2010年12月29日水曜日

[説教要旨]2010/12/26「神の言葉に導かれて」マタイ2:13-23

降誕後主日

初めの日課 イザヤ 63:7-9 【旧約・ 1164頁】
第二の日課 ガラテヤ 4:4-7 【新約・ 347頁】
福音の日課 マタイ 2:13-23 【新約・ 3頁】

 本日の福音書では、天使から告げられたヨセフが、マリアそして幼子主イエスを連れてエジプトへと旅立つ出来事が描かれている。エジプトという地は、聖書の世界とは古く、深いつながりのある場所であった。敢えて言うならば、イスラエルの歴史を振り返る時、エジプトとの関わりは欠かすことの出来ないものであった。聖書の中で語られるエジプトの姿には2つの側面があった。一つは、創世記に描かれているように、かつてもう一人のヨセフがその地で要職につき、父ヤコブと一族とを救った場所であった。またその後も、ユダヤの王達の中には政変の中で一時的にエジプトに身を寄せる者がいた。そこは、いわば避難先としての土地であった。しかし、同時にそれは、神に選ばれたモーセによって導かれて脱出するまでの間、かつてイスラエルの先祖達が奴隷として使役された場所でもあった。イスラエルの民にとって、エジプトとは時に憧れ頼る先であり、また時に憎み敵対する相手であった。いわば、イスラエルの民にとって、エジプトとは自分たちの有り様を逆に映し出す「外側に立つ他者」であった。内側が飢え乱れる時、民はそこに逃れる。そして虐げられ、貶められる時、再び人は内なる故郷へと戻る。その意味で、エジプトとの関わりが語られる時、人はイスラエルの民自身の歩んできた歴史を振り返ることとなった。
 そうした歴史の中で、ヨセフは、同じ名前を持つ先祖と同じように、住み慣れた場所に戻ることなく、見知らぬ土地エジプトへと旅立つ。それは、ヨセフ個人自身にとって大きな転機であり、人生の危機であった。しかしそれは同時に、イスラエルの民が歩んできた流転の歴史そのものにヨセフもまた連なっていたということでもあった。かつてイスラエルの民を導いた力は、今またヨセフにも働き、どのような状況の中でも、彼を見捨てることなく、見知らぬ土地で生きることを支えるのである。
 さらに、その避難に際して語られるエレミヤの言葉は、かつてバビロンへと補囚とその解放の出来事、神の「新しい契約」を語るものであった。ヨセフの旅立ち、それはただ彼一人の旅立ちではなかった。なぜなら、この地上に新しい契約として与えられた、救い主イエス・キリストが共にいるからである。それは、かつてのイスラエルの民の旅立ちの単なる繰り返しではなく、新しい契約、新しい救いの歴史への旅立ちであった。それは、全ての民へと開かれた救いの歴史の始まりであった。まだ見ぬ新しい出会い、新しい価値観、新しい関係が紡ぎ出される、その始まりの出来事であった。
 今年もまた私達はクリスマスを迎えた。それはまるで機械的に繰り返される同じ周期がただ巡ってきただけと捉えることも出来る。しかし、私達は、主イエスと共に、新しい時へと歩み出している。ヨセフが天使によって神の言葉を聞き、未知の世界に歩み出した時、新しい救いの歴史が始まった。私達もまた、神の言葉によって導かれ、新しい時を歩み出すことが出来るのである。

2010年12月23日木曜日

[説教要旨]2010/12/19「その憐れみは代々にかぎりなく」ルカ1:46-55

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 サムエル上 2:1-10 【旧約・ 429頁】
第二の日課 ローマ 2:17-29 【新約・ 275頁】
福音の日課 ルカ 1:46-55 【新約・ 101頁】

 4回のアドベントの主日を過ごしてきた私達は、今週クリスマスを迎えることになる。この日曜はいわばクリスマスの幕開けの時となっている。それに際して、神を褒め称える言葉が並ぶ箇所が本日の福音書として選ばれている。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」それはまるで、このクリスマスの時の幕開けを告げるファンファーレのように私達の心に鳴り響く。
 この箇所は、主イエスの母であるマリアが、洗礼者ヨハネの母エリザベトからの祝福を受けて語る言葉として記されているが、そこで語られている事柄は、さまざまな矛盾と逆説にみちていることに私達は気付かされる。それはまず、マリアが自らを「幸いな者」と呼ぶことである。いいなずけであるヨセフとの結婚を前にして子を宿したことは、当時の社会的な規範からすれば、とんでもない出来事であった。しかし、天使ガブリエル、洗礼者の母エリザベト、そしてエリザベトの胎の中にいる、最後の預言者である洗礼者ヨハネは、マリアを祝福する。そこには、人間の視点と天的な視点との間の決定的な相違がある。実に、マリアに起こった出来事は、神の祝福と恩寵の出来事であるということは、マリアが宿したその子が、世の救い主であるということを抜きにしては理解できないのである。人の目に見える領域、すなわち自分の規範にあてはまる事柄からのみ、目の前の出来事を捉えるならば、それは苦悩と絶望の出来事としか映らない。しかしマリアを祝福する視点、いわばそれはまだ起こってはいない未来の救いの出来事から今自分の前で起こっている出来事を見る視点なのである。
 それらの祝福に応えて、マリアは自らを「幸いな者」と語る。しかし、もし私達が、目に見える事柄だけを追うならば、その祝福と恩寵はただ一人に向けられ、その幸いな出来事はただ一人にのみ起こったことでしかない、なんという不公平な出来事なのだ、そのような苛立ちと嫉妬を憶えるかもしれない。しかし、マリアに個人的に起こった神の恩寵の出来事はただマリア一人の問題ではないということ、それは全ての人々に及ぶとする。ここでも大いなる逆説が語られることとなる。救い主を宿したのはマリアという個人以外には体験しえない出来事であり、その意味でマリアは特権的な存在でしかない。誰もがマリアと同じ体験をすることなどできないのである。それにもかかわらず、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とマリアは語る。それもやはり、そこで与えられた祝福と恩寵とは、主イエスが与えられたという出来事であることを抜きには理解することができないのである。
 実に主イエスは、苦悩や絶望、怒りや嫉妬、そうしたさまざまな人間の困窮の中に与えられた光なのである。主イエスの出来事を抜きには、困窮はただ深い闇でしかあり得ない。私達はその闇の中でただぶつかり合い、傷つけあうだけである。しかし、その闇、憎悪と嫉妬、裏切り、そして十字架の死という絶望的な苦悩を越えて、命の世界を主イエスは私達に示されたのである。その主イエスが私達の光として与えられたのである。主イエスの光は、まだ見ぬ救いへの希望を動かぬ確信として私達の魂に届けるのである。
 今年もクリスマスの幕が開ける。2000年以上前に一人の女性に投げかけられたその祝福と恩寵の光は、時空を越えて私達のもとに届いている。

2010年12月17日金曜日

こどもクリスマスのごあんない[12/23]

ルーテルみたかきょうかい こどもクリスマス

こどものためのクリスマスのおはなしをきいたあと、ゲームしてあそんだり、みんなで
おかしをたべたりします。
だれでもさんかできます。(さんかひむりょう)
たくさんんおおともだちのさんかをおまちしています。

12がつ23にち(もく)ごご2じ〜4じ
ルーテルがくいんだいがく チャペルにて


2010年12月9日木曜日

0422市民クリスマス[12/11]

0422市民クリスマスは武蔵野市・三鷹市・小金井市などのキリスト教会による超教派(エキュメニカル)な市民クリスマスです。
今年は12月11日(土)18:30よりカトリック吉祥寺教会にて行われます。
どなたでもご参加頂けます(礼拝の中で自由献金あり)。
礼拝後、第2部として、ICUハンドベル「ベルペッパーズ」のコンサートが行われます。

また礼拝に先立ち16時からは会館前にてクリスマスグッズのバザールも行われます。

皆様是非お越し下さい。

クリスマスイヴ・キャンドルサービス[12/24]

今年のクリスマスイヴ・キャンドルサービス は

12/24(金)19時より行われます。

ソプラニストの長尾篤子さんによる賛美を交えて礼拝を守ります。
お知り合いやご家族とご一緒にお出かけ下さい。

クリスマス 主日礼拝・祝会[12/19]

12/19(日)10時半の主日礼拝では、クリスマスを憶えて三鷹教会聖歌隊、ルーテル学院大ラウスアンジェリカ(ハンドベル)による演奏が行われます。
また礼拝の中で洗礼式も予定されています。
礼拝後(12時半頃より)学生食堂にてクリスマス祝会の時を持ちます。
参加される皆様には料理の各自一品持ち寄りへのご協力をお願いいたします。

2010年11月25日木曜日

やかまし村のクリスマス[12/12]

やかまし村のクリスマス
にんぎょうげきとおはなしの会


おともだちもいっしょに。ご家族でもどなたでもどうぞ!お待ちしています

と き 2010ねん12がつ12にち(にち) ごご2じ~ (無料・ただです)
ところ ルーテルがくいんだいがくチャペル

 *クリスマスのおはなし(石居牧師)
 *にんぎょうげき(バリちゃんず)
 *おはなし(川田洋子・横澤多栄子)
 *クリスマスのうた(河田晶子)

主催:日本福音ルーテル三鷹教会
    子ども文庫やかまし村

ルーテル学院大学「キャンパス・ウィンター・フェスティバル」のご案内[11/26]

とき 2010年11月26日 · 18:30 - 20:00
場所 ルーテル学院大学チャペル


ルーテル学院大学で活動している音楽団体が一堂に会し、一年の恵に感謝を込めて、演奏会を開きます。教会の暦では主の降誕を待ち望む待降節に入ります。そのことを憶えて、クリスマスツリー点灯式も行われます。音楽と光に彩られた素敵な夜をお楽しみ下さい。

出演
 聖歌隊/Laus Angelica(ハンドベル)/チャペルオルガニスト/楽友会/弦楽アンサンブル ナージャ/北川家/Evening Prayers ほか


また、東教区Campus Club「座」として、演奏会前の16時より三鷹教会集会所でコーヒーアワーも行われます。

どなたでもご参加頂けます。皆様のお越しをお待ちしています!(いずれも入場無料です)

[説教要旨]2010/11/21「いのちへの祝福」ルカ21:5-19

聖霊降臨後最終主日・成長感謝礼拝

福音の日課 ルカ 21:5-19 【新約・151頁】

本日は教会の暦の最後の主日となっている。暦の終わりにあたって、聖書は「世の終わり」について思い起こさせる箇所が選ばれている。「世の終わり」というこ とを思うとき、私たちはどうしようもない不安に襲われる。自分の生きている世界が崩壊し、滅びてしまうということは、確かにとてつもなく恐ろしいことである。しかも、そのことに対して、人間の力では全く手の打ちようがないということは、絶望にすらとらわれそうになる。しかし、不安や絶望は、決して私たちにとって、「世の終わり」においてのみ待ち受けているものではない。むしろそれは、私たちの日常の中で、絶えず私たちに襲い来る出来事でもある。その意味で、「世の終わり」に対する不安と絶望は、実は、私たち自身の世界の内側にある恐れでもある。
 しかし、その恐れは、主イエスの十字架と復活によって、決して最後のものでないことが明かとされた。十字架は、この世のあらゆる力は、私たちを滅ぼすことができないことの「しるし」なのである。この地上に作られた命は全て、神によって「良し」とされたものであった(創世記1章)。 神は、その命を祝福し、救うために、主イエスを、そしてその十字架と復活の出来事を私たちに与えられたのである。
 とはいえ私たちは一人では、この地上の恐れと不安に立ち向かうことは容易ではない。十字架に頼りつつ、また信仰の仲間と共にあゆむ時、「命を勝ち取る」ができるのである。

2010年11月17日水曜日

[説教要旨]2010/11/14「死に打ち勝つ言葉」ヨハネ福16:25-33

三鷹教会召天者記念礼拝

初めの日課 ヨナ 2:1-10 【旧約・1446頁】
第二の日課 1コリント 15:50-58 【新約・322頁】
福音の日課 ヨハネ福 16:25-33 【新約・201頁】

 本日の福音書は、ヨハネ福音書の「告別説教」と呼ばれる、主イエスによる大変長いメッセージの一部となっている。ヨハネ福音書の著者は、神の国とこの地上との別離を誰よりも強く意識していたと言える。そうであるからこそ、この地上に遺される弟子達に向かって主イエスが語られた言葉に集中し、それを人々と分かち合わずにはいられなかったのであろう。それは物語の中では直接には弟子達に語られたものであるかもしれないが、むしろ、聖書を読むであろう全ての読者に向かって伝えられているのである。愛するもの、信頼すべきもの、頼るべきものを失った時、人はどうすれば良いのか。別離と共に襲い来る悔悟と悲嘆の思いに、そして同時に迫り来るこの世の荒波に、自分は独りで立ち向かってゆけるのか。それは、古今を問わず、私たち人間にとって大きな問題である。とりわけ死による別れは、私たちの全く手の届かない領域を、私たちにまざまざと見せつける。この世に遺された私たちは、死を前にしてただ絶望と痛みとにただおびえることしか出来ないように思われるのである。
 しかし、ヨハネ福音書が伝える主イエスの別れのメッセージは、地上に遺されたもの達はただ悲しみにくれるだけではないことを示している。本日の箇所では特に、二つの「時」が、主イエスの言葉の背後において語られている。一つは主イエスがこの地上において現に歩まれている時である。そしてもう一つの時とは、主イエスの十字架と復活の出来事が起こった後の時である。直前の22節では「『今は』あなたがたも、悲しんでいる」と語られ、その直後で「あなたがたは心から喜ぶことになる」と続けている。悲しみに満ちた「今」が、喜びに満たされるようになる。そしてその間にあるものとは、主イエスとの出会いに他ならなかった。この世の苦難の中にある時、人はこの二つの「時」は、決して重なることのない時であるかのように思う。たしかにこの世において、私たちは多くの「なぜこのような出来事が起こるのか」「なぜこのような悲しみがあるのか」といった疑問を前にして、その答えを見つけあぐねている。それはまるで「たとえ」によって謎かけを投げかけられたものの、その答えを見いだすことが出来ないままでいるのと似ていると言える。
 本日の福音書の末尾で主イエスは語られる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」十字架の死から復活された主イエスの言葉は、この世において、死、別離、苦難、悲嘆という様々な力によって責め苛まれている私たちが「喜び」に心が満たされる時、地上に遺された私たちに、それは主イエスの十字架と復活を通して、命の意味がはっきりと示される時をもたらされるのである。

2010年11月9日火曜日

三鷹教会成長感謝礼拝[11/21]

11/21()は成長感謝礼拝として、主日礼拝の中で子ども祝福式を行います。
教会から子ども達にプレゼントもあります。
是非ご家族で礼拝にお越し下さい。

三鷹教会召天者記念礼拝[11/14]

今年度の三鷹教会召天者記念礼拝は11/14()に行われます(聖餐式あり)。
礼拝の中で三鷹教会に関係する
召天者の方がたを祈りに憶えます。
召天者の方のお写真を正面に並べることを希望される方は、額装の上、礼拝前に聖壇前に設置いただけますようお願いいたします。

2010年11月3日水曜日

JELC三鷹教会・ウェスト東京ユニオンチャーチ合同礼拝のご案内

11/7(日)は、普段ルーテル学院大学の中でそれぞれに礼拝を守っている、日本福音ルーテル三鷹教会とウェスト東京ユニオンチャーチ(WTUC)との合同礼拝として、英語と日本語を交えて礼拝がが行われます。

メッセージ「神と共に歩む Walking with God」キャロル・サック宣教師


10時半よりチャペルにて

[説教要旨]2010/10/31「本当の自由」ヨハネ福8:31-36

宗教改革記念日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ福 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日の福音書箇所で主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られる。しかし普通の価値観で考えるならば「弟子である」ことは、不自由な状態であり、不完全な状態であることを意味している。それなのになぜ弟子であることが「自由」であるのだろうか。直前の箇所では「多くの人々がイエスを信じた」と書かれており、それに続いて「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とある。「信じた」という過去の出来事として表されているということは、これらの人々が今なお迷いと試みの中にあることを暗示している。なぜならば「信じる」という生き方は、人が与えられた救いを受け取り、古いあり方を放棄することだからである。すなわちそれは、自分自身は見えていると思い込んでいる見えない人であり、自由人であると思い込んでいる奴隷であるにすぎないことに目を覚まさせることなのである。
 確かに、他者の身体を暴力的に支配し所有することは、近代民主主義において紛う事なき「罪」である。しかし聖書が問題とするのは、そうした法的な意味での罪に留まらない、むしろもっと人間存在の奥深くに関わる事柄としての「罪」の問題であった。本日の福音書に登場するユダヤ人達は、主イエスに対して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問いかける。彼らにとって、アブラハムの子孫であることは、彼らの所有する資産の一つであった。しかし、人は自分で自分の命を創り出すことは出来ない以上、それは本来神から与えられた賜物であった。彼らが自分たちの出自とその実績を誇れば誇るほど、彼らは自らが神によって創り出された命であることから離れてしまっているのである。そしてあたかも、自分自身で、自分自身の命を創り出し、その価値の優劣を定めることができるかのように錯覚することであった。それこそまさに人間の罪の姿に他ならないのである。
 主イエスの弟子であること、それは主イエスが歩まれた十字架への道を、人が共に歩みつづけるということであった。主イエスの十字架とは、この世におけるあらゆる絶望と喪失の先に、希望と解放を神が与えられた出来事に他ならなかった。そして、その出来事は人間が自分自身の手によっては絶対に獲得することのできないもの、ただ神の恵みとしてしか与えられ得ないものであった。キリスト者がキリスト者であり続けることは決して自明なことではない。むしろキリスト者は常に試みの中に立たされ、常にキリスト者になろうと葛藤しつづける存在でしかない。しかし、それは同時に、十字架によって私達に与えられている、神の恵みの中を歩み続けることなのである。

2010年10月27日水曜日

Campus Club 座エクストラ[11/3]

日本福音ルーテル教会東教区教育部の学生層向けのプログラムであるCampus Clubが、ルーテル三鷹教会集会所を会場に11/3(水)に行われます。

皆で集まって料理を作ります、食卓を囲み、この夏に行われた様々なプログラムに参加した学生や青年に
その報告をしてもらい、体験を分かち合います。
学生(やその年齢層)の皆さんの参加をお待ちしております!

座EXTRA
11月3日(水)17:00より

日本福音ルーテル三鷹教会集会室にて
 三鷹市大沢3-10-20 ルーテル学院大学内
こちらもご覧下さい

2010年10月26日火曜日

[説教要旨]2010/10/24「胸を打ちながら」ルカ18:9-17

聖霊降臨後第22主日

初めの日課 申命記 10:12-22 【旧約・297頁】
第二の日課 2テモテ 4:6-18 【新約・394頁】
福音の日課 ルカ 18:9-17  【新約・144頁】

 度々福音書では、「ファリサイ派」というグループは、主イエスに敵対する存在として、悪い・謝った存在として描かれている。しかし本来はその厳格な信仰的態度ゆえに、当時の社会の中では尊敬される立場にあった。
 本日の福音書のたとえ話では、ファリサイ派の男は祈りの内にこれらのことを主の前に証しし感謝する。しかしながらその感謝は自らの努力と正しさを誇る態度となっていた。しかも、ルカ福音書の主イエスのガリラヤからエルサレムへの旅の途中では、ファリサイ派の人々について、ここで彼が自分について主張していることとは全く逆の批判の言葉が挙げられてきている(11:39、16:14、16:18)。尊敬されるべき人々に対して、これほど厳しい非難が向けられるのを聞いた人々は、大いに驚いたにちがいない。そして、その驚きは一つの疑問を人々に呼び起こす。「正しさ」とは一体何なのか。枠からはみ出さないこと、厳格に伝統に従い、それを守ることが出来ること、それこそが「正しい」ことであると人は考える。しかし、それは本当にそうなのか。
 本日のたとえ話では、もう一人徴税人が登場する。ファリサイ派からは「この徴税人のような者でもないことを感謝します」とすら言われている。それはつまり、世の中ではファリサイ派に対する対極として、世間で蔑まれ、つまはじきにされるような、存在として考えられていたことを物語っている。それゆえにこの徴税人は祈りの場に近づくことすらできなかった。そしてさらに、彼は「胸を打ちながら」「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と独白する。「胸を打つ」という行為は、中東では女性に特有の悲しみのしぐさであった。男性がそうした行為することは尋常ではないことであった。しかし世間での慣習からはみ出してでも、「わたしを憐れんで下さい」と求めずにはいられなかったこの徴税人こそが、主なる神によって「正しい」ものとされたと主イエスは語られる。
 主イエスの十字架は、私達に「このような者でもないことを感謝します」と神に感謝させるためにあるのではなかった。むしろ、主イエスが十字架にかかって命を落とされた時、人々は胸を打ちながら帰って行ったのであった(23:48)。主イエスの十字架は、私達を神の起こされる逆転の渦の中に私達を巻き込んでゆく。そしてまさに福音は、逆転に満ちているのである。私達の目には失敗・挫折・遠回り・逆行・衰退・喪失としか目に映らないことの中に、新しい命、新しい世界、豊かな実り、尽きることのない喜びと希望を、神は与えられる。
 このたとえに続いて、主イエスは子どもを祝福される。弱く、何の生産性もない子どもが選ばれ祝福される。それが神の国の出来事であることを主イエスは語られる。主イエスの十字架によって、この神の国は私達の間に与えられた。私達はもはや自分の正しさを誇るために他者を蔑むことは必要ない。胸を打ちながら神に憐れみを求めることが私達には許されているのである。

2010年10月21日木曜日

[説教要旨]2010/10/17「祈りの行方」ルカ18:1-8

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 創世記 32:23-31 【旧約・ 56頁】
第二の日課 2テモテ 3:14-4:5 【新約・ 394頁】
福音の日課 ルカ 18:1-8 【新約・ 143頁】

 弟子と論敵とを前にして17章の終わりで主イエスは「神の国はいつ来るのか」という論敵からの問いに対して、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられている。たとえ人の目には見えなかったとしても、この神の国は現に私達とともにあるのである。人の目には何の変化も無いように見える私達の日常の中にも、実は神の国は「ある」ことを主イエスは教えられているのである。そして、目には見えないこの「神の国」とともに生きるとはどういうことなのか。そのことを主イエスは続いていくつかの譬えを用いて語られる。
 その手始めに「気を落とさずに祈らなければならない」ことを主イエスは教えられる。人は自分の願いが実現しない時、自分の祈りは聞き届けられていないと思う。そしてそれは自らの信仰の弱さのせいではないかと思う。それは私達の日常生活の感覚から言うならば、勤勉さ、熱心さは、時間の短縮という形で目に見えるかたちとなるからである。しかし信仰の本質は人の意志の力や能力ではない。その意味で、祈りが聞き届けられたことが実感されるまでの時間の長短は、その人自身の信仰の強さとの間に相関関係はないのである。むしろ、重要なことは、どれほど絶望的な状況であったとしても、気を落とさずに祈りつづけることなのである。
 「やもめ」という存在は、経済的・社会的な活動が男性に集中していた古代の聖書の世界において、現代よりもなお弱い立場におかれていた。「不正な裁判官」という存在によって、やもめを取り巻く状況がまさに絶望的であることがここで確実なものとされる。しかし、そうした全ての「目に見える」現実に反して、やもめの訴えは聞き届けられる。それは私たちの常識では起こりえないことであり、矛盾した結論でしかない。しかし、私たちに間に現にある「神の国」には、私たちの論理と矛盾する結論、絶望的な状況の中から弱い者が勝利する、そのような「非常識」な逆転を引き起こす力があることを主イエスは、論敵にも弟子たちにも、そして現代の読者である私たちにも教えておられるのである。
 そして、その言葉が真実であること、つまり、絶望の中に希望が与えられる、死の中に命が生まれる、ということが実現するということは、主イエスがこの旅の目的地であるエルサレムで、ご自身の十字架と復活によって、論敵に、弟子たちに、そして私たちに示されたのであった。十字架を見上げるとき、私たちは、私たちの祈りの行方がどこにあるかを知る。私たちの祈りは、十字架を通して、現に今神に聞き届けられているのである。

2010年10月15日金曜日

Evening Prayer in English [10/22]

Japan Lutheran College and Department of Church-Education in JELC-Eastern-Parish hold the english Evening Prayer.

Oct. 22. (Fri) 18:15-45

  in the Chapel of Japan Lutheran College
  Message: Rev. Dr. Timothy Mackenzie

We have this worship with the Liturgy of "Holden Evening Prayer", that was made in Holden Village, the ELCA Retreat Center in north central Washington state.

Everybody can join the worship.
After the worship, we have a supper at domitory of theological seminary (500 yen).

Evening Prayerのご案内[10/22]

ルーテル学院大学とJELC東教区教育部によるEvening Prayer(英語による夕礼拝)が行われます。

10/22(金)18:15-45

 ルーテル学院大チャペルにて
 メッセージ:ティモシー・マッケンジー牧師(ルーテル学院大准教授)

アメリカ福音ルーテル教会(ELCA)のリトリートセンター、Holden Villageで作られたHolden Evening Prayerという式文を用いた英語による礼拝です。

どなたでもご参加いただけます。
礼拝後、神学生寮にて夕食会(食事代¥500)もあります。希望者は当日お問い合わせください。

2010年10月12日火曜日

宗教改革記念合同礼拝2010のご案内[10/31]

2010年10月31日(日) 17時より
市ヶ谷ルーテルセンター(市ヶ谷教会)礼拝堂にて

司式 杉本洋一牧師(副教区長)
説教 マルッティ・ポウッカ牧師(スオミ教会:9月着任)
説教題「キリスト者の自由」

ポスターはこちらから

[説教要旨]2010/10/10「立ち上がって行きなさい」ルカ17:11-19

聖霊降臨後第20主日

初めの日課 列王記下 5:1-14 【旧約・ 583頁】
第二の日課 2テモテ 2:8-13 【新約・ 392頁】
福音の日課 ルカ 17:11-19 【新約・ 142頁】

 エルサレムに向かうにあたって、主イエスが「サマリアとガリラヤの間を通られた」と物語は語る。サマリヤとユダヤは元来同じ民族であった。しかし、歴史の中で、二つの地域は、対立を繰り返し、互いへの憎悪を募らせてきた。ガリラヤもまた都の人々からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、社会の周縁に位置づけられていた。その「間を通って」十字架の地であるエルサレムへと向かわれる主イエスが通られるということ、そこには主イエスとその十字架が、まさに人間同士の対立と憎悪、嘲笑と妬み、そうした、人間の「負」の側面、「闇」のただ中を貫いて働かれていることを、読者に思い起こさせるのである。
 その途上で、主イエス達は、10人の重い皮膚病の人々に出会う。彼らは、主イエスを発見し、遠くから「わたしたちを憐れんでください」と願う。5章での同じ病を持つ者への癒しとは異なって、主イエスは直ちにその場で彼らに癒しの業を行わない。ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と語られる。祭司に体を見せるということ、それは、社会的な交わりが回復するための一つの関門であった。病の癒しという具体的な出来事よりも、交わりの回復の方が、人間の命にとっては、より本質的で深刻な問題であり、解決することが困難な問題であることを示している。しかし「サマリアとガリラヤの間を通られた」主イエスは、その言葉をもってこの排除された人々を社会の中へと復帰させられる。主イエスの言葉はまさにそのような力を持って、人と人を隔てる様々な闇のただ中に働かれるのである。
 主イエスの力に出会った10人うち1人はサマリア人であったことが報告される。この人は主イエスの元に「戻って来た」のであった。社会から排除されていた者たちの中にも、さらに憎悪と対立があったのか、あるいはそれは問題ではなかったのか、それは定かではない。しかし、ここで明確であるのは、このサマリア人は、自分が再び「生きる」者となったのは、この主イエスの言葉によるものであったということを、はっきりと分かっていたということである。おそらく10人の中でもっとも不安定な立場にいたであろうこの人物こそが、自分自身の救い主がどなたであるかをもっともはっきりと知ることができたのであり、「救い主」として主イエスに出会うことができたのであった。
 主イエスは最後に語られる。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主イエスの言われる「あなたの信仰」、それはこのサマリア人が、もっとも弱く不安定な立場の中で生きてきたということ、そしてそれゆえに、主イエスに真の意味で出会うことが出来たという、その体験であり、その人の人生の歩みそのものに他ならない。信仰とは弱さの中で、主イエスが私たちと出会うために待っておられるということ、その出来事なのである。

2010年10月9日土曜日

ルーテル三鷹教会 秋の集い[10/24]

ルーテル三鷹教会では、「秋の集い」として、市川一宏先生(ルーテル学院大学学長)をお迎えして、講演会と懇親の時を持ちます。お気軽にお越し下さい。

10月24日(日)
 10:00- 子どもと大人の合同礼拝
 
 11:00- 講演
  「キリスト教社会福祉の目指すもの ー隣人とはだれですかー 」
   市川一宏先生(ルーテル学院大学学長)
    
    専門分野:社会福祉制度政策、地域福祉、高齢者福祉

※講演後、参加者で昼食を共にして懇親の時を持ちます。(昼食代300円)

お問い合わせはルーテル三鷹教会まで

[説教要旨]2010/10/03「共に生きるために」ルカ17:1-10

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 ハバクク 2:1-4 【旧約・ 1465頁】
第二の日課 2テモテ 1:3-14 【新約・ 391頁】
福音の日課 ルカ 17:1-10 【新約・ 142頁】

本日の福音書の日課につけられた「赦し、信仰、奉仕」という新共同訳の小見出しは、確かにこの箇所において取り上げられているモチーフを簡潔に表している。しかし、それらはどのようなつながりを持っているかを、聖書を前にする読者は今一度考えてみることが求められている。
この箇所のいくつかの教えから、つまずきをもたらす者への決定的な裁きの恐怖、奇跡的な信仰の力の強調、使徒的な働きへの過小評価などを結論として導くことは適切ではない。なぜならば、そこにはこれらの教えを結びつけるものが見えてこないからである。これらの結論は、信仰の共同体の中で、自らの立場を正しいものとする時に出てくるものであると言える。すなわち、自分は、躓きをもたらす者ではなく、奇跡的な信仰の力を持ち、使徒的な権威を持ちつつもそれ誇ってはいない、という立場からの理解である。
しかしむしろ、その逆の視点から見る時にこそ、そこに一つのつながりが浮かび上がってくると言える。自分は、いつつまずくかもしれない者の一人であり、いつ罪を犯すかもしれない兄弟の一人であり、自らの信仰の足りなさに嘆く者であり、自分は評価に値することを何も為すことの出来ない者である。そしてその結果として、いつも周囲の者達との間での、さまざまな軋轢と摩擦に悩み、苦しむ存在でもある。しかし、たとえどのような軋轢によって悩まされていたとしても、自分自身の弱さと傲慢さに失望していたとしても、私達はそのことによって信仰をあきらめる必要はないのである。つまずく者は守られるべきであり、罪を犯した者は赦されるべきであり、たとえわずかな信仰であっても十分であり、不必要な取るに足りない働きなど一つもないのである。いわば、この地上における基準に照らして、より強くより正しくより高みを目指すことは、信仰においては必要ではないのである。
主イエスは十字架刑という、この地上の基準では、最低最悪の評価を与えられた存在であった。しかし、命の創造主である神は、主イエスをその死から甦させられた。この主イエスの十字架と復活の出来事は、私達にこの世の基準によっては測られることのない新しい世界、神の国の始まりを示したのである。主イエスの十字架のメッセージ、神の国の福音を聞いた者は、人はその強さと正しさによって、周囲から優れた者であるとして評価されることを追い求めることはもはや必要ではなくなる。むしろ人間としての弱さと低さを互いに受け入れあうことが喜びとなるのである。主イエスの言葉、それは罪ある者、力なき者を信仰の弱い者として排除してしまう私たちを、共に生きる者へと変えられるのである。

2010年9月29日水曜日

[説教要旨]2010/09/26「私を憐れんでください」ルカ16:19-31

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 アモス 6:1-7 【旧約・ 1436頁】
第二の日課 1テモテ 6:2c-19 【新約・ 389頁】
福音の日課 ルカ 16:19-31 【新約・ 141頁】

 本日の福音書のたとえは内容から見て、大きく二つの部分に分けることができる。前半の逆転劇は、これまでの多くの主イエスのたとえ話がそうであるように、大変衝撃的な展開で私達を動揺させる。それは12:21「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉で締めくくられている、いわゆる「愚かな金持ちのたとえ」を聞く者に思い起こさせる。身分の高低、資産の有無、能力・権力の強弱に関係なく、死は全ての人間に平等に訪れる運命である。人はその運命を避けることは不可能である。その避けることの出来ない死を境にして、地上での境遇と、死後の境遇が逆転するというその物語を聞く時、人はまるで目覚ましによって夢から覚めたかのように、今の自らの歩みを振り返らずにはいられなくなる。富というものが自分の戸口の前にいる貧しい者を見えなくさせるという現実に、このたとえは強制的に目を醒まさせるのである。
 物語の後半では、ラザロを蘇らせて家族のところへ使わして欲しいという金持ちの男の願いは退けられることが語られる。「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というアブラハムの言葉は、やはり強制的に主イエスの十字架と復活について思い起こさせる。ここで私達は、聖書の物語の登場人物と、私達との違いに気付かされる。本日の箇所の前後に登場する弟子たち、あるいは主イエスの敵対者達、彼らの誰一人として、主イエスが死から蘇られた方であることを知らない。しかし、私達は知っているのである。復活の主イエスが弟子たちに現れ、ご自身の十字架と復活について、モーセと預言者を通して説明されたことを知っているのである。その意味で、譬えを通して語られる主イエスの言葉は、まさに今聖書を読む私達に向けて語られているのである。弟子たちと敵対者たちに語られたこのたとえを聞いていた私達は、その締め括りの部分に至って、強制的に目を覚まさせられているのは、他ならぬ私達であることに気付くのである。
 私達は毎週の礼拝で、あるいは日々の生活の中で、「主の祈り」を祈る。主の祈りでは「我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ」「わたしたちに今日もこの日の糧を与えて下さい」と祈る。それが「私に」ではなく「私たちに」であることは注目されるべきである。日ごとの糧を受けるのは「私」だけなのではなく「私たち」でなければならないのである。神の国が来るということ、神の御心がこの地上に実現するということ、それはただ「私」だけが満たされるのではなく、日ごとの糧を分かち合うことを通して「私達」へと変えられることと切り離すことは出来ないのである。神の国の福音、それは主イエスの十字架と復活によって私達の前に明らかにされた。だからこそ、その十字架を見上げる私は、日々の糧を分かち合うことの出来る「私達」へと変えられるのである。

2010年9月22日水曜日

[説教要旨]2010/09/19「本当に価値あるもの」ルカ16:1-13

聖霊降臨後第17主日

初めの日課 コヘレト 8:10-17 【旧約・ 1043頁】
第二の日課 1テモテ 2:1-7 【新約・ 385頁】
福音の日課 ルカ 16:1-13 【新約・ 140頁】

前章(15章)では主イエスは、徴税人や罪人と共におられるご自分に対して不平を言う、ファリサイ派・律法学者ら権威者たちに対して、「見失った羊」「無くした銀貨」そして「放蕩息子」のたとえを語られていた。その後に続く本日の箇所では、今度は弟子たちに向かって、一連の「富」と「財産」に関するたとえを語られる。その時、主イエスを非難する者達もその場で主イエスの話を聞いていたことが、14節で「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあることからわかる。いわば主イエスはここで、そのたとえをどのように受け止めるかによって、自分に従う弟子たちと、自分に対立し非難する者達との間の相違を明らかにしようとしている。
このたとえに登場する管理人の証文の書き換えという行いは、たしかに「不正」であり、その事実は変わることはない。だからこそ、この管理人のやり方を主人がほめた、という展開は、私たちにとって想定の範囲を大きく外れたものとなる。なぜこの管理人はほめられることがありうるのか、そこには私たちの日常の価値観では見出すことの出来ない何かあるのではないか、そうした問いを私たちは自分自身に向けて発し直すこととなる。
8節の「この世の子ら」と「光の子ら」という言葉は、このたとえ話が、地上の価値観に対して神の国における価値観が比せられていることを私たちに考えさせる。もちろんそれは、私たちに他人の財産を貪り、浪費することを勧めているのではない。そこではむしろ、神が私たちに委託された使命に対して、私たちはどのように応えるのかということが問われている。私たち人間の目から見て優先されるべき事、当然の事、好ましい事、それらは必ずしも神の使命に忠実であることを意味しないのである。むしろ、この地上においては低い価値でしか評価されていないことが、私たちに託された本当の価値あるものなのである。9節では金よりも優先させるべきものがあることが語られる。将来に備えるのであれば、金こそが確実で他の何よりも優先されるべきであると私たちは考える。しかし、私たちの将来にとって、本当に価値あるもの、わたしたちにとって決定的であること、それは神の国における救いに他ならないのである。
主イエスは、十字架において処刑された。多くの人の目から見て、挫折と失敗の中で、この世において最も価値低い者となったということであった。しかし、そうではないことを聖書は語る。神は主イエスをその死から蘇えさせられた。この地上において、憎まれるとき、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、価値の無いものとしてあざ笑われる時、「あなたがたは幸いである。その日には喜び踊りなさい」と主イエスは語る。
この地上において、自分のなす事がうまくいかない時に、私たちは嘆く必要な無い。それは神の国において決定的な事柄ではない。本当に価値あるものは、ただ神によって私たちに与え得るのである。

2010年9月15日水曜日

オープン講座第2回のご案内 [9/19]

9/19(日)13時半よりオープン講座第2回が行われます。

「水族館で見る魚の進化」

講師:上野輝彌氏(元日本魚類学会会長、国立科学博物館名誉研究員)


ルーテル学院大学本館会議室にて

参加費500円(茶菓付)

どなたでもご参加いただけます。
皆様のお越しをお待ちしております。

[説教要旨]2010/09/12「正しい人よりも」ルカ15:1-10

初めの日課 出エジプト記 32:7-14 【旧約・ 147頁】
第二の日課 1テモテ 1:12-17 【新約・ 384頁】
福音の日課 ルカ 15:1-10 【新約・ 138頁】

 前章(14章)では、主イエスはエルサレムへの旅の途上で、敬虔な信仰者の代表であるファリサイ派の家に立ち寄られたが、本日の箇所では、「徴税人や罪人が皆」、主イエスのもとにやってきたことが報告される。当時、信心深く厳格なファリサイ派は、民衆の指導者として尊敬を集めていた存在であった。それに対して、主イエスの時代、徴税人は異教徒であるローマ帝国の手先として厭われた職業であった。またここで並んで挙げられている「罪人」も、道徳的な意味で悪いことをしたというよりもむしろ、「敬虔さ」や「信心深さ」の基準としての掟を破らなければならないような職業についている人々をも意味していた(徴税人は、度々「罪人」と並列におかれた)。彼らはいわば、当時の社会の中心からはじき出された存在であった。
 現代においては、個人は職業選択の自由を有している。しかしそれですら、経済状況によっては、必ずしも選択肢があるとは言えない。まして古代において、職業選択は個人の意志の及ぶものではなかった。徴税人や罪人らは、自らの意志でその働きを選んだのではなく、生きるためには、そうするしかなかった人々なのである。いわば、彼らは生きるためには、罪を犯さざるを得なかったのであった。彼らにとっては、信仰深く生きること強制されることは、生きることを放棄することを強いられることであった。
 そうした人々と共に、主イエスが交わり、食卓を共にされることを、敬虔で信心深い者たちが非難する。人々を教えている立場にあるにもかかわらず、そのような不信仰な者たちと共に交わり、あまつさえ食事すら共にするとは、教師としての自覚も誇りもないのか。そのような不満と疑問が、非難する人々の胸の内には渦巻いていたにちがいない。非難する人々にとって、信仰とは自分たちが受け継いできたものの内に留まり、そこから逸脱する者と断固として対決する態度であった。つまりそれは、信仰を守ること、それは壁を築き、その壁を守ることであった。
 しかし、主イエスはたとえを用いて、この非難に応えられる。羊の放牧、家の中での探し物、それらはいずれも民衆の生活そのものであった。しかし、その日常生活の中で繰り広げられる出来事は、私たちの考える価値観からあまりにもかけ離れたものであった。99よりも1の方に、大きな喜びがあり、1枚の銀貨(およそ一日の日当)が友達と祝うほどの価値がある。それは理性的には明らかに破綻した計算である。しかし、その破綻は、同時に私達自身が生きてゆく上でぶつかる様々な「壁」が崩壊する姿でもある。時として、私たちは疎外感や孤独感の中で、壁の外に取り残されていることを実感する。しかし主イエスの言葉は、その壁を崩し、私たちのもとに大いなる天の喜びをもたらすのである。

2010年9月6日月曜日

[説教要旨]2010/09/05「自分の十字架を背負って」ルカ14:25−33

聖霊降臨語第15主日

初めの日課 申命記 29:1-8 【旧約・ 327頁】
第二の日課 フィレモン 1-25 【新約・ 399頁】
福音の日課 ルカ 14:25-33 【新約・ 137頁】

多くの群衆が主イエスの後を追ったことを聖書は語る。それはいわば、主イエスの宴席への招きに人々が応えたことを意味している。主イエスの語られた天の宴席は、地上の生活の様々な条件、すなわち資産や階級、民族などに応じて、限られた者のみが与ることの出来るものではなかった。そのメッセージを耳にした多くの人々が、主イエス共に歩むことに希望を見いだしたのであった。
しかし、主イエスはその人々に向かって厳しい言葉を告げる。「~でないならば、私の弟子ではありえない」という言葉が繰り返される時、主イエスの弟子であることの困難さが語られる。それらは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)の言葉を彷彿とさせる。いわば、これらの教えは、直前の宴席のたとえをさらに補足し、主イエスの招きの意味をもう一度群衆とそして読者である私たちに語っている。
そこではまず始めに、両親を始めとする親族を憎むことが、弟子の条件とされる。「憎む」という言葉は非常に挑発的であり、それゆえに私たちはこの教えを受け入れることを思わず躊躇してしまう。しかし、逆の状況を考えてみる時、この言葉は大きな励ましと慰めであることに気付かされる。すなわち、家族・親族の背景がどのようなものであったとしても、それは私たちが主イエスに従うことを妨げることは出来ない、ということなのである。つまり、主イエスに従うためには、この地上の生活におけるどのような条件も大きな問題ではない。家族・親族によって代表されるもの、それは資産、権力、身分、能力、しきたりと伝統に関する知識、共同体の成員としてふさわしく振る舞うための「らしさ」、そうしたものの全てである。それらは、主イエスに従い、宴席に共に与るために何ら問題とならないのである。
そして次いで「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と主イエスは語られる。私たちは、物語の中の「今」、主イエスご自身がエルサレムにおける十字架に向かって度を続けておられることを思い起こす。その主イエスについて行くことは、すなわち、自分自身もまた十字架を目指すことに他ならない。主イエスが体験された十字架とは、この地上における挫折、悲しみ、孤独、裏切り、そうしたものが凝縮された出来事であった。それは同時に、私たち自身が、自分自身の人生の中で直面せざるを得ない、様々な苦しみそのものでもある。それらの苦しみへと向き合うことを、主イエスはご自身の弟子であることの条件とされるのである。実に、主イエスが弟子の条件として提示されるもの、それは私たちがどのような民族・社会に生まれたか、どのような資産を持つ家庭に生まれたか、ということなのではなく、一人一人が悩み苦しむ人間であることそのものなのである。そして、その苦悩の先には新しい命があることを、主イエスはご自身の十字架の死からの復活によって示された。まさに苦しみと悩みの中にある時、私たちは主イエスの後に既に従っている。そしてその道のは、新しい命の希望至る道なのである。

2010年9月2日木曜日

一日神学校のご案内 [9/23]

2年ぶりに日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学の「一日神学校」が開催されます。

例年通り礼拝と講演はもちろん、また本年はルター研究所創立25周年記念シンポジウムが行われます。
また幼・小中学生対象「こどもしんがっこう」も行われます。

詳細はこちらをご覧下さい。

日時:9月23日(木・祝)9:15-16:00

[説教要旨]2010/8/29「高ぶる者は低くされ」ルカ14:7-14

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 エレミヤ 9:22-23 【旧約・ 1194頁】
第二の日課 ヘブライ 13:1-8 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 14:7-14 【新約・ 136頁】

本日の福音書に先立つ14:1で、主イエスがファリサイ派の議員の家で食卓を囲んでいることが語られている。そして、本日の福音書において、招かれた客達が席順を気にしている様子を見て、招待客らに対して、主イエスは「たとえ」を語られる。本日の福音書の展開は私たちは大いに戸惑わせる。前半は、最初は一般的な行儀作法のみかけをとっており、この作法に従うことは、それほど奇異なこととは思われない。しかしながら、話は突然も「高ぶる」「へりくだる」という信仰的事柄が問題となるからである。そしてさらに、今度は誰が招かれるべきか、ということが問題になるが、そこでは一般常識を大きく踏み越えてゆくことになるからである。しかもそれは「正しい者達が復活する時」つまり世の終わりの時における報いの出来事と関連づけられている。日常的な会席での行儀作法から、終末の祝福への飛躍に、読者である私たちは思わず目がくらんでしまう。
いわばここで主イエスは、私たちの日常的な生活の中で、キリスト者は何をもって理想とするか、なにがキリスト者にとっての「面目」であると考えるのかということを問いかけ、またその答えを示唆しているのである。この箇所で、上席を選ぼうとした人々は、一体何を理想とし、なにを「面目」として求めたのであろうか。宴席の上席に座すること、それは一つには招待主との関係の緊密さ・近さを挙げることが出来るであろう。したがって、より上席を占めること、それはいわば友情と信頼の深さの徴であった。また当然のことながら、社会的な地位の高さが問題となった。古代社会において、社会的地位の高さには属する家柄の古さが大いに影響を与えた。そして家柄の古さとは、その人物が伝統的な価値観に対してより忠実であり純粋であることの証しと考えられたのである。友情や信頼の深さ、あるいは伝統的価値への忠実さや純粋さ。これらはむしろ、誰にとっても好ましいものであるように思われるし、それを求めていくことはむしろ推奨されることであると私たちはむしろ考える。しかし、主イエスはそうした態度に対して「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と語られるのである。むしろそうした「好ましい」と思われるような人々、すなわち友人、兄弟、親類、あるいは地元の裕福な名士ではなく、私たちの日常から遠ざけられている人々、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人こそが招かれるべきであると主イエスは語られ、さらにそれは祝福されるべき神の国における救いの出来事の象徴としてされるのである。
それはいわば、救いの出来事はどこで起こるのか、神の国はどこに成り立つのかということが、この譬えと警告を通して語られているのである。私たちが神の国の宴席に与ることが出来るかどうかは、目に見える形での近さや親密さ、忠実さや純粋に基づくのではない。むしろ、私たちの日常から遠ざけられているもの、私たちの目から見えなくされているもの、そうしたものの場所、すなわち社会的な価値観の外側にこそ、神の国は成り立つことを聖書は伝えている。それはなによりも、主イエスの十字架の出来事によって最も明確に示された。十字架という恥じと悲惨さの極みを通して、主イエスは栄光を受けられた。十字架の出来事は、私たちに目に見えない、けれども真の栄誉を示すのである。

2010年8月27日金曜日

[説教要旨]2010/8/22「神の国の宴への招き」ルカ13:22-30

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 イザヤ 66:18-23 【旧約・ 1171頁】
第二の日課 ヘブライ 12:18-29 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 13:22-30 【新約・ 135頁】

本日の福音書の冒頭では、主イエスがエルサレムへの旅を続けていることが確認される。主イエスのエルサレムに向かう旅の目的地は十字架と復活に他ならない。そして、それこそが救済の出来事であるということは、福音書の最後になって示されている。しかし、旅の途上においては、エルサレムにおける主イエスの死と復活が救いと結びついていることを理解する者はまだいなかった。町や村を巡り歩いて教える主イエスに、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねる。救いの出来事は本来神の働きである以上、私たち人間が予め定義することなどは出来ない。しかしそれでも、救いの出来事を少しでも予め知っておきたいという欲求を人は抑えることが出来ない。一つの例として、人は「数」によってその出来事を具体的に描こうとする。そしてこの「数」についての問いに対して、主イエスは「狭い戸口」の譬えを示され、「入ろうとしても入れない人が多い」と答えられる。この答えは一見すると、質問者への直接の答えであるように思われる。しかし実際にはその視点はくい違っている。質問者は、客観的な数・割合を問うているにすぎないのに対して、主イエスは、「入るか入らないか」という主観的な視点に立って答えているからである。この「狭い戸口」は25節では「閉じられた戸」の譬えによって、その狭さは空間的だけでなく時間的な短さも示されることとなる。この狭さ・短さを前にして、救いの出来事においては失われる者は確かに多く、危機は小さくないことが明らかにされる。しかもそこでは第3者的に離れた場所からその出来事を観察することは出来ず、主体的な関わりを避けることは出来ないと主イエスは、この質問者に答え、そして同時に読者である私たちに呼びかけている。そこで同然のように私たちは、「では誰がその狭い戸口から入ることが出来るのか?」という不安と疑問を抱くこととなる。
開いた戸の狭さ・短さが強調され、「お前たちがどこの者か知らない」という厳しい拒絶の言葉が挙げられる一方で、29節には全く逆の、世界中からどこから来たのかわからない人々がやって来て、神の国の宴会の席に着く様子が描かれている。そこでは出自も身分も財産も問われることのない、徹底した開放性が示されている。果たして「戸」は狭いのだろうか、それとも開け放たれているのだろうか。
主イエスのエルサレムにおける十字架は、当時の社会の価値観に照らして客観的に見るならば、恥ずべき挫折に過ぎなかった。しかしそれこそが救いの出来事であることを聖書は語る。まさに救いの出来事は、私たちの思いと理解を超えた、神の業に他ならないのである。その神の業を、人が自らの手で確かなものにしようとする時、自分たちのための「宴の席」、招くに値すると私たちが判断した者のための宴席を作ろうとする。しかし実はそのことによって、人は自らその戸口を狭めてしまうのである。むしろ逆に、私たちが自らの「招かざる客」に出会うことを選ぶ時、私たちもまた東から西から、南から北から来る人々と共に、その宴の席へと向かっているのである。

2010年8月18日水曜日

[説教要旨]2010/8/15「分裂を越えて」ルカ12:49-53

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 23:23-29 【旧約・ 1221頁】
第二の日課 ヘブライ 12:1-13 【新約・ 416頁】
福音の日課 ルカ 12:49-53 【新約・  133頁】

 本日の福音書で主イエスは、前節に引き続いてまず弟子たちに向かって語られ、ついで54節以下では彼らを取り巻く群衆に向かって語られる。そして、弟子たちに向けられたこれらの言葉に、現代の読者は大きな戸惑いを憶えずにはいられない。
主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」、また「あなたがたがは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。」と語られる。一読すると、それらは私たちが考える、主イエスのあるいはキリスト教のイメージを裏切るもののように思われるし、何よりもこれまで主イエスが語ってきたことと矛盾するように見える。さらに54節以下で群衆に向かって語られる部分に目を向けると、「時を見分ける」ことについての警告が語られた直後に和解の勧告が語られていることが、この困惑をさらに大きなものにする。一方で火と分裂をもたらすことを語りながら、なぜ和解を勧めるのだろうか。
 火が地上に投じられるという言葉は、たしかに創世記で語られるソドムとゴモラに起こった「滅び」あるいは黙示録で語られる「裁き」のイメージを私たちに呼び起こさせる。しかし、聖書の全体を通して見るならば、「火」とは神の臨在の徴でもあった。とりわけ出エジプト記では、燃える柴のうちに神はモーセの前に現れ、また「火の柱」によって夜の闇の中を歩む民を照らされた。またギリシアの影響を受けた地中海文化圏では、火は神から人間に与えられた知恵の象徴としても捉えられていた。その意味で、主イエスが地上に火を投ずると言うこと、それは救済であれ裁きであれ、主イエスが地上に来られたのは神の力をこの地上にもたらすためであることを示している。そしてその神の力は、主イエスが受けられる苦難と切り離すことは出来ないのである。
 主イエスの受難を通して、神の力がこの地上に現されること、それはまさにキリスト教会が伝える「福音」(良いメッセージ)に他ならない。そしてその福音は、神が平和と調和とをこの地上にもたらされることと切り離すことが出来ないはずである。にも関わらず、主イエスは地上に平和をもたらすために来たのではないと語られる。エレミヤ書では神の怒りを前にして、偽預言者が人々に平和が与えられ現状が維持されることを約束し、むしろ真の預言者エレミヤは、人々に苦難と分裂が襲うことを訴える。しかしそれは神の力がこの地上に及んで、うわべだけの偽りの平和ではなく、真の意味での平和が実現するために、通らなければならない道であった。
 現に、真の平和は未だこの地上に実現してはいない。私たちは闇の支配するこの地上において分裂と対立とに苦しみ悶えながら、神の国を待ち望むのである。しかし、私たちの歩む闇夜を主イエスの十字架と復活の出来事が照らされている。その福音(良いメッセージ)は、あらゆる分裂を超えて、真の和解と平和と調和をもたらすのである。平和について思いを向けるこの8月15日、真の平和とは何かということを私たちが聖書から聞くことが求められている。

[説教要旨]2010/8/8「神の前の豊かさ」ルカ12:13-21

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 コヘレト 2:18-26 【旧約・ 1036頁】
第二の日課 コロサイ 3:5-17 【新約・ 371頁】
福音の日課 ルカ 12:13-21 【新約・  131頁】

「自分らしく生きる」ことは、今日の教育の商品価値でもある。しかし「自分らしさ」とは何であろうか。自分の思うままに、自分の人生をコントロールできること、そのために必要な資源を思うままに消費できることが、「自分らしく」生きることなのであろうか。もしそうであるならば、富むこと、力を持つこと、それを追求することのできる強いエゴを持つことこそが「自分らしく生きる」ためには不可欠であるということになる。そして、そのような者として生きることに価値を見いださせることが、「自分らしく生きる」教育の目的ということになる。
本日の福音書の日課は、主イエスが、大勢の群衆達を前にしつつ、「まず弟子たちに話し始められた」(12:1)中での出来事として語られている。それは、「主イエスの弟子であること」の本質を伝える重要な機会であった。しかし、この弟子たちへの教育は、群衆から遺産を巡る調停についての判断を求められたことによって中断する。この問いかけに対して主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と厳しく反応した後、「所有」に関する教えを34節まで語られる。従ってそれは直接には群衆からの問いかけに応えているが、それはあくまでも、弟子たちに対して「主イエスの弟子であること」の本質を伝える文脈の中にあると言える。それは、主イエスに直接したがった、2000年前の「弟子たち」に対して語られた言葉でありながら、同時に今聖書を前にしている、「読者」である私たちに対して向けらられた言葉でもある。主イエスは私たちに対して、「所有」すること、すなわち、富むこと、力を持つこと、それを追求することと、主イエスの弟子であることの関係を語っているのである。
「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉に続いて、一人の金持ちのたとえが語られる。この金持ちは、自分の有り余る資産をどのように自分の手元に留めておくかについて腐心する。それは自らの所有する物によって、自分自身の人生を確かなものにし、自分自身の人生の行く末を自分でコントロールすることが出来るようになるためであった。それはいわば、この金持ちにとって、自分自身の思い描く未来を実現するために、彼が「自分らしく生きるため」の道筋であった。しかし、この金持ちのそうした試みに対して、「愚かな者よ」という呼びかけが投げかけられる。「今夜、お前の命は取り上げられる」。つまりこの金持ちが、どれほど自分自身の人生をコントロールし、「自分らしく生きる」ことを求めたとしても、それは彼が自分の命をコントロール出来るということなのではないのである。人は誰一人、自分自身の命をコントロールすることなど出来ない。私たちはただ命の創造主である神から命を与えられて生かされている存在に過ぎないからである。
「お前が用意した物はいったいだれのものになるのか」。神によって生かされている私たちにこの問いかけは投げかけられている。「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。」(33節)と主イエスは語られる。主イエスはご自身の命を私たちの救いのために用いられた。その主イエスの弟子として、神の前に豊かであること、それは私たちが自らを他者のために用いていくことなのである。

2010年8月7日土曜日

[説教要旨]2010/8/1「和解をもとめて」ルカ11:1-13

聖霊降臨後第10主日・平和主日

初めの日課 創世記 18:16-33 【旧約・  24頁】
第二の日課 コロサイ 2:6-15 【新約・ 370頁】
福音の日課 ルカ 11:1-13 【新約・  127頁】

 本日の日課では私たちが毎週の礼拝の中で用いる「主の祈り」について語られる。主イエスが教えられたこの祈りは、私たちの生活の目に見える部分と、また私たちの目には見えない部分の全体にわたって、神の守りと恵みが満ちあふれることを願うものであった。その前半では、主なる神に関する祈願があり、「御国が来ますように」ということを私たちは祈る。「み国が来る」とは、神の力がこの地上を覆う、すなわち神の愛がこの地上に満ちあふれる、そのような世が来ることである。しかしこの願いを祈るとき、私たちは一つの疑問にぶつかる。「神の国」が来るということは、私たちの願いでどうこうできることなのだろうか、私たちの願いによって神の国が来るか来ないか、そのことを決することができるのか、そのようにそのような問いを前にすることとなる。しかし実は、そこにこそ、祈りの基本とも言うべき姿がある。祈りとは、私たちの思い通りに神を動かそうとすることなのではない。祈りを通じて、私たちが、神の守りのうちに生きることができるようになること、それこそが祈りの本質なのである。主なる神がそのみ国を来たらせてくださる、そのことに私たちが希望を置くことこそ、この祈りの本質なのである。
 後半では一貫して「わたしたち」が問題となる。そこでも前半同様、「自分に負い目のある人を皆赦しますから」、「わたしたちの罪を赦して下さい」という願いを前にして、問いにぶつかることとなる。果たして、私たちが本当に「皆赦す」ことができるのか。そしてさらに、それは「わたしたちの罪を許して下さい」という時の条件なのか。そうであるならば、私は永遠に赦すことも、赦されることも出来ないのではないか、そのような疑問を持たざるを得ない。しかしここにも、この祈りの本質がある。それはまさに、「神の国が来る」ことと同じく、「私」が赦すか、そしてそれは赦される条件に達しているのかということなのではなく、主なる神が私たちの間に働かれるからこそ、私たちの間に赦しが実現するのである。それは「神の国が来る」ということと同じく、神が働かれるならば、どのように不可能に見えるところであっても、そこに赦しと和解が生み出されること、そこに私たちが希望を起き続けることができるということこそが、この祈りの本質なのである。
 8月第1日曜はルーテル平和主日である。日本という場所を考える限り、たしかに半世紀以上に渡ってそこには戦争は起こっていない。しかし今日の世界では、平和は一つの国、一つの地域だけの問題ではないし、単に戦争状態に無いということだけの問題でもない。真の平和とは、憎悪と敵意とか、和解と赦しへと置き換えられてゆくプロセスの全体である。キリスト者は、そこに神の働きがあることを祈る。キリストは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」た(エフェソ2:16)からである。だからこそ、人の目にはどれだけ絶望的に見えたとしても、私たちはそこに希望を見いだし続けることができるのである。

2010年7月5日月曜日

LAOS講座の学びのご案内(第3回) [7/25]

7/25(日)礼拝後、LAOS講座の学びの第3回を行います。
テキストは第7号「宣教と奉仕の理論の実際」を用います。
今回は、本テキストの著者である江藤先生にご担当いただきます。
テキストをお持ちでない方はこの機会に是非お求め下さい。(1冊200円、全9巻セット1500円)


ルーテル・キャンパス・ミニストリ月間のご案内 [7/4,11,18,25]

7月、ルーテル三鷹教会では「ルーテル・キャンパス・ミニストリ月間」として、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教員の先生方に、主日礼拝のメッセージをご担当いただきます。
各日曜の担当者とメッセージタイトルは下記の通りです。
礼拝は、毎週日曜午前10時半より、ルーテル学院大学チャペルにて行われています。

この機会に是非礼拝に足をお運び下さい。

7月4日(日)説教「いのちの歩みに」石居基夫師
7月11日(日)説教「キリスト者の自由」鈴木浩師
7月18日(日)説教「隣人として生きる」河田優師
7月25日(日)説教「もてなすことと聴き入ること」江藤直純師


ポスター(PDF)はこちらから 

[説教要旨]2010/6/20「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【旧約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町へと赴かれる。ナインは、主イエスの故郷ナザレから10km弱離れた、ガリラヤ地方の町の一つであった。主イエスは、「ナザレのイエス」という呼び方とともに、「ガリラヤのイエス」とも呼ばれた(マタイ26:69)。ガリラヤという名前は、ヘブライ語では「輪」「周辺」「地域」という意味をもつ言葉に由来している。この地域は、豊富な水を備えた肥沃な土地であり、古代から入植が進んでいた。このためにガリラヤ住民は外部世界との交流から刺激を受けていたため、南部の「厳格なユダヤ人」からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、あるいは「(ガリラヤの)ナザレから何か良いものが出るだろうか」また「ガリラヤからは預言者はでない」と言われていた。しかし、この周辺の地であるガリラヤ地方こそが、主イエスの地上での宣教の業の原点というべき場所であった。主イエスはこのガリラヤで様々な「壁」をその言葉を持って打ち破られたのである。
百人隊長の僕を癒しの出来事は、主イエスの言葉は、ユダヤ人以外にその救いの出来事をもたらした。そして、このナインにおいて、主イエスの言葉は、人の命を脅かす死の力をも打ち破られることになる。これらの壁を打ち破る働きこそが、「来るべき方はあなたでしょうか」と問う、洗礼者ヨハネの弟子達に対して、「言って、見聞きしたことをヨハネに告げなさい」と語られていたことの証しであった。
ナインの町で、主イエスは嘆きと悲しみの深淵にあるひとりの「やもめ」に出会う。古代社会において「やもめ」とは極めて虐げられやすい立場であった。当時の社会では、夫を失い、一人息子を失うということは社会的な死であり、一切の主体的な働きを奪われてしまった存在となっていた。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれている。「主」という言葉は、ギリシア語の第一の意味としては「雇用主」「主人」、もしくは一般的な敬語でもあった。しかし、このやもめに向かうイエスは、「憐れむ主」であり、「もう泣かなくともよい」という言葉を告げる「救い主」としての主である。そして、救い主の言葉は、棺に横たわる息子である若者へと向けられる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。この主イエスの言葉を中心にして、死の運命が逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗う力なのである。
この出来事は、ガリラヤだけでなくユダヤの全土に広まることとなる。しかし、それはただユダヤの地だけではない。民族を超え、時代を超え、今私たち自身に対しても、聖書を通して、主イエスを証する出来事となっているのである。その出来事の発端は、一人のやもめという「弱い存在」が救い主としてのイエスの業、すなわち十字架の出来事の先取りを導き出す。それはまさに「神はその民を心にかけてくださった」(16節)瞬間であった。主イエスを証しするということは、その人の強さや能力の高さを示すものではない。むしろその人の弱さを通して、主イエスを指し示すことなのである。

[説教要旨]2010/6/13「ことばのちから」ルカ7:1-10

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 列王記上 8:41-43 【旧約・ 543頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:1-10 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:1-10 【新約・ 114頁】

イエスさまは、神さまに祈りをささげるために山へと向かわれた、そこで弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名づけられた(6:12-16)。後に十二使徒と呼ばれる弟子たちである。弟子たちと共に山から下りられたイエスさまは、平らな所に立たれて話しをする(平地での説教、マタイでは山上の説教と呼ばれる場面)(6:20-49)。そこでイエスさまは人々の耳を、語られた説教すべて(イエスさまのことば)で満たし後、カファルナウムに入っていかれた。カファルナウムは福音書に度々登場し、イエスさまが宣教の拠点とされた場所である。ここで、ある百人隊長の部下が病気で死にかかっていた。同じ記事が書かれているマタイによる福音書で百人隊長は、イエスさまの前に進み出て直接、部下である僕を癒してくださるように懇願している。それに対して、ルカによる福音書では第三者を通してその癒しを願っている。最初は「ユダヤ人の長老たち」にその役目を託し、役目を託された長老たちは〔7:4〕に記されているように、イエスさまに熱心に願い「あの方は、そうしていただくのにふさわし人です。」と懇願する。それに応えてイエスさまは百人隊長の僕のもとへ出かけられる〔7:6〕。ここから、百人隊長とユダヤ人の長老たち関係、また百人隊長の人物像を窺うことができる。ユダヤ人の長老たちが百人隊長へ向けた信頼を通して、百人隊長がイエスさまへ向けた信頼を、イエスさまは受け取った。そして、百人隊長のもとへ歩み始めた。しかし、イエスさまが百人隊長の家に近づくと、百人隊長は友人たちを使いに出して「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と伝える。部下の癒しを願いながら、自分はイエスさまの前に出るのは相応しくないと語る百人隊長は、「遠くに立って、目を上げようともせず、赦しを願う徴税人の姿」〔18:13〕を思い起こさせる。イエスさまは6章に記されている平地での説教で「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたのものである」と教えている。そのイエスさまのことばが出来事となって、いま百人隊長の前に現れる。イエスさまの言う「貧しい人々」とは、百人隊長や徴税人のように「自分は救いに相応しくない」と思いながら、ただ神の憐れみを待ち続ける人々のことである。百人隊長は友人を通して「ひと言おっしゃってください」と願う。百人隊長は、イエスさまのことばがあれば部下は癒されると信じている。イエスさまが群集の方を振り向いて「これほどの信仰を見たことが無い」とたたえた信仰とは、受けるに値しない自分にもことばが与えられると信じて待つ信仰である。

[説教要旨]2010/6/6「深く掘り下げて」ルカ6:37-49

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 エレミヤ 7:1-7 【旧約・ 1188頁】
第二の日課 1コリント 15:12-20 【新約・ 320頁】
福音の日課 ルカ 6:37-49 【新約・ 113頁】

マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれている主イエスの教えは、ルカ福音書では、主イエスは弟子たちと共に山を下りた後に、「平らな所にお立ちにな」り、「大勢の弟子とおびただしい民衆」を前に語られる。主イエスは、選び出された12人と、また多くの民衆とに向かって、貧しい人々への幸いを語り、敵を愛することを教えられたことに続いて、「人を裁くこと」について「人の語ること」について、そして「聞くことと行うこと」について語られる。そこでは、これらの言葉を聞き、これに従うものは「いと高き方の子となる」と語られるが、主イエスの教えと業は、人々とは一線を画した隠遁生活の中で秘密裏に伝えられ、限られた選ばれた者たちのみが体験できる、というものなのではない。それはむしろ、人々が生きる地平において主イエスは同じように生き、まさにその地平においてこそ働く神の力を示されたのである。したがって、12人と多くの民衆ともまた、主イエスと同じ平らな地平に立っている。12人が民衆から一段高いものとしてと選ばれたのではない。12人と民衆の間にはなんら段差は付けられていない。それどころか、主イエスは「目を上げて」弟子たちを見て語られる(20節)。主イエスは、この輪の中で最も低いところにご自身を位置付けているのである。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という言葉は、マタイ福音書では、主イエスに敵対する都の宗教的権威者たちに向かって語られている。それがここでは12弟子たちと民衆とを前にして語られる。主イエスに敵対する権威者たちと同じ態度を、主イエスの弟子たちも取り得るのである。知らず知らずのうちに、人は自らを他者よりも一段高いものとして、自らの正義を振りかざして他者を裁きうるのである。それは主イエスの教えられる「いと高き方の子」「憐れみ深い者」であることと対照的な姿であった。
むしろいと高き方の子主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられた」のであった。しかも「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順で」あった。しかしそうであるからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とパウロは語る。(フィリピ2:6-9)。だからこそ、主イエスは最も低いところから、弟子たちにその眼差しを向けられ、語られるのである。主イエスの言葉を聞くということは、主イエス立たれている場所へ、自らをまた低くすることに他ならない。そうであってはじめて「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」(フィリピ2:11)ことができるのである。主イエスの言葉が、本当に生きた神の力として働かれ、私たちを福音(良いメッセージ)によって満たされるのは、私たちが主イエスと同じ低みへと向かうことによってなのである。
「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」と主イエスは語られる。私たちが自らの立つ基を深く、低く掘り下げる時、主イエスの言葉は私たちを固く支えるのである。

[説教要旨]2010/5/30「命と平和の真理」 ヨハネ16:12-15

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:1-13 【新約・ 283頁】
福音の日課 ヨハネ 16:12-15 【新約・ 200頁】

待降節・アドベントから聖霊降臨祭・ペンテコステまでの間、教会の暦は主イエスの地上での歩みを振り返ってきた。そして一年の後半では、主イエスの教えられた事柄についての聖書箇所が読まれることになる。その境界である本日は、「三位一体主日」と呼ばれている。この主日には主イエスの地上の歩み、すなわち実現する救済史の中の具体的な出来事は特に割り当てられていない。しかし、教会暦の前半と後半を結ぶ日という位置付けは、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)の総まとめとして理解し、そして、主イエスの教えに聞くいわゆる「教会の半年」に向けて、聖書がその全体を通して語り伝えている真理を私たちに今一度思い起こさせる。
ヨハネ福音書の告別の説教の中で、主イエスは弟子たちに向かって「真理の霊」について語られる。全段落ではそれは「弁護者」とも呼ばれている。主イエスと地上での別れを体験した後、弟子たちはこの世においてつらく厳しい道を歩まねばならない。闇の世は主イエスを受け入れることが出来ないからである。しかし、来るべき弁護者はその世に対して働きかける力であることを主イエスは語られる。弁護者の力が無ければ、世は主イエスを知り、信ずることができないのである。
続いてさらに、今度は弟子たちに対して、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語られる。彼らもまた、この告別説教が語られているとき、すなわち弁護者・真理の霊なしには、主イエスが地上で為された事、語られた事のその真の意味について、まだ分からないでいる。
主イエスと共に旅をしてきた弟子たちは、主イエスの働きと教えを間近で見聞きしていた。その意味では、誰よりも精確に理解することができたはずであった。しかし、「イエスが何を語り、何をしたか」ということをどれほど精確に描写しても、それは「分かる」ということには結びつかなかった。それは、弟子たち自身の個人的な体験に過ぎなかった。自分たちが体験した主イエスの業と教えを本当の意味で「救いの出来事」として彼らが理解することができたのは、十字架と復活、主イエスとの再会と別離を経て、「真理の霊が来る」のを待たなければならなかった。
ここで注目すべきは、主イエスは一度も「真理を与える」とは言っていないという点である。真理の霊は、主イエスが父から受けたものを、弟子たちに、そして私たちに「告げる」のである。実に、私たちは「真理」を自分ものとすることなどは出来ない。もし私たちが、あたかもこの私が真理を手にしていると誤解するならば、私たちはあまりに容易に、自分自身を正義として他者を裁き、他者の上に君臨しようとしてしまう。しかし、真理の霊・弁護者は、私たちを真理へと「導く」。それは、この地上で憎悪と敵対との中で悩み傷つく私たちを、命と平和、和解と解放へと導く真理である。パウロは語る。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:6)。主イエスの真理は私たち人間の義を打ち破り、私たちを救いと解放と命へと導かれる。

[説教要旨]2010/5/23「風が吹いて」使徒言行録2:1-21

聖霊降臨祭

初めの日課 創世記 11:1-9 【旧約・ 13頁】
第二の日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 16:4b-11 【新約・ 200頁】

本日は聖霊降臨祭、ペンテコステである。ペンテコステとは、50日目(五旬祭)という意味を現すギリシア語であり、ユダヤでは過越祭の2日目から数えて7週目の日に守られた祝祭であった。これは旧約では刈り入れの祭り(出23:16)、七週祭(出34:22)とも呼ばれ、春の除酵祭(過越祭)、秋の取り入れの祭り(仮庵祭)と共に三大祝祭日の一つであった。元来は小麦の収穫を祝う祝祭であったが、後の時代に、この日にシナイ山で十戒が授与されたされたという意義を加えて、律法記念日として守られることとなった。
復活の主イエスが弟子たちの前で天に昇られた後、この五旬祭の弟子たちが一つに集まっている時に、激しい風が吹き、弟子たちの上に聖霊が降る。風、霊、あるいは魂、息、それはギリシア語では同じ言葉で表されるものであり、目には見えないが、何かを動かす力を意味している。そして、この聖霊の風を受けた時から弟子たちによるこの地上での宣教の働きが始まったと、聖書は告げる。それゆえに、キリスト教ではこの日を聖霊降臨の出来事を憶える日とし、またその聖霊の働きによって、「教会」が始まった時であるとした。
聖霊の風を受けた弟子たちは、突然に様々な国の言葉で語り始める。その様子はまるで「新しいぶどう酒に酔っている」ようであると人々は語る。つまり、あまりに多様な言語で語る集団は人々の目には、およそ非常識で、社会規範から逸脱したものとしか移らなかったのである。さらに言うならば、弟子たちが様々な国の言葉で語っていたこと、それは主イエスの十字架と復活についてであった。それは、酔ったような弟子たちの外見以上に、非常識で逸脱したものであった。主イエスは、十字架に死に、そして甦ったということ、それは言うならば、常識的な範疇の中で、人の考える妥当で順当な筋道の中では、決して得ることの出来ない希望と喜びの出来事なのである。無から命を作られる、命の創造主である神のその見えない力は、主イエスとの別れを経験した弟子たちをして、希望と喜びと力とで満たされたのである。
また様々な国の言葉で語りつつも、弟子たちは「一つ」であった。これは、旧約のバベルの塔の出来事とまさに正反対の状況を形作っている。異なる言葉を語る時、一方では混乱と崩壊がもたらされ、他方では一致と喜びと希望がもたらされる。その違いはどこにあるであろうか。バベルの塔の出来事、それは人々が自らの威光と権力を地上に示し、自らの力で天にまで届くことを求めた結果であった。人が己の正しさと理想、そして栄光と威光とを目指すとき、それは必ず不信と争いを招くことになる。そこでは多様性は不要のものであり、排除・抑圧されるべきものである。しかし唯一の理想と権威を目指したその結果もたらされるもの、それは混乱と崩壊でしかなかった。他方、聖霊降臨の出来事において、非常識とも言えるその多様性は喜びの源泉であり、福音を伝える力そのものであった。死から命を創り出される神は、排除と抑圧、不信と争いの中に、喜びと希望とを分かち合い、一致する力を与えられる。聖霊降臨の出来事は、主イエスの十字架と復活を信じる私たちの教会にもまた、喜びと希望を分かち合い、一致する力が与えられていることを伝えている。

2010年7月4日日曜日

[説教要旨] 2010/5/16「約束されたもの」ルカ24:44-53

昇天主日

初めの日課 使徒言行録 1:1-11 【新約・ 213頁】
第二の日課 エフェソ 1:15-23 【新約・ 352頁】
福音の日課 ルカ 24:44-53 【新約・ 161頁】

イエスさまは、私たちの罪の贖いのために、「私たちが受くべき死と苦しみを負い、十字架に渡され、神さまのみ旨を全うし、三日目に死から復活し、救いを成し遂げてくださいました。」〔式文:罪の告白の勧め〕そして、使徒言行録1章3節に記されているように、イエスさまは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って弟子たちに示し、四十日にわたって現れ、神の国について話されました。この四十日間は、弟子たちにとって喜びに満ちた素晴らしい日々であったに違いありません。それはイエスさまの赦しと、慰めと、励ましを受ける日々だったからです。寄り頼むべき方を失い、飼い主を失った羊のように途方にくれ、意気消沈していた弟子たち。イエスさまの復活は、弟子たちにとっても、沈んでいた自分たちの心を蘇らせる復活の出来事だったのです。
 今週の福音書の日課で、イエスさまが天に上げられる前、弟子たちに使命を与え「あなたがたはこれらのことの証人となる」と告げています。「これらのこと」には、受難と復活だけではなく、「罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる」ということも含まれています。イザヤ書に記された神さまの呼びかけは、立ち帰ってもいないイスラエルの罪を神さまが一方的に赦し、立ち帰れと呼びかけています〔イザヤ44:22〕。この呼びかけを証しすることが弟子の使命なのです。弟子たちは単独で証しするわけではありません。イエスさまが送られる「父が約束されたもの・・・高い所からの力」、つまり聖霊が共に働いています。それを身に帯びるとき、人は変えられ、神さまに動かされることになります。
 イエスさまが弟子たちを祝福しながら、天へと上げられて行くのを目撃した弟子たちは、その姿を「伏し拝み」「大喜びで」エルサレムへと帰ります。天の祝福を受けたことが、真の礼拝と心を満たす喜びを起こさせます。喜びの大きさは天にある方の偉大さを反映しています。それは罪が赦され、救いと祝福が与えられた喜びです。この喜びに包まれた弟子たちは、神さまをほめたたえながら、エルサレムの神殿で父なる神さまの約束を待ち望みます。イエスさまの昇天によって天と地が結び合わされ、天からの祝福と地からの賛美が交差します。イエスさまの昇天は、単純にイエスさまと弟子たちの別れとなった出来事なのではありません、いっそう強く結びつくための出来事なのです。

[説教要旨] 2010/5/9「平和を与える」ヨハネ14:23-29

復活後第5主日

初めの日課 使徒言行録 14:8-18 【新約・241頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・479頁】
福音の日課 ヨハネ 14:23-29 【新約・197頁】

主イエスはご自身に従ってきた弟子たちが、使命を与えられ、世に遣わされていかなくてはならない集団となるために、長い告別のメッセージの中で、主イエスは弟子たちに向かって繰り返し、信仰の奥義としての「父なる神とご自身が一つであること」を語られる。それは、まもなく主イエスが弟子たちと別れ、十字架における死への道を歩むことを見据えたものであった。たとえ、弟子たちの前から、自分がいなくなったとしても、父なる神と、主イエスと、そして弟子たちは一つであるということ。そして、地上に残された弟子たちはその主イエスについて、宣べ伝える使命を与えられているということを、主イエスは弟子たちに伝えようとする。しかし、弟子の一人は、主イエスに向かって、なぜご自身が神と一つであることを世に明らかにしないのか、と問いかける。この弟子の理解においては、父なる神と主イエスが一つであるならば、このことを世に公けにすれば、世はたちどころに主イエスのもとに屈服し、主イエスはこの地上に君臨することもできるはずなのではないのか。そうすれば、自分たちもいともたやすく、地上を思うがままに支配することが出来る、自分たちの考える理想をたやすく実現できる、そのような思いがあったのであろう。
しかし、その問いに対する主イエスの答えは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」というものであった。そして主イエスはさらにこう語られる。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」主イエスが弟子たちに命じられ、約束されたこと、それは地上に君臨し支配することではなく、平和を残すということであった。主イエスの言葉を守り、主イエスを愛するということ、それは自らの理想のために、他者を支配し、君臨することではなく、主イエスの残された平和を受けとめ、その平和の内に生きることなのである。
主イエスの平和、それは私たちの理想が満たされることなのではない。あくまでも自分たちの理解できる形で、主イエスの示されるものを捉えようとする弟子たちに、主イエスはそうではない領域を示される。主イエスが約束されるもの、それは私たち地上に生きる人間の理想や考えの延長線の上では、見いだすことの出来ないものなのである。そもそも、私たち自身の思いと力では、どれほど高邁な理想を掲げたとしても、そこには争いと断絶が必ず生まれ、失望と悲嘆とが私たちを襲うこととなる。しかし、主イエスが私たちに約束されるもの、それは父なる神、天から与えられる平和なのである。そうであるからこそ、わたしたちの不完全で不十分な現実は、満たされ完成されるのである。「わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」私たちを取り巻く状況が、その目にはたとえ理想からほど遠いものであったとしても、私たちは心を騒がせ、おびえる必要はない。私たちには主イエスの約束された平和が与えられているのである。

[説教要旨] 2010/5/2「新しい掟を与える」 ヨハネ13:31-35

復活後第4主日

初めの日課 使徒言行録 13:44-52 【新約・ 240頁】
第二の日課 黙示録 21:1-5 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 13:31-35 【新約・ 195頁】

本日の福音書では、主イエスが弟子の足を洗い、ユダが夜の闇へと去った後、主イエスの「告別説教」と呼ばれる長い一人語りが始まっている。主イエスを十字架へと引き渡すためにユダが消えて行った闇から、主イエスは弟子たちに向き直り、「今や、人の子は栄光を受けた」と語る。それは十字架と復活の出来事の幕が切って落とされたことを私たちに告げている。夜の闇の最も深い時こそ、福音の光が輝く時なのである。
人の子、つまり主イエスの「栄光」は、弟子たちの足を洗うことから始まっていた。ここで主イエスが語る弟子たることの奥義は、弟子の足を洗うという行為、そして「互いに愛し合いなさい」という教えと結びついている。それらはいずれも、私たちの日常的な領域に根ざすものでしかない。私たちが、永遠の命の世界を知るために主イエスの弟子でありつづける、そのために必要なこととは、私たちが私たちの日常のなかでなされるべき事柄であると主イエスは語られるのである。
足を洗うというのは、具体的な目に見える行為である。しかし主イエスにおいてその行為は同時に、見えない世界すなわち主イエスが父なる神と共にある世界を示している。主イエスは、甦り、父なる神とともにおられる神の子救い主である。しかし同時に、私たちの生きるこの地上を共に生きた人であった。それゆえに、その働きは私たちの生きる日常の中での具体的なものであった。しかし、それは単に過ぎ去った過去の出来事では終わらない、永遠の領域を指し示している。過ぎ去る事柄が永遠のものとなるということ、別離と受難が栄光の出来事となるということ、二つの対立する領域が、主イエスにおいて結びつけられているのである。
私たちは、この地上において、自分の為す事また成せる事の小ささ、空しさに打ちのめされ、そこでの営みに倦み疲れ、その魂は飢え乾いている。そうであるからこそ、永遠の価値を持つものによって、その空しさを満たされることを求めて、信仰により頼むのである。
私たちがその日常の中で成し遂げられることが、どれほど小さく空しいものであったとしても、それが主イエスの言葉によって押し出される時、そこには既に永遠の命の領域が開かれているのである。主イエスの言葉は、私たちの日常を支配する様々なこの地上の掟を凌駕する。それが主イエスの言葉に押し出されてなされる時、私たちの小さく空しい業は、永遠の愛の業として用いられるのである。私たちの魂の飢えと乾きが満たされる時、それは、私たちの日常の中に差し込む光、すなわち主イエスの言葉、新しい愛の掟によって動かされる時なのである。

[説教要旨] 2010/4/25「キリストに従う」ヨハネ10:22-30

復活後第3主日

初めの日課 使徒言行録 13:26-39 【新約・239頁】
第二の日課 黙示録 7:9-17 【新約・460頁】
福音の日課 ヨハネ 10:22-30 【新約・187頁】

本日のヨハネ福音書では、神殿において主イエスがエルサレムの人々から「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問い糾される。ここで主イエスを問い詰める人々の口調は、マルコ・ルカ福音書などで十字架の直前に最高法院で行われた尋問を彷彿とさせる。その質問は、主イエスを受け入れようとするためのものではなく、主イエスを否定することを前提になされるものであった。エルサレムの人々、最高法院の議員らは、主イエスの言動に気をもみ、そして主イエスを否定せずにはいられないのである。その人々にとって、主イエスがメシアすなわち油注がれた救い主であることはあってはならないことであった。いわばその人たちは、主イエスを否定するために、主イエスがメシア(=キリスト)であることを明らかにさせようとするのである。
既に4章では、主イエスはご自身がキリストであることをサマリアの村の井戸で一人の女性には語られ、さらに多くの人々が主イエスの言葉を信じた、と書かれている。人々は「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と語る。その様子は、本日の箇所のエルサレムの神殿での出来事と鋭い対照をなしている。どちらの場合も、メシアを待ち望み、主イエスご自身に出会いながら、その結末としての振る舞いは180度異なっているのである。サマリアの人々は主イエスを受け入れ、エルサレムの人々は主イエスを石で打ち殺そうとした。果たして何が、その二つを分けたのであろうか。
結論から言うならば、それはキリストに従うか否か、ということであった。そして、キリストに従うと言うこと、それはキリストの正義が私たちの正義を圧倒し、打ち倒されるということに他ならない。エルサレムの神殿の人々は、自らの正しさは何者にも打ち倒されることはないと確信していた。だからこそ、主イエスに出会いながら、主イエスをキリストとして受け入れることができず、彼らはキリストに従うことが出来なかった。
では誰がキリストに従うことができるのかと問うならば、それは神の正義の前に自らの不十分さを恐れおののき、しかしそうでありながら、主イエスの十字架と復活によって和解と赦しを与えられた者に他ならない。主イエスに従う群れ、すなわち「聖徒の教会は、罪のない者や完全な者の『理想的な』教会ではない。罪人に悔い改めの余地を全く与えないような、純潔の者の教会ではないのである。聖徒の教会とはむしろ、自分で自分を許すこととは全く何の関係もない神の赦しが、ここで真実に宣べ伝えられることによって、みずからが罪の赦しの福音に値するものであることを示す教会」(D.ボンヘッファー)なのである。

2010年4月22日木曜日

世界の子ども支援チャリティコンサートのご案内 [5/23]

第7回世界の子ども支援 上野由恵フルートコンサート

5/23(日)14時より、ルーテル三鷹教会(ルーテル学院大学チャペル)にて、日本ルーテル社団・日本福音ルーテル教会主催による、世界の子ども支援「上野由恵フルートコンサート」が開催されます。

お子様連れでも、どなたでもお気軽にご参加いただけるコンサートです。
入場無料ですが、席上でチャリティのための自由献金があります。

皆様お誘いあわせの上、是非お越し下さい。




演奏予定曲目

ビゼー:「アルルの女」よりメヌエット
チャイコフスキー:感傷的なワルツ
ラフマニノフ:ヴォカリーズ
リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行
バッハ:「管弦楽組曲第2番」より
ポロネーズ、バディネリ
バッハ:G線上のアリア
城ヶ島の雨
浜辺の唄
モンティ:チャルダッシュ

※曲目は都合により変更になることがあります。

LAOS講座の学びのご案内(第2回) [4/25]

4/25(日)礼拝後、LAOS講座の学びの第2回を行います。
テキストは第7号「宣教と奉仕の理論の実際」を用います。
(今後は隔月程度で、学びの時を持つ予定です。次回は7/25(日)に、本テキストの著者である江藤先生にご担当いただく予定です。)
テキストをお持ちでない方はこの機会に是非お求め下さい。(1冊200円、全9巻セット1500円)


[説教要旨] 2010/4/18 「心の目を開いて」 ルカ24:36-43​

復活後第2主日

初めの日課 ​使徒言行録 9:1-20​​【新約・ 229頁】
第二の日課​ 黙示録 5:11-14​​​【新約・ 458頁】
福音の日課 ​ルカ 24:36-43​【新約・161頁】

エマオから二人の弟子がエルサレムに戻り、他の弟子たちに自分たちの体験を語る。主イエスと再び出会う体験を通して、今や彼らは「心が燃えた」と語る。夕暮れの道での暗い顔で語る彼ら二人と、真夜中に家の中で燃える心で語る彼らの間には、同じ人間でありながらも、何か決定的な相違が生まれていた。しかし、この二人の体験を聞いても、残りの弟子たちは、それを信ずることは出来なかったであろうと思われる。二人の弟子と、真夜中の家の中に隠れるようにして集まっている、それ以外の者たちとの間には、決定的な相違があった。
そこに、突然主イエスが彼らの真ん中に現れ、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語る。しかし弟子たちは、亡霊を見たと恐れおののき、心に疑いを起こし、平和とは全くほど遠い状態にあり、主イエスがその身体を示しても、信ずることは出来なかった。ただ主イエスが弟子たちと共に食事をすることで、はじめて彼らは、その命の現実を理解することができたのだった。
復活の主イエスの顕現を巡るこの短い段落の中に、死と命、恐怖と平和、疑いと信頼、という対立する要素が詰め込まれている。主イエスを巡って、弟子たちの心は恐れ、疑い、そして心に平安と喜びと燃える思いをまた与えられた。なぜならば、復活の主イエスは、十字架において死なれた主イエスでもあるからなのである。主イエスにおいて、命と死は激しくぶつかりあっているのであり、しかも、死は一度は命を飲み込んでしまうのである。けれども、その死は決定的に最後のものではないこと、一見命の敗北にすら見えるような、その死の勝利の先に、新しい永遠の命の領域があることを、復活の出来事を通して聖書は私たちに語る。
主イエスを亡霊と思い、恐れおののき心に疑いを起こすということ、それはエマオ途上にあった暗い顔をした二人がそうであったように、死の勝利しか見ることが出来ない、私たち人間の姿でもある。そのような私たちは、一つの部屋に集まっていても、不信と不安とによって分断されているような有り様を超え出ることが出来ない。しかし、死の力は主イエスと弟子たちとの絆を断ち切ることは出来なかった。主イエスは甦り、再び彼らのもとを訪れ、彼らの間に平和と信頼を回復された。それは彼らの心の目が開かれ、死ではなく、命の勝利を見ることが出来るようになったということであった。復活の主イエスが私たちに与えられたということ、それは私たちもまた絶望的な状況を超えて、命の勝利と、平和と信頼とに満たされることを、確信することが出来ることを、聖書は私たちに語るのである。

2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/4/11 「心は燃えていた」 ルカ24:13−35 

復活後第1主日

初めの日課 使徒言行録 5:12−32 【新約・ 221頁】
第二の日課 黙示録 1:4−18 【新約・ 452頁】
福音の日課 ルカ 24:13−35 【新約・160頁】

 主イエスが復活された日曜の夕方、二人の男がエルサレムから近郊の村エマオへと向かっている。主イエスの弟子であった彼らは、「暗い顔をして」いたと17節にあるとおり、主イエスの十字架での刑死と、その亡骸がなくなったという不可解な事件を前に、どうしてよいかわからなくなっていたと思われる。
そこに、一人の男がやってくる。読者である我々にはそれが甦られた主イエスであることが示されているが、登場人物である二人にはそれは隠されていた。彼らは、尋ねてきたこの男に、自分たちのこれまでの体験を語る。それは、地上における主イエスとの交わりの体験であり、またその十字架の死と、空の墓についての証言を聞いたというものであった。その言葉は、ある意味では信仰告白(使徒信条)の一部に通ずるようにすら思われるほど、主イエスの受難を的確に要約している。しかし、それが信仰の告白となるには、未だ不十分であった。その意味では、この時まだ、彼らは真の主イエスとの出会いを体験していなかったのである。
 地上の主イエスを彼らは「知っていた」にも関わらず、復活の主イエスご自身を前にして、彼らは「あの方は見あたりませんでした」と語る。しかし、主イエスが聖書について解き明かし、そして共に食卓を囲んだ瞬間に、彼らは主イエスが共におられることが「分かった」と聖書は語る。ここに私たちは、信仰の本質を見ることが出来る。主イエスはもういない、主イエスはどこにいるのか、その悩みと不安の中にいる時、既に主イエスは悩み恐れる者と共におられるのである。しかし、そのことは私たちが望むような、あるいは予想するような仕方では、私たちには明らかにはされない。私たちの地上の「目」に見えるのは、ただ空の墓という事実だけなのである。それは私たち人間の論理にとっては、喪失と空虚さを示すだけでしかない。喪失と空虚さにのみ目を向ける時、共におられる主イエスを私たちは「見る」ことは出来ない。しかし、聖書の言葉が語られる時、そして主イエスの食卓との交わりがなされる時、その喪失と空虚さの事実は、私たちに与えられた大いなる喜びであること、それは主イエスが私たちと共におられることのしるしであることが「わかる」のである。
 「暗い顔」をしてエルサレムから旅をしてきた二人の弟子は、彼らに失われたものを悲しみ、そして不安に襲われていた。しかし、主イエスとの出会いを思い起こし、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げるようにして旅立ったはずのエルサレムで彼らに起こった出来事を伝え始める。主イエスとの出会いは、暗い顔をした彼らを「喜びを語る者」へと変えた。主イエスの復活とは、喪失と空虚さに打ちのめされる私たちを、喜びを語る者へと変えしめる出来事なのである。

[説教要旨] 2010/4/4 「準備していたものが」 ルカ24:1−12 

復活祭

初めの日課 出エジプト 15:1−11 【旧約・ 117頁】
第二の日課 1コリント 15:21−28 【新約・ 321頁】
福音の日課 ルカ 24:1−12 【新約・159頁】

 日曜の朝、主イエスの弟子の女性たちは、金曜の午後には出来なかった、葬りの準備をして、主イエスの亡骸が葬られた墓穴へ向かう。主イエスの十字架刑に際して、男の弟子たちが既に逃げ隠れてしまったのに対して、女性たちが自らの危険を顧みずに墓へと向かうということは非常に興味深い。驚くべき出来事を最初に体験するのは、12使徒としてこれまで何度も名前が挙げられた男たちではなかった。そして、たどり着いた先で彼女らは驚くべき体験、すなわち空虚な墓を発見することになるのである。それは主イエスの復活に関する、最初の証言となった。
 復活とは、理論的に証明されるような事柄ではないし、議論によって疑問点が解明されるようなものでもない。復活の信仰とは、ただ人々の証言によってよみ伝えられるものなのである。しかし、それは信仰者の主観的な思い込みを伝えるということでもない。福音書は、最初の目撃者である女性たちを通して、思い込みの余地のない、一つの客観的な事実として、私たちに「墓は空虚であった」ということを伝える。空虚な墓で、輝く衣を着た二人(=天使)は主イエスが既にガリラヤとそこからの旅の途上で繰り返し語ってきた言葉を、ここで再度繰り返す。いわば、空の墓においてはじめて、女性たちは主イエスの言葉を、本当の意味で自らのものとすることが出来たのであった。
 女性たちの証言、それは、準備していたほうむりの準備が、すべて空しいものになってしまったというものである。それは、私たち人間の論理の観点から言うならば、むしろ残念なことであるはずである。しかし、墓は空であったということ、そしてそれは、主イエスは甦られたということであるとわかったということ、それは準備していたものが、無駄になってしまったという、個人的な思いを遙かに凌駕して、全世界に、すべての時代に届けられる喜びのメッセージとなったのである。
 この箇所において、主イエスは登場せず、そこではただ、主イエスの不在だけが語られている。しかし、それにもかかわらず、そこには主イエスの存在は不可欠のものとなっている。主イエスが墓には既にいないという出来事が、そこに集ったものたちの、価値観を根底から逆転させているのである。準備していたものが無駄になることがかえって喜びのしるしとなり、私の悲しみは、多くの人々の喜びへと変えられるのである。
 イースターの出来事、それは私たちのあらゆる悲しみが、根底から喜びへと変えられる出来事なのである。

[説教要旨] 2010/3/28 「未熟な弟子の賛美」 ルカ19:28−48 

枝の主日

初めの日課 ゼカリヤ 9:9−10 【旧約・ 1489頁】
第二の日課 フィリピ 2:6−11 【新約・ 363頁】
福音の日課 ルカ 19:28−48 【新約・ 147頁】

 教会は、今年も枝の主日を向かえる。私たちは、四旬節において、主イエスの受難、十に至る道を憶え、主の復活を待ち望む。私たちは、枝の主日を毎年のように向かえるが、イエス・キリストが十字架に架かり死なれた出来事は、歴史上ただ一回限り起こった出来事である。四旬節とは、何のための・誰のための期節なのか。それは、ただ私たちの救いのためだけの期節なのである。主イエスは、ただ私たちを罪から解放し、永遠の命に与らせ、平和を実現されるためだけに、この世に生まれ、十字架に架かったのである。本日は、特にそのことを憶えていきたい。
 本日の福音の日課において、主イエスはエルサレムに入城される。ガリラヤからの福音宣教の旅の目的地に、いよいよ到着するのである。主イエスがエルサレムに入城されるに際して、弟子の群れは声高らかに「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と賛美する。この賛美は、主イエスの誕生に際して、天使の大軍が羊飼いたちに「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美したことを彷彿とさせる。主イエスは、世に平和を実現される王、預言者を通して神が約束された救いを成就される者としてエルサレムに入られたのである。同時に、主イエスは世に誕生された時から、既に十字架への受難の道を歩まれていたのである。主イエスの十字架への道は、ただ私たちの救いのためだけにある。私たちは、主イエスの十字架への道を通して、主イエスの受けられた受難の中に、神の私たちに対する深い愛が示されているのを見る。その意味で、主イエスの福音宣教の旅の最終目的地は十字架である。
 弟子たちは、主イエスをエルサレムへ迎える時、賛美した。これは、弟子たちが賢く、成熟しており、イエスが救い主であると十分理解していたから賛美したのではない。むしろ、弟子たちは、主イエスが逮捕されると、否認し躓いた。しかし、弟子たちは主イエスに対して真実な告白をしている。主イエスは、救い主であり、平和を実現される方なのである。未熟な弟子たちは、キリストに用いられることによって、救いの計画を担い、また救いに与ったのである。私たちもキリストの弟子であり、自分の理解や判断を超えて神に用いられている。その様な未熟な私たちをも救いの計画に用いてくださる神に感謝し、私たちの救いのために十字架に架かられる主イエスの愛を憶えたい。

[説教要旨] 2010/3/21 「捨てられた石から」 ルカ20:9−19 

四旬節第5主日

初めの日課 イザヤ 43:16−28 【旧約・ 1131頁】
第二の日課 フィリピ 3:5−11 【新約・ 364頁】
福音の日課 ルカ 20:9−19 【新約・149頁】

 ルカ福音書20章では、主イエスが宗教的権威たちと論争する場面が描かれる。そこではもはや、村々で行っていたような癒しの業はなされなかった。ガリラヤから村々を回る長い旅を経て、エルサレムにたどり着いた主イエスは、神殿において語り教えることに集中される。
 村々の会堂と異なり、神殿は祭司たちが専門的に管理する場所であった。そこで教える主イエスは「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただされる。主イエスはガリラヤでは既に「『霊』の力に満ちて」(4:14)、権威を持って語られていた(4:31)。しかし、伝統と権威を担うエルサレムの神殿を管理するものたちは、辺境において示された権威を、自分たちの管理する領域では認めることができなかった。そのようにして、神殿を管理する宗教的権威らは、自分たちの「なわばり」あるいは「聖域」を侵犯する主イエスに対する敵意を深めてゆくことになる。神殿において主イエスは、ご自分の周りにいる民衆たちと、敵対者との、その双方に対して、ぶどう園の譬えを通して、その教えを語られることとなる。
 イザヤ書、エゼキエル書などの預言書では、「ぶどう園」とは神が実りある結果を期待して、時間・労働・配慮・忍耐を大いに注ぐ事業の象徴として語られる。そのぶどう園の実りを得るために遣わされた使者らを、小作人たちは受け入れず、最後に遣わされた跡取り息子をも殺してしまう。小作人たちの視点に立つならば、ぶどう園の実りは自分たちの働きの結果であり、他の誰にも渡してはならないものであった。しかし、その結果彼らが得たものは、自らの滅びであったという、ショッキングな結末をもってこの譬えは締めくくられる。この譬えが、預言者たちと主イエスを拒絶する、エルサレムの宗教的権威らを指していることは、既に物語の中で指摘されている。実際に、自分たちの聖域に対して、きわめて忠実であった熱心党らのローマに対する抵抗運動は、70年のエルサレムの街と神殿の崩壊という結果を招くこととなったことを歴史は示している。「自分の」ぶどう園を守ろうとした小作人たちと同様に、自らの聖域を守ろうとした宗教的権威たちは、守ろうとしたものそのものを失うこととなったのである。
 旧約からの引用は、2つのイメージをもって私たちに迫ってくる。一つは不要な石が、実は中心となるべき石となった、という逆転の構図である。そこでは、完成し、建て上げられる神の業がイメージされている。一方ではあらゆるものを「打ち砕く」イメージが語られる。それは、かつて同じ神殿で幼子イエスを見たシメオンが語った「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」という言葉の実現を示すものであった。いずれにしても、「隅の親石」主イエスこそが、神の救いの業において、最終的なものであり、決定的な要素なのである。主イエスの十字架、それは私たちの「聖域」を侵犯する「捨てられた石」である。しかしこの主イエスの十字架を通して、私たちの思いは砕かれ、そして神の救いの業は完成されるのである。

[説教要旨] 2010/3/14 「祝宴を開いて」 ルカ15:11−32 

四旬節第4主日

初めの日課 イザヤ 12:1−6 【旧約・ 1079頁】
第二の日課 1コリント 5:1−8 【新約・ 304頁】
福音の日課 ルカ 15:11−32 【新約・139頁】

 本日の物語には、二人の息子とその父親が登場する。二人の息子のうち、次男はまだ父親が健在なうちに、自分が受けるべき財産の分け前を要求する。それは父親を既に死んだ者と見なす行為でありまた、自分の父の死を望んでいると公に言うようなものであった。ところがそのような無礼な要求に対して、父親はなぜか何も言わずにそれを受け入れる。
 財産の分け前をもらった息子は、それをすべて金に換えて、遠い国へ出て行く。それは、距離的に離れるということだけでなく、共同体から距離をおく、あるいはそこで受け継がれてきた伝統や歴史を拒絶する、ということを象徴的に示している。そしてこの息子は、持てる財産によって、友人を得、自分の価値を誇示することが出来た。しかしその財産を使い果たしたとき、彼には何も残ることはなかった。その時に彼にまだ残っているのは、ただ、父の息子だという事実だけであった。全てを失った時も、その事実だけは失いようがなかったのである。彼はその時初めて「ある」と言うことだけで与えられている、命の意味に気付かされたのである。そして、父親にとっては、息子が父に対して過ちを悔いることも、赦しを請うことよりも、あの父の息子で「ある」事のみにしがみつくだけで十分であった。姿を見つけただけで走り寄って息子の首を抱く父親は息子に何も求めはしない。
 一方、仕事を終えて帰ってきた兄息子は祝宴の様子を耳にして不審に思い、そしてたずねた僕の答えが彼に怒りを抱かせる。父が弟をずっと待っていたこと、弟が無事に帰ってきたこと、弟の帰還を祝って父が宴会を催したこと。その全てが兄にとっては腹立たしいことであった。喜ぶことが出来ず、家に入ろうともしない兄息子に、父親はわざわざ家から出てきて「一緒に喜んで欲しい」と語りかける。しかし兄は許すことができなかった。「一度も」背かなかった自分に対して父は「一度も」山羊一匹くれなかった。それなのに「あなたのこの息子」のためには子牛を屠るのか。そのように訴える兄息子もまた、弟息子と同様にただ父の息子で「ある」ことだけで意味がある、そこに喜びがある世界に生きてはいない。兄息子にとっては、努力すること、枠をはみ出さないことが正しく、評価されることであり、それ以外の生き方は認められない。それ故に枠をはみ出した、はみ出さざるを得なかった弟に対して、兄はそこに共に生きる価値を認めないのである。
 その意味で兄もまた、弟と同じように、父親に対しては失われた息子なのです。弟と同じように、兄もまた父親に対しては失われた息子なのである。この兄に対する父の「私はいつもお前と共にいる、私の者は全てお前のものだ」という言葉でたとえ話は結ばれ、その結末がどうなったかは読者に投げかけられている。
 主イエスはこのたとえを、ご自身が徴税人や罪人と食事をすることを非難する者たちに対して語られた。誰かが主イエスとの祝宴に共にあることができるかどうは、その人の正しさや行動によって決定されるのではない。主イエスの十字架と復活によって、天の祝宴はいつでも私たちのために開かれたものとなった。私たちが立ち返るべきこと、それはただそこに共に「ある」ことだけで十分であることに気付き、喜ぶことなのである。

[説教要旨] 2010/3/7 「実りの時を待つ」 ルカ13:1−9

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト 3:1−15 【旧約・ 96頁】
第二の日課 1コリント 10:1−13 【新約・ 311頁】
福音の日課 ルカ 13:1−9 【新約・134頁】

 本日の福音書の前半では、犠牲祭儀の際にガリラヤ人の血が混じったという事件について主イエスが尋ねられている。歴史上それがどのような出来事であったのかは、定かではないが、おそらくエルサレムの神殿にガリラヤからやってきた巡礼が、ローマ人総督ポンテオ・ピラトの手のものによって殺された(あるいは少なくとも血が飛び散るほど深く傷つけられた)ということであったと考えられる。ガリラヤは、主イエスとその弟子たちの故郷であり、また熱心党と呼ばれる民族主義運動の盛んな地域でもあった。血気盛んな民族主義者の仲間を、その運動の精神的支柱である聖なる場所で傷つけ、血を流して汚すということは、おそらくローマ側からの挑発行為であったのではないかとも考えられる。主イエスの弟子にも熱心党と呼ばれたシモンがいた(6:15)。その意味で、ガリラヤ人の血が神殿で流されたという出来事は、主イエスとその一行にとって他人事ではなかった。そこでは、主イエスを自分たちの陣営に引き込もうとする民族主義者であれ、あるいは、主イエスがそうした運動に加担したといって陥れようとしている敵対者であれ、周囲の者が期待したのは、そのような蛮行に対して、己の信ずる正義を掲げることであった。周囲の人々は、主イエスが掲げた正義をそれぞれの思惑で利用しようと待ち構えていた。しかしそれに対して主イエスが応えたのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅ぶ」という言葉であった。
 主イエスが求める「悔い改める」ということ、それは、私たちが「正しく」あろうとする努力、あるいは私たちが自らの正義を掲げる努力なのではない。それらを求めた結果は、エルサレムの都と神殿の崩壊であったことを、歴史は私たちに伝えている。その一方で、主イエスは己の正義を貫くことなく十字架において殺されるも、しかしその死から蘇られた。その主イエスの語られる「悔い改め」とは一体どのようなことなのであろうか。
 後半のたとえ話では、いちぢくの木が実をつけないために、主人はその木を切り倒そうとする。しかし園丁は主人に、今少し実りの時をまってくれるように懇願する。木が実る見込みがあったから、切り倒されないことが認められるのではない。ただこの園丁の執り成しによってのみ、滅びから救い出され、実りの時を待つことが実現するのである。私たちを滅びへの道から救い出しうる事柄、それはただこの執り成し手である主イエスが共におられるということしかない。私たちにはただ、主イエスだけが残されているのである。主イエスの語る「悔い改める」ということ、それはまさに、ただ十字架の主イエス以外に頼るべきものが何も残されていないような、そのような有り方なのである。主イエスが私たちと共におられることによって、実りの時は待たれている。

2010年3月10日水曜日

[説教要旨]2010/2/28「わたしを憐れんでください」

四旬節第2主日

初めの日課 ​エレミヤ 26:7-19​​​【旧約・1225頁】
第二の日課​ フィリピ 3:17-4:1​​​​【新約・365頁】
福音の日課​ルカ 18:31-43​【新約・145頁】

本日の福音書で、主イエスはエリコの街へとやってこられる。マタイ・マルコ・ルカのいずれにおいてもエリコはエルサレムへと進むその直前に立ち寄る場所となっている。その意味で、エリコ到着は、弟子たちと共に続けてこられた主イエスのガリラヤからの旅が終わり、次の段階へと進むことを、私たちに示唆している。
このエリコのほど近くで主イエスは一人の目の不自由や者に出会い、そして癒される。主イエスは、その宣教を「目の見えない人に視力の回復を告げ」(4:18)ると語って始められた。そして、その働きは、洗礼者ヨハネに対して、このイエスという人物が来たるべき方であるかどうかを示す根拠でもあった(7:22)。したがって、主イエスがのこの働きは、その直前でエルサレムでの受難と復活について三度目の予告をしたこのイエスという人物が、「来るべき方」であることを明らかにする。
しかし、主イエスの受難予告を聞いた弟子たちは、その言葉を理解することが出来なかった。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」と書かれている。主イエスとの長い旅を続け、最も近いところでその働きを目にしてきたにもかかわらず、弟子たちにとって、十字架へと向かうイエスと来るべきメシアとは結びついてはいなかったのである。
しかし、「見えない」はずの者が主イエスに向かってメシアのことを意味する「ダビデの子よ」と叫ぶ。見えない彼にとって、エリコを通り、受難の地であるエルサレムへと向かおうとするイエスは、「ダビデの子」すなわち救い主メシアに他ならなかった。すなわち、主イエスの間近にいた弟子たちには隠されていたものが、この一人の目の見えない者にだけははっきりと「見えて」いたのである。救い主を見た彼の、「わたしを憐れんでください」という叫びは、周囲の者の怒りを引き起こす。つまり、周囲の者にとって、それはふさわしくない態度であるように見えたからである。しかし、周囲の制止を振り切って、救い主として主イエスをひたすらに求め続ける。ついに主イエスは、ご自身を救い主として呼び求めるこの叫びを肯定されるのである。その主イエスの言葉を聞いたとき、この目の見えない者は癒された(=救われた)のであった。
この人の「見えない」という痛みの中でこそ、エリコを通りエルサレムへと向かう主イエスを救い主とするということが、はっきりとその意味を明らかにした。弟子たちが、救い主として主イエスに再び出会い、その言葉を理解することが出来るのは、恐れのあまり主イエスを見捨てて逃げ去り、その痛みに向き合わされた後であった。わたしたちもまた、自らの弱さと痛みの中で救い主としての主イエスとその言葉に出会うのである。



2010年2月24日水曜日

[説教要旨]2010/2/21「荒れ野を生きる」

四旬節第1主日

初めの日課 申命記 26:5-11【旧約・320頁】
第二の日課 ローマ 10:8b-13【新約・288頁】
福音の日課 ルカ 4:1-13【新約・107頁】

 教会は再び、主イエスの受難を憶える四旬節(レント)の時を迎える。この40日余りの日々の始まりに、伝統的に荒れ野での主の40日間の誘惑の箇所が福音書として選ばれていることは意義深い。このみ言葉を通じて、主イエスの生涯における荒れ野での40日間は、私たちの教会生活の中での40日間へと結び付けられる。私たちが今直面する様々な困難と試練とを、かつて主イエスもまた、荒れ野において辿られたということを、私たちは思い起こさせられる。
 主イエスの荒れ野での日々は、聖霊が鳩のように下り、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が投げかけられた、その洗礼の直後に位置付けられている。神の子として「聖霊(=見えない神の力)」に満たされるならば、何の迷いも困難も無いはずなのではないか。普通そのように私たちは考える。しかし、神の力に満たされた主イエスは、まさにその「霊」によって荒れ野で困窮と試練の時を過ごすことを運命づけられる。だとするならば、救い主としてこの地上に与えられた主イエスを満たす力と一体何なのであろうか。
このことは、その試練の場面において一層明確に問われることとなる。悪魔が誘惑者として登場し、会話するのは、創世記3章のアダムとエヴァの失楽園の物語を彷彿とさせる。誘惑者は、出来ないことをやってみろというのではなく、あたかもそれは出来なければならないことのように語りかける。「神の子なら・・・したらどうだ」というその主張は、話の筋として決して誤っているとは言えず、むしろ人間にとって納得のいくものですらある。それらは、人を貶めるというよりも、むしろ高みへと導く問いかけであった。もし、主イエスが本当に神の力に満ちているのであれば、その力を用いて、一気に高みへと向かうことは、むしろ合理的であるように人間には思われるのである。しかし、それらの問いかけに対して、主イエスはことごとく聖書(旧約)の言葉を用いて応えられる。その姿は、むしろ弱々しく、意気地のないようにすら私たちの目には映る。
 直接には悪魔という存在として描かれているところの、神の子・主イエスが闘われた対象とは、自らの正しさを証明し、高みへと向かおうとする誘惑であった。神の子でありながら、同時に一人の人間として歩まれる主イエスは、そうした誘惑に対し、徹底してみ言葉を持って応え、自らの弱さに留まる。その姿はパウロが出会った言葉「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」(2コリ12:9)を思い起こさせる。四旬節の40日を通して、私たちは自らの弱さの内に働く神の力に出会うのである。

2010年イースター関連の行事のお知らせ [4/2,3,4]

2010年のルーテル三鷹教会のイースター関連行事は以下のように予定されています。
どの行事も、どなたでもご参加いただけます。皆様のお越しをお待ちしております。

4/2(金) 19:00 受苦日礼拝 (チャペルにて)
4/3(土) 14:00 教会学校 イースターエッグ作り(集会所にて)
      18:30 イースターヴィジル(復活前夜祭) (チャペルにて)
4/4(日) 10:30 イースター礼拝・洗礼式・聖餐式 (チャペルにて)
      12:30 イースター祝会(一品持ちより)


2010年2月19日金曜日

LAOS講座の学びのご案内

2/28(日)礼拝後、LAOS講座の学びの第1回を行います。
テキストは第7号「宣教と奉仕の理論の実際」を用います。
(今後は隔月程度で、学びの時を持つ予定です。次回は4/25の予定です。)
テキストをお持ちでない方はこの機会に是非お求め下さい。(1冊200円、9巻1500円)




2010年2月16日火曜日

[説教要旨]2010/2/14「栄光に輝くイエス」

変容主日

初めの日課 申命記 34:1-12【旧約・338頁】
第二の日課 2コリント 4:1-6【新約・329頁】
福音の日課 ルカ 9:28-36 【新約・123頁】

マタイ・マルコ・ルカの福音書では、主イエスは、3度ご自身の十字架と復活について予告されたことが記されている。しかし弟子たちは、その時はまだ、主イエスの語られるご自身の受難と復活と、主イエスの弟子たることの意味を理解することはまだ出来なかった。ルカでは、マタイ・マルコのようにペトロに対して直接叱責する様子は記されていないが、弟子たちに対して「わたしに従いなさい」と語る主イエスの言葉は同じように伝えられ、それに続いて主イエスの変容の出来事が描かれている。12弟子たちは、主イエスと共に旅をし、そしてその神の国の宣教と、癒しの業を目の当たりにし、さらには主イエスの代理として派遣されていながら、あるいは「メシアです」と答えてさえいながら、主イエスとは何者であるのか、どこへ向かおうとしているのか、ということがわからなかった。主イエスが担われる使命は、弟子たち期待と思惑から大きく逸脱していたのである。
12弟子の中でも特に中心となっていた3人と共に山で祈っておられた主イエスは光を放ち、モーセとエリヤという歴史的預言者の代表らと語りあったと聖書は語る。それはまさにこの世のものとは思われない光景であり、弟子たちのみならず、私たちの理解をはるかに超えた出来事である。それが一体どのように起こったかということを、私たちが納得のいく仕方で説明することは無意味である。むしろそれは私たちの理解を超えた出来事、すなわち神の国がこの地上にその姿を現した出来事であったということ、そしてその時、主イエスの最期、すなわち十字架の出来事について語られていたということに注目しなければならない。主イエスの「栄光」それは、人間が考えるようなものではなく、神の国が現れるということであった。そしてその出来事は、モーセからエリヤへ、そしてさらには読者にとっての「今」へと至る、神の救いの歴史が主イエスの最期=十字架に結びつけられているということであった。
そのような人間の理解を超えた光景を前にしたペトロは、いわば私たち人間を代表であるかのように、「何を言っているのかわからない」ことを語る。それは神の力を前にした、人間の限界を如実にしめしている。人は神の救いの業をその思惑の中にとどめることは不可能なのである。そこに神の声が響く。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」声と共に残されたのは、主イエスだけであった。
私たちに残されている事柄、それは主イエスの言葉である。この主イエスの言葉に聞き従う時、私たちは私達自身の期待と思惑を超えた、神の救いの業に出会うことが出来るのである。

[説教要旨]2010/2/7「心を合わせて」

2010年度三鷹教会総会

説教テキスト ローマの信徒への手紙15:5-6(2010年度三鷹教会主題聖句)

 パウロは、(多くの知人がいたにせよ)ローマの教会を直接知らないままにこの手紙を書き送っている。しかし、その手紙の終わりに位置する14-15章にかけて、他の手紙と同様に教会の中の諸問題に関する勧告として、多様な信仰者が共に生きることについて記している。それは、この事柄が決してある特別な教会において問題になるのではなく、あらゆる教会に普遍的な意味を持つことを示唆している。
 そこでは習慣的な事柄から自由な信仰をもった「強い人」と、従来の生活信条から離れられない「弱い人」についてパウロは語る。しかしパウロは、そのどちらが正しいということを決定しない。むしろ双方が自らの正しさを主張し、互いを裁き合うことそのものを批判する。そして「強い人」も「弱い人」も、そのどちらもが「主のため」にそうしているのであると主張する。人間の行う業の中に絶対的な正義は存在しえず、義と平和と喜びである神の国は、ただ聖霊によって与えられる。したがって人が出来ることは、その時々の判断の中で、他者にどのように配慮することが「望ましい」かがむしろ人間に与えられた課題なのである。自分自身の確信(信仰)と他者への配慮との間に、キリスト者の信仰生活はおかれている。
 この信仰生活の実践において最も重要になること、それは「隣人を喜ばせ」、「互いの向上に努める」ことであるとパウロは語る。しかし「弱い者」と「強い者」がそのような関係に立とうとする時、まず「強い者」が「弱い者」に対して、自らの満足を断念し、譲らなければ、そのような関係が実現することはありえない。それはキリストがご自身の十字架において示された、自らを徹底的に低くすることによって、この地上に義と平和と喜びを与えられた態度に他ならなかった。
 (旧約)聖書に描かれた事柄は、神の義と平和と喜びが与えられることを信じて歩んだ民の忍耐と慰めの歴史であった。そしてそれはキリストの十字架において私たちの間に実現した。私たちがそのキリストに倣うということ、それは互いに「強くないものの弱さを担う」ことにこそ希望を見出すことに他ならない。この希望こそが、弱い者も強い者もいる多様な信仰者の群れの心を合わせる力の源であり、キリスト者が世に伝えなければならない、義と平和と喜びの出来事なのである。

2010年2月6日土曜日

2010年「灰の水曜日の祈り」のご案内

2010年は2/17(水)より主の受難を憶える四旬節に入り、4/4(日)に復活祭(イースター)を祝います。

2/17(水)19時よりチャペルにて、四旬節へと入ることを憶える「灰の水曜日の祈り」を行います。


どなたでもご出席いただけます。
是非ご参加ください。

2010年2月2日火曜日

[説教要旨]2010/1/31「あなたがたは満たされる」

顕現節第5主日
初めの日課​ エレミヤ17:5-8​【旧約・1208頁】
第二の日課 ​1コリント12:27-13:13​【新約・316頁】
福音の日課​ ルカ6:17-26​【新約・112頁】

マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれる箇所は、ルカ福音書のこの箇所では「平野の説教」とも呼ばれている。山で祈りの内に12弟子を選び出した主イエスは、彼らと共に山を下りて、民衆の生活のただ中へと入っていく。そして、12弟子に留まらず、多くの人々を前にして、幸いと不幸について語られる。「目を上げ」られたその視線は、身近なある限られた弟子たちだけに向けられたというよりも、この世全体へと向けられているかのようである。
そして主イエスは「神の国はあなたがたのものである」と語られる。その「あなたがた」とは、貧しく、今飢えており、今泣いている人々である。そうした人々は「満たされるであろう」し、「笑うようになる」と語られる。そこでは、「今」という時に、現に飢え悲しんでいるという、動かしがたい抜き差しならない現実と、未来における世の終わり、すなわち終末の時に約束された満腹と喜びとが、コントラストを描きだす。では、人が現に飢え悲しんでいる現実は、何ら変わることがないのだろうか。未来における、天における喜びは、人間が生きる今と言う時には何ら関わりを持ちえないものなのだろうか。
しかし、主イエスは幸い「になるだろう」と語られるのではなく、現に「幸いである」と語られる。そして神の国が「与えられるだろう」ではなく、現に「あなたがたのものである」と語られている。主イエスが語られる言葉によって、未来における、天における喜びは、現に人が生きている、その「今」という時の中に実現する。大勢の弟子たちとおびただしい民衆の間でなされた主イエスの癒しの業がその出来事を伝えている。
私たちが生きている「今」は、たしかにこの地上の世界にある。しかし、主イエスの言葉に出会う時、私たち生きている地上の「今」は、来るべき神の国へと一気に結びつけられる。今と言う時の中での、私たちの飢えや悲しみが深ければ深いほど、つまり、その今という時の抜き差しならない現実が厳しければ厳しいほど、主イエスの言葉は力強く私たちに迫って来るのである。何よりも、主イエスの十字架の死と、その死からの復活は、人の生きる今という現実のただ中に、神の国が打ち立てられた出来事であった。
しかし、今という時が満たされていないからこそ、そこに欠けと不足があるからこそ、私たちのその今は、神の国と結びつくのである。今、思いのままに、すべてが整えられるならば、それは現に「不幸である」と主イエスは語られる。満たされ、思いのままに整えられた所、そこで人は主イエスの言葉に出会うことも、神の国と結びつくこともないのである。主イエスの言葉は、今を生きる私たちへと投げかけられている。




2010年1月27日水曜日

[説教要旨]2010/1/24「沖に漕ぎ出して」

顕現節第4主日

初めの日課 エレミヤ 1:9-12 【旧約・1172頁】
第二の日課 1コリント 12:12-26 【新約・316頁】
福音の日課 ルカ 5:1-11 【新約・109頁】

本日の福音書には、主イエスの高弟とされたシモン・ペトロが登場する。しかし、ルカ福音書では、マタイ・マルコとは異なって、ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)で出会う以前から、シモン・ペトロは既に主イエスを知っていた。というのは、シモン・ペトロのしゅうとめの癒しの出来事は、ルカ福音書では、ペトロの弟子としての召命の記事の前に記されているからである。何の成果もなかった前夜の漁の後で、網の手入れをしているところに主イエスがやって来た時、船に乗せてくれるようにという主イエスの頼みを承諾したのは、おそらくそうした出会いを前提にしている。結果的に、シモン・ペトロは群衆よりも一段と近い場所で主イエスの言葉を耳にすることになる。しかし、しゅうとめの癒しの出来事も、間近で主イエスの教えを聞くことも、シモン・ペトロが主イエスの弟子となるには十分なものではなかった。群衆に向かって話し終わった主イエスは、今度はシモン・ペトロらに向かって「沖漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われる。主イエスの言葉に対して、漁師であるペトロは「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と反論するが、「お言葉ですから」としてその命にしたがう。そこでシモン・ペトロが体験した、網はやぶれそうになり、船が沈みそうになるほどの大漁とは、主イエスの引き起こされた奇跡に他ならなかった。この主イエスの奇跡を前に、「わたしは罪深い者なのです」と恐れおののくペトロとその仲間たちに向かって、主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語られるのだった。「人間をとる漁師となる」ということ、それは主イエスの弟子として、人々にその教えを語る使命を与えられたということであった。
ペトロを主イエスの弟子としたもの、それは目に見える奇跡の出来事というよりも、むしろ、共におられる主イエスの言葉であった。「沖に漕ぎ出しなさい」の言葉に従う理由は、ペトロには何もなかった。しかしその主イエスの言葉によって動かされ、沖に漕ぎ出す中で、ペトロは変えられてゆく。もし彼がその言葉によって動かされていなければ、自らを「罪深い者」と語る彼に、主イエスが「恐れることはない」と語られることもなかったからである。共におられ、ペトロに向って語られた主イエスの言葉こそが、ペトロを動かし、彼を根底から変えてゆく原動力なのである。
ヨハネ福音書21章では、この物語の反復が、主イエスの復活顕現として描かれている。いわば、今日の福音書でペトロが出会った主イエスの言葉、それは十字架と復活の主イエスの言葉の先取りであった。十字架と復活の主イエスの言葉とは、私たち人間をその根底から変えてゆく神の力なのである。

2010年1月18日月曜日

[説教要旨]2010/01/17「主の恵みの実現」

顕現節第3主日

初めの日課​ エレミヤ 1:4-8​​【旧約・1172頁】
第二の日課 ​1コリント 12:1-11​​【新約・315頁】
福音の日課​ルカ 4:16-32​ 【新約・107頁】

本日の福音書で主イエスは、会堂で聖書の預言を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められる。それは、この地上において、苦しみと嘆きのあるところに、自由と解放と喜びをもたらすとされた神の約束の実現が、主イエスがおられるところにおいて、「今日」となる、ということであった。それは、2000年前の過去における「今日」なのではなく、今生きている私たちにとってもまた「今日」であるような、そのような時である。苦しみと嘆きがあるところ、自由と喜びが求められているところ、まさにそこが、「今日」主イエスがおられるところとなるのである。主の恵みは、主イエスが私たちと共におられる今日、実現するのである。
この主イエスを巡って、人々の間には様々な反応が起こる。ある者たちは、この恵み深い言葉を称賛する。しかし別の、主イエスがどこの家族の者かを知っていた者たちは、主イエスが共におられるにも関わらず、主イエスを受け入れることができない。彼らが日常的に知りえた経験と知識の延長線上に、主イエスは立っていなかったのである。イエスという人物の来歴を知っていたことが、逆に、彼らが「今日」救い主としての主イエスに出会うことを妨げるのである。
つまり逆に言うならば、主イエスが共におられることで、苦しみと嘆きに解放と喜びが実現する「今日」もまた、私たちの知識の延長線上には立っていない。私たちの理解や計画の内側には、主イエスと出会う「今日」は起きえないのである。むしろ、私たちの計画が破綻し行き詰まるところ、私たちの経験や力及ばなくなるところ、そここそが、主イエスが共におられる「今日」なのである。
主イエスを受け入れない人々に対して、主イエスは聖書の物語を引用して、救いは「異邦人」にしか与えられなかったと語る。いわば、救いが実現する「今日」、すなわち、主イエスと出会う「今日」は、本来、私たち人間の思いと期待の「外側」において起こる、と語られるのである。この主イエスの態度に怒りを憶えた者たちによって、主イエスは命の危険にさらされるが、主イエスに触れることはかなわなかった。それはまだ、十字架の出来事を待たなければならなかった。
主イエスの十字架と復活、それは私たちの日常生活における知識や経験の延長線上の外に立つ事柄である。そしてそうであるからこそ、それは私たちに救い、解放と喜びを実現する徴となるのである。この十字架を通して、私たちは、主イエスに「今日」出会うのである。



2010年1月16日土曜日

第18回 春の全国Teensキャンプのご案内

今年も春の全国ティーンズキャンプ(略して春キャン!)申し込みの季節がやってきました。
春キャン初めての人たちも、春キャンに久しぶりに来る人たちも、そしていつも春キャンを楽しみにしてくれている人たちも、みんな2010年の春には東京・高尾に集まろう!
 さて今回の春キャンのテーマは…なんと「1982ページのラブレター」。
 なんだか意味ありげなテーマのもと、ミシュランで世界的にも有名になった(?)高尾山のほど近く、皆で集まって、楽しい2泊3日を過ごしましょう。
 春キャンに集う一人一人のために、スタッフ一同がとびきりのプログラムを用意して待ってます!

主題聖句 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある (マタイによる福音書4:4)

テーマ  1982ページのラブレター

日程: 2010年3月29日(月)~31日(水)

会 場:高尾の森わくわくビレッジ
〒193-0821 東京都八王子市川町55  TEL 042-652-0911 / FAX 042-652-0944

主 催:日本福音ルーテル教会宣教室TNG委員会Teens部門、各教区教育部、JELA
  
参加費:1月17日(日)までの申し込み 1万円(交通費は各自負担になります)
      2月14日(日)までの申し込み 1万1千円(    〃          )
    申込期限を過ぎてからの申し込み(要相談)1万5千円(    〃     )
      ※申し込みのタイミングによって参加費が変動します。
※3/9以降のキャンセルについては、キャンセル料が発生する場合がありますのでご了承ください。

申し込み期限:2010年2月14日までにお願いします。
申込先の詳細は、申込用紙(PDF)をご覧ください。


2010年ルーテル三鷹教会総会のお知らせ

2010年の教会総会は2/7(日)に開催されます。
 教会の新しい1年の歩みを話し合う大事な集まりです。教会員の皆さまは必ずご出席ください。やむをえず欠席する場合は必ず委任状のご提出をお願いいたします。
 なお、教会総会に先立ち、1/31(日)礼拝後に拡大役員会を集会所にて行います。教会活動に対する皆様のご意見をお寄せ下さい。
 また、1/23(土)14時より、総会資料の印刷・製本作業を集会所にて行います。お時間のある方はご協力をお願いいたします。

[説教要旨]2010/1/10「神の心に適う者」

主の洗礼日

初めの日課    イザヤ 42:1-7                    【旧約・1128頁】
第二の日課        使徒 10:34-38                【新約・233頁】
福音の日課        ルカ 3:15-22                    【新約・106頁】

 本日の福音書は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとへ来て、洗礼を受けられる場面が描かれる。洗礼者ヨハネはヨハネは、来るべき方、すなわちメシアは「脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語り、その裁きについて教え、その裁きに備えて、ヨルダン川で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていた。そのヨハネのもとで、主イエスは、他の人々と同じように洗礼を受けられる。
 罪なき神の子が、なぜ罪の赦しを得させる洗礼を受けなければならなかったのか。これは大きな矛盾である。その意味で、主イエスの振る舞いは全く論理的ではない。それは、私たちが考える、ありうべき「正しい答」ではないようにすら思える。しかし、その主イエスの洗礼にあたって、天が開け「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声と神の霊が下る。矛盾した、正答とは見えないようなその振る舞いこそが、神の心に適うものであったことを、聖書は語るのである。
 神のみ心に適うことは何か。それは、主イエスの時代も、そして今も変わらない、大変深い信仰的問題である。その問いに対して私たちは、私たちの考える論理的に整頓された、唯一の正答を求めようとする。これこそが、正しい信仰者の在り方である、という答を、私たちは求めてしまう。しかし、実際には、そこに唯一の正答などはありえないことを、聖書は、主イエスと宗教的権威との論争を通して語っている。私たち人間が、神のみ心に適うような「正しいあり方」を、その手にとどめておくことなどそもそも不可能だからである。
しかしもし、敢えて正答を問うとするならば、私たち人間が考える「正しいあり方」を捨て、矛盾と葛藤と不安とに悩む罪ある人とともに生きるために、罪なき神の子でありながら、罪の赦しの洗礼を受けられ、そして、矛盾と絶望の極みである十字架へと歩まれた、主イエスその人でしかないのである。まさに、主イエスその人を受け入れること、それこそが神のみ心に適うことなのである。
 「隅々まできれいにし」、「消えることのない火で焼き払われる」と洗礼者ヨハネによって預言された来るべきメシア、主イエスが、その十字架と復活によって、この地上に実現されたこと、それは私たち人間が考えうるような「正しさ」を打ち立てることではなかった。むしろ、そのような人間の考える「正しさ」をこそ打ち破り、そこに神の愛の力によ支配、神の国の正しさを打ち立てることであった。主イエスの洗礼の出来事とは、私たちの思いを超えた神のみ心が、私たちの矛盾と葛藤と不安のただ中に与えられた出来事なのである。

2010年1月7日木曜日

[説教要旨]2010/1/3「不安と喜びと」

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・  2頁】

 伝統的な教会の暦では、顕現日にマタイ福音書における主イエスの誕生物語が読まれてきた。主イエスの誕生に際して、東方の占星術の学者らが訪れた、ということを通して、主イエスの王的支配が世界中に示されたということを思い起こすためである。しかし、あらためてこの箇所を読み返すと、ここでは主イエスは、その奇跡的な誕生の出来事と裏腹に、何も積極的な行動を担っていないことに気付かされる。古代の偉人物語にあるように、生まれ落ちてすぐにしゃべったり、奇跡的な行為をなしたりすることがない。主イエスは、無力な赤子として、その姿を世に表す。その無力な赤子を、星が指し示す。旧約の伝統の中で星は、神から特別な使命を与えられた者、すなわちメシアを指し示すものと理解されていた(民24:17、イザヤ60:3)。この星を見いだした東方の学者たちは喜びに溢れる。本来、旧約の伝統に立っていない、イスラエルの枠組みの外側にいるはずの、東方の学者達が、このメシアのしるしを見て、「はなはだしく大きな喜びを喜んだ」。それは言うまでもなく、星を通して学者達が出会うことが出来た方、すなわち主イエスとの出会いの喜びである。そしてその喜びは、ルカ福音書において、天使がマリアに、そして羊飼い達に告げた「喜び」であった。いわばそれは、人の力によってうみだされる喜びではなく、神から来る喜びである。
 その一方で、都エルサレムの権力の中枢にいる、ヘロデ大王を筆頭とする人々にとって、この星は激しい恐れと不安をもたらすものであった。この不安(恐れ)は、湖の上を歩く主イエスを見た弟子達が駆られた恐れと同じもの、いわば神の力を前にした人間の恐れであった。ヘロデ大王は、この恐れを取り除くため、己の権力を駆使して、無力な赤子を全て葬り去ろうとすることとなる。しかしその計画は実を結ぶことはなかった。
 ヘロデとエルサレムの人々がメシアを示す光に抱いた恐れとは、自分たちが作り上げ、守っているものが失われることへの恐れであった。その恐れから逃れるために、メシアとの出会いを暴力的に拒絶するにもかかわらず、その試みは空しく終わることとなった。ヘロデ大王が守ろうとしたものは、現代に私たちにはその廃墟だけが残されているだけである。それに対して、故郷を後にメシアの光に導かれて旅だった東方の学者たちは、無力な赤子と出会い、人の力では決して得ることの出来ない喜びを得た。いわば彼らは、現に今、自分たちに無いものに希望を託し、その思いに勝る喜びに満たされたのであった。そして彼らが得た喜びは、今も私たちへと伝えられている。メシアである主イエスを通して私たちに示された神の力、それは私たちに、現に今手にしていないものにこそ、滅びることのない永遠の価値が秘められていることを明らかにするのである。