2009年6月3日水曜日

[説教要旨]2009/5/24「心の目を開いて」

昇天主日・アジアサンデー

初めの日課    使徒言行録 1:1-11    【新約・213頁】
第二の日課    エフェソ 1:15-23    【新約・352頁】
福音の日課    ルカ 24:44-53     【新約・161頁】

 本日は、CCA(アジアキリスト教協議会)の呼び掛けによるアジア祈祷日(アジアサンデー)である。アジアサンデーは、1974 年以来、聖霊降臨節前の日曜日は、今日のアジア・キリスト教協議会(CCA)の前身である東アジア・キリスト教協議会の記念日として、世界中のエキュメニカルな組織において祝われてきたた。今年度は、「涙のしずく」を主題として、スリランカの人々をわれわれの祈りに覚える。スリランカのクリスチャンの兄弟姉妹は、いまこの時も、政治的な対立が続く「内戦状態」において、自分たちの信仰を生き、その証をしているのである。
 主イエスの昇天という、いわば「浮世離れ」した出来事を憶えることと、内戦と対立に苦しむ人々の現実を憶えることとは、一見したところでは、まるでかけ離れた事柄のように思われる。しかし、本日の聖書の箇所は、必ずしもそうではないこと告げている。というのは、主イエスは昇天の出来事にあたって、弟子たちの「心の目を開き」(ルカ24:45)、彼らに向かって、「(あなたがたは)地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と語っている。主イエスが天へと昇るということは、確かに、主イエスが、私たちの日常の現実の中には見えなくなってしまう、ということでもある。しかし、主イエスは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:51)とあるように、たとえ、私たちの目からは隠されていても、その祝福は今も確実に私たちに与えられているのである。そして、それは私たちの「心の目」を開く力なのである。目に見えるもの、目に見える現実を前にしたとき、私たちはそこに困難と苦しみ、そして絶望しか見出すことが出来ないかもしれない。しかし、十字架の死から甦られた主イエスの祝福によって心の目が開かれるとき、私たちは、その中に、希望と喜びがあることを見出すことができるのである。
 主イエスの祝福、それは、私達が望むように、自らが傷つかないように、安全な場に隠しておくことではない。むしろ逆に、その十字架の痛みを分かち合うことである。しかし、この痛みを通してこそ、私たちは、そこに祝福と希望があることを知ることができる。それは、決して簡単なことではない。しかし、天におられ、私たちの目には見えない、主イエスは、そのような私たちを今も見守り、導かれるのである。
 そして、私たちは、そのことの証人として、私たちが生きる、対立と苦しみにうめくこの世界に伝えてゆかなければならない。それはまさに、主イエスの祝福によって与えられる、天の出来事と、地上での出来事とを結びつける信仰によってはじめて成し遂げられる事柄なのである。

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