか見出すことが出来ない私たちを取り巻くその日常は永遠に続くのではないか、私たちはそのようにしか思われない時がある。けれども私たちの見えないところで、何の変化も見えないように私たちの日常の中にも、変化は着実に起こっていることを、主イエスは語られる。畑で仕事をしている2人の男のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。臼をひく2人の女のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。そこに何の区別があるのか、私たちに見出すことは出来ない。しかし、私たちの見えないその背後で、変化は確実に起こっているのである。
主イエスは、人としての痛みと絶望の極みである十字架へと向かおうとする時に、ご自身の到来を語られている。それは、救い主・イエス・キリストは、まさに私たちの恐れ・不安・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝たれ、光をもたらされるために、この地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。その主イエスは語る。「目を覚ましていなさい」。主イエスの到来によって、私たちの見えないところで、変化は起こっている。だから、主イエスの到来の出来事を待ち望むこと、それは私たちを支え、励ます、滅びる事のない約束の言葉なのである。
今、私たちは恐れの時代を生きている。しかし、そのような私たちの心の内のその闇のただ中に主イエスはやってこられるのである。それゆえに、そして変わることのないようにすら思えるその日常の背後で、着実に変化は起こっているのである。また私たちは今、主イエスの到来を待ち望むアドベントの時を迎えている。それは毎年繰り返されるクリスマスを待ち望む季節であると同時に、主イエスが再びこの地上にやってこられるその時を待ち望む期間でもある。それは、私たちを取り巻く闇がますます濃くなって行く中、私たちが「目を覚ましていなさい」というその主イエスの言葉によって励まされ、待ち続けることに他ならない。闇の中に生きる私たちに与えられた光、主イエスの到来の時は近いことを憶えて、この時を過ごしたい。

2013年12月5日木曜日

日本福音ルーテル三鷹教会 2013年クリスマスのご案内[12/22,12/24,1/1]

12/22(日)
10:30より 主日礼拝 チャペルにて
メッセージ「神は我々と共におられる」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊による讃美
礼拝後、大学食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます

12/24(火)
18:00より クリスマスのさんび チャペルにて
19:00より クリスマス キャンドルサービス チャペルにて
今年のキャンドルサービスはルーテル学院大学との合同で行われます。
メッセージ「いま ここに 光」 河田優牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)
ルーテル学院大学聖歌隊/ラウス・アンジェリカ(ハンドベル)による賛美と演奏

21:00より 聖餐礼拝 チャペルにて

2014/1/1(水)11:00より 元旦礼拝 チャペルにて

ともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。
みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

[説教要旨]2013/11/24「選ばれた者なら」ルカ23:33−43

聖霊降臨後第27主日

初めの日課 エレミヤ 23:1−6 【旧約・ 1218頁】
第二の日課 コロサイ 1:11−20 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 23:33−43 【新約・ 205頁】

 本日は、待降節から始まる教会の暦の最後の主日礼拝となる。現在三鷹教会で用いている「改訂共通日課」では、教会暦の最後の主日を「キリストの支配」つまり「王であるキリスト」を憶える日としているが、その日課として主イエスの受難のその最後の箇所が選ばれている。そこでは、十字架に架けられ、「もしメシアであるならば、自分自身を救え」とあざ笑われ、侮蔑され、罵られる主イエスの姿が描かれる。最初に登場する議員たちは、実は目の前の主イエスのことを三人称で語っている。つまり彼らにとっては、赦しと救いを伝える主イエスは、自分達とは無縁な、むしろその平穏な日常を脅かす疎ましい者でしかなかった。続いて兵士達は主イエスをなぶり者にする。兵士達にとっての主イエスとは自らの退屈を一時紛らわせるものでしかなかった。さらに一緒に刑を受けている者もまた主イエスを罵る。おそらくこの男は自らの挫折と孤独とに対する呪詛を主イエスに向かって投げつけていたのであろう。病める者弱き者へと関わることを自分と関わりの無いものとして疎ましく思い、他者の存在をもてあそび、そして呪詛を吐き続ける。十字架を巡るこれらの人々の反応はまさに、この地上に生きる私たちの心の闇を映し出す。とりわけ「選ばれたものなら、自分を救うがよい」という言葉、選ばれたメシア・救い主であるならば、十字架から降りて自分を救うことができるはずではないのか。それは私たち自身の問い、疑念でもある。主イエスを嘲り罵る者たちにとって、無残で力なく十字架にかかったままであることは、主イエスが選ばれた救い主キリストではないことの証拠でしかなかった。
 しかし、もう一人の同じく十字架刑を受けた者は語る。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。彼が見たものは、自分と同じ苦しみを負う方、人間の悲しみと絶望を共に担って下さる方に他ならなかった。彼にとっては、主イエスは十字架から降りられないのではなく、むしろ降りないことによって、まさに選ばれた救い主であった。
 主イエスの王権と支配とは、暴力と恐怖によって支配を争い合うようなものではなかった。むしろ主イエスはこの地上に永遠の神の愛をもたらすために来られたのだった。この永遠の神の愛は、十字架の主イエスこそが、選ばれた救い主であることによって私たちに示される。十字架は、神が私たちの苦しみを悲しみを絶望を、共に担って下さること、そしてまた、さらに永遠の新しい復活の命へと続いて行く、その希望を私たちに与える。主イエスの支配とは、まさに十字架によって示された神の愛の支配なのである。たとえこの世のあらゆる権威と権力が終わりを迎え、滅び去ってしまうとしても、十字架によって示された神の愛の支配は過ぎ去ることはない。地上の私たちの在り様は、不完全で未完成なものでしかなく、私たちは互いに対立し、憎み合い、傷つけ合わずにはいられない。けれども永遠の神の愛が私たちを支配し、その神の愛によって私たちが満たされる時、そのような私たちもまた、神の愛にふさわしいものへと変えられて行くのである。やがてくるクリスマスの時、そのただ中に神の愛、十字架の主イエスが与えられたことを私たちは思い起こす。

[説教要旨]2013/11/17「髪の毛の一本も」ルカ21:5−19

聖霊降臨後第26主日/三鷹教会成長感謝礼拝

福音の日課 ルカ 21:5?19 【新約・ 151頁】

 本日の日課では終末における崩壊について書かれているため、私達に様々な恐れと不安を呼び起こす。たしかにここで挙げられる、戦争・暴動・飢饉・疫病・地震といったものはどれも一人の人間の力ではどうにもならないようなことばかりである。それらに対して、私たち人間は恐れと不安を抱き、絶望せずにはいられない。
 しかし、自分ではどうにもならないものへの恐れと不安そして絶望は、終末に関わるものだけではない。実に私達の毎日の中にそれらは存在している。
 「とってもこわがりな、世界中で一番弱虫な」ラチという男の子が主人公の「ラチとライオン」という絵本がある。ラチは犬が怖い、暗い部屋が怖い。そして友達も怖い。だからいつも一人ぼっちで絵本を読み、強く大きなライオンの絵を眺めるだけだった。そんなラチのところに、ある日小さな赤いライオンがやってくる。大きな強いライオンを願っていたラチは、小さなライオンに失望する。しかし、その小さなライオンはいつもラチと一緒にいて、ラチに勇気と元気を与えることとなる。ライオンがついていてくれるので、ラチは恐れていた暗い部屋に入ってクレヨンを捜し出すことができた。また、小さなライオンがポケットの中に隠れて、ラチは外に出かけてゆく。ライオンは他の者からは見えないが、ライオンがついてくれることを思う時、ラチは自分の怖さを乗り越えて、犬を怖がっている女の子を助けてることができた。さらには、怖かった意地悪な大きな子を追いかけて、とられてしまった友達のボールを取り返すことができた。ラチはもはや友達を怖ることはなく、独りぼっちではなくなった。その時、ラチのポケットの中には、もうライオンはいなかった。ライオンは別の子どもを助けるために去ってしまうが、ラチのために残していた。『ラチくんへ きみは、らいおんと おなじくらいつよくなったね。もう、ぼくがいなくてもだいじょうぶだよ。ぼくはこれからよわむしのこどものところへいって、つよいこどもにしてやらなくちゃならないんだ。ぼくをいつまでもわすれないでくれたま え。ぼくも、きみのことはわすれないよ。じゃ、さよなら らいおんより』残されたライオンの言葉に励まされ、ラチはもう勇気と元気がなくなることはなかった。
 本日の福音書では、たしかに様々な恐ろしく、不安を呼び起こすことが書かれている。けれども主イエスは語られる。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決して無くならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。」絵本の中では、ラチにはライオンが傍らにあって勇気と元気を与えてくいた。そして今私たちにも同じように主イエスは共にいてくださるのである。主イエスは私たちの髪の毛一本も決してなくならない、と約束されている。私たちは、この約束によっていつも守られ、勇気と元気を与えられている。そして主イエスの言葉で私たちが力づけられ、励まされて動く時、私たちもまた、怖れと困難の中にある隣人たちの傍らにいて励まし、助けることができるのである。私たちが主イエスの約束の言葉によって力づけられる時、私たちは孤独ではない。主イエスの言葉に守られ、励まされて、子どもたちが心も体も成長することを祈る。

[説教要旨]2013/11/10「幸いな者たち」ルカ6:20-26

召天者記念礼拝

初めの日課 ダニエル 7:1-3a、15-18 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 エフェソ 1:11-23 【新約・ 352頁】
福音の日課 ルカ 6:20-31 【新約・ 112頁】

 教会の伝統では11/1を「全聖徒の日」とし、すべての先に天に召された人々を記念する礼拝を守るようになった。今年三鷹教会では11/10に、先に天に召された者たちに思いを向けている。私たちは、今自分が生きていることは誰もが知っている。そしてその地上での命には限りがあることもまた知っている。しかし、その命がどこから来たのか、そしてそれはいずれどこへと行くのかについて知っている者は誰もいない。ただ、先に召された者たちに思いを向ける時、私たちは過ぎ去らない命の在り様について垣間見ることができるのである。
 本日の福音書は、主イエス・キリストの「平地の説教」の一部として良く知られた箇所が選ばれている。マタイによる福音書にも本日の箇所と同様の言葉が収録されているが、そちらは舞台が山の上に設定されている。この福音書を編纂したルカは、主イエスの語られる言葉が世の全ての人に行き渡る様子を強調するために、山から下りた地にあえて舞台を移したのではないかと考えられる。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」この主イエスの言葉は、現に目に前にいる者たちだけでなく、あらゆる時代の世界の全ての人々へと響いてゆく。
 ここで主イエスが挙げる、持たざる者であること、植えた者であること、涙を流す者であること、それらはあらゆる意味で私たちの地上の価値観での「幸い」とは全く逆のものなのである。それにも関わらず、主イエスは「幸いである」と祝福の宣言をされる。実に、主イエスがこの祝福を宣言される時、そこには現に今人間に見えているものを超えた、神の国の出来事が重ね合わされ、垣間見えているのである。たしかに地上での生の歩みの中で、人は思い半ばにして、未完成のままで終えなくてはならないこと、報いられないまま終わらねばならないことがある。けれども、それは決してそこに留まることはないということ、あらゆる不足が満たされ、悲しみが慰められ、未完のままに終わったものが完成されるのだということを、主イエスは祝福の宣言によって示されるのである。さらに、主イエスから「あなたがた」と呼びかけられた私たちは、貧しい者、飢えた者、泣いている者が、喜び、満たされ慰められるのは、その人々の功績が充分であったからであるとか、素晴らしいことを成し遂げたからであるとか、そうしたことは何も触れられていないことに気付く。ただ今、持たざるものであり、飢え渇くものであり、涙を流すしかない。そのような、弱く力ない、一人の人であることそのものによって、祝福は宣言されるのである。
 そして何よりも、この祝福を宣言される主イエスご自身が、挫折と痛みの極みである十字架の死へと向かい、その死から甦られたのだった。この十字架によって、神は全ての事柄を完成させ、全ての悲しみと苦悩を受け取り、そしてそこに永遠の命への希望を備えて下さることを、私たちに示された。その意味で、主イエスの十字架を通して、主イエスのこの祝福の言葉は生と死に分けられている、先に召された多くの先達者たちも、そしてまた今なおこの地上を歩む私たちにも届けられている。主イエスの十字架を通して私たちは共に祝福を受け、慰められ、満たされているのである。

[説教要旨]2013/11/03「失われたものを捜すために」ルカ19:1−10

聖霊降臨後第24主日/三鷹教会・West Tokyo Union Church合同礼拝

福音の日課 ルカ 19:1−10 【新約・ 146頁】

本日の日課に先立つ18:31では、主イエスは弟子たちに向かってご自身の十字架と復活についての3度目の予告をされる。そして、その目的地エルサレムに入る直前に、一行はエリコの街を通る。エリコは交通の要所でローマ時代には税関が置かれていた。当時の徴税制度は何重にも積み重なる下請け構造であり、結果として末端で徴収される税額は大きく膨らむこととなった。また下請け構造の途中で金を懐に入れる者も少なくなかった。このため当時のユダヤ社会の中では徴税人は嫌われ者であり、さらには詐欺師であるとして、裁判では証人としての資格がないとされるほどであった。つまり、社会の中で徴税人は、その語る言葉を聞くことなど必要無いものとして扱われていたのだった。本日の物語に登場するザアカイは、「徴税人の頭」であり、金持ちであったと紹介されている。おそらくザアカイは、その立場を利用して利ざやを稼ぎ、自分の財産をつくりあげたのであろう。詐欺師と呼ばれ、誰も彼の言葉に耳を貸すことのない中で蔑まれながら積み上げた財産は、いわば彼の全てであった。ただ金の力だけが、彼が信じることの出来る唯一の力であったかもしれない。しかしそれはまた、苦悩と不安とによって押しつぶされそうにになる人生だったのではないだろうか。
そのザアカイが主イエスを「見ようとした」。この表現には、偶発的ではなく積極的に求める姿勢が込められている。金の力だけを信頼していたであろうザアカイは、主イエスが目の見えない男を癒された出来事を聞き、自分がまだ見たことも聞いたこともない「何か」を主イエスに期待したのではないだろうか。
ザアカイは、この主イエスという人を見ようとするが、群衆に遮られてしまう。しかしなぜかザアカイはそこであきらめず、何かに押し出されるかのように先回りし、木に登って主イエスを待ち構える。主イエスを見ようと求めたザアカイは、逆に主イエスの前に自分自身をさらけ出す。その彼に向かって主イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかける。この主イエスの言葉は確かに、ザアカイへの招きの言葉であるが、主イエスが招く先は、他でもないザアカイ自身の家である。つまり、ザアカイに対する主イエスの招きの言葉が、逆にザアカイに、自分の家に主イエスを迎えさせるのである。つまり、この物語でザアカイは、主イエスを見ようとして逆に見つけ出され、主イエスに招かれて、逆に主イエスを招くこととなるのである。
主イエスを迎え、それまでは金の力だけを信じていたであろうザアカイは全く違う生き方を与えられる。主イエスによって捜し出されたザアカイは、その主イエスによって新しい命へと招かれる。人々から非難される中、主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と主イエスは語るが、物語の中でザアカイの家を訪れたのは、他ならない主イエスご自身であった。つまり、ザアカイのもとに訪れた救いとは、十字架への道を進む、主イエスご自身に他ならない。十字架の死へと進み、しかしその死から甦られた主イエスこそ、私たちに与えられた救いなのである。主イエスの十字架と復活とは、私たちの智恵と力を超えて、私たちに備えられる、永遠に滅びることのない希望、新しい命への約束なのである。
この地上の世で、苦悩と不安の中で、私たちの目に救いは隠されているようにしか思われないことがある。けれども、救いそのものである主イエスご自身が、失われたものを探し出され、私たちの心を開いて私たちのもとを訪ね、私たちを新しい命へと招かれるのである。

2013年12月1日日曜日

やかまし村のクリスマス[12/1]

毎年恒例の「やかまし村のクリスマス」が行われます。
おはなしと歌の楽しいプログラムです。
ご家族で是非お越しください。
日時 2013年12月1日(日)14-15時
会場 ルーテル学院大学チャペル
入場無料